03 前編③
明くる朝、リンはベッドの上で起きあがった。つられて両手がシーツの上に這いでてくる。カーテンからうすら明かりが天上と床に漏れでていた。かすむ目でメガネを探し、カーテンを開けた。朝もやの中から起きあがってくるビル街、港、その向こうに浮かぶポート・アイランドの影。それが醸す明朝の胡乱。自分はどこに居たのだったか? そんなリンの不安をたしなめるように、窓枠はこの街の要約をその中に収めていた。
散歩に出かけた。早朝の街の香りは芳醇だった。息を一杯に吸いこむ。橋を渡り、川沿いに山に向かって歩き、東西に走る通りに出た。坂がちで曲がりくねった道を歩いた。イチョウの葉がぐっしょり濡れて絨毯になっている。山なみが建物の狭間に姿を見せ、海が強い風にさざなみを立てていた。それらの情景はリンの心の部屋に上がるなり、懐かしさの抽斗という抽斗を片端から開けはなっていった。ここ数週間の鬱屈を晴らす清々しい風だった。
ホテルに戻りルーム・サービスで朝食をとると、TVをつけた。ニュース・キャスタは市が主催する告別式が明日行われることを伝えていた。場所はポート・アイランド。そこは、ナヤと初めて会った場所だ。リンは歯を磨きながら洗面台の前に立ち、自らを見た。その姿態にふっとふたりの少女の影が重なる。記憶の中のナヤは、ずっと二十歳のままで刻みつけられ、その隣に立つ自分も二十一歳だった。
窓の外で、強い風が吹いた。鏡の中のリンは三十三に戻っていた。
リンは雨のあがった神戸で、いろいろなところへ赴いた。
昔通った映画館に入りハリウッド映画を見た後、なじみの喫茶店に行った。床板のくすみも、BGMのばかに大きな音量も変わっていなかった。店主はリンを覚えているのかいないのかもよく分からない。客達はリンが居なかった間もここで音楽の回転に身を任せていた。角の交番のくすんだ煉瓦、赤い歩道のはげた塗装の下のごつごつしたアスファルト。バス停の緑色のビニールのほろ。そこにあったものは、そこにあったままの姿で残存していた。蝋人形博物館のようだ。
しかし変わったこともある。十年来通ったヘア・サロンはつぶれ、自転車を停めっぱなしにしていた駅前の駐輪場には真新しいビルが建ち、ピアノの教室があったビルと繋がっていた。通りを走る車も代替わりし、この街に住む学生も大人になって新しい学生に入れかわった。喫茶店で働いていた仲の良かったアルバイトも、当然もう居なかった。
リンは燃えた家を見に行った。空洞になったガレージと石造りの階段だけが残されて、石垣から上は背の高い草にまみれていた。かつて表札があった場所だけが色が違っていた。匂いの抜けてしまった記憶の抽斗は、覗きこんでみてもガレージのように空洞だ。大切にしまったものは箱の中でくずれ、砂になって消えて久しい。リンはその場所から立ちさった。また雨が降りはじめた。冷たい風が山から吹きおろしてきて、秋に染まる木々から装いをひき剥がした。リンは新幹線に傘を忘れてきたことに気がついた。
ホテルに戻って夜をひとりで過ごした。帰り際、最上階のサロンを覗いたが、客が多かったのでやめた。またぞろルーム・サービスで食事をし、ワインをボトルで注文した。夜景を見ながらひとりで飲む酒は砂を溶いて作ったみたいな味がした。
感動はいつだって初めの一瞬の特権だった。尊いものは懐かしさであり、現実は生々しい。リンの乾きは深くにあり、内臓の裏のさらに奥まった部分で乾いていた。そこを満たすための決定的ななにかが足りない。そのもどかしさと不満で、リンはワインを仰ぐ。
ナヤのSFを読もう。そう思いたつ。
リンはテーブルから立ちあがり、満たしたグラスを持ってソファへ移動した。鞄から色あせた本を取りだし、ページをめくり始めた。酔っているからスムースに文章が入ってくる。どだい、この本自体が酒なのだ。醗酵していて、人を煙に巻く。爛れた舌触りのセンテンス。世界が回転し、酔う。こちらも酒が入っていればなんのことはない。呼び水のごとく文章を浮き彫りにする。リンは時間を忘れてニューロマンサーに耽った。生者か、死人か、そんなことはどうだっていい。リンは夜の闇の中へと立ちさった。
次の日も朝から小雨が降っていた。その時、リンは閑散としたサロンでイングリッシュ・ブレックファストを飲んでいた。
そうだ、ナヤの告別式に行こう。リンはふいに発想した。いいアイデアじゃないか? せっかく神戸に居るのだから。さっそく部屋に戻り、小さなポーチに、財布と携帯電話と本を入れた。ジャケットの懐にサングラスも入れておいた。
ホテルを出て三宮駅までのイチョウ並木を歩き、途中で見かけた感じのよい花屋で白いガーベラを一本買った。サングラスをかけ、人のごった返す日曜の駅に入った。半世紀も前から自動運転で走っている気高きポート・ライナに乗った。列車はビルの間を文字通り擦りぬけ、じきに赤い鉄骨の橋に差しかかって海をパスし、ポート・アイランドへと渡った。リンは車内の人々を何気なしに見ていた。日曜日でも学生が多いのだな、と思いながら手に持ったガーベラを揺らしていた。
駅には予想外に人だかりができていてリンは驚いた。普段は病院の利用者と学生ぐらいしか使わない駅なのだ。告別式の会場である大学までのゆき方を、職員が古くさいラッパ型の拡声器で呼びかけていた。リンはその目の前を通りすぎて、大学まで人の流れの中を足早に歩いた。
赤い煉瓦建ての大学に入り、入構証を受けとって記帳をした。リノリウムのつやつやした廊下を進んで、講堂に入ってゆく。前方に傾斜した広いホールの奥には、献花台とナヤの巨大な肖像が立てられていた。いったいいつ撮った写真だろうか。写真嫌いのナヤにしてはよく写っていたが、それはリンの知るナヤとは違う人物だった。階段を下って列に並ぶ。電車で見かけた女子が、リンの前で手を合わせていた。なぜ彼女はナヤに手を合わせる義理を感じているのだろう? 振りかえると、人々が粛々とした面持ちで列を作っていた。この人たちとナヤの間にどういう関係性があったのであろう? リンはすこぶる気分が悪くなった。自分の順番が来たが、なにもすることができずに写真の中の人物を睨んだ。その青い目は誰を見ているのだ。リンとは目が合わない。どこともない遠くを見ていた。台上の零れんばかりの白い花だけがリンを見ていた。
会場から離れ、屋外に飛びでた。リンは熱い息をしていた。広場には黒い服を着た人々が集まっていた。リンはその視線から逃れるようにスピードを上げた。背骨が痛い。自分の衣すれの音しか聞こえない。中庭を突っきってテニス・コートの脇を通りすぎ、こぢんまりとした煉瓦の門をくぐって構外に出た。潮風を浴び、空を仰いだ。人工の島の空はただ寒々しく広かった。海に向かって歩いていると、だいぶ気分は落ちついてきた。リンはサングラスを外して、鼻に浮いた脂汗を拭った。波止場の縁までまっすぐに歩いて行って、行き止まりのフェンスに身を乗りだして止まった。体重をかけて機関車の排気のように勢いよく息を吐いた。海には強い風で波が立っていた。
この島からナヤが去って、ずいぶん長いときが流れた。
ナヤは、北海道の茫洋とだだっ広いだけの原野で燃えつきた。マツの森に囲まれた、周囲数キロに渡るエア・ポケットのような土地で。
アヌビスも燃え、そのもうひとつの世界は終末を迎えた。
風の強い乾いた日だった。
薄く地表を覆っていた雲に、鮮烈な赤が舞台照明のように反射しているのを、リンは遠く離れた札幌から見ていた。視界からインターフェースが突如として消えさり、長らくもやに包まれていた世界が晴れあがった。
久しぶりに点けたTVには、黒く焼けこげた柱が、肋骨のように歪曲して天に伸びているさまが写っていた。旧式のボルボがかたわらで炭になっていた。
リンは海へ向かうプロムナードを歩いた。
見覚えのある車が停めてあった。
リンがもっとも好む車、赤い車体にベージュのほろを被った、ポルシェ・911。遠目にしげしげ眺め、近くまで来るとそのディテールをなめた。
リンはふと少女のナヤから教わったテクニックを思いだした。今はアヌビスが使えないからできるはずもないが、おおむねこのような感じだ。あのころのナヤは手製のツールと自分の身体から発せられる電気信号だけで、島じゅうの車の鍵開けをしまくっていた。ツールというのはピッキング・ツールではなく単純な通信装置だ。当時はアヌビスという脳と直接電気信号をやりとりする技術がなかったので、そういう手持ちのハードウェアが必須だった。
ナヤが云っていたことばを記憶から呼びさます。抽象的なイメージを膨らませ、脳の特定の部位を加熱する。こんなこと、試す気になったのは初めてだ。目をつむり、前頭葉の一箇所が微細な血管に集中する血液で熱くなることを感じる。眼球の筋肉が収縮する。一瞬血の気が引いた右手の人差し指の先に、ぴりっと刺激が来る。合図だ。リンは指先をポルシェにそっと触れた。
バシャ。
ライトが点灯し。ミラーが開いた。リンは心臓がどきどきするのを感じた。顔が熱くなった。しかしひと呼吸の内にすぐ左ハンドルの車に乗りこんだ。こういうものは、堂々としていれば怪しまれることはない。続いてエンジンをスタートさせると、背後で内燃機関が吹きあがる鼓動を感じた。リンはボタンを押して椅子の位置を整え、ブレーキを確かめ、クラッチを幾度か切る。右手でシフト・ノブを揺らし、左手でハンドルを握りしめた。そしてシートに身体を押しつけ、頭をもたれた。
リンはようやく深い息を吐いて力を抜いた。そして考える。
なんで開いたんだ?
どういう理屈なんだ?
まさかナヤのような芸当ができるとは。リンはおかしくなってきて911のシートで肩をふるわせた。
そのとき、車内に影が落ちた。こつこつと窓がノックされた。リンは左足で反射的にクラッチを踏みきって、ギアをローに入れたが、息を吐いて諦め、すべてを元の位置に戻した。そして窓をオープンしようとしたが、人影は車の後ろを通って助手席に回りこんできた。
ドアを開けて入ってくると助手席に座った男は、ひと息吐いてあきれた顔でリンを見た。リンも男を見つめ返した。ふたりはしばし沈黙の空間で黙りこくって時間を消化した。アイドリング音だけが規則的に振動していた。
「景気はどうだい? リン」
男がようやく口を開いた。右手の薬指にリングをはめて、ほかにはなにも付いていない簡素な車のキーをぶら下げていた。
リンは前を向いてギアを入れる。
「ちょっと走らせてもいい?」
「もちろん」
リンはアクセルを踏んでエンジンを吹かし、じっくりと感覚を取りもどすようにクラッチをつないだ。車が動いた。
細い道を出て、信号を曲がり、大通りに入った。片側四車線の道路を、まばらに大型トラックが走行していた。空は鈍色。光の少ない午後の退屈な道は、他人とドライブするには刺激に乏しかった。
大通りに出ると、男はスイッチを操作してほろをオープンにした。
「気が利くね」
「それで、どうして神戸に?」
リンは目の端で男を見た。記憶に刻みつけられた顔。しかし外国人みたいによそよそしい他人の顔に見えた。
「あんまり姿を現さないものだからみんな心配してる」
「やることがないもんでね」
「まあ、そうか……」
「そっちこそなぜ大学に?」
「きみと同じだよ。ルーベングレンの告別式に」
「なぜ?」
「そりゃあ、妹が世話になったから」
リンは車線を変更しながら男の顔をうかがい見た。
「……まだ見つかってないの?」
「死んじゃいないな」
リンは長い海岸線の道路に出て、直線をたっぷり使いギアを上げ、可能な限りアクセルを踏みこんでみた。一昨日のリニアのように重力がかかって世界が圧縮された。
男の名前は小川豊科といった。リンはユタと呼んでいた。
ギアを落として道を右折した。島の南端まで来ていた。車を緑色のフェンスに囲まれた広大な空き地に寄せて停車させる。傾いてきた陽がフロントから射しこんできていた。リンは車から降りた。
「これからどうするんだい?」
ユタも降りてきてリンの隣に立った。遠い山を背景に、神戸の街が精巧な模型のように整列しているのが見えた。
「さあね……。ゆきどころなんてどこにもないよ」
「その気があるなら、きみほどの才知はどこにでも歓迎されると思うけど」
リンは鼻を鳴らしてユタを見た。ユタは黒のスラックスのポケットに片手を突っこんで、煙草を吸っていた。紫煙が夕暮れの雲の中に溶けこんでいった。
「もう戻るつもりはないよ。子どもを取りあげられたようなものだもんね。情熱も湧かない」
「ジュネーブでは今、アヌビスに代わるシステムが稼働している」
「え?」
「社会実験の段階だけど、まだ」
ユタは煙を吐いた。
「これまでも管理可能な代替システムの存在は必要とされてきた。最近になって国連内の一部署が完成させたんだ。民間の分散型じゃなくなるが、これで一旦、混乱は収まるかもしれない」
アヌビスは人の脳をネットワークに接続するシステムだ。ゆえに運用の中枢に国家が介入することはこれまで忌避されてきた。しかし現在のインフラの正常な動作は、アヌビス抜きでは望むべくもない。燃えかすになったアヌビスの復元は難航している。分散型だったはずなのに、アヌビスは菌糸がまるごと腐りおちるように、そのネットワークのすべてを崩壊させた。この絶好の機会をむげにする彼らではないだろう。
リンは遠くに見える六甲山系の山容を眺めた。神戸という街を、唯一外側から俯瞰できる地点。アヌビスも会社もここで涵養された。あたしとナヤ・ルーベングレンによって。
「それで、きみにも話が来てる」
ユタは灰を落としてリンを見た。
「どうだ? もう一度、初めからやり直さないか」
リンは苦笑して云った。
「それはどっちの意味だよ」
世界の終わりのように車通りのない道路に降り、助手席に回った。
「運転して」
ユタは煙草を消し、車に乗った。メモリー・ボタンを押し、椅子を自分用に戻した。




