25.不戦敗
――五秒が限界だ。
中庭のクリーム色のタイルを見て精神統一した後、少し離れた場所で応援練習中の梅村くんに視線を向ける。りっちゃんによるカウントが始まった。
「いーち、にーい、さーん、しーい、ご」
「ギブギブギブギブ」
やっぱり五秒が限界。
「顔が、見れない」
言わずもがな、昨日の接触未遂事件の後遺症である。
あの後家に帰ったわたしは、梅村くんのことばかり考えていた。心と体が分離して、まるで自分ではないようだった。無意識に右手で左手を包んでみたり、お姉ちゃんの口元を見つめてみたり。
「ずっとこのままだったらどうしよう」
「まず昨日何があったのか言いな」
「それは無理です」
不満タラタラなりっちゃんにも教えてあげられない。悪意はなく、言語化するにはわたしの様々な能力が足りない。
それにあの事件が良いことだったのか悪いことだったのか、判断できていないのだ。もちろんわたしにとっては良いことである。しかし梅村くんには――
「琴葉がそんな調子だと、他の人に掻っ攫われるよ。気付いてるんでしょ? 石丸先輩のこと」
「それは……ハイ」
今日も梅村くんのそばには、太陽みたいな石丸先輩がいる。
それだけなら気にしなかった。他の女子と同じだから。
問題なのは梅村くんの対応である。石丸先輩にはガードが緩い気がするのだ。副団長としての信頼があるからなのか、はたまた心を開きかけているからなのか。
梅村くんが変わりつつあると知っているからこそ、わたしは余計に混乱している。
どうしてあんなことしたの? わたしを女の人として見てくれているから? そうじゃなかったら、ただの気まぐれ?
人の思考を読める力がほしい。あればこんなに悩まなかったのに。
「せめて遠くから顔を見るくらい、できるように、ならないと」
睨みつけるように目を細めて視線を移した時だった。最も見たくなかった光景を目の当たりにした。恥ずかしさも忘れ、呆然とする。
「……笑ってる」
梅村くんが、先輩に向けて。
「真顔にしか見えないけど」と顔を顰めるりっちゃんに、首を振って応える。
笑ってるよ。ほんのちょっとだけど。
やはり梅村くんは、壁を壊そうとしているのだ。わたしが嫌がることはしないと言ってくれたが、彼の本心は、あの笑顔に表れている。
「嫌だなんて、言うんじゃなかった」
気をつかわせて、優しくされて夢中になって、余計に惨めだ。わがまましか言わない同志に、心を寄せる人なんているはずないのに。
りっちゃんが落ち着かない様子でわたしと梅村くんを交互に見る。
「石丸先輩は元から距離が近い人だから、あんまり気にしない方が」
「りっちゃん。……わたしね、先輩好きなの」
「う、うん。懐いてるよね」
「明るくて優しくて、たくさん構ってくれる」
石丸先輩はすごい。先輩みたいな素敵な人だったら、同志という立場なんて簡単に飛び越えて、あっという間に特別な存在になってしまうのだろう。
「でも多分、誰かに近づくのって、先輩でも勇気がいると思うの」
「……そうだね」
「それができる人だから、わたしは先輩が好きだし、尊敬してるの」
美人だとかポニーテールが似合うとかいい香りがするとか、好きなところは色々あるけれど。わたしが先輩に憧れるのは、彼女の内面が輝いているからだ。
「勇気を出して自分から動いてる先輩に、遠くから黙って見てるだけのわたしが、文句なんて言えない」
梅村くんが変わろうとしているのなら、背中を押せる人になりたい。心を分けられる人になりたい。誰よりも近くで、あの笑顔を見たい。
だから、立ち止まっている暇はないのだ。
「梅村くんに告白する」
*
翌日。朝から体育祭の予行練習が始まった。
朝礼台の上に立った体育教師が「今日は午後から雨予報だから」とか「本番前に怪我などないように」とか話している。わたしはその間、口から出そうになる心臓をなんとか正しい位置に繋ぎ止めていた。
繋ぎ止めながらラジオ体操を行い、やや出しそうになりながら応援合戦を見守った。
「助けて……早く言わせて」
「勇ましく告白を決意するくらい肝が座ってるくせに小心者なのはなんなの」
極度の緊張からか、りっちゃんのジト目にさえ安心するわたしがいる。
「連絡取れるんだから日時指定すればいいじゃん」
「それじゃあ奇襲にならないじゃん」
「琴葉はアレの首でも狙ってるの?」
「そういう意味じゃないけど……考える余裕を与えたら、優しさゆえの答えが返ってきそうなんだもん」
わたしが聞きたいのは本音だ。だから事前に「お話ししたいことがあります」と伝えて、告白だと勘付かれるわけにはいかない。
梅村くんはバレーボールの出場選手だから、午後からは体育館にいるだろう。人目を考えるとそこを狙うのは難しいため、できれば午前中に言ってしまいたい。何より先延ばしにすると、わたしの弱っちい意思が持続しない恐れがある。
「衣装の回収さえなければ、今から探しに行くのに」
そろそろ応援係の着替えが終わる頃だ。わたしは女子の応援係が脱いだ衣装を回収し、被服製作室に持っていかねばならない。
「私が代わろうか?」
「ううん。引き受けた仕事をやらなかったらバチが当たりそうだから行ってくる。ありがとね」
応援席にりっちゃんを残し、女子が着替えに使っている教室に向かうことにした。入場門付近には綱引きの選手が集まっているため、遠回りだが退場門側を通るとしよう。
衣装を汚したくないし、手を洗ってから行こうかな。そう思い、校舎脇の手洗い場を目指す。
一人歩いていると、遠くからスターターピストルの音が聞こえた。綱引きが始まったようだ。一度グラウンド側を振り返り、再び進み出す。
校舎に沿って角を曲がったところで足を止めた。思いがけぬタイミングで梅村くんの姿を見つけたからだ。
こちらからは格好いい後ろ姿しか見えないが、手洗い場で顔を洗っているようだ。応援合戦で汗をかいたのだろう。水が滴っていても汗が滴っていても結局眩しい。それが梅村くんである。
今なら大半の生徒がグラウンドにいるため静かだ。これは神様が与えてくださった告白チャンスだろうか。
落ち着けわたし。まだ顔を見るのは緊張するけど、頑張れわたし。自分を鼓舞し、梅村くんの背中に近づこうとした。
「――蒼士、聞いてんの?」
……おのれ柳くんめ。
聞こえた声にガックリと肩を落とす。やる気が地面まで落っこち、コロコロと足元を転がる。
本日もワンコ柳は健在らしい。ブロックが違うのにあの引っ付きよう。梅村くんが一人になる時間はないかもしれない。
「再来週の土曜日、空いてる?」
「西さんと出かける」
わたしの名前が出てきてしまった。二人の会話に登場したことに気まずさを感じ、校舎の壁に寄って隠れる。
「ほーん。じゃあまた別の日に誘うわ。西さんと展覧会とかに行く時って、毎回スマホで連絡して予定決めてんだろ?」
「うん。あとはパソコン室で会ってる時に決めるか、かな」
「土曜はどこ行くの?」
「スイーツ展。学校から結構離れてるから誰にも見られないだろうって」
「美味そうなもん食いに遠出するなら、俺もいる時にしろよ……」
声だけで拗ねているのが丸わかりだった。
ごめん柳くん。これでも最初は誘うつもりだったんだよ。梅村くんと二人っていう美味しいシチュエーションに抗えなかったのは事実だけど。今度三人でラーメンでも食べに行こうね。
わたしが心の中で言い訳を並べている間、梅村くんは黙り込んでいた。どうしたのだろう。
「……個人的には、もうこういうの、やめたいと思ってる」
――え?
耳を疑った。あの二人、スイーツ展の話してたよね。やめたいって、どういうこと?
「初めのうちに伝えなかった俺が悪いんだけど……西さんは楽しそうだし、他にも色々あって、言いづらくてさ」
心臓が気持ち悪い暴れ方をする。
聞けば聞くほど、梅村くんの口から出てくるのは、わたしには言わない本心で。
――やめたい、のか。
わたしから離れることが彼の願いなのだと、初めて知った。
柳君だって喋っているはずなのに、梅村くんの言葉しか耳に入ってこない。
「でもそろそろ言わないとな、とは思ってる。……この前は間違えて触っちゃったし」
間違え、た?
何と? 誰と?
意味を考えた時、指先が凍ったように冷たくなった。
二人の元に顔を出すなんて不可能で、その場にいるのも苦しくて、来た道を走って戻る。
――気まぐれで触れたと言われた方が、何倍もよかった。
楽しかったのはわたしだけだった。
会える度に喜んでいたのも、笑顔が見えて嬉しかったのも、電話でくすぐったい気持ちになるのも、わたしだけ。
頭の中がごちゃごちゃで、誰かに支えてほしいのに誰にも会いたくなくて。りっちゃんの元にも戻れず、ふらふらと別の道から校舎に向かった。
応援係がまとめてくれていた衣装を回収し、被服製作室へと移動したわたしは、窓からグラウンドを見下ろす。
借り物競走の真っ最中らしい。まだリレーなどが残っているが、空には段々と雲が多くなってきた。
衣装回収を終えたことを先輩に連絡しておこう。スマホの画面を見て、通知に顔を強張らせた。
【夜、電話していい?】
梅村くんからのメッセージはそれだけだった。
馬鹿なことをした、と反省する。盗み聞きなんてしなければ、今頃天にも昇る心地だっただろうに。
作業台に突っ伏し、返す言葉を考える。
しばらくして、冷たい指先で画面を叩いた。
【電話は難しいかも。ごめんね】
お前はいらないのだと言われるのが怖くて、わたしには逃げることしかできなかった――