第三章〜hazama〜
第三章 ~Hazama~
「いらっしゃいませ。」
扉を開けると、ほの暗い光と柔らかく流れるジャズの旋律が僕を包み込んだ。
まるで現実から切り離された別世界のようだ。カウンターの奥には、真っ赤なワンピースを身に纏ったマスターらしき人物が立っている。
その姿に思わず目を奪われた。すらりとしたスタイル、丁寧に整えられたメイク、美しい立ち居振る舞い。どこから見ても魅力的な女性だ。
だが、近づくほどにわかる。顔には立派な髭があり、その骨格はどこか男らしい。性別が「男性」だとすぐに察したが、不思議と違和感はなかった。
「どうしたの? そんなキョトンとした顔して。」
「まぁ座りなさいな」
「なんか一杯飲む?」
低い声だが心地よい声が耳に響く。その声には妙に安心感があり、自然と緊張がほぐれていく。
「あ、ビールをください。」
こんな状況で酒を飲んでいる場合ではない。それでも、ジャズの旋律やロウソクの柔らかい明かりに魅了され、気づけば注文していた。
マスターは微笑むと、手際よくグラスにビールを注ぐ。
所作のひとつひとつが洗練されていて、目を奪われるほどだ。
「どうぞ。」
差し出されたピルスナーグラスには、黄金色の液体ときめ細やかな泡が美しく整えられている。
喉を鳴らしながら飲み干すと、疲れ果てた体に液体がじんわりと染み込むような心地よさが広がった。
「おかわり、どうする?」
「あ、お願いします。」
マスターは黙って笑みを浮かべ、2杯目を用意する。
クシャクシャの3本目のタバコに火をつけながら、僕はようやく深く息をついた。いつの間にか、心が少しずつ静けさを取り戻している。
そんな僕を見て、マスターが問いかけてきた。
「少し話を聞いてもいいかしら?」
その声は母性すら感じさせる優しさを帯びていて、不思議と拒否する気になれなかった。
「ええ……構いません。」
そもそも僕がこの店に来た理由は、エレナという女性から渡された一枚のメモだった。
(困ったらここへ。必ず助けてくれる。)
背後から迫る追手たちに怯えながら、僕はその言葉だけを頼りにこの店を探し当てた。
だが、扉をくぐった瞬間、マスターはこんなことを言ったのだ。
(あなたが救世主なのかしら?)
救世主?
僕が?
何を言っているのかわからなかったが、目の前のマスターがただ者ではないことだけは察していた。
「あなた、本当に記憶がないの?」
「記憶……ですか?」
彼女?いや、彼の言葉に戸惑った。
記憶ならある。
幼少期の記憶、学生時代の思い出、そして社会人としてのあたりまえの日々。
それなのに、エレナやマスター、この店についての記憶はどこにもない。
「私のことも、エレナのことも覚えていないのね……。」
マスターの顔に、一瞬寂しげな表情が浮かぶ。
「あっ!それより、エレナは無事なんですか?」
あのとき、僕を逃してくれた彼女が気になって仕方がない。
彼女がいなければ、僕は今ごろどうなっていたかわからない。
組織の追手たちは黒づくめのスーツに身を包み、特殊警棒を手に猛スピードで迫ってきた。
その中でも一際目を引いたのが、リーダーらしき巨漢。
2メートル近い長身と鍛え上げられた体格は、見ただけで恐怖を感じさせた。
あんな奴に捕まったらひとたまりもないだろう。
そんな奴に追い詰められた僕を救ったのが、エレナだった。
「安心して大丈夫よ。」
マスターは穏やかに言う。
「さっき連絡があって、彼女は無事にここへ向かっているわ。」
安堵の息を吐きながら、僕は再びマスターに向き直る。
聞きたいことが山ほどある。
「マスター、僕のことをご存じなんですか?」
マスターはウイスキーのロックを揺らしながら、タバコに火をつけた。
そして一言。
「ええ、とてもよく知っているわ。」
その言葉をきっかけに、マスターの口から驚愕の真実が語られることになる。
どうやら僕は未来人らしい。
マスターの言葉が耳に入った瞬間、息が詰まるような感覚がした。その一言が、全てを覆すような衝撃だったからだ。
僕の目の前には、淡々とした口調で話を続けるマスターがいる。その姿は、赤いワンピースと整えられた髭面という奇妙な組み合わせにもかかわらず、不思議と威厳が漂っていた。
「僕が未来人?」
自分で口にしてみても、それが現実感を伴うものではないことに気づく。だが、今日起きた数々の異常な出来事を思い返せば、否定することもできない。
マスターは淡々と語り始めた。
「私たちは、みんな未来から来たのよ。あなたも、私も、そしてエレナも。」
その言葉に一瞬息を呑む。マスターは目を細め、遠い過去を振り返るように語りを続けた。
「ミシェルという名前を聞いたことがある?」
「ミシェル?」
首を振る僕を見て、マスターは少し口元を歪めた。
「まあ、そうでしょうね。あなたの記憶は……消されているのだから。」
「ミシェル……それは現代に存在する闇の組織よ。表向きは巨大な研究機関として活動しているけれど、その裏ではとんでもない実験を繰り返している。そして彼らは、現代と未来をつなぐ『狭間』の世界を偶然にも見つけてしまったの。」
「狭間の世界。あ!あの草原の世界」
その言葉は、何か底知れない広がりを感じさせた。同時に、その響きが妙に耳に馴染むことにも気づく。
「狭間の世界は、私たち未来の人間にとって非常に重要なものなの。でも、ミシェルはその力を利用して、自分たちの都合のいい未来を作ろうとしている。」
マスターの目が鋭く光る。その瞳には、ただの語り手ではない切実さが宿っていた。
「それを阻止するために、私たちは戦っている。『狭間』でね。私が率いるのは『トライデント』という組織。あなたもその一員だったのよ。そして、ただの一員じゃない。あなたは副リーダーだったのよ。」
僕が……副リーダー?
信じられない。こんな普通の人間であるはずの僕が、未来の戦士だというのか。
「僕が?トライデントの副リーダー?」
マスターはフッと微笑む。
「信じられなくて当然よ。でも、それがあなたの真実なの。」
マスターは話を続けた。僕と彼女、そしてエレナの三人は、『狭間』を閉じるために未来を犠牲にして現代へとやってきたのだという。
「狭間を再び開くにはには、あなたの頭の中にある『鍵』が必要なの。でも、あなたはその鍵を守るために、自分自身の記憶を犠牲にすることを選んだの。」
「記憶を……犠牲に?」
「そうよ。そして、あなたの記憶を消された後、私たちは一度ミシェルに囚われた。あなたは私とエレナを救うために反乱を起こして私達を逃した。でもその後、あなただけ再び捕まり、あの組織の実験台にされたのよ。」
喉がひどく乾く。体の奥底から、何かがざわざわと揺れ動くような感覚がする。
マスターが察するようにドリンクを差し出す。
「あなが大好きだったマッカランのハイボールよ」
マッカラン?飲んだ事もないはずなのに一口飲んだだけで懐かしい味わいだった。
「それじゃ、僕が今持っているこの記憶は……?」
マスターはしばらく言葉を探しているようだった。そして、静かに首を横に振った。
「わからないわ。でもあなたの記憶は誰かに上書きされている。でも、ミシェルがわざわざあなたに不利になる記憶を植え付けるとは思えない。それが何なのか、私にも謎よ。」
一部始終を聞き、信じられないという思いと、不可解な納得感が心の中でせめぎ合う。
「今日の出来事を思えば……確かに。」
呟く僕に、マスターは静かに微笑んだ。その微笑みには、どこか懐かしさを感じた。
「あなたは本当に強い戦士だったわ。誰にも負けない勇敢な戦士。必ず思い出すわ。私たちが戦ってきた全てを。」
ロウソクの炎が静かに揺れている。その光が、僕の胸の中にわずかな希望の灯りを灯している気がした。
話が一段落すると、店内には静寂が訪れた。
ロウソクの揺れる光をぼんやり眺めていると、マスターがスッと新品のタバコを差し出す。
「あなたがいつ来てもいいように、買っておいたのよ。」
僕の好きなタバコ。好きだったと言うハイボール。
なんだか妙に胸が熱くなった。
「カランカランッ!」
「いた!」
扉が勢いよく開き、店内の静寂を破る音が響いた。その音に思わず振り向くと、そこには息を切らしながら駆け込んできたエレナの姿があった。
「ハァハァハァ、、、」
「よかった!、、、無事だった!」
彼女は肩で荒い息をしながら、僕を見つけると安心したように微笑む。
ロウソクの揺れる灯りの中で、その笑顔は純粋で眩しかった。
「エレナ!」
自然と声が漏れる。彼女が無事だった。それだけで、胸に押し寄せていた重圧が一気に解けていくのを感じた。
エレナは僕に駆け寄ると、両手で腕を掴み、目をまっすぐ見つめてきた。
「心配したんだから!」
その瞳には、安堵と緊張、そしてどこか懐かしさのような感情が入り混じっている。
「本当に無事でよかった……」
少し涙ぐみ、声は震えていたが、その裏には強い意志が感じられた。
「エレナ、君は……怪我はないのか?」
思わず問いかける。彼女の肩は少し乱れていて、衣服には土埃がついていた。逃げる途中で相当な苦労をしたことが一目でわかる。
「私は大丈夫。それより、あなたがここにいてくれて安心した。」
エレナはにっこりと笑いながら言った。その笑顔に、不安だった気持ちがほんの少しだけ和らぐ。
「さあ、座ってちょうだい。」
マスターが、静かにカウンターの奥から声をかける。その声は、エレナの焦りを抑えるかのように落ち着いていた。エレナは頷くと、僕の隣の席に腰を下ろした。
マスターが出してくれた水を一口飲んだエレナは、ようやく深呼吸をする。
「ふぅー」
そして、少しだけ体を預けるようにして僕を見つめた。
「話したいことが山ほどあるけど……まずは、あなたの無事を確認できただけで十分。」
「マスターから話しは聞いた?」
彼女の声は穏やかだったが、その裏には隠しきれない感情の揺れが見える。僕が感じたのは、再会の喜びと同時に、何かを急いで伝えなければならないという焦燥感だった。
続けてエレナはマスターに問う
「あの話は、、、?」
マスターは目を伏せながら首を振る。
「まだよ」
あの話?なんだ?まだ言ってない事があるのか?
「あの話ってなんだ?」
「エレナ……一体これから何が起きるんだ?」
思わず訊いてしまう。今日一日だけでも、僕の世界は完全に変わってしまった。そして、これから何が起こるのか、全く予想がつかない。
エレナは少しだけ目を伏せ、言葉を探すようにしてから顔を上げた。
「その答えを見つけるために、私たちはここにいるの。あなたと一緒にね。」
「お願い。力をかして!パ、、、あなたの力が必要なの!」
エレナのその一言に、心の奥で何かが静かに動いた気がした。
そして、闇の手はジワジワと僕達の背後に迫っていた、、、
第三章〜完〜