04 前編④
車はポート・アイランドから離れ、本土に上陸した。にわかに激しい雨が降りはじめ、瞬く間に世界を覆う。三宮駅の高架の下を抜け、フラワー・ロードを山に向かうと、じきに新神戸オリエンタル・ホテルの威容がそびえてきた。ユタはウインカを灯して車寄せまで入って行った。
ホテルのきらびやかなロビーの明かりの中で、ゆっくりと人がゆき来しているのが見えた。リンは席に座ったまま云った。
「ありがとう。じゃあ元気で」
ユタはポケットの煙草に手を伸ばしたが、最上点に到達した振り子のように静止して云った。
「もう少し話せないか?」
リンはフロントの窓を伝う水滴を目で追いながら答えた。
「どんなことを?」
「きみの今後のこと」
「それは、だれにも分からないよ」
リンはユタの骨張った顔を見た。オレンジの明かりが顔を照らしていた。年齢の分だけの細かい皺を如実にしていた。ユタは腕を組んで云った。
「見せたいものがある」
リア・シートを一瞥した。リンもつられて後ろを見た。そこには大判の紙袋が置いてあった。
「これについて、知りたくならないか?」
リンはため息を吐いた。エレキ・ギターのひずんだ音色を聞いたときのように琴線が震えた。汚い手を使う。あたしという人間を熟知していやがる。そうだ、そういう男だったじゃない。
手に持ったポーチをダッシュ・ボードに投げだした。
「出して。雨の山道とダンスが踊れるなら」
「してみせるよ」
北野坂を赤いポルシェ・911が駆けあがる。坂の途中で左に曲がり、斜面と平行に西洋風の建築の間を通りすぎる。北野の町を離れると今度は右手に見えてきた森に入り、無数の円の滑り止めが刻まれたきつい勾配の付いたカーブをなぞった。オレンジの電灯が散発的に灯る細いトンネルを抜けると、曲がりくねった山道が目の前に現れた。日は沈んでいないのに、霧が立ちこめ、夜中のように暗い道だった。
ユタは直線になるとギアを上げてアクセルを踏みこみ、曲がり角に差しかかるとギアを下げ、集中してハンドルを操った。リンは身体を揺すられながら、いつかふたりで行った湖水地方の旅のことを思いだしていた。
「巨大なソーセージの料理を食べたあと、日が暮れるにはまだ早かったから散歩に出た。おかみさんの紅茶を断ってね。あのときのおかみさんの顔、覚えてる? この世に紅茶を断る人間が居るんだって、あの日まで知らなかったんだよ。かわいそうなおかみさん。あたしがどうしても日が暮れる前に外を歩きたかったから」
「紅茶は取っておいてもらったんだよ。冷めるからって文句を云われたけどね」
「そうだっけ? あたしたちはサロンから出て、バック・ガーデンを抜けた。木戸を開けて小径に出ると、ずっと轍が続いていて、その先に池があって、ちょっと離れたところで森の木々がこの先に進んでも構わないのか、みたいな中途半端な風情で途切れていた。遠くに馬か牛かが草を食んでた。羊だったかもね。強い風が出て、じきに雨も降ってきた」
ユタはヘアピン・カーブで翻りながら云った。
「で、土砂降りになって、ぼくは熱を出したと」
「すぐに止んだから、紅茶を飲んでから行けば良かったんだって怒ったけど、おかみさん、薬草茶作ってくれたよ」
紅茶を飲みたくなったので、リンは展望台のスタンドに寄るよう頼んだ。
あのときの病の原因を、宿の女店主は悪魔だか妖精だかに求めていた。リンが天気だと主張しても、この土地では彼らの働きがある、と一点張りだった。
ふたりは同じ傘に入り、長い階段を登った。ユタはスラックスの裾を水浸しにし、リンも靴の中に這入ってくる水を感じた。この水分子を通じて今自分が大地や天空と接続されていると思うと、おかしな気分になった。階段を登りきって稜線を越えると、都市の明かりに霞んだ下界が見えた。ビルディングの屋上で光っているであろう赤いランプが唐辛子のように空間を装飾していた。それだけがかろうじて展望と呼べるものだった。店に入り、常には夜景の見えるはずの窓際のスタンディング・テーブルに行ってあたたかい紅茶を飲んだ。ユタは目頭を強く押して云った。
「目が疲れたよ」
奥のレストランで、バンドがギル・エヴァンスのジャズを小編成で演奏していた。リンはテーブルに頬杖をついて云った。
「それで? あれの中身って?」
揺らぐろうそくの向こうでユタはおもむろに目を開けた。
「公園まで行こう。あの池のある」
階段を降りて車に乗りこむと、ユタはまたぞろ曲がりくねる夜道でシフト・レバとハンドルに腕を回し、三つのペダルの間を規定されたステップで行き来した。リンは助手席を傾けて身を投げだし、あの旅行で回った場所を思いだしていた。ユタの提案で古城や、古代の石の円列を主に巡ったが、リンの回想は、小雨の中歩いた放牧地にしつらえられた小径や、毎日十五時の熱い紅茶や、皿に山盛りになったビスケットといったもののほうが鮮やかだった。
思い出を飴玉のように転がしていると、にわかに車が速度を落とし、山道から一転して平らな土地に入っていった。
道の両側に広場や池が見えてきた。高原の公園。ユタはこぢんまりとした谷の中にある駐車場に車を停め、外に出た。リンも続いた。幾重の木々が傘になって雨は届かなかった。
「なあ、リン。これから話すことを信じてもらえるかな」
リンは車の屋根越しに、眠りから覚めた母親のように云った。
「まあ、そうしてあげてもいいよ」
ユタはリア・シートに身体を突っこんだ。リンはその間にユタの側に回った。外灯が丸く霧を照らしていた。谷の奥まで続く駐車場には、似たような球体がずっと続いていた。
その光を浴びながら、ユタは布の包みを抱いて出てきた。ぱらぱらと頭上から音が聞こえてきた。
「これを見てくれ」
ユタは布を取り、それをリンに見えるようにした。
そこには真白い球体があった。
白色矮星に似た薄い輝きだった。
そして海獣のようにしなやかに照る表皮をしていた。
それは沈んだ船から引きあげられた宝石のように、王墓から出土した千古の芸術品のようにエキゾチックな雰囲気を醸していた。
そのときだった。それはあろうことかユタの手を離れ、
じわりと、浮きあがっていた。
灯籠が天へ向かうように重力を感じさせず、それでいて生き物が首をもたげるように自然な動きだった。
リンは驚き、習慣的に視覚からアヌビスを非表示にしようとした。しかし、五感に幻覚を流しこむアヌビスの機能は作動していないことを思いだした。幻が浮いているように見せたわけではないのだ。
「はあ……。どうなってるの」
リンは驚嘆して云った。ユタが球の上下左右に手をかざした。赤い車体をバックに、白い輝きが月のごとくしめやかに浮かんでいた。
「触っても……」
リンが両手を差しだし、ゆっくり近づけると、ほのかにあたたかさを手のひらに感じた。それはじりじりとした電磁波のあたたかさだった。その段になってリンは悟った。ああそうだ。この感覚は、このざわめきは。ひとり多いと感じていたこの違和感の正体は。
そうだ。これは、霊だ。
「妹なんだ」
ユタは地面を見つめて呟くように云った。照りかえるアスファルトにふたりの影と、ひとつの光が見える。
「信じないよな」
風が強く吹き、水滴がばらばらあたりに落ちてきた。リンは911の濡れているウインドウに映った球の姿を見た。
「冗談を云うためにここまで?」
ユタは寄る辺なげに顔を上げた。
「どういうことかちゃんと説明して」




