26.すぐに止まるに決まってる
先生が言っていた通り、夕方頃には雨が降り始めた。体育祭当日は晴れるようだが、グラウンドの状態を考えると明日の練習は体育館で行うことになるだろう。
わたしは被服製作室にて、回収した衣装にアイロンをかけていた。広い部屋に一人でいるせいか、雨音がよく聞こえる。
衣装のシワを伸ばし、終わったものは丁寧にハンガーにかけ、ビニールのカバーを被せてラックに吊るす。
ちらりと窓の外を見る。
時間感覚を奪う鉛色の空が、今にも落ちてきそうだった。
アイロンがけが半分ほど終わった頃、扉が開く音がした。手が空いた衣装係が来たのだろう。
ハンガーにかける方を手伝ってもらおうかな。そう思い顔を上げると、扉の前に、会いたくない人の姿があった。足がすくみ、自分の弱さを思い知る。
「梅村くん……ここ、人来るけど」
絞り出した声は、想像より頼りなかった。
「今の時間なら西さん一人だって、藤田に聞いたから」
嫌だな。
会いたくなかったはずなのに会いに来てくれたことに胸が高鳴って、それなのに怖くて、消えたい。
この人の遠ざけたい対象が自分であることに吐き気がする。それでも声を聞くと安心する。
わたしはアイロンの電源を切り、ラックに吊るした衣装に触れた。もっとたくさんあれば、隠れられるのに。
「電話は難しいって書いてたから、会える時に話しときたくて。……この前のこと」
梅村くんが後ろ手に扉を閉め、こちらに向かってくる。
『もうやめたいと思ってる』
『間違えて触っちゃったし』
数時間前に聞いた彼の言葉が、やけに大きく脳内で響いた。
なんだ、と唐突に理解する。
わざわざこんな所まで、とどめを刺しにきたのか。
「……あれって……間違い、だったんだよね?」
来ないでと言ったわけではないのに、梅村くんはわたしの気持ちを見透かしたように歩みを止めた。だから最後に一度だけ、願うことにした。
――間違えたって、言わないで。
わたしね、あんなにドキドキしたの、初めてだったの。梅村くんも同じ気持ちでいてくれたら嬉しいなって、思ったの。恥ずかしかったけど、今思い出しても夢みたいで、幸せなの。
だからどうか、わたしに望みがあるのなら。そんなことないって言って。あの日のことが間違いだっただなんて、言わないで。
「…………うん。ごめん」
衣装に触れていた手から力が抜け、人形の腕のようにダランと落ちる。
願いも虚しく、返ってきた言葉は彼の後悔を表すものだった。
「じゃあ、なかったことにしよう」
余裕なんて全くないのに、なぜだかわたしは、薄っすらと笑みを浮かべていた。
「なかったことにしよう。今までの全部」
「っ、なんで……」
なんで、なんてこっちが聞きたいよ。間違いで触れたんだから、なくなっても問題ないでしょ。
「わたしがそうしたいから」
だってどれだけ頑張っても、ただの同志だと言ってあげられない。糸一本分でも繋がりが残ったら、梅村くんへの感情を捨てられない。
楽しかった記憶でなんて満足できない。失ったのだと思い知るから。
「スイーツ展も、やめとこう」
いい思い出になんてしたくない。もしこの手で掴めていたらと、過去を悔やむから。
それなら最初から、なかったことにした方が楽だ。わたしには大好きな人なんていなかったのだ。見たい笑顔なんて、どこにもなかった。
「西さ――」
「琴葉、青ブロックの衣装係が呼んでるんだ、けど」
何か言いかけた梅村くんの声を、教室に入ってきたりっちゃんが遮った。彼女は不穏な空気を感じ取ったのか、わたしたち二人を見て言葉を詰まらせる。
「わかった。すぐ行く」
扉に向かいながら、ぐっと唇を噛んだ。
「梅村くん、じゃあね」
すれ違い際、できるだけ明るい声で、期限のない別れを告げた。
顔も見れなかった。今までありがとうも言えなかった。前に柳くんに言われたっけ、薄情者って。
仕方ないじゃん。これ以上顔を見ていたら、声が震えちゃいそうなんだもん。わたしが泣いたら、優しい梅村くんは苦しくなるでしょ。
わたしは今までのことを全部忘れたいけど、梅村くんには覚えていてほしいの。
わたしと過ごした時間が、梅村くんにとって嫌な記憶になってほしくない。みっともなく縋りつくような終わり方にしたくない。前に進み出した彼が、もう立ち止まることのないように。もちろん進み出した姿なんて、他人のわたしは絶対に見ないけど。
わたしはこんな時までわがままで、自分勝手だ。
*
自分の部屋の掛け時計を見ると、二十一時を過ぎていた。大量のスカートをベッドの上に並べ、焦りつつも作業時間を計算する。
「これ、徹夜でやったら間に合うかな……」
りっちゃんがわたしを呼びにきたのは、青ブロックの衣装が原因だった。他のブロックと違い、青ブロックはまだ完成していなかったのだ。
現時点でスカートのプリーツは折られているが、ファスナーが付いていない。正直言って、相当まずい。しかしここまで頑張って作ったのだから、間に合わせてあげたい。
少しでも作業を進めるため、お母さんに頼んで車を出してもらい、スカートを持ち帰った。
――今は他のこと、考えたかったし。
髪を高い位置でおだんごに結び、スマホでアップテンポの曲を流す。作業机の上にお兄ちゃんに買ってもらった新しいミシンをセットした。始めよう。
スカートの右脇は縫い終わっているようだ。左脇の裏側が見えるように持ちかえ、ファスナーの付け終わり位置に薄く印を付ける。続いて生地の表が内側になるように脇を重ね、まち針を打った。
いよいよミシンの出番である。先ほど付けた印より上は後で解くため、粗い針目で縫った。その後、針目が細かくなるように変更し、印より下を縫い合わせる。
気分が下がらないよう、鼻歌まじりに作業を進めた。
何度目かわからない欠伸をした時、スマホのアラームが鳴った。寝落ちしないように定期的にかけておいたのだ。もう二時か。
スマホを開いてみても、通知は一件も来ていなかった。
胸の奥から何かが溢れ出そうで、すぐにスカートに意識を集中させる。
左脇の縫い代にファスナーを乗せ、固定するためにまち針を打ち始めた。
「――った」
鋭い痛みに声をあげる。指先にぷくっと、赤が現れた。
最近は刺し慣れて、軽く刺したくらいでは出血しなかったのに。久しぶりにやってしまった。生地につかないようにしないと。
痛かったけど目が覚めてよかったかも。とポジティブに考える。痛みなんて一瞬だ。どうせ、すぐに血は止まる。
そう、止まるに決まっている。
「……早く、止まらないかなぁ」
告白、できなかったな。