29.間違いはもう、お断り
柳くんとの通話を終えたわたしは、握ったままのスマホに視線を落とした。
通知を確認していなかったことを思い出し、見慣れた画面を指で叩く。
【帰り迎えに行くから、待ってて】
梅村くんからメッセージが来ていた。受信してから二時間は経過している。
帰りということは、今か。
――ガラガラ。返事を打つ前に扉が開く音がした。
音に誘われてベッドから立ち上がる。カーテンを開けると、肩で息をする梅村くんの姿があった。
「……よかった。いなくなってない」
彼はほっとしたように言い、わたしの元へ来た。
「ごめん。今、連絡見たの」
「しっかり休めた? 体調大丈夫?」
「うん……」
小さく頷いて答える。
「まだ元気なさそうだけど」
「無理したらダメだよ」と、梅村くんはわたしをベッドに座らせる。
なぜこんなに心配してくれる人から、勝手に逃げてしまったのだろう。気持ちを伝えられなかったのだろう。
「ごめんなさい」
わたしは自分ばかりが傷ついたと思っていたけど、きっと梅村くんを傷つけてしまった。
今思えば、出会うきっかけをくれたのも、同志だと言ってくれたのも、展覧会に誘ってくれたのも、一度突き放した手を掴みに来てくれたのも。
先に行動してくれたのは、全部梅村くんだったのに。
「梅村くんはわたしとの時間、すごく大切にしてくれてたのに。なかったことにしたいなんて言って、ごめんなさい。やっぱりわたし、梅村くんとの時間をなかったことにしたくない」
自分勝手な申し出にも関わらず、梅村くんは幼い子をあやすような柔らかい声で「うん」と答えた。
「どうして昨日怒ってたのか、教えてくれる? ちゃんと理由を聞いて、俺も謝りたい」
梅村くんが謝らねばならない部分なんて存在しない。けれども全てぶつけると決めたため、心の内を曝け出す。
「わたしね、パソコン室で梅村くんに触ってもらえたの……すごく、嬉しかったの」
「…………………………ん?」
「だから、梅村くんに間違いだったって言われて」
「待ってストップちょっとタイム止まって」
理由を話せと言ったのは梅村くんなのに、手のひらをこちらに向けて遮ってきた。彼は困惑の表情を浮かべ、人間に不慣れな猫のようにわたしの反応をうかがっている。
「俺に必要以上に近づかれたから、嫌だったんじゃ、ないの?」
「違うよ。嫌だったのは間違いだったって言われた方。本当は誰に触りたかったんだろうとか、梅村くんはわたしに触りたいって思ったわけじゃないんだって考えたら、悲しくて」
「西さん誤解してる。俺が間違えたって言ったのは、その……順番のこと」
梅村くんは二、三度言い淀み、やがて意を決したように口を開いた。
「気付いてると思うけど、俺あの時、西さんにキスしそうになったんだ。そんなの、付き合って手を繋いだり、抱きしめたりしてからするものなのに。だから、間違えたな、と思って」
おそらくこの場にりっちゃんがいたら「目を点にするとは、まさにこのこと」と解説を入れてくれただろう。わたしは今、そんな顔をしているはずだ。
ん? んん? 間違いだった、の意味が間違えていた? 混乱して考えがまとまらない。
「でも梅村くん、わたしから離れたがってたよね?」
今度は梅村くんが目を点にした。真似っこしてほしいわけではないのだが。
「俺が西さんから離れたがるなんて、あり得ないけど」
「気をつかわなくていいよ。昨日柳くんと手洗い場で話してるのを聞いたの。スイーツ展に行ったりするの、もうやめたいって言ってたよね?」
今ここで本音を話してもらえれば、わたしは自分の悪いところをなおせる可能性がある。そのためならば何を言われても逃げない。手にぎゅっと力を込めて気合を入れる。
だがそんなわたしと対照的に、梅村くんは崩れるようにしゃがみ込んだ。初めてパソコン室で会った時みたいだ。
「やめたいのはスイーツ展に行くことじゃなくて、知り合いに見られない場所を探して出かけたり、周りの目を気にして隠れてパソコン室で会うこと。……俺は西さんと、知り合いに見られる場所に行きたい」
え。
言葉を失ったわたしを見た梅村くんが、悔しそうな顔を自分の膝に埋めてしまった。
「おかしくない? 最近話すようになった藤田が西さんからクッキーもらえるのに係が違うだけで俺はもらえないし立川先輩は西さんの頭をいつでもどこでも撫でられるのに俺は撫でられないし俺の方が絶対好きなのに付き合ってるって噂流れるのは千紘だし」
息継ぎもせずに早口で言い切った梅村くんの耳は、見たことのないくらい真っ赤に染まっていた。
やきもちと告白を掛け合わせたような訴えのせいで、わたしはまたしても恋に落ち、体温が急激に上がる。
「ごめん。人前で西さんと話せないことに……他人設定に、俺が耐えられなくなった」
わたしには他にも、聞きたいことがあった。
梅村くんが女子との関わり方を変えようとしていた理由や、石丸先輩のこと。
それでも、伝えるなら今しかないと思った。
だってわたしの前には二度と現れない。こんなに一生懸命になってくれる人、二度と出会えない。
俯いたままの梅村くんの顔を両手で包み、持ち上げて目線を合わせる。
――お願いします。もう一度、やり直させて。
「梅村くん、好きです」
彼はわずかに目を見開いた後、何かを堪えるように眉間にしわを寄せた。
「梅村くんと同志になれて、最初は大満足だったの。好きなものを共有できる人って貴重だったから。でも梅村くんのことを知れば知るほど、好きなところが増えて、独り占めしたくて、同志っていう立場だけだと物足りなくなった」
自分で決めた他人設定に耐えられなかったのは、わたしの方だ。
梅村くんは今まで、たくさん動いてくれた。全部のきっかけをくれた。
だから今度は、わたしが頑張る番だね。
「将来の夢に真っ直ぐなところが好き。友達のために怒れる優しいところが好き。前にした話を覚えていてくれて、さりげなく気づかってくれるところも好き。わたしのことをツボって言ってくれるところも、いつもは格好いいのに笑ったら可愛いところも、大好き」
秘めていた想いを吐き出す度、ぽろぽろと涙がこぼれた。
「大好きなの。大好きだから、他人でいるの、もうやめたい」
とめどなく溢れるわたしの心が、早く早くと、彼の元へと行きたがる。
「梅村くんの、彼女になりたい」
伸びてきた梅村くんの手が、わたしの目元に触れた。こぼれた涙を撫でるように拭う。わたしの気持ちを一つ残らず拾うように、何度も、何度も。
この瞬間、新たなことを知る。
梅村くんはわたしの心に触れる時、ほんの少し緊張した様子で、泣きそうに、幸せそうに、目尻を下げるのだ。
「俺も、西さんの彼氏になりたい」
*
涙が止まり落ち着いたわたしは、なけなしの勇気を振り絞ることにした。ベッドに座ったまま、梅村くんを見上げる。
「わたし、梅村くんに好きって言ったよね?」
「うん、ありがとう。俺も好きだよ」
「うっ……保健室に来る時に、手を繋いだよね?」
「ん? そうだね」
「じゃあ残ってるのは……ハグだ!」
ガバッと両腕を広げる。すると梅村くんが目に見えて狼狽した。
「ど、どうしたの、急に」
「だって順番を守らないと、間違いになっちゃうんでしょう?」
梅村くんによってやんわりと両腕を下ろされたが、わたしは引き下がらなかった。
ハグを通過しなければ、その次に進めない。梅村くんにとっては過ちになってしまう。
そんなのはもう、お断りなのだ。
パソコン室での出来事は重要な一歩だった。あれがなければわたしは彼に、こんなわがままを言えなかっただろうから。
「間違いじゃないの、してほしい」
梅村くんの喉から形容し難い音が聞こえた。
「……嘘でしょ。他の人の手伝いとか喧嘩の仲裁しちゃうくらいしっかり者なのに、どうしてこんな時に甘えん坊になるの」
「性格としか言いようがありませんが、理由があるとすれば、わたしは末っ子なので」
「末っ子、怖……」
こちらに背を向けた梅村くんが「なんでよりにもよって保健室なの」とかボソボソ呟いている。
やっぱり梅村くんは後ろ姿も格好いい。急に抱きついたら驚いちゃうよね。背中に文字を書くくらいなら許してくれるかな。好きしか書くこと思いつかないけど。
わたしの視線がうるさかったのか、梅村くんが振り向いた。
「……俺はさっきまで、パソコン室でがっついたから西さんに嫌われたんだと思ってて」
「それは違うって」
「わかってるんだけど、西さんのことを大切にしたいから、歯止めがきかなかったら困るっていうか」
なるほど。
「だからこういう場所で可愛いことを言うのは、控えてほしくて」
「…………ダメ?」
「ダメじゃないです」
諦めた様子の梅村くんがカーテンを閉めた。その姿だけでわたしの胸は期待と緊張でいっぱいになる。
彼がわたしの隣に腰掛けると、ベッドが少し揺れた。
ここからどうすればいいのだろう、だなんて考える間もなく、腕を引かれてバランスを崩した。
「っ、ん……」
気付けばわたしの顔は梅村くんの胸辺りに受け止められており、体は彼の腕の中にすっぽりとおさまっていた。
「んふふ……」
梅村くんは着痩せするタイプのようだ。見た目よりがっしりとした体に頬をすり寄せる。温かい。梅村くんの香りがする。うわあ、何これ――
「すごいよ梅村くん。すっごくドキドキするけど、すっごく幸せ」
だらしなく緩んだ頬が、元に戻らない。
彼の呼吸に合わせて上下する胸板、包み込んでくれる力強い腕、混ざり合う鼓動――
「梅村くんも、ちょっとはドキドキする?」
「……音、やばいの聞こえてるよね?」
「えへへ、おそろい」
「西さんに骨抜きにされる」
わたしの髪に顔を埋める仕草に、胸がきゅんとする。
「お願い聞いてくれてありがとう」
感謝の気持ちを届けるように、指先で梅村くんの髪に触れてみる。
どうしよう簡単に触れちゃった。これって彼女の特権なのでは。いやいや、それにしても。
「梅村くん無防備すぎない? あまりにも可愛いから夢かと思っちゃうよ」
「そっくりそのままお返しいたします。西さんはね、もっと俺に好かれてることを自覚した方が……あれ? 俺がちゃんと言ってないからいけないのか」
「言ってないって、何を?」
「西さんの好きなところ。言わなきゃ思ってないのと同じだよね」
悩ましげな表情で考え始めた梅村くん。まずい。嫌な予感がして、急いで待ったをかけた。
「好かれてるのは充分伝わってるよ」
真っ赤になった耳を見たし、すでに言葉ももらった。何より彼の態度がわたしへの好意を証明している。だから改めて口にする必要はない。そう必死に訴えかけたのだが。
「嫌だ」
突然のわからずや。
止められないのなら逃げるしかない。好きなところなんて発表されたら、四肢が爆散する。
身を捩って脱出を試みる。しかしそんなわたしを梅村くんはいとも容易く抱きしめ直した。より密着した彼の低い声が、耳元に迫ってくる。
「服とか製図の話をしてる時のきらきらした目が可愛い。人柄がいいから友達に好かれてるんだなってわかるし、いつも口角が上がってるところも可愛い。嫌な顔せずに人の手伝いをするのは心配でもあるけど優しいなって思うし、照れると慌てて変なこと言っちゃうところも最高に可愛い。千紘と仲良いのは論外として、俺のためにあいつの相談に乗ってくれてたのは嬉しい。今みたいに甘えてくれるのも、腹立つくらい可愛い。あと――」
「わ、わたしの手足は、無事でしょうか……」
「あははっ、可愛い」
可愛いの出現回数が異常だ。口癖みたいになっている。
やっと腕の力を緩めた梅村くんは、わたしの顔を至近距離で見つめてきた。
満足そうに口角を引き上げたのは、茹でタコ系彼女がお気に召したからだろう。わりと意地悪かもしれない。そんなところも魅力的だなと思ってしまうのだから、恋とは厄介だ。
彼の親指に、焦らすように唇を撫でられる。
ぞわりと全身が、甘く痺れた。
「ずっと可愛くて仕方がなかったけど、これでも我慢してたんだよ」
西さん。と呼んだ梅村くんの吐息が、わたしの唇をかすめる。
「すごい、好き」
熱に浮かされたような彼の告白は、わたしの言葉がうつってしまったみたいで愛おしい。
体にきゅっと力が入って、徐々に抜けていく。
目の中の目盛りを使わなくとも、わたしと梅村くんの距離は、間違えようもなかった。