元公爵令嬢アリスは、今宵も血濡れた人形を抱えて笑うーー母が自殺し、独り残されたアリスは、母の形見の人形と生きていくことになりました。ところが、メイドの職を得たお屋敷では、いつも殺人事件が!?
◆1
中央大陸きっての大国、ダレイオス王国ーー。
その王都の貴族街に、かつては栄華を誇った筆頭公爵メネシス家の豪邸がありました。
二十以上の部屋数を誇る大邸宅でしたが、今では使用人が一人もいません。
中はガランとして、閑散としています。
その屋敷の寝室で、メネシス公爵夫人が、天蓋付きのベットに横たわっていました。
臨終に際し、愛する一人娘の手を強く握り締めていました。
「アリス。私はもうじき死にます。ごめんなさいね。
貴女のお父様が濡れ衣を着せられて処刑された今、私は生きていくつもりはありません」
枕元には空になった小瓶が転がっていました。
遅効性の毒が入っていたのです。
公爵夫人は、それを一気に飲み干したのでした。
夫人は細い腕を、小さな娘の頬に向けて差し出します。
娘は今年の春に、十二歳の誕生日を迎えたばかりでした。
娘のアリスは大きな瞳に涙をいっぱい溜めて、母親に縋りました。
「お母様。そんなこと言わないで。
私がいるから、死ぬなんて言っちゃイヤ!」
公爵夫人は弱々しく微笑みます。
そして、布団の中から、古びた人形を取り出し、娘に手渡しました。
「私の死後は、この子を私だと思って、貴女の心の内を何でも話してね」
真っ白なレース付きのドレスをまとった、青い瞳をした金髪のお人形です。
娘のアリスは、その人形を両腕でギュッと抱き締めました。
それを見て、母親の公爵夫人は目を細めます。
「この人形はね、私のお母様から、いただいたものなの。
私が子供の頃から、ずっと遊んできた人形よ。
こんなものしか貴女に残せないけど、これが私の形見になるわ」
それが、薄幸の公爵夫人ルイス・メネシスの遺言となりました。
その晩、彼女は天に召されていったのです。
母親の死によって、公爵令嬢アリス・メネシスは、天涯孤独になってしまいました。
しかも実家のメネシス公爵家は、一ヶ月ほど前にお取り潰しになっていて、連日、屋敷から立ち退くよう催促され続けていました。
アリスは人形を抱き締めて、一日中泣き続けました。
そして母の死の翌朝、アリスがしたことは、人形に名前をつけることでした。
人形の名前は「リリア」にしました。
「リリア、私たちはこれから心の友になるのよ。
私、頑張って生きていく。見守っていてね」
リリアは冷たいガラスの瞳で、アリスを見詰め返していました。
◇◇◇
数日後、元公爵令嬢アリスは、以前、お母様に仕えていた老侍女イメルダの紹介で、王都の侍女斡旋所に籍を置くことになりました。
老侍女イメルダは、アリスを抱き締めます。
「生命があっただけ、運が良うございました。
男の子でありましたら、一緒に殺されていたところです。
このようなむさくるしいところですが、身分を偽って身を潜めるには絶好の場所です」
侍女斡旋所には、いろんな身の上の女性がいました。
上は(アリスのような)元高位貴族のご令嬢から、下は商人や田舎の農民あがり、さらには農奴や奴隷上がりの女性もいます。
斡旋所は、社会から押し出された女性の吹き溜まりだったのです。
それでも、アリスは真の淑女教育を受けていたので、腐ることはありません。
いつも元気で、朗らかです。
「どんな条件でも、この人形と一緒にいられるなら、私、頑張ります」
そう言って腕まくりして、侍女仲間の机まで綺麗に磨きます。
斡旋所の所長メルは、感心して何度もうなずきます。
そして、古株の侍女でもあるイメルダと話し合います。
「アリスお嬢様は若いうえに、家事もできますから、良い引き取り手があると思いますわ。
そうだわ。バレンタイン男爵のお屋敷に派遣したら、どうかしら?」
「ああ、あの、誰が派遣されても、長続きしないっていう……」
バレンタイン男爵邸に派遣された侍女はみな、しばらくしてから、一様にやつれて、追い出されてくるそうです。
男爵邸から出奔して、二度と顔を見かけなくなった侍女もいました。
しかも、戻ってきた侍女は、決まって多くを語ってくれません。
やりにくい、ちょっと不気味な派遣先だ、との評判でした。
老侍女イメルダが、斡旋所所長の提案を聞いて、顔を真っ赤にする。
「でも、バレンタイン男爵家のオスカー坊ちゃんは、いけませんよ。
あの坊ちゃんは、あれほど公爵様の世話になっていながら、恩返しもせずに、濡れ衣を着せるのに手を貸したといいますよ。
そのような者のところに、アリスお嬢様を向かわせるのは……」
「いえいえ。むしろ、好都合ではございませんか。
まさか公爵家のお嬢様が、男爵家の下働きに来るとは思わないでしょ?」
「それは、そうですけど……お嬢様は事情を何もご存知では……」
老侍女ふたりがお茶をしながら言い争っていると、アリス自身が割って入りました。
「これ以上、何もしないで置いてもらうのも心苦しく思っていました。
どうか、お気遣いなく。
男爵邸だろうと、何処だろうと、私、行ってみます!」
アリスは形見の人形抱きかかえながら、胸を張ります。
老侍女たちは、没落したとはいえ、生粋のお嬢様の意向に逆らうことはできません。
半分、哀しげな瞳でアリス嬢を見詰めつつ、男爵邸の位置を地図で指し示すのでした。
◆2
アリスは、侍女として、バレンタイン男爵邸に派遣されました。
タダ働き同然の安い給金でしたが、寝る部屋と食事が与えられる住み込み型の雇用でしたから、アリスにとっては嬉しい限りでした。
彼女は先輩からの指導に従い、朝の四時から起きて、台所の掃除をします。
それから竈門に火をくべて、お湯を沸かします。
そうした一連の作業が、当面のところ、アリスに与えられた仕事でした。
水と火を扱う、慣れない仕事に、三日もすれば、手は赤く腫れ上がります。
そんなアリスを可愛がってくれたのが、二つ先輩の侍女プリシアでした。
プリシアはアリスの手を取り、蜜蝋のクリームを塗ってくれました。
「アリス。お可哀想ね。まだ十二歳なのに。
私のことをお姉さんだと思って、何でも相談してね」
「ありがとうございます、プリシア様。
プリシア様がいらしてくれて良かった。
私のお友達は、お母様の形見のリリアちゃん、そしてプリシア様だけですわ」
アリスは毎晩寝る際には、リリアちゃん相手に、嬉しかったこと、悲しかったこと、何でも打ち明けて話します。
同じように、日中の仕事中は、プリシア姐さんに、何でも打ち明けました。
そのたびに、嫌な顔ひとつせずに、プリシアは応じてくれます。
アリスにとって、プリシアは、ほんとうに仲の良いお姉さんのように思われました。
そして、アリスが屋敷に奉公して一ヶ月ほどした頃ーー。
ついにプリシアが、お屋敷のご主人様のお部屋へ、アリスを誘ってくれたのでした。
「アリス、今日はこのバレンタイン家の当主である、オスカー様のお部屋に、あなたを連れて行ってあげる」
プリシアは、商家の娘で、行儀見習いも兼ねて、このお屋敷で働いていました。
平民の割に振る舞いが優雅なことから、オスカー様専属のお部屋係りになっていたのです。
「午後のお茶の時間になると、私がオスカー様にティーセットを持っていってさしあげているのよ」
プリシアは、誇らしげに胸を張ります。
アリスは気後れしましたが、貴族のお坊ちゃまの部屋に興味を覚えました。
「私なんかが、伺っても良ろしいんですか?」
アリスはプリシアの顔色を窺います。
「ええ。大丈夫よ。
オスカー様は、とっても優しいの。
私の三つ年上で、今は十七歳。
貴族の名門校に通われているの。
それでも、すでにバレンタイン男爵家の当主なんだから、凄いわね!」
プリシアは顔を上気させ、得意気にアリスに言いました。
「ほら、これ見て!」
プリシアは、自分の頭を指差します。
真紅のリボンに、真珠があしらわれた、髪飾りがありました。
それはプリシアの、艶やかなブラウンヘアーによく似合っています。
「この髪飾り、オスカー様からの贈り物なの。
『いつも美味しいお茶をありがとう!』って。
カードと共に贈られたのよ。嬉しかった!」
「優しい方ですね。
その髪飾り、素敵だなぁって思っていたんです」
アリスは、うっとりとプリシアの髪飾りを眺めました。
◇◇◇
ノックをして、アリスとプリシア、二人のメイドが部屋に入ります。
すると、オスカー様は、机の前の椅子に腰掛けて、何か書き物をしていました。
メイドがお茶を持ってきたと知り、顔を上げて、にっこりと微笑んでくれます。
さらさらとした金髪の髪と、青い目が印象的でした。
ほっそりとした指が、羽ペンをインク壺に戻します。
アリスは一目見て、オスカー様を好きになってしまいました。
(なんて、素敵な人なのかしら……)
こんな気持ちになったのは初めてでした。
なにか深い因縁を感じさせたほどです。
彼に近寄るだけで、爽やかな、まるで森林の中にいるような雰囲気が感じられます。
オスカー様が私を見て、
「新しく入った娘だね。
プリシラによく教えてもらって、僕においしいお茶を入れてくださいね」
と声をかけてくださいました。
アリスとプリシアは、お互いに微笑んで見詰め合います。
そして、驚いたことに、オスカー様がプリシアに提案しました。
「プリシラ。
今度からは、この新しく入ったメイドの卵ちゃんに、僕の午後のお茶をお願いしたいな。
君、名前はなんていうの?」
アリスはびっくりして、ドギマギしながら答えました。
「ア……アリスです」
「そう、アリス。可愛らしい名前だね。
今度から、僕のティータイムのお供をしてほしい。
僕の好みはね、プリシラに聞いて。
一緒にお茶を飲もう」
そう言うと、また細い指先で羽ペンを掴むと、紙にさらさらと文字を書き始めます。
「ありがとう。もう下がっていいよ」
うつむいたまま、オスカー様はそうおっしゃいました。
それは、ご主人様にとっては、気軽な提案だったのかもしれません。
でも、その言葉が、アリスを生き地獄に叩き込むことになったのです。
その日から、プリシアのアリスに対する態度が激変したのでした。
◆3
「さっそく、お茶を入れてくださるかしら?」
翌朝、いつものように、プリシアが笑顔でアリスに声をかけてきました。
「はい。任せてください」
アリスは茶葉を蒸らせたあと、カップに紅茶を注ぎます。
プリシアはティーカップを手に取り、一口、口に含みました。
いつもなら、「貴女の紅茶は美味しいわね、アリス」と言ってくれます。
ところが、このときから、プリシアから朗らかな笑顔が消えてしまいました。
アリスをキッと睨みつけます。
「なによ、こんなの。
お茶の入れ方が、まるでなってないわ!」
バシャ!
「熱ッ!」
アリスは、熱いお茶を顔面にかけられました。
頬が赤くなって、ヒリヒリします。
「プリシア様……」
アリスは身を震わせ、涙を溜めます。
それでも、容赦なく、平手打ちされました。
バシン!
「アンタのために教えているんだから!
この役立たず!」
憎々し気に、プリシアは、アリスを突き飛ばします。
そして、身を翻しつつ、小さくつぶやきました。
「オスカー様のお茶係りは当分、私がします。
アンタには無理だから。
この泥棒猫が……!」
自室に戻り、アリスは簡素なベッドの上で泣きました。
(プリシア様の機嫌を損ねてしまった……)
傍らに人形のリリアちゃんがいます。
いつも通り、彼女に向かって、今日の一日の出来事を話しました。
いつもとは違って、今日は悲しい内容ばかりでしたが、リリアちゃんに話したら、少しは気が晴れたようでした。
プリシアと違って、リリアちゃんは変わりません。
いつものように、透き通るガラスの眼をキラキラさせて、じっと聴いていてくれます。
さらにその翌朝ーー。
あいにくの曇り空でしたが、アリスはいつも通り、頑張って掃除をしました。
洗濯もします。
お皿も綺麗に洗いました。
夕暮れ時の仕事あがりに、プリシアは、昨日とは打って変わって、優しい表情を見せてねぎらってくれました。
「お疲れ様。お掃除、大変でしたね。
お食事は用意してあるわよ」
テーブルを見たら、ほかほかに湯気が立っています。
じゃがいもの煮転がしと、蒸した鶏肉とサラダでした。
アリスにとっては、十分すぎる食事です。
「こんなに……ありがとうございます!」
「あなたは、しっかり働いてくれるのだから、当然だわ。
これからも雑用、頼むわね。うん?」
急にプリシアの表情が、能面のように凝固しました。
やおら立ち上がると、食器棚にかけてあった銀食器を一皿取り出し、窓から差し込む夕陽に反射させます。
「この銀食器、洗ったのかしら?」
「はい。丁寧に水拭きしました」
アリスは元気に答えましたが、プリシアの表情は冷たいままです。
そして、彼女は、アリスの目の前で湯気を立てていた、美味しそうな料理のお皿を、いきなり取り上げてしまいました。
「銀食器に傷がついてる……こんな傷物にして、ご主人様に見せるわけにはいかないわ。
罰として、お料理は没収します」
「そんな……」
銀食器は、いつも通り、綺麗にしたはず。
アリスが手を伸ばして、銀食器の状態を確認しようとすると、
「触らないで!」
と言って、プリシアはフォークでアリスの手を突き刺したのです。
いきなりの暴力でした。
「きゃあああ!」
フォークの刃先を抜いた穴からは、真っ赤な血がドクドクとあふれてきます。
ナプキンで傷口を押さえますが、流血がしばらく止まりませんでした。
「痛い、痛い、痛い……!」
呻くアリスに、先輩メイドは冷酷に言い放ちます。
「あなたは今日から、食事抜きです。
銀食器が何枚も台無しになりました。
こんな食事なんかでは取り返しのつかない損失を、ご主人様に与えたのです。
本来なら一年は食事ができないと思いなさい」
血が噴き出る手を、もう片方の手で押さえながら、アリスは涙目になりました。
「そんな……!
私、今日はお昼から、何も食べて……」
「そんなこと、知りません。
それから、今までいた部屋は、あなたのような役立たずには贅沢よね。
別の部屋に移ってもらうわ。
来なさい!」
アリスは先輩に、強引に腕を取られました。
そのまま建物の外に出て、カンカンと甲高い金属音をたてて、外付け階段を昇ります。
階段の先には、狭苦しい屋根裏部屋の出入口がありました。
掃除用具が入っている小さな部屋で、人が寝泊まりする部屋ではありません。
ベッドも洗面所もなければ、トイレもありません。
藁を詰めただけの寝所に、おまるが無造作に置かれてあるだけです。
埃まみれの部屋へ、アリスを蹴り込むと、プリシアはつっかえ棒で、床をドンと鳴らしました。
「この部屋はね、言うことを聞かない侍女たちを放りれ込むところよ。
ここでしっかり反省しなさい。
罰として、これから毎日、午後にはこの部屋に入っているように。
明日からも働いてもらうけど、今まで、いかに私から情愛をもらっていたのか、あなたも良く理解し、しっかり噛み締めることね」
部屋の出入口に立つプリシアに、アリスは縋りつきました。
「あぁ……お願いです、プリシア様。
私のリリアをーーリリアを部屋から連れてきてください!
リリアは、私の大切な人形なんです。
私の古くからの友達で、お母さんの……」
プリシアは、アリスの必死の頼みに一切耳を傾けず、バタンと扉を閉めました。
嫌がるアリスを、無理矢理、屋根裏部屋に閉じ込め、外から鍵を掛けたのです。
屋根裏部屋は暗くて、古びていて、ジメジメしていました。
ドアノブには幾つも引っ掻き傷があって、壁紙が剥がれたところには、「助けて」の文字が刻まれています。
そんな中で、アリスは両膝を抱えてひもじさに耐え、ひたすら我慢しました。
それでも、臭気と息苦しさで、何度も気を失いそうになります。
アリスは、みじめな気持ちでいっぱいでした。
リリアちゃんなしの夜は、殊更、寂しいものでした。
それからも、毎日、アリスは働きました。
懸命に、箒で掃いて、床を雑巾で磨き、洗濯物を干しました。
ところが、働いても働いても、アリスは食事をもらえませんでした。
水だけしか、飲ませてもらえません。
それでも、アリスには、さらなる不運が襲いかかります。
箒が折れました。
窓枠が外れました。
陶器の飾り物が、割れてしまいました。
それらを全部、アリスのせいにされてしまいました。
アリスは失敗ばかりを積み重ねる駄目なメイドーーということにされてしまったのです。
これらの「失敗」はみな、アリスには、身に覚えがないことばかりでした。
「また、あなたがダメにしたのね!?」
「それ、私じゃ……」
そう口にするアリスの目の前で、プリシアは、窓辺にある花瓶をトンと押します。
花瓶が床に落ちて、ガシャン! と、盛大に砕け散りました。
呆気に取られるアリスの表情を見て、プリシアはほくそ笑みます。
「あらあら。
また、あなたが割ってしまったのね。
この花瓶は高級なのよ」
「……」
もう我慢できません。
アリスは決意しました。
スカートの裾を握り締めながら、アリスはプリシアに訴えました。
「もう、お仕事、辞めさせてください。
今までのお給料も、いただかなくて結構です」
プリシアは腕を組んだ姿勢で、アリスの前に立ちはだかります。
「ふざけないで!
あなたがダメにしたものが、どれだけだと?
窓も割れちゃったし、花瓶割れちゃったし、銀食器なんか、何枚無駄にしたことか。
あなたはご主人様の資産を破壊したの。
金額に換算すると、一年間はタダ働きしないと元が取れないほどの額になっているの。
あなたが役立たずで、多くの借金を抱えたことを斡旋所に伝えたら、『アリスなんて子は知らない』と言われたわ。
あの斡旋所、自分たちが借金を建て替えるのが、嫌だったみたいね」
「そ、そんな……」
「さぁ、御託を並べてないで、こっちに来なさい!」
アリスは腕を掴まれ、カンカンと音を立てて、外付け階段を昇らされます。
そして、再び、屋根裏部屋の中へと、放り込まれました。
「逃げることは、許さないわ!」
ガチャと、外から鍵をかけます。
今宵も、アリスは、薄暗い部屋に閉じ込められたのでした。
ドアに背中でもたれながら、プリシアは勝ち誇ります。
「ああ、それから、あなたのお気に入りの人形ーーリリアとか言ったっけ?
アレ、かなり高価なものらしいわね。
とりあえず、アレを借金のカタとして、私がいただくわ」
「いやあああ!」
アリスは必死になって、ドアをドンドンと激しく叩きました。
ドアに背を当て、その振動を味わいながら、プリシアはせせら笑います。
以前、フォークで刺した、アリスの手の傷はいまだ癒えていないはず。
それなのに、こんなに力を入れてドアを叩くと、拳から血が滲み出るに決まっています。傷口も膿んでしまうかも。
ーーそう思うと、プリシアの心に、黒い喜びが湧き起こるのでした。
(良い気味だわ、アリス!
私からオスカー様との逢瀬の機会を奪おうとした報いよ!)
◆4
アリスを屋根裏部屋に閉じ込め、プリシアは意気揚々とした足取りで廊下を進みます。
そして、愛しのオスカー•バレンタイン男爵の部屋へと入っていきました。
お茶の時間になったので、ティーポットを手に来訪したのです。
今夜は、オスカー様が、初めから、正面を向いて迎え入れてくれました。
そして、カップを手に紅茶を嗜みながら、少し身を逸らして机の上に視線を向けます。
「これ、可愛い人形だね。
いつの間にかあったんだけど、君が掃除の時に置いてくれたんだろ?」
オスカー男爵が指摘した人形は、アリスがリリアと呼ぶ人形でした。
プリシアは目を丸くします。
(あれ? どうして、この部屋に?)
プリシアは「借金のカタ」と称して、その人形を自分の部屋に持ち込んだはず。
オスカー様のお部屋に持ってきた記憶はありません。
「そういえば、アリスちゃんは?」
罪のない笑顔を浮かべて、ご主人様が問いかけます。
プリシアは少し後ろめたい気持ちになりながらも、平然と言い放ちました。
「あの娘はヘマばかりするので、とてもご主人様に給仕させられませんわ」
「そうなのかい? 利発そうな娘だったのに。
貴族の令嬢あがりだろうと踏んだのだが、意外だな。
ーーまた、メイドの募集をかけるのかい?」
「お手数ですが、よろしくお願い……」
そこまで話した段階で、突然、バタン! と大きな音がしました。
部屋の外からです。
その割には、大きな音でした。
ドアが一枚、丸ごと床に叩き落とされたかのような、大きな音ーー。
「なんだ?」
「なにかしら?」
二人が立ち上がって、様子を窺いに、外へ向かおうとしたときのことでした。
突如として、机の上にあった人形が笑い、語り始めたのです!
『ケラケラ!
良かったわ。復讐すべき相手が目の前に!
さすがは、私のアリスちゃんね!』
振り返って見ると、机の上で座っていたはずの人形が、二本足で立ち上がっていました。
そして、口角が上がり、露骨な笑顔になっています。
本来なら、人形が動き、喋り、笑うはずがありません。
あったとすれば、それは呪いの人形ーー。
オスカーもプリシアも怖くなって、反射的に、人形が立つ机から離れようとします。
結果、二人連れ立って、部屋の外へ出ようとしました。
ところが、ドアを開けた途端、驚くべき光景が目に飛び込んできました。
なんと、そこには、アリスが両手を真っ赤に血に染めて、立っていたのです。
両手の皮がめくれて、血が滴り落ちていました。
「うわっ! アリスちゃん!?
どうしたんだい、その姿は……」
オスカーが驚きの声をあげても、アリスは無表情なままで、反応しません。
意識がないようで、実際に、白眼を剥いていました。
プリシアは怯えてオスカーの身体にしがみつきますが、オスカーは冷静でした。
アリスの様子を間近で観察して、彼は思いました。
ひょっとして、彼女は夢遊病ではないか、と。
本人の意識としては眠ったままで、身体が勝手に活動するーーそういう事例があることを、オスカーは文献で読んだことがあったのです。
とはいえ、さすがに、人形が喋ったり、笑ったりする事例を、文献でも見たことはありませんでしたがーー。
いろいろと思い巡らせながらも、呆然とするオスカーや、怯えるプリシアを無視して、アリスはゆっくりと部屋の中へと入り込みます。
ちょうど、部屋から出ていこうとする二人とは反対方向に進んだのです。
そして、机の上に立つ人形の頭を握り締めました。
このときには、アリスの瞳は赤く、白眼ではありません。
両眼を爛々と輝かせながら、甲高い声を張り上げました。
「ああ、リリアちゃん!
待たせてごめんね。許して!」
そのようにアリスが語りかけると、人形が答えます。
そんなはずはありませんが、たしかにオスカーとプリシアは、アリスと人形が語り合う声を聞いた気がしたのです。
『ううん。悪いのはこの人たち。
アリスちゃんと私を、離ればなれにしたーー』
「そうね。許せないわね」
アリスは振り向きざまに、握り締めた人形の首を、上へと引っ張ります。
すると、首から下は、鋭く尖ったアイスピック状の刺突兵器になっていました。
人形の身体の中に、鋭利な凶器を仕込んでいたのです。
人形の首を手にしたアリスは、赤く瞳を光らせながら、黙っています。
代わりに、人形が、青い瞳を見開いたままに、甲高い声で叫びました。
『よくも、私のアリスちゃんをいじめたわね!』
その声に促され、アリスはバネ仕掛けのオモチャのように空中へと飛び上がります。
そして、逃げようとして、背を向けるオスカーに、ドサッとのしかかります。
それから、アリスはアイスピックを、物凄い勢いで振り下ろしました。
「ギャアアアア!」
オスカーが背中を突き刺され、床へと倒れ込みます。
プリシアは反射的に、オスカーに覆いかぶさって庇いました。
「やめて、やめて!
オスカー様は、何も知らないの!」
そして、目をつむります。
プリシアは勇敢にも、愛する男性と共に、死ぬ覚悟になっていたのです。
ところが、いつまで経っても、身体を突き刺す痛みが感じられません。
プリシアは不思議に思って、ゆっくりと目を開けます。
すると、いつの間にか、自分がドアを背にして立ちすくんでいたのです。
(あれ? 人形は? アリスはーー?)
部屋の中には、自分独りしかいないかのようでした。
でも、足下には血溜まりが広がっています。
しかも、愛するオスカー様がうつ伏せになって倒れていました。
背中に大きな刺し傷があります。
その傷口から、鮮血があふれていました。
そして、自分が手にしているのは、一本の出刃包丁ーー。
「いやあああ!」
プリシアは包丁を投げ出し、オスカーを抱き上げました。
オスカーは白眼を剥いて、口から泡を吹いています。
全身が小刻みに痙攣し、下半身は失禁したせいで尿で濡れていました。
「誰か、助けてーー!」
プリシアの絶叫は、空しく夜空へとこだまするだけでした。
◇◇◇
それから、数日後ーー。
王都の街中にある侍女斡旋所では、イメルダとメル、老侍女のふたりが、額を突き合わせて、ヒソヒソ話をしていました。
「アリスお嬢様は、もう元気に?」
「ええ。『また、いつでも仕事に行けます』って、朝から掃除に精を出しておられます」
「それにしても酷い事件だったわね」
「ほんとよねぇ……」
侍女プリシアが、主人のオスカー・バレンタイン男爵を背中から一突きし、出刃包丁で刺し殺したという大事件に、アリス嬢が巻き込まれてしまったのです。
プリシアは全身、血塗れで、オスカーを抱きかかえた状態で、官憲に発見されました。
プリシアは凶器の出刃包丁を手にしており、どう見ても殺人犯なのに、「人形がご主人様を殺した」とか、「刺したのはアリスだ」とか、言い訳し続けました。
ところが、捜査にあたった官憲の誰ひとりとして、彼女の世迷言には耳を貸しませんでした。
人形が人間を殺すはずがないうえに、もう一人の侍女であったアリスは屋根裏部屋で監禁されていたからです。
外から鍵を掛けられていたので、中から出られるはずがありません。
むしろ、アリスが、先輩侍女のプリシアからいじめられていたに違いない、と誰もが思いました。
それほど、屋根裏部屋は酷い有様だったようです。
現に、「悲鳴が聞こえた」と街の人からの通報を受けて、官憲二名が男爵邸に突入したときには、血塗れの男爵を抱き上げるプリシアと、屋根裏部屋で閉じ込められて泣いていたアリスがいるだけでした。
結局、プリシアは男爵殺しの罪で、即刻、死刑に処されました。
そして、アリスは、身元引受人のイメルダが所属する侍女斡旋所に返されたのです。
大好きな人形を抱きながら微笑むアリスの姿を見て、侍女仲間は安堵したものでした。
なぜだか、斡旋所の所長メルと、古株の老女イメルダのふたりは、
「バレンタイン男爵に神罰が下った。
公爵様の呪いを受けたのよ」
とか、
「これからも、メネシス公爵様を陥れた者どものお家に、アリスお嬢様を派遣しようかしら。
公爵夫人も、それをお望みなのよ」
などと不穏当な発言をしています。
ですが、当のアリスのみならず、侍女のみなは誰も相手にせず、聞き流すだけでした。
最後まで読んでくださって、ありがとうございます。
なお、本作品の続編として、
『元公爵令嬢アリスは、今宵も血濡れた人形を抱えて笑うーー父母が死に絶え、独り残されたアリスは、母の形見の人形と一緒に侍女奉公。そして今宵、復讐すべきは、引き篭もり息子とその母親!正義の鉄槌を喰らえ!』
https://ncode.syosetu.com/n5215kx/
が、ございます。
こちらも楽しんでいただけたら幸いです。