28.ヘタレ男の仕返しコール
保健室に着くまでの間、わたしと梅村くんに会話はなかった。
ただ、梅村くんは繋いだ手を離さなかった。わたしを保健室の先生に預け、彼が体育館に戻る直前まで、ずっと。
怪我自体は大したことなく、ボールが当たった部分の赤みはすぐに引いた。
「なんともなくてよかった」
いつも通りの自分の顔を眺めたわたしは、保健室の先生に鏡を返す。
「大きな怪我じゃなかったけど、寝不足とストレスの方が問題だからね。何かあったなら思う存分悩めばいいけど、若い内から溜め込むんじゃありません」
「はい……」
「ムカつくならムカつくって言っていいし、泣きたかったら私の所に来て泣いてもいい。その後たくさん食べてたくさん寝て、たくさん笑えば百点満点」
「ふふっ、今度からそうします」
「そこに寝心地は保証できないベッドがあるけど、どうする?」
寝不足の状態では練習に戻ったところで邪魔になるだけだろう。そう考え、しばらく休ませてもらうことにした。
ベッドに入り、天井を見つめる。
普段保健室のお世話になることがないわたしにとって、この白い空間は落ち着かない。だがよほど疲れていたのか、意識を手放すまでに時間はかからなかった。
見事なまでに深く眠り、目が覚めると体調はすっかり回復していた。
カーテンの外に人の気配を感じない。けれどもベッド横の白い棚に、わたしの制服と鞄が置いてあった。
鞄の上には保健室の先生かららしきメモが乗せてあり、『荷物は二年八組の吉野さんが持ってきてくれました。お菓子は青ブロックの衣装係からだそうです』と書かれている。
りっちゃんありがとう。後で連絡するね。
メモに向かって頭を下げた後、お菓子? と首をひねる。鞄の向こう側を見ると、購買で買ったと思われるグミやチョコを発見した。パッケージには黒の油性マジックで体調を気づかうメッセージが書いてある。
青ブロックの衣装どうなったかな。明日手伝えることがあるか聞いてみよう。
製作が進んでいることを祈り、お菓子を鞄の中にしまった。入れ替えるように取り出したスマホで時間を確認する。あと五分でホームルームが終わる時間だ。いくつか通知が来ているが、見始めると止まらないだろう。ひとまず体操着から制服に着替えた。
仕上げに前髪をささっと整えていると、棚に置いていたスマホの画面が光る。
――電話? 柳くんだ。
「もしもし」
ベッドに腰掛け、通話ボタンを押して声をかける。すると呑気な声が返ってきた。
『寝不足と顔面ボールで退場したって聞いたけど、大丈夫そ?』
「もうなんともないよ。ホームルームは?」
『うちのクラス早く終わったの。今保健室?』
「うん」
『一人?』
「先生いなくて」
『寂しくない?』
「平気だよ。高校生ですから」
『ふーん。じゃあさ、俺に話したいこととかない?』
これが本題か。口ぶりから推察するに、梅村くんからいくらか話を聞いているようである。
わたしが黙っているとホームルーム終了の鐘が鳴った。
「……聞きたいことが、ある」
『どーぞ』
「好きな人への気持ちを消したいのに……消せなかったら、どうしたらいいと思う?」
感情は自分のものなのに、全然思い通りにならない。梅村くんに引かれた手が、いまだに熱い。
彼の優しさが同志に向けたものであっても、わたしは無様にも、何度も恋に落ちてしまう。
『それはね、西さんによる。西さんは俺に、なんて言ってほしい?』
ヘタレな柳くんのくせに、意地悪だ。わたしの答えを知っていて聞いているのだから。
「消さなくていいって、大切に持っていてもいいって、言ってほしい」
『だったらそれが答えだよ』
「……そっか」
『でも俺的には、気持ちを持ってるだけなんて嫌だけどね。面と向かって話した方がスッキリするって、どこかの西さんに教わったから』
「柳くんの時は二人とも仲直りしたがってたから話すべきだと思ったけど」
彼は手洗い場で梅村くんと話していたのだから、わたしの恋が実らないと知っているはず。それなのに伝えろと言うなんて。
「伝えたら困らせちゃうよ。グチャグチャになっちゃいそう」
『え? すでにグッチャグチャの間違いだろ?』
「容赦ないね」
『今までの仕返し』
スマホの向こう側にいる彼が、いやらしい笑みを浮かべているのが想像できた。
『グチャグチャで思い出したんだけどさ、西さん自分がまりちゃん先生からなんて呼ばれてるか知ってる?』
突然登場した担任の名に疑問を抱きつつも、「西さんじゃないの?」と柳くんの質問に答える。
『ブッブー。正解は、生デの縫製失敗記録保持者』
「嘘だと言って」
『残念ながら本当なんですね。西さんって製図の方は元から頭一つ飛び抜けてたみたいだけど、縫う方はダメダメのダメ人間だったんだろ?』
「……はい」
自覚はあるのだが、先生に言われたという事実に嘆きたくなる。そして柳くんに知られたという事実に埋まりたくなる。
わたしは先生も認める、失敗ばかりの人間なのだ。
『ミシンもヘタ、手縫いもヘタ』
「切るのもヘタ、アイロンもヘタ」
『誰よりもたくさん失敗して、泣きそうな顔しながらほどいて、やり直して』
「そうなんだよねぇ。徹夜だって今回が初めてじゃないし」
『でも絶対に投げ出さなかったんだろ? 好きなことに対しての根性が普通じゃないから、あっという間に上手くなったって先生言ってたよ』
ここまで聞いて、ようやくわたしは気付いた。
柳くんに励まされているのだと。
『蒼士と一回グッチャグチャになったくらいで諦められんの? 好きなら根性見せて、納得できるまでやり直せばいいんじゃないの』
「でもわたし……柳くんと同じ失敗しちゃって」
『蒼士の話を聞かなかったってこと?』
遠くから盗み聞きはした。が――
「決定的なことを言われたくなくて、逃げました」
『ん? うーん……とりあえず、ややこしくしちゃったってことか』
「梅村くんからすれば、いきなり怒られて意味わからなかったと思う。それでも……やり直すチャンス、あるかな?」
『あるに決まってるじゃん。なんて言ったって蒼士のUSBには、いまだに西さんとの文通が残ってるからな』
「え……?」
『お二人さんがご対面する前の会話』
お互いに顔も知らなかった頃の、言葉だけの、思い出。
「あれは、消したはず」
『らしいね。でもあいつはちゃっかり残してるよ』
デスクトップのフォルダを消す時、あんなに余裕そうだったのに。
『西さんが何をどう考えてグッチャグチャにしちゃったのかは知らないけどさ。同志でも友達でも他の何かでも、どんな形でも消せるものじゃないんだよ。蒼士にとって西さんは』
――初めて自分から会いに行った人なんだから。
信じても、いいのだろうか。
ここには誰もいないのに、背中をポンッと押された気がした。
「柳くん……ありがとう」
『西さんがちゃんと頑張れたら、蒼士と三人でラーメン食いに行こうな』
わたしが誘おうと思っていたのに、先を越されてしまった。
『今度は逃げずに、全部ぶつけてきなよ』