07 前編⑦
ふたりは示しあわすでもなく早朝に準備を整え、ホテルから連絡橋を通って新神戸駅に這入った。リンには二日ぶりだった。晴れわたった空から射しこむ朝陽が、ほこりをちらちらと輝かせていた。ホームにはほかにだれも居なかった。緑の制服を着た男が階段を掃く仕事をしているだけだった。
「ひとつだけ約束して欲しいんだ」
茶色いセータに身を包んだユタが云った。黒いトンネルの奥から、パルス信号のように規則的な走行音が聞こえ始めていた。空気が動いていた。
「もし危険な目に遭ったときは――天秤の片側に心臓を置くような事態になったときは迷わず回避しろ」
旅行鞄を提げたリンは、冷たい空気を飲みこんで云った。
「それは仕事の経験則? それとも個人的な忠告?」
「兄として、友人としてのお願いだ」
「それなら覚えておくよ」
ユタは紙袋をリンに差しだしながら云う。
「きみは無茶をするからな」
「心臓から遠い部位なら構わない?」
「自己判断で」
闇の奥で前照灯がきらめいたかと思うと、すぐに車体が姿を現した。リンは紙袋を受けとる。その重みを感じ、片手に提げた旅行鞄の重量とバランスを取った。
「ジュネーブで情報を提供してくれる人が居る。メールする通りの便に乗ってくれ。落ちあえるように手配しておくから。長い旅になるけど、大丈夫か?」
新幹線の列車はふたりの前にぴたりと停止し、ゲートが音もなく開いてリンを手招いた。
「それなりの助走が必要だからね」
リンは滑らかに移動し、境界線を越えて入り口に立った。そして振りかえる。
「助走?」
「スイング・バイさ」
だれも居ないホームにアナウンスとメロディが流れて、車掌が指さし確認を済ませた。清掃員の男は一瞬ふたりを見たが、またうつむいて仕事に戻った。
「じゃ、アデュー」
「アデュー」
ふたりの間をドアが横切る。まずホーム側のゲートが閉まり、たちまちリンの目の前で横滑りした扉が密閉された。列車はごとりと動きだし、感傷を待たずにユタは視界から消えていった。紙袋を受けとるときに触れた手の感触が、このあともずっとリンに残っていた。
リンは自分の席を探した。珍しいことに車両にはだれも居なかった。通路を進み、紙袋を隣の席において窓際に収まった。肘をついて窓に顔をつけた。しばらくトンネルが続いた。
視界が開けると、外を見た。高速道路の遮音壁が見える。その向こうを走る赤い911を夢想する。
リンは首を伸ばしてもう一度だれも居ないことを確認してから、紙袋の中に手を伸ばした。それを膝の上に置き、おそるおそる触れた。帯電した起毛に触れるようなじわじわとした反発を感じた。そのあたたかさはかつての相棒を思いださせた。ゴールデン・レトリバーのコーラル。その毛並みをまぶたの裏で再生する。リンはこの球体に親しみと愛着を覚え始めていた。ユタという主星から離れ、リンの衛星として回り始めていた。
シューと音がして前方のドアが開き、長細い男が這入ってきた。リンの車両の後方に洗面所と喫煙所が付いているのだ。買った土産でも物色する風情で紙袋をがさがさ音を立て、球体を仕舞った。上にどのようなものにでも見える布をカモフラージュとしてかけた。男はちらっと一瞥したがなにも云わずに後ろへ抜けていった。
リンは携帯をポケットから取りだして自分のデータ・ベースにつないでみた。もしかして、初期のアヌビスの企画書が眠っているかもしれないと考えたからだ。呼び出しにはくらくらするほど時間がかかったが、そのデータはやはりなかった。
多くのものが燃えてリンの前から消えた。書斎のワーク・ステーションも、千歳のサーバも。情報は焚きあげられ、いったいどこに消えてるのだろうか。失われた思い出もどこへ消えるのだろう。そういうものが集まるライブラリのような場所があればいい。そうすれば死んだあとにかならず答え合わせができる。タイムカプセルを開けるように思いだしてゆく。旋律を、色彩を、芳香を。それらは蘇ってくる。ご褒美のようなものだ。
とりとめのない考えを、風景を見ながら続けていた。駅に止まり、大勢が乗りこんできて空間は人の吐息で満たされた。リンは紙袋を足許に動かして、旅行鞄から本を出して読んだ。
上野駅に着くと、一通目のメールがユタから届いているのに気がついた。名前と、ただ行き先と時間だけが記された掲示板への書き残しのようにシンプルなメール。簡素な奴め。リンは切符を買い、そばを食べた。そして発車時刻が来て、さらに北上する列車に乗りこんだ。
内臓があたたまったリンはしばらく眠りこんだ。カートを押してくる車内販売の声で目を覚まし、反射的に足許に置いた紙袋を開いた。布を剥ぐと、そこには寝ているのか起きているのかよく分からない球体があった。リンは安堵の息を吐き、チョコレートを購入した。
どんよりした景色の中、ところどころ雲の捌けた遠景に頭を白くした山が見えた。北に向かうにつれ空気は白い。山の植物が変わる。本を開き、焦点だけを文字に合わせていたリンは、かたわらに少年が立っていることにふいに気がついた。
「神奈備さんですか?」
リンは本を閉じた。
「そうだけど」
「サインしてもらえませんか?」
そう云って、すらりとした姿態の少年は、少し首を傾けて銀色の箱を差しだした。それはリンが昔に作って売った製品だった。
「ペンある?」
「はい、これで」
少年は黒いサインペンを出した。リンはキャップを外し、装置の裏側の平らなところ(構造も成分も自分でよく理解している)に走り書きをした。
「ほら」
「ありがとうございます」
少年のほうに向けて渡してやった。するとあまり表情を変えないまま、頭を下げた。
「それ、ぼくも持ってます」
少年は本を指した。
「そう。まだ全部読んでないんだけどね」
「ぜひ読んでください。大好きな小説です」
聡明そうに歯を見せて笑い、少年は去っていった。懐かしいな、とリンは思った。
ナヤと、同じように新神戸から列車に乗った。ゲーム・ショウに向かっていた。近くの席に著名なプログラマが座っていて、ナヤはどうにも我慢できやらぬという表情で(たいへん珍しいことだ)サインを求めた。その人は亡くなったが、後年会ったときにもその出来事を覚えていて、なぜだかリンに一杯おごってくれた。
北海道に上陸し、景観が刷新された。山肌にからからに乾いた木々が突き刺さっているみたいな冬だった。ここには鬱蒼たる森が必要な妖怪や神は隠れられない。驚異的な野生の動物や精霊だけが息づいている。乾燥し、寒々しい。そういう世界。ナヤが放出するノスタルジーには、いつもこういう背景が見えていた。
リンはチョコレートを食べてしまった。紅の西の空が浮かんでいた。車内は暖炉を焚いたようにあたたかく、人々は気だるさと安堵が入りまじった息をしていた。一日が終わろうとしていた。札幌が近づいていた。
二通目のメールが届いていた。ユタは今東海道あたりを走っているだろうか。文面に示された次の便までは多少の時間があった。リンは改札を出た。
駅ビルに這入り、着替えと、タオルと、歯ブラシと、化粧水と、イヤ・ホンを買った。デパートで好物のレーズン・サンドを購入した。コートにマフラーと帽子、手袋もそろえた。スポーツ店にゆき、バレー・ボールのバッグを見繕った。トイレに入り、買ったタオルを一枚使って球体を包んでやり移しかえる。思った通りのサイズだった。紙袋より安定感があって居心地が良さそうだ。空いた紙袋に使った肌着や不必要なものを入れ、ごみ箱にねじ込んだ。
ビルの外に出て、空を見上げた。あの日と似たような紅い雲が低く移ろっていた。神戸より空気は鋭い。ついため息が出た。リンはデパートに戻り、比較的しっかりと夕食を済ませた。おそらく満足のいく最後の食事になるからだ。重箱の隅まで食べ尽くして店を出た。そして銀行で通過する国々の外貨を手に入れた。
JRの閑散とした一番端のホームで、たった今入線してきたばかりの夜行列車に乗りこんだ。
廊下も、自分の部屋も、気の利いた温度に調整されていた。上着をフックに投げ、向かい合わせになったソファの片側にボール・バッグをうやうやしく軟着陸させた。荷物はとりあえず床に置き、赤いひだになったカーテンを開けた。
向こうのプラット・ホームにひしめく人の姿が見えた。列に並び、あるいは歩きまわり、家に帰ろうとしている。あるいは、これから出かけてゆく者も居るかもしれない。しかしほとんどがリンほど遠くへは征かないだろう。これまでどおりの生活を送り、世間の中で変わるものと変わらないものを見分けられる定点で暮らす。その未来はとても尊いものに見えた。じきに列車の発車ベルが鳴りひびく。前にユタとふたりで乗ったときは、こんなふうに考えることもなかったな。ただ時間の流れに身を任せ、ふたりの人間の境をゆき来するセッションに身を任せていた。ひとりとは、こういうものか。しかし目の前のソファには物云わぬ球体が座っていた。リンはじっと正視されているように感じた。月が地上を監視するように、リンは見られていた。窓の外が動きはじめた。列車はゆっくりと光の中から、夜の闇のレールの上へとすべり出した。札幌の街を離れてゆく。遠く山のふもとに一群の光が見えた。その中に沈んだシルエットのどれかが、リンの家だ。あの家の明かりを灯せるのはいつになるだろうか。街は山の陰に隠れ、光源は赤い半月だけになった。リンはふと身震いした。目の前のこれを元に戻すというのは、人間になるということか。それはかなり奇妙な光景に思えた。
前編・了




