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惑星魔導  作者: 西岡くじら
幕間:出立者達《デパーチャーズ》
6/8

06 前編⑥

 山道が反対に流れすぎていった。帰りもユタが運転し、ふたりは無言で椅子に座っていた。ユタがつけたラジオからNHKのドラマの音声が細々と聞こえていた。

 ユタの云うように今のあたしが不完全な片割れだとすれば。

 実際ナヤと別れるまでリンの激情はそれほど問題にはならなかった。ナヤに声を荒げることなど一度もなかったし、おおむね穏便に事業を軌道へ乗せた。記憶のステンドに保存されたあのころの細微な輝きは、そういう穏やかな温度で精製されたガラスならではの美しさなのかもしれない。

 リンは、流れさる漆黒の樹木を見ながら嘆息した。

 もういいじゃないか。

 記憶の書斎には、シューマンの『子供の情景』の泣きそうになる美しい旋律が回転している。紅茶の香り。窓にはいくつかの重要なシーンを象ったステンド・グラス。ナヤのために買ったワーク・ステーションが排気する音。例の本の背表紙が、西洋画のアトリビュートのように本棚の一画から意味を主張している。

 もしあたしの心がすり切れたとしても、ついぞ心から水がはけなかったとしても、この箱庭を抱えて死ねるならそれほど美しいことはないだろう。だれとも安全な距離を確保し、ひとりで生きると決め、好きに世界を旅して、好きなときに眠り、好きなときに本を読む。読み終わるときが、旅の終わりだ。そしてあたしは永久の旅に出る。あの本を携えて。

 しかし……。

 ラジオから子供の情景の第七曲『トロイメライ』が流れてくるのを聞いた。父が好きだった部分だ。ドラマは終わったらしかった。そしてリンは自らの中に沈溺していった。


 ホテルの駐車場で揺りおこされてリンは目を覚ました。

「部屋がとれたのでここに泊まるよ」

「どこ……」

「きみは?」

「三十六エフ」

「ならぼくがひとつ下だな、行こう」

 ユタはシートを倒して、後部座席から紙袋を取った。リンが膝に載せていた球を渡し、ユタはその中に仕舞った。

 リンはここのところすぐに眠くなってしまう自分に気がついていた。なにか悪いのか。それとも、ただこれほど混沌としてしまったこの世との関係を切りたいのか。

 リンはダッシュ・ボードに置いていたポーチの肩紐を引っぱった。中身がこぼれ出て足許に散らばった。本がコンクリートの地面から見上げてくる。まるで死者の国へ手招きする扉のようだった。

 リンは部屋に戻るとシャワーを浴びた。ここを出たときとは世界の捉え方が変わってしまっていて、その部屋がすでに懐かしく思えたほどだ。頭頂から熱い液体が冷たくなりながら足先に到達することを感じた。頭から血を流すナヤの顔が、鏡に映りこむ自分にオーバ・ラップした。ナヤは今どこに居るのだろう。汚れを落とし、身体をあたためる機会に恵まれているだろうか。怪我を癒やし、あの球を人に戻す方法を見つけたろうか。

 リンは顔に水を浴びて、その考えから離脱して浴室を出る。

 持ってきたポロシャツに着替えを済ませ、カーテンを開けて窓を見た。冷たいガラスに近づいて額をつけた。自分の像が邪魔をするのだ。雨は斜めに降り、そこに存在するはずの神戸は不確かにぼやけていた。見えなければないものと同じだ。届かなければナヤも居ないのと同じだ。ナヤがいないという状況は昨日から変わっていない。ただ、真実を知ってしまったという違い。それだけの、微々たる差異。

 ドアがノックされてリンの思考は部屋に引き戻される。玄関へのやわらかい絨毯の上を歩いてゆき、扉を開けてユタを招きいれた。

「早すぎなかったかな」

「全然」

 ひとりで来たようだった。ふと、この瞬間から世界がリセットされればいいのに、とリンは感じた。

 ふたりはベッド・ルームと続き間になっている部屋で、木目の長方形の天板に黒い編み込みのマットが敷かれたダイニング・テーブルに向かい合って座った。ユタは鶏の蒸し焼きを注文し、リンは魚料理を食べた。シンプルなコンソメのスープがおいしいというふたりの意見は一致した。

 リンは食後のティーを淹れに併設された簡易的なキッチンに立った。湯が沸くのを待つあいだ、部屋の豊かな光を眺めた。窓際のソファ・セットにユタが座っていて、外を見ている顔がガラスに映っていた。まず茶器に湯を入れしばらくあたためると、ポットにティー・バッグを入れ、もう一度ぐらぐらに沸騰させた湯を流しこんだ。電子レンジでワインをあたためておいた。ユタがミルクと砂糖を必要としないことは知っている。トレーに茶器一式とワインを載せ、ソファに向かった。ユタが鏡越しに気がついてテーブルの上を空けた。

 ワインを紅茶に注ぐさまをユタに見せたかった。はじめてそれをやって見せたとき、珍しがりながらもずいぶん喜んでくれたからだ。ナヤの田舎の祖母が好んだ飲みかただと聞いたが、リンもこの味にたいへん親しみを覚えてずっと続けている。

「懐かしいじゃないか」

 ユタは云って、うまそうに飲んだ。ソファに絵のモデルのようにもたれ、リンも紅茶を飲んだ。アルコールを含んだ湯気の向こうのユタは、数年前からまったく変わっていないように見えた。

「ねえ、ユタはどこに帰るの」

 リンはたずねた。

「札幌にセーフ・ハウスがあるのは知ってるだろ? あの乗馬クラブの裏の……」

「いつ?」

「……明日の朝、きみを送ってから帰りたいね」

 ユタはまたあの影の深い表情をした。

「あたしも連れてゆけばいい。車の運転も大変なんだから」

 まさか自分がそのようなことを云いだすとは、リンは考えもしなかった。少なからず驚きながらも、内耳には札幌から発つ列車の別れを告げる汽笛が鳴りひびく。そうだ、それもいいアイデアじゃないか。

「あのときのようにまた旅に出ない? ヨーロッパを好きに回る旅だよ。ユタはこの際仕事からきっぱり足を洗って、死んだことにすればいい。できないこともないでしょう。整形をして、パスポートも新しくする。わたしはひとりでも行動できる。負担にはならないはず。帰りの列車はない。いつも行き先だけがある。そういう旅だよ」

 ユタは紅茶のカップを置いて、手を組んで聞いていた。リンはその冷たい目にいくばくか勢いをそがれたが、話を続けた。

「ねえ……失ったものを追いもとめても、その空白は広がるだけだよ。わたしたちは喪失の価値を知っている。ないものにすがるより、抱えているものを分けあったほうがきっといい」

 ユタはその意見を一度自分の中に取りこんで云った。

「きみは前提をすりかえようとしているよ。だって、だれも死んでいないんだから」

「だけど、喪失は喪失でしょう。あなたの妹は喋らない。ナヤは……もうここには居ない」

「まだ続いているんだ」

 部屋がしんとして、リンはどこにもすがるものがなかった。リンは吹きさらされていた。ソファの肘かけにぐっとつかまった。

「ナヤから逃げるな」

「逃げてない」

「ぼくに逃げている」

 ユタはソファを立ちあがった。

「たとえばもしこれからきみを抱きたいと云えば、きっと拒絶しないだろう」

 リンは心臓が飛びでるかと思った。しかしそれを悟られないように飲みくだして云った。

「そうしたい?」

「ほら……昔は、あれほどぼくは受けいれられなかったのにな。きみはまだあのときなにかを守りたがっていた。だからぼくらは、ひとつの心を見つけられなかった」

 なんということを云ったのだとリンは自覚した。その後悔は一生のうちで指折り数えられる、どうしようもないタイプのものだと直感的に気がついた。ユタを傷つけた罪悪感と、図星を指された気恥ずかしさで口をきけなくなった。ユタは自分のカップをキッチンに運んでいった。

「きみは変化したものから目を背けている」

 水を流しながら云う。

「きみが恐れているのは失うことじゃない。変化だ。変わったルーベングレンを見たくないんだ。だから死んだままにしておきたい。会いたくない。でもそうやって逃げていては、人は懐かしさと癒着してゆく。魂を過去へ売りわたしている。それを買いもどすにはそれなりの代償が必要だ。いつだって世界はそうだ。重要な物事であるほど、負荷も代償も大きい」

 ユタは水を止め、手を拭いた。

「きみにはまだ彼女とやらなければならないことがあるんじゃないか? ルーベングレンは死ななかった。そこに意味があるとぼくは思うよ」

 ガラスのポットに入った紅い液体をリンは眺めた。波紋が水面に広がり、内部は蒸気で曇っている。ユタはリンのすぐそばまでやってきた。

「ルーベングレンを止められるのも、きみしか居ない」

「止める?」

 ユタを見られずに云った。

「アヌビスを不当なかたちで失った彼女たちがいつまでもなにもせずいるだろうか。きみたちは地中の菌糸でつながった森の樹々だ。同じ土壌で同じ過去を共有している。ナヤがアヌビスを作った本当の理由って、いったいなんだったんだ?」

 リンはその質問には答えられなかった。答えてはならなかった。それがリンの守っているもののひとつだった。ユタは黙って部屋から出ていった。

 隣のベッド・ルームもキッチンも明かりが落ち、窓の外も暗い。リンは孤独の中にひとり生きている心細い思いをした。

 欠落していることがある。

 いつもそれがなにか分からなかった。

 しかしたしかに欠けているのだ。

 触れればへこんでいて、それが判る。

 そういう欠落は人にみなあるものだと自分に云いきかせてきた。

 しかし、ユタが云うように。

 それがナヤが離れていった痕というものかもしれない。

 そこから、水が這入ってきているのかもしれない。

 リンはポロシャツのままベッドに横になった。無意識に()()()()()()で電気を消した。反応がないことに気づいて、ふたたび立ちあがってスイッチのところまで歩いた。

 暗くなった部屋でベッドに戻って横たわり、自分の体温でシーツがあたたかくなっていくことを感じていた。部屋は寒く、雨の音がわずかに染みこんできていた。ぶーんと換気扇かなにかの音がそこに混ざっていた。キッチンから小さな青い明かりが漏れていた。

 ふいに、広いベッドの隣にナヤが現れた。肉体というシステムから熱の放射が伝わってきて、シーツという時空の面はナヤの質量で沈みこんだ。リンという天体はナヤの中に落下してゆく。同時にナヤという天体がリンの中に落下してゆく。ふたりはそのままぶつかり終局を迎えるかに思えたが、ぎりぎりのところをすれ違い、そして互いにその距離を増す。ある点まで離れきったところでまた近づき、すれ違い、離れ。今度は反対方向から近づき、すれ違い、離れた。それを何度も繰りかえし連星としての安定をふたりは求めあい、そして果てにはゆったりとした軌道運動をとるに至った。もう遠く離れた場所からでは、重なりあってひとつの熱い輝きに見えていた。しかしその安寧はずっとは続かなかった。多くのボヤージュがそうであるように続くことを許されず、終止し、離脱せねばならなかった。近傍を通りかかったより巨大な重力源が連星を引きちぎった。ナヤはその星団に奪われ、ベッドの上にはあたたかさをはぎ取られたリンだけが残された。

 意識がはっきりと像を結ぶことを感じ、リンは横になったまま窓の外を見る。

 雨が上がり、神戸のひそやかな夜景と大阪湾の弧状の光が見えた。星は見えなかった。雲のシャッタが開き、月明かりが部屋に入った。リンは火照った重い身体を引きずってベッドのへりに腰かけ、その池の中に足をつけた。

 ときを経て今、星団はふたたびリンの近くを通りかかっていた。ここで飛び乗らなければ、また十年。天体のサイクルとはそういうものだ。

 リンはベッドから足をぶらぶらと揺らした。自らの歩いてきた道のりを確かめ、これまでの人生を攪拌するように。ナヤが十年を別の星系で生きぬいたように、留まった自分もやれるだけのことをやった。ああ、そうだね……。物事が変わってゆくのは古くなったからじゃないんだ。あたしも変わったからなんだ。リンはふとそう思いいたった。

 あの本を返さなければならない。

 そして、この欠落を埋めるものを探さなくてはならない。

 もしあの日の出来事がすこしでも違っていたなら、この機会はあたしの死角を素通りしてしまっただろう。ナヤが帰らぬ人になっていたのなら、あるいはあの場所にユタが居なかったのなら、そして彼の妹があの姿になっていなかったのなら。本を返し、ナヤとふたたびかみ合わなくちゃならない。リンは月明かりの池の中に両足を浸し、ゆっくりと立ちあがった。心の水はまだ音を立ててリンに伴ってくる。六甲の裾野を風が吹きすさんだ。空間に露出した新神戸オリエンタルの剣のように屹立する高層建築が、人の耳には聞こえぬ低周波でなにかを唸っていた。

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