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惑星魔導  作者: 西岡くじら
幕間:出立者達《デパーチャーズ》
5/8

05 前編⑤

 池の方からマツの巨木が迫り、森からは照葉樹がせり出している樹木のアーチの下をふたりは歩いた。じきに公園の入り口が電灯に照らされているのが見えてきた。リンは腕の中に球体を抱えていた。それはずっと浮いてはいられないようだった。

「ぬくいだろ?」

 ユタが聞いた。

「生き物の体温だね」

 池のほとりに出ると、ユタが傘を差し、リンはその中に身を寄せて入った。啾々と降る雨が地面を泥濘化していた。一歩のたび靴底がとられ、重力が増したように重い。ユタの足取りは池に浮く東屋を目指していた。ふたりは湿り気でそのままひとつに溶けあってしまうのではないかというほど肩を寄せあい、足並みを揃え、橋を進んだ。吐息が白く闇に溶けていった。

「ロマンチストだよね」

 ユタが傘についた水をふるい落としていた。リンは薄明かりの中、湿ったベンチに腰かけて云った。傘の留め紐を丁寧にまとめながら、ユタも明かりの中に這入ってきた。ランプの波立ったシェードが、時空間のゆがみのような模様を彼の顔に当てていた。それは一度も見たことのない表情を照らし出していた。

「今日、リンに会えてよかったよ」

「え?」

 リンはどういう意味か分からず問いかえした。

「きみに頼みたいことがある」

 云って、ユタは正面のベンチに腰かけ、東屋の外の水面を眺めた。

「どこから話せばいいかな」

「話しやすいところからでいいよ」

「うん。実は千歳の事故の日、センタに居たんだ」

「ユタが? なぜ?」

「メイン・フレームの定期監査に。民間のサービスとはいえ、国家レベルの運用をとりまとめているのは電府委だからね」

 これは国連内の組織、電子政府委員会の略称で、電府で中国語のアヌビスの意味でもある。

「日本の警察は、防災システムの不具合によってルーベングレンが施設内に閉じこめられたと発表しているけど、あの日ぼくはセンタの防火扉を開けた。ルーベングレンは生きている」

 リンは時間がどろりと流れるのを感じた。

 背筋が硬直し、ゼラチンのような息を飲んだ。それは身体に良くない衝撃だった。

「……ナヤが逃げるのを見たの」

 リンはかろうじて問うた。ユタは真剣な目つきで身体を前傾姿勢にし、手を組んだ上に顎を載せて語り始めた。

「あの夜、大ぶりの拳銃を持った長身の女が警備室のドアを蹴りやぶって入ってきた。彼女は全員に手を上げるように云い、ぼくとひとりの技術者に向かって、サーバ室の扉を開けるようにと脅した。ひどく逼迫した雰囲気だった。ぼくは扉の前の制御盤まで技術者と走った。ぼくよりも上背のある軍人らしきその女が後ろを付いてきていた。扉の前に着くと、非常用のハンドルを使って手動でドアを上げた。すでに外周の柱が爆破されて火災が広がっている最中のことで、廊下中スプリンクラが水を撒いていたけど、蒸し風呂のように熱くなっていた」

「ちょっと待って。爆破ってなに?」

 ユタはそこでため息を吐いた。合図のようなものだった。

「だれにも云わないか」

「保証はできない」

「まあ、きっとだれも取りあわないよ。冗談だって云うだろう。あの夜、この日本にあって組織的な戦闘があったんだ。火災事故なんかじゃない。今回の事実は、われわれにとって隠さなければならないケースなんだ」

 リンはことばを失った。マツの森が炎に照らされ、暗がりの森に火薬の炸裂がこだまし、自らの視界からアヌビスが消えた。あの赤い雲の下、人の火が燃えていたのか。

「ドアが上がりきる前に轟音がして、ぼくらの足許に中から破片が飛びちってきた。女が先に鋼鉄の扉をくぐり抜けて部屋に這入った。技術者は腰を抜かして、黄色いヘルメットを被った頭を抱えてうずくまっていた。ぼくも護身用の拳銃をジャケットの内側から取りだして、サーバ・ルームに這入った。ルーベングレンは片腕に傷を負ったようで、女が応急処置をしていた。冷却設備に通じる廊下に面した壁が崩れていて、その通路の壁も爆破されて外が見えた。屋根が落ちてきて、穴は一瞬にして炎に包まれた。女がなにか叫んで部屋から出たので、ぼくも技術者を抱きおこして廊下を走った。ルーベングレンの服が赤く染まっていて、床に血が滴っていた。外に出るとふたりが車に乗ろうとしていた。ぼくはとっさに銃を向けて制止した。ぼくらは5メートルくらいの距離に居たけど、すでに全体に回った火のものすごい音で、声を張らないと意思疎通も難しかった。戦闘服に身を包んだ女は、冷徹な目でぼくを射止めた。覆面をしていたから顔貌は分からないが、猛禽のような目だった。背後でなにかが崩れる音がしてぼくは我に返り、所属はどこかと叫んだ。女はこう云った――今日この場に居る人間は全て、あなたの同僚よ――と」

 リンは、ユタの茶色の目を見つめた。話されたことを反芻していた。ユタは国連に所属する分析官だった。

「……暴力が必要なほどの対立?」

「国家権力が介入しづらいアヌビスの分散主義を嫌う国は多い」分散主義とは特定の中心となるサーバを持たずに、複数のサーバにデータや権限を分散する方法のことだ。「それこそがルーベングレンの設計思想なんだけどね。委員会としては、自ら管制する中央集権型システムが理想というのが本音だ。とはいえ、まさかここまでする急進的な人間が内部に潜んでいたとは思わなかった」

「それで? ナヤとは話したの?」

 ユタはリンと球体を交互に見た。

「ああ……、ぼくは森に向かって車が去ってゆくのをただ茫然と見ていたが、それが草原の途中で急停止したので、追いかけて走りよった。ルーベングレンが芝生の上に降りてきて、ぼくらは相対した。彼女は頭からも血を流していて、後ろで燃える建物の炎を顔に映して、凄絶な表情だった。ルーベングレンが抱えていたのは妹だ。彼女の胸の中で、何年も前に行方不明になったきりだった妹は光っていた。ぼくは不思議とそれに魂が持つ独特の震えを感じとり、まったく恐怖を抱かなかった。妹は水が移動するようにスムースにルーベングレンの腕からぼくの腕の中に渡った。ぼくはそこが事件の現場であることを忘れて、感慨深い痺れのようなものを胸に感じていた。よろしくお願いします、と云う彼女の声で現実に浮かび上がってきたら、もうすでに彼女は踵を返していて、そして車に乗りこんでいった。車は森の闇に消え、背後で建物が倒壊する轟音が聞こえた。道路から消防車が入ってきたのが見えた。それがルーベングレンを見た最後だ」

 折に触れて雨が強くなり、今にも世界を洗いながさんばかりに降ってきた。

 リンの心の水は未だ音を立てて揺れていた。ナヤのことを話す度に悪さをし始める。思いかえせば、ナヤが書斎から立ちさったあの日からこの水の冷たさは始まっていたのかもしれない。喪失の距離が増えるごと心の隙間は広さを増し、どこからともなく水が流れこむ。そうして埋まった仮初めの空間は、無意味な冷たい重しでしかない。ナヤが死んで、もうこれ以上つらくなることはなくなる。終わったのだと思っていたのに。ナヤとの距離は、今も広がり続けているのか。

 ユタが顔を手で覆った。突然のことでリンは驚いた。

「妹は、それは生きているのか?」

 ユタは震えていた。そういう姿を見るのは初めてだった。ユタの膝に手を触れると、ユタはその手を熱烈に掴んだ。リンはユタの隣に移動して座った。そして、ただ強く握りかえすことしかできなかった。

 こういうとき、なんと声をかけていいのか分からない。リンはそういう自分がひどく憎くらしくなった。いつもは、そんな感情、すぐに捨てさってしまえるのに。ライトに照らされた池の水面を、雨粒が錯乱しているのが見えた。濡れた靴がどんどん体温を奪っていて寒い。リンはまたイギリスの旅を思いだした。雨に降られたあたしたちは、全身ずぶ濡れになって宿に戻り、濡れた服を全部脱いでヒータの上にかけ、熱いシャワーを交代で浴びた。そうだ。あのときユタは順番を譲ったから風邪を引いたんだ。

 おもむろにユタが身体を起こし、ポケットから煙草とライタを取りだした。リンはさっとライタを受けとって火を点けてやった。そんなことしかできなかった。ユタはひと息吸うと、リンの膝の上にある球の表面を愛おしげな手つきで触れた。

「ここにこの子の体温がある。だからまだ生きているんだ」

 リンは球を抱きあげ、ユタの膝に渡した。

「これはきっと脳なんだ。大きさ、重さ……」

 ユタは刻印するようにそれをじっと見た。

「長いこと会えていなかった。気持ちとしては居なくなってしまったことに慣れきっていたはずだ。それなのにもう戻ってはこない過去を夢見て、残像にすがりつく」

 ユタは煙草をふかした。紫煙が森の霧と一緒になっていった。

「しかしぼくらは未来を見なければならない。今残っているものを失わないために。なあリン。妹と一緒にルーベングレンを追ってくれないか」

 ふいに雨が止み、風が凪ぐ。例の気圧の気まぐれの中にふたりはたたずむ。刹那のしじま。悠久の真空。

「ナヤは、あたしの中ではもう失われたもののひとつなんだ。取りもどそうとすればかえって離れてゆく。その距離を目の当たりにして空しくなるだけだ」

「そうか……」

 指揮者の呼吸のように、また森は雨を奏でた。リンは顔にかかったしぶきを拭いながら云った。

「ナヤがどこに行ったのか知ってるの?」

「ジュネーブ。妹を戻す術を探すと云っていた」

「ねえ、なんでユタが行かないの?」

「ぼくはあそこに戻ること自体が危険なんだ。命令で赴いた先で戦闘に巻きこまれた。ぼくの安全が度外視されていたということは、死ぬこともプランに入っていたということだからね。それより……」

 ユタは身体をねじり、リンを見据えた。その目は緑色で、歯車のような虹彩の奥行きまでがはっきり見えた。

「きみはいつまでも宙ぶらりんで生きていてはいけない。知らなければならないよ、ルーベングレンがなにをしてきて、これからなにをしようとしているのかを。なぜなら、きみが本質的に彼女の伴侶だからであり、きみたちは互いにとって欠けたピースだからだ。かみ合うべき場所にはまっていなければ、空間に露出した部分はだれかを傷つける鋭利な凶器になる。それはルーベングレンとて同じだ。彼女もまた、なにかしらを傷つけようとしている。それを止め、ぴったりとかみ合わなければ、君たちはいずれ摩耗し、あとかたもなく崩れさることになる」

 ユタの目は、この世を物語る予言者の目だった。ユタは妹をリンの膝の上に再び載せてきた。

 森のざわめきと共振して、リンの心もぐらりと揺れた。

「考えさせて欲しい」

 ただそう云うことしかできなかった。

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