27.設定放棄の梅村くん
夜中には雨が上がったものの、予想通りグラウンドはビチャビチャらしい。よって本日の競技練習は体育館で行うことになった。
本番直前ということもあり、熱が入っている。
半面で外競技の綱引きや玉入れ、大縄跳びなどの練習を順番に行い、もう半面ではバレーボールの試合をひたすらやっている。
わたしは友達と一緒に三年生のバレーを応援していた。体育館の壁際に座ったまま、右隣のりっちゃんにもたれかかる。
「あー……眠たい……」
結局朝まで縫い続けたわたしの目は、油断すると今にも閉じそうである。でもいいのだ。目の充血が寝不足のせいだと思ってもらえるから。
「りっちゃんは大丈夫?」
「私はチャリで持って帰れる分しかやってないから。それより琴葉が心配」
「来る時の車で寝たよ」
大量のスカートを運ぶため、今朝もお母さんを足に使ってしまった。しかもわたしは睡魔に負け、話し相手すらしていない。次の休みは晩ごはんを作るとしよう。
「寝不足の方じゃなくて……」
りっちゃんはわたしより数段暗い表情でゴニョゴニョと喋る。
「告白は上手くいかなかった」とだけ昨日のうちに報告したため、わたしの精神状態を気にかけてくれているのだろう。周りに聞こえないよう、彼女の耳に顔を寄せる。
「まだ話せるほど回復してないから、体育祭終わったらちゃんと話すね」
「うん。無理しないようにね」
ありがとう。りっちゃんがいてくれてよかった。
彼女の肩に頭をぐりぐりと押し付け、甘えさせてもらう。
三年男子の試合が終わり、先輩たちが壁際に移動してきた。立川先輩が辺りを見回し、こちらに来る。
「ごめーん。その辺に黒のタオルない?」
わたしたちは一斉に自分の周りを確認した。
あ、これかも。自分の後ろにタオルを発見し、「これですか?」と先輩に見せる。
「それ! ありがと」
立川先輩はタオルを受け取ると、怪しい笑みを向けてきた。
「西ちゃん、青ブロックの世話焼いてるだろ」
――げ。
りっちゃんは守らなくては。
「す、すみません!」
「いやいや怒ってない。むしろ青ブロックの団長にめちゃくちゃ感謝されて気分がいい」
「でも、衣装にも得点がつくので……」
手伝わない方が団長としては嬉しいのではないのだろうか。緑ブロックに申し訳ない気持ちがあるため、なんとも言えない顔であたふたしてしまう。
すると先輩は、先ほど渡したタオルでわたしの頭をポンと叩いた。前回りっちゃんに手を叩き落とされたため方法を変えたらしい。
「そこで追いつかれた点数は、当日俺が取り返してやるって。団長の運動神経なめんなよ〜?」
いつものように快活な笑い声をあげた先輩は、手をヒラヒラ振りながら三年生の集団に戻っていった。
以前から思っていたが、先輩は面倒見がいい。
「わたしの懐も、来年にはあのくらい深くなっていてほしいものだ」
しみじみ言うと、左隣に座っている友達に肘鉄をくらわされた。
「琴葉。今のはちょっとキュンとするところ」
「キュン?」
「先輩モテるんだよ?」
「そりゃあそうでしょ。運動神経いいし面白いし、おまけに面倒見もいい」
先輩は派手な動きで頻繁に爆笑を巻き起こすが、あの笑いの中には女子からの好意も多いはずだ。
「タオルでポン、キュンってしなかった?」
タオルでポン……さっき頭を攻撃されたやつか。胸に手を当てて考えてみる。
「昔タオルでポンみたいなアニメあったよね」
「懐かしい〜! って誰もそんな答えは求めてない。あーダメだ。琴葉が干からびてる」
近くにいたクラスメイトが揃って笑う。わたしも笑う。りっちゃんだけは別の意味で眉尻を下げていたけれど、わたしは気付かないふりをした。
しばらくして玉入れの選手が呼ばれたため、りっちゃんと共に反対の面に向かった。
今日はスターターピストルではなくホイッスルの音で開始だ。わたしは左右の手に一つずつ白い玉を持ち、同じ色のカゴを目がけて投げる。
片手に何個も持って投げる人もいるが、わたしがあれを真似すると高確率でカゴまで届かない。そのためできるだけ投げる回数が多くなるように素早く動く。
しゃがんで玉を拾い、跳ねるように立ち上がって投げる。数回繰り返していると、いつもと違う感覚に襲われた。
――あれ。玉入れって、こんなに辛かったっけ。
自分が床を踏みしめているのか跳んでいるのかが曖昧になり、カゴが揺れて見える。胃の辺りに違和感があり、腕があまり上がらない。そこまで暑くないのに冷や汗が出る。
寝不足のせいか、と察した時、ホイッスルの音が聞こえた。助かった。係が玉の数を数えている間に床に座り、深呼吸を繰り返す。
「琴葉、顔色悪いよ?」
「眠たいだけだから大丈夫だよ〜。まだりっちゃんが一人に見えるし」
「三人に見える前に休みな。精神的にも参ってるんだから」
「……はーい」
じゃあバレーを応援してるふりして寝ちゃおうかな。
休む気満々でクラスメイトの元に戻ったのだが、腰を下ろしたところで次が二年生の試合だと知る。
休んでいる場合ではない。ここにいてはバレーをする彼を見てしまう。声援で名前を聞いてしまう。昨日感情を捨てると決めたばかりなのに、余計に忘れられなくなる。
ふらつく足に力を込め、再び立ち上がった。
コート内ではスパイクレシーブの練習が始まったみたいだ。試合開始前に離れよう。
「さっき青ブロックの衣装係見かけたから、ちょっと話してくるね」
適当な理由を告げて体育館の外に向かう。
壁際をゆっくりとした足取りで進んでいると、りっちゃんの叫び声が聞こえた。焦りで染まったその声がわたしを呼んでいると気付き、振り向く。視界にバレーボールが飛び込んできた。
ボールは移動式の得点板に直撃した後、軌道がずれてわたしの左側頭部に当たった。当たった、と認識した時には全てが終わっており、壁に寄りかかっていた。視界が揺れる。
普段なら手を出すくらいはできただろうが、反射神経も鈍っているらしい。
格好悪いな、恥ずかしい。誰も見ていませんように。
手でこめかみ辺りを押さえたのと同時だった。
「っ、西さん!」
聞こえるはずのない声に、肩がびくりとする。
梅村くんの方を見たのはわたしだけではなかった。それだけ彼の声が大きかったのだ。
「どうして……?」
人、いっぱいいるのに。
なかったことにしようって、伝えたのに。
わたしから離れたいと願ったのは梅村くんなのに。
どうしてそんなに必死な顔して、走ってくるの。
痛みも眩暈も、吹っ飛んでしまった。逃げようにも驚きが大きく、足が動かない。
動揺しているうちに目の前まで来た梅村くんが、少し屈んでわたしの顔をのぞく。
「どこ当たった? 保健室行こう」
こめかみを押さえていた手をそっと外され、明らかに心配そうな眼差しを向けられる。
久しぶりに目が合った気がした。
「いや、だ、大丈夫だから」
「赤くなってるし、涙出てる」
「これは、生理的なやつというか、びっくりしたからで」
「でも痛いでしょ」
「放っておいてもすぐ治るから」
見られているから離れて、という意味を込めて首を横に振る。しかし梅村くんは立ち去ろうとしない。
「……俺、諦める気ないよ」
もしかしてわたしの怪我は深刻なのだろうか。彼が保健室への連行を諦められないほどに。
聞くより前に、梅村くんがわたしの手をとった。大事なものに触れるみたいに、慎重に。
振り払わなくてはいけない。でもどうしてもできない。微かに震えているのが、わたしの手だけではなかったから。
「ボール当たる前からふらふらしてたでしょ」
「そんなことは」
「昨日ちゃんと寝た?」
「え、えっと」
「何時間?」
「んーっと」
「大人しくついてこないなら抱っこするよ」
「…………行きます」
「抱っこで?」
「歩いて!」
狼狽えるわたしに「えー」と不満げに返しつつも、彼はふわりと頬を緩めた。
もうわけがわからない。どうしてそんな風に笑ってくれるの? わたし昨日、一方的に突き放したんだよ? 梅村くんから拒絶されるのが怖くて、自分から消えようとしたのに。
同志への情けだろう。彼は優しいから。期待してはいけない。わかっている。それなのに目頭が、熱くなる。
顔を隠すように俯くと、梅村くんが手を引いてくれた。彼に導かれるまま歩き出す。
梅村くんの行動のせいで、周囲がやけに静かだ。
そんな中でも、彼はいつもと変わらない。心臓が強いのか、淡々と「藤田ー。バレー代わりに入っといて」と伝え、心臓が強くなさそうな藤田くんは「梅の代わりは荷が重い……」と死にそうな声を出す。
わたしはやり取りを聞いていたけれど、俯いたまま、顔を上げられなかった。繋がれた手しか見れなかったのだ。
――わたしのどこが干からびてるの。
ときめくな、ばか。