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隣る町

作者: 佐和ネクロ

思い出す。私の堕胎手術の時を。

 小さな駅前から寂れた商店街の方へと歩を進める。そちらに特に用事は無いが、初めておとなった町では自然に店舗の連なりに足が向いてしまうものだ。

 

 日中だというのに人気ひとけの少ないアーケードを歩きながら、私の頭の中にはいくつもの波紋が広がる。そのひとつは私の前から唐突に姿を消したつまらない男の事。ひとつは会社を失踪同然に辞めた事。そして、それらの波紋を擁する頭の中の水面は──私が堕胎した子供がたゆたっていた羊水のごとくに静かに、揺れている。


 今日、気づけば私は電車に乗っていた。


 どこから、どういう乗り方をしたのかも最早憶えてはいない。車窓から見える風景は自然の緑と大空の青──その二色がとても印象的で、単調な色彩に見入っている内にこの知らない町へと電車は到着していた。駅に人は居なかったし、電車の中でも人を見かけなかったようにも思う。都会で絶える事の無い人間の洪水に疲れていた私にとって、世界はこの時、少しだけ優しかった。


 初夏の陽射しに人間の体温じみたぬくもりを感じながら商店街を歩き、たまに人間とすれ違う。何故か、すれ違った人々がどんな服装でどんな年代なのかは判らない。ぼんやりとしていて、顔が無くて、影すらも無い人々。思い出す。私の堕胎手術の時を。病院の人々もこんなふうに薄っすらと、ぼんやりとしていた。


 商店街の出口を抜けた。


 そこには立派な木製の門構えの和風家屋が建っていて、それに連なるように住宅がたくさん建っていた。私は何故かその年季の入った飴色の門構えに懐かしさを感じ、門札を見る。


 ──■■


 よくある名字だった。

 そして私と同じ名字だった。


 そこに運命的な邂逅を感じるほど私はロマンチストではない。私は妊娠して男に捨てられ、堕胎をしたショックでふらふらと知らない町に訪れただけの──何だろう。私は何なのだろう。


 陽射しが相変わらず柔らかい。私という存在が溶けていくようだ。


 自分の実存を確かめるかのように歩を進める。

 ある住宅の前には植木鉢が並べられ、ある住宅の前では野良と思わしき猫が香箱を作っていた。それらを尻目に歩いていくと小さな町工場があって、ツナギ姿の若者が職人風の年配と何かを喋りながら治具を取り出している。よくある地方の町のひとつの光景。でも、この町の事を私は何も知らない。こんな町があった事も知らない。どうやって来たのかも判らない。


 ポツン、と私の頭の中に水滴が落ちた。


 ──波紋が。

 広がる。


 波紋は輪っかを拡大していってとても大きくなり、私の頭の中を満たそうとする。

 それを押し留めているのは何だろう。

 あんなつまらない男の記憶も、堕胎手術の日の事も、全部大きな波紋で打ち消されてしまえばいいのに。


 車もあまり通っていない道を歩いていると、踏切があった。

 貨物列車がゴオオッと暴力的な威容と速度で通り抜け、私の視界を塞ぐ。やがて拓けた視界──踏切の向こうにはビルがポツポツと建っていた。地方なりのオフィス通りなのだろうか。そちらに進んだ。

 ◯◯商事、◯◯テック、など様々な企業の看板や門が目に入った。相変わらず存在はぼんやりしているが、すれ違う人々の数も増えた。もう、帰宅ラッシュの時間帯なのだろうか。空が、世界が、夕日に照らされている。この町に来てからとても時間の流れが早い。


 時間の流れはとても早かったが、私はこの町に来て様々なものを見た。


 頭の中で、波紋がひときわ大きく広がった。


 私は足を止め、後ろを振り返る。


 そこには──あの駅が、私が電車を降りてきた駅があった。


 ──今なら帰る事ができる。


 何故か、そう思った。


 同時に良い芳香が鼻腔をくすぐった。柔らかくて、暖かくて、お日様のような、ミルクのような良い匂い。


 ─それは。


 何度か嗅いだ事のある。


 ──赤ちゃんの。


 匂い。


 Uターンして駅に向かいながら私はすべてを理解した。

 私はこの町で様々なものを見た。


 それは、きっと──。


 あの子が、私が堕ろした赤ちゃんが成長する過程で、見るはずだったもの。住むはずだったもの。あの子が本来得るはずだった未来。それがこの町。

 ここは決して遠くの知らない町などではない、隣町だったのだ。


 駅にはたくさんの人々が居た。

 私はもうこの町に来る事はできないだろう。

 時刻表を見る。次の電車はあと五分もしない内に到着する。私を日常へと送り届ける電車が。

 構内アナウンスが鳴り響く。何か、とても重要な事を喋っている気がした。やがて遠くから電車がやってくる音がする。夕日の下の小さな駅で、私はこの隣町を後にする。ほのかに、ほのかにまだ漂っている赤子の匂いを意識しながら。


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