第一章 ~何もない日常~
今日もまた、何事もなかった。
コンビニの冷えた缶ビールを呷り、喉の奥に広がる苦味を味わう。
つまみはいつものポテチと、昨日の残り物の唐揚げが三つ。
蛍光灯の薄暗い光の中、ありふれた一日が終わるはずだった。
その静寂を切り裂いたのは、聞きなれた着信音だった。
薄暗い部屋に浮かび上がるスマホの画面を見つめる。見慣れない番号。
「一体誰だ…?」
期待と不安が入り混じった奇妙な感覚に襲われながら、通話ボタンを押した。
「もしもし…?」
受話器の向こうから聞こえてきたのは、無機質で低い声だった。まるで機械が発するような、感情の欠片もない声。
「オマエヲツカマエル…カナラズ…」
背筋に冷たいものが走った。
「どちら様ですか…?」
震える声で問い返す。
「ソシキハオマエヲユルサナイ…チノハテマデオマエヲオイカケル」
「組織…?」頭の中で警鐘が鳴り響く。
一体何のことだ?何故自分がこんな目に…?
記憶の断片が頭の中を駆け巡るが、どれも靄がかかったように曖昧で、繋がらない。
通話が途切れた瞬間、ドアを叩きつけるような音が部屋中に響き渡った。
「ドンドンドンドンドン…!」
鈍い音は次第に激しさを増し、古びた木製のドア全体が震えだした。まるで悲鳴を上げているかのように。
ドアの向こうには、確実に何かがいる。逃げなければ…。
六畳一間の古びたアパート。壁は薄汚れ、天井には染みが広がっている。
木製のドアは、まるで心臓の鼓動のように響く激しいノックの音で、今にも外側から突き破られそうだった。
逃げ場を探そうと部屋を見回すが、家具と壁に囲まれた狭い空間には、隠れる場所などどこにもない。
絶体絶命だ。冷や汗が背中を伝い、心臓が激しく脈打つ。
その時、かすかな声が聞こえた。
「コッチだよ」
反射的に顔を上げると、天井の隅、換気扇の隙間から、小さな少女がこちらを手招きしているのが見えた。
こんなところに人が入れる空間などあるはずがない。
しかし、ドアを叩く音は容赦なく大きくなっていく。迷っている暇はない。
藁にも縋る思いで、僕は少女の声に導かれるように、換気扇に手をかけた。
錆び付いた金属がきしむ音を立て、換気扇のカバーが外れる。
中を覗き込むと、信じられないことに、天井裏に続く空間が広がっていた。
埃っぽく、薄暗い空間だが、確かに人が通れるほどの広さがある。
少女はすでに中に入り込み、こちらを見上げている。僕は躊躇なく天井裏に体を滑り込ませた。
天井裏は想像以上に狭く、体勢を変えるのも困難だった。
埃が舞い上がり、咳き込みそうになるのを必死に堪える。
下ではドアを叩く音がさらに激しくなり、ドアの一部が剥がれ落ちる音が聞こえた。
追っ手はすぐそこまで来ている。
少女は暗い天井裏を軽々と進んでいく。僕は後を追い、埃まみれになりながらも必死に這いつくばった。
しばらく進むと、前方に微かな光が見えてきた。
光に近づくにつれ、埃っぽい空気から、どこか清涼な空気に変わっていくのを感じた。
そして、天井裏の出口と思しき場所にたどり着いた時、目の前に広がっていたのは、信じられない光景だった。
そこは、先ほどまで自分がいた薄汚れたアパートとは全く別の世界だった。
視界いっぱいに広がる緑の草原。どこまでも続く地平線。
夕焼けのような赤と、深い青紫が混ざり合った、見たこともない色彩の空。
頬を撫でる風は、土と草の匂い、そして微かに金属のような匂いを運んできた。まるで夢の中にいるようだ。
草原の中央には、先ほどの少女が立っていた。彼女は振り返り、僕に微笑みかけた。
その瞳は、吸い込まれそうなほど美しく、その奥には星々が瞬いているようだった。
「ここは…?」
息を呑むような光景に、言葉を失う僕に、少女は目を丸くして、どこか悲しげな表情で言った。
「ココハ…狭間だよ。」
「狭間…?どういうことだ?」
「二つの世界を繋ぐ、境界線だよ…。」
初めて感じる感覚に、頭の中が混乱していく。
ここは一体どこなのだろう?もしここが自分の世界ではないなら、今まで自分が生きてきた世界は何だったのだろう?
混乱と同時に、得体の知れない恐怖が押し寄せてくる。
「君は…誰なんだ?」
混乱を押し殺し、少女に問いかける。
「ワタシハは…」
少女は言葉を濁し、遠くの空を見つめた。
夕焼けと深い青紫が混ざり合った空の彼方、地平線の向こうには、巨大な影のようなものが見えた。
山脈だろうか?いや、それにしてはあまりにも巨大で、異質だ。
「時間がナイ…。」
少女は低いトーンで呟いた。その声には、切迫した何かが含まれていた。
「組織が…クル。」
「組織…?なぜ僕が…?」
「アナタハ…知ってしまったの。彼らの秘密を…。」
少女は僕を見つめ、静かに、しかし力強く言った。
「カレラハ…この世界を侵略しようとしている。ワタシタチの世界を…。」
「侵略…?一体何を…?」
「カレラハ…境界線を越えようとしている。そして…その鍵は、アナタの…頭の中にある。」
少女は僕の額にそっと触れた。
その瞬間、稲妻が頭を貫いたかのような衝撃が走り、無数の映像と音が押し寄せてきた。
見たこともない風景、聞いたこともない言語、そして…異形の生物たちの咆哮。
同時に、甘く腐敗臭のような、今まで嗅いだことのない匂いが鼻をついた。
「ワタシヲ信じて…」
「信じて…アナアの心を…信じないで…カレラの言葉を…。」
少女はそう言い残し、まるで朝霧が陽光に照らされて消えていくように、ゆっくりと空に溶けていった。
彼女がいた場所には、微かな光の粒子と、甘く腐敗臭のような匂いだけが残っていた。
風が吹き抜け、草がざわめく音だけが、静かに草原に響いていた。
その瞬間!まばゆい光が視界を覆い、意識が遠のいていく。。。
何分たっただろう?やっと目を開けると次の瞬間、僕は見慣れたアパートの前に立っていた。
右手に握られたままの、飲みかけの缶ビールが、さっきまでの出来事が夢かとおもわせた。
「寝ぼけてんのか??」
しかし、静まり返っていたはずのアパートの中から、再びあの鈍い音が聞こえてきた。
「ドンドンドンドンドン…!」
ドアを叩く音ではない。壁を、何か重いもので打ち付けているような音だ。
間違いなく、奴らはまだいる。夢ではなかった。
あの草原も、少女も、すべて現実だったのだ。僕は背筋を凍らせながら、走り出した。
夜の街は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
街灯の光がアスファルトを照らし、僕の影を長く伸ばしている。
どこへ行けばいい?誰を信じればいい?少女の言葉が頭の中でこだまする。
「信じて…自分の心を…信じないで…カレラの言葉を…。」
その時、背後から声をかけられた。
「そこのお兄さん、ちょっと待って!」
振り返ると、息を切らせた若い女性が立っていた。眼鏡をかけ、どこか落ち着いた雰囲気の女性だ。
「あなたは…もしかして…『鍵』の人ですか?」
「鍵・・・・・・の人??」
女性は慌てて周りを見回し、小声で言った。
「私が…エレナです。あなたは…組織に追われているはずです。」
エレナ…?全く知らない名前だ。しかし、彼女の言葉には確信があった。
でもなぜ僕が組織に追われていることを知っている?
「少女…草原で会った少女!会いましたよね?草原で狭間で…」
「教えてもらったんです。あなたが…必ずここを通ると。」
「少女…!」
彼女は、僕が現実世界に戻ることを知っていたのか?
それとも…エレナもまた、あの世界の住人なのか?
「時間がないわ!早く!ここも危ない!」
エレナに促され、僕は再び走り出した。
夜の闇に紛れ、街の奥深くへと逃れていく。
背後からは、依然としてアパートから聞こえる音が聞こえてくる。奴らは確実に近づいている。
逃走の途中、エレナは僕に一枚のメモを渡した。
そこには、一つのアドレスと、短いメッセージが書かれていた。
”困ったらここへ。必ず助けてくれる。”
その時、背後から複数の足音が聞こえてきた。奴らだ。
「別れましょう!私はここで撒きます!あなたは…その場所へ!」
エレナはそう言うと、僕とは反対方向に走り出した。
僕は後ろ髪を引かれる思いで、メモに書かれた住所を目指して走り続けた。
少女は一体何者だったのか?なぜ僕を助けたのか?
エレナはなぜ僕を知っていたのか?そして、この組織の目的とは一体何なのか?
無数の疑問が頭の中を駆け巡る
。しかし、今は立ち止まっている暇はない。
「生き延びなければ・・・必ず・・・」
何故だか、もう一度あの少女に会わなければいけないような気がした。
夜の闇は深く、街の灯りは遠く、僕の逃走はまだ始まったばかりだった。
~第一章 完~