24.3.5センチ
梅村くんのファンサービスから数日が経ち、体育祭まであと一週間。
衣装が完成したため、衣装係は放課後の時間を自由に過ごせるようになった。看板係の手伝いに借り出されることもあるが、あちらも細かい部分の調整段階に入っている。完成まであと一歩といったところだ。
応援係は当日まで忙しいわけだが、最後の追い込み前ということで今日の練習は休みになったらしい。
そこでわたしと梅村くんは、第三パソコン室に集合することにした。
「パソコン室で会うの久しぶりだねぇ」
「だね。前来た時はエアコンつけないと汗やばかったのに」
「あっという間に秋ですな」
相変わらず放課後の第三パソコン室には人がこないようだ。梅村くんと学校で話すには絶好の場所であるため、需要のなさに救われている。
わたしと梅村くんは隣の席に腰掛け、パソコンを立ち上げる。三十分ほど各々好きな作業をすることにした。
アパレル用CADのソフトを起動し、製図を引く。衣装の製図は手書きで行ったため、パソコン上でもデータを作っておきたかったのだ。
お互い無言で作業を進めるが、キーボードを叩く音とマウスのクリック音が聞こえて心地よい。
切りのいいところでデータを保存し、パソコンの電源を落とす。すると梅村くんが椅子を九十度回転させ、わたしの方に体を向けた。
「千紘とのことでお世話になったから、お礼がしたいんだけど」
「前に言ってたの、本気だったんだ」
気にしなくていいのに。そう思うものの、梅村くんと過ごせる機会をみすみす逃すようなヘマはしない。遠慮なく提案に乗らせていただこう。実は行きたいところもあるのだ。だが――
「それなら柳くんに聞いてみてからの方がいいんじゃない?」
言い出しっぺが本気ではなかった可能性が充分にある。
「千紘は関係なくて、俺が個人的に何かしたいなって」
「じゃあ柳くんいないの?」
二人でお出かけですか? とつい声が弾んでしまう。正直者でごめんね、柳くん。態度があからさまだったため梅村くんが吹き出した。
「千紘がいないなら嫌だって言われたらどうしようかと思ったけど、そんなことなかったね」
「念のためにお伝えしておきますが、柳くんのことが嫌いなわけではないからね」
「仲良いもんね」
「全校生徒の前で柳くんとイチャつく梅村くんには負けるよ」
心配しなくてもあなた以上に柳くんと親密な人はいません。
「あまり近寄るなって言ってるんだけどね」
「女子も寄ってきちゃうから?」
「いや、あいつが鬱陶しいだけ。女子に関してはね……今までは極力話さないようにしてたけど、それはやめようかなって。最近ちょっと、考え中」
「え……」
これは予想外である。梅村くんが女子に歩み寄ろうとするなんて。
不意に石丸先輩が脳裏をよぎった。梅村くんのファンサービスを見た日から、先輩は梅村くんに急接近している。
先輩が彼の考えを変えたのだろうか。
それとも先輩は関係なくて、柳くんとの件が片付いたためにトラウマを克服できたのだろうか。
理由はどうであれ、わたしは喜ぶべきだ。実際に嬉しい気持ちもある。よかったねと言ってあげたい。
「そう、なんだ」
でも、苦しくて言えない。
――だって梅村くん、誰かに笑いかけちゃうんでしょ?
女子に囲まれている梅村くんを見ても暗い感情を抱かなかったのは、梅村くんからは近づかないという確信があったからだ。笑顔を向けないと知っていたからだ。
応援合戦のファンサービスを見ても落ち込まなかったのは、彼の笑顔が特定の人物に向けられたものではなかったからだ。
だがこれから先、女子への壁が撤去された時、梅村くんは自分で唯一を選ぶことになる。
わたしにはそれが、どうしようもなく寂しくて、心細い。
「……嫌だな」
しばらく言葉を発さなかったくせに、開口一番、最低な言葉が飛び出した。我に返り弁解する。
「今のなし! 梅村くんの好きなように」
「うん」
「好きなように、……してもらえると」
「うん。俺の好きなようにするから、西さんが嫌がることはしないよ」
梅村くんは当然のように言う。彼の優しさに触れた途端、自分がとんでもなく醜い生き物のように思えてきた。
間違いなく、気をつかわせた。
せっかく梅村くんが前に進もうとしているのに、わたしは邪魔をしようとしたのだ。このままではいけない。わがままを押し通してしまう前に話題を変えなくては。
「わたし、秋のスイーツ展に行きたいです!」
お粗末な誘導に全米が泣きそうである。わたし自身驚きを隠せない。
梅村くんも「下手くそか」とつっこまざるを得なかったようだ。ほんのり空気が緩む。いいぞ、恥をかいたが明るい雰囲気を手に入れた。
「梅村くんを誘おうと思って調べてたの。少し遠いところだから移動時間は長いけど、誰かと鉢合わせたりはしないと思う」
「服関係の展示じゃないんだね」
指摘されて初めて気付いた。わたしたちは今まで建築と服に関するイベントにしか一緒に出かけたことがない。梅村くんと行ってみたくて提案したのだが、同志としてあるまじき選択だっただろうか。
「ダメだった? 調子乗った?」
「全然。再来週の土曜日でもいい?」
「うん!」
スマホでスケジュールアプリを開き、予定を入力する。
当日はどんな服を着ようかな。少しでも可愛いと思ってもらいたいし、髪もいじろうかな。
まだ先の話だというのに、すでに心がふわふわする。
「休みの日も体育祭の準備ばっかりだったから、二人で出かけるの久しぶりだねぇ。楽しみ」
わたしは座っている椅子をくるりと一回転させた。
スイーツ展のウェブサイトを開いてみる。アップルパイにモンブランのタルト、鳴門金時マフィンなど種類が豊富だ。お腹を空かせて行こう。お土産も買おう。
「チーズケーキがあるのも事前調査済みです」
胸を張って言うと、梅村くんは小首を傾げた。
「なんでチーズケーキ?」
「カフェに行った時に食べてたから、好きなのかと思って」
「あ……そっか」
短く答えた梅村くんが、わたしから視線を逸らしてしまった。
「前は冒険しただけだった?」
「ううん、好きだよ。西さんが覚えてたからびっくりして。人のことよく見てるね」
「そうかな。意識したことなかったけど、人間観察が趣味だったのかも」
製図と縫うこと以外には興味がないものだとばかり思っていたが、意外と他のことにも関心があるのかもしれない。
最近は秋のスイーツ展を積極的に調べたし、フェイスペイントの動画を見たりもしている。自宅のポストに建築関係のチラシが入っていたらとりあえず眺めてみたりだって……あれ、これってもしかして。
「違うね。梅村くんだからだ」
わたしは柳くんが食べていたものも飲んでいたものも、何一つ覚えていない。おそらく柳くんも同じだろう。
シンプルな話である。夏休みにカフェに行った時は、まだ恋愛感情ではなかったが。
「梅村くんがね、最初からわたしの特別だからだ」
声に出すとしっくりきた。へへ、と笑みがこぼれる。
どんなものが好きなのかなとか、苦手なものはあるのかなとか。いまだに謎だけど笑うツボとか。
以前は同志として。今は同志兼、片思い中の身として。
わたしの探究心は、梅村くんにずぶずぶなのだ。
「でもね、調査したとか偉そうに言ったんだけど、あるのはかぼちゃのベイクドチーズケーキだから、もしかしたら好みとは違うかもしれない」
「…………かぼちゃも好き」
「ほう、それなら安心。他にも美味しそうなのたくさんあるからね」
「見せて」
画面をのぞき込もうと身を寄せた梅村くんが、スマホを持つわたしの手に自分の手を重ねた。あまりにも自然だったため、びっくりし損ねる。
梅村くんの指、遠くからだとスラっとして見えるけど、結構ごつごつしてる。手だけじゃなくて、肩もくっついちゃってるな。触れているところが温かい。梅村くんってひんやりしてそうなのに。これ、梅村くんの体温なのか。……梅村くんの、体温。
考えているうちに、顔を上げられなくなってしまった。触れている部分が心臓になったみたいだ。
不自然なほど俯いたまま、尋ねる。
「全部、見えた?」
「もうちょっと」
わたしは恥ずかしくて仕方がないというのに、どれだけスイーツに夢中なのだろう。自分の顔は見られたくないが、スイーツに釘づけな梅村くんの顔は見たい。
欲に負けてゆっくり顔を上げると、梅村くんは画面を見ていなかった。
「――っ」
熱のこもった視線に射抜かれ、息を呑む。
怖くはない。でも動けない。
急に梅村くんが男子ではなく、男の人に見える。
――話題を変えるの、成功したと思ったのにな。
つい先ほど、彼が誰かのものになってしまうことに、心細さを感じたからだろう。
「もうちょっと……見る?」
離れてほしくなくて、目の奥が少し、熱くなった。
「……見る」
彼はたった一言で、わたしの脈拍を早くする。対照的にゆったりとした動きで近づいてきて、まつ毛の長さに目を奪われた。
どのくらい見つめていたのだろう。梅村くんの顔が傾いたのがわかり、瞼を伏せる。そうしなくては、わたしの方が彼の瞳に、吸い込まれてしまいそうだったから。
どちらかの指先にきゅっと力が込められた時、幸か不幸か最終下校の鐘が鳴った。肩が同時に跳ね、一瞬で現実に引き戻される。
わたしは顔を背けて鞄を持った。
「か、帰ろっか。集合時間とかは、今度決めよう」
梅村くんと一緒に帰るわけにはいかない。「じゃあまた」と手を振ってパソコン室を後にする。
できるだけ知り合いに遭遇せぬよう、足早に校舎を出た。
だって会ってしまったら、どうしたのかと問い詰められるに決まっている。それだけ顔が熱を持っていると自覚している。
触れてしまうかと思った。
経験がないため、最初に触れるのが鼻なのかおでこなのか口なのかわからない。でも互いの距離は確信していた。わたしの目には目盛りが搭載されているのだ。
「……3.5センチ、だったな」
指先で唇に触れる。
もしあのまま進んでいたら、わたし達はどうなっていたのだろう。