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惑星魔導  作者: 西岡くじら
幕間:出立者達《デパーチャーズ》
2/8

02 前編②

 その夕暮れは、深い秋の冷たい空気が張っていた。リンはホテルを出てこうもり傘を差した。腹が減っていた。六時を回っていた。日比谷公園でも歩こうか、しかし電車の音が聞こえてリンは銀座が近いことを思いだした。

 高架を潜り、みゆき通りを歩く。車が数珠つなぎに滞っていた。雨にもかかわらずランニングをするポニー・テールのランナー、自転車に乗るサラリーマン、犬の散歩をする青年がその間を通りぬけた。都会の人々を眺めながら、ビルに囲まれた細い道をリンは歩いた。路地に逸れて、自動ドアのはじに「非・レイヤード」とステッカーが貼られてある古いそば屋に入ってあたたかいそばを食べた。

 勘定を支払って店を出ると、雨は前より強く降っていた。銀座中央通りに抜ける。そこは光に満たされていた。薄ぼんやりとホログラムのように立ちこめる霧。横溢する金色。広大な大聖堂で、反響するアンセムに耳を澄ませたときのことを思いだした。やわらかな空気に肌が粟立つ。リンに口紅をつける習慣はないが、この日だけはひかえめに引いていた。母からのもらい物だった。人々の傘が触れあい。風が吹くと人々は濡れる。ここにはこんなにも人が居るのか、やれやれとリンは思った。手を突きだしてタクシーを捕らえた。

「船橋まで」

 理由はない。ただ私的な空間で、だれかの世話になりゆっくりと座っていたかっただけだ。車列の放つレッドとホワイトの閃光。アスファルトに反射する夜の東京。ぼんやり車窓を眺めていると、ずいぶん遠いところに来てしまった気がした。家に帰りたい、住まいではない。もっと根本。これは懐郷だ。

「お客さん、神奈備リンさんではないですか」

「ああ、ええ」

「この度はご愁傷様です」

「どうも、痛みいります」

 信号が青に変わり、車は走りだした。運転手はそれ以上なにも云わなかった。リンはしばらく低いところで波打っているラジオの音楽に耳を澄ませていたが、いつのまにか眠ってしまった。



 夢を見る。

 夢は儚い。

 わずかな注意散漫で砕けるガラス細工だ。

 あたしたちの青春は、そういう儚い温度の中で過ぎていった。

 あたしたちの基地は父の書斎。いつだってそこに集合した。

「どうやったら一晩でこんなん書けるんだよ」

 あたしは云う。窓から夕陽が射しこみ、暖炉の石を明るく染めていた。ワーク・ステーションが唸って吐きだす熱波。古い本の饐えた呼気。金の糸を持つ彼女が織りなす極彩色のモニターの燐光。夕暮れの気だるい大気の惰眠。

 美しかった。あのころは、そう、美しかったのだ。

「ガーベラを犠牲にするんだよ」

「なにを云ってんの?」

 ナヤは夕陽の池の中に座りこんだ。

「太陽は今日もあたりまえにこの星を照らしている。爆発的に。想像力が爆発するときは、あたりまえが不安定になるときだ。あたりまえが不安定になるとき、想像力は爆発するんだよ。でも今日も太陽は消えなかった。代わりにベランダに咲いていたガーベラの花が枯れていた」

「因果関係があると思う?」

 あたしは云う。

「ないとも云いきれない。いつもなにかが失われる」

「それは思いこみだよ。なにかが失われていくのはこの世界じゃあたりまえのことだ。いつもどこかでなにかは失われてる。結びつけるまでもなくね」

 あたしは窓の外を見た。祖母のバック・ガーデンと、そびえるニレの大木と、桃色の鮮やかな空が見えた。風が葉を揺らし、雲が空を飾る。それは簡単には失われそうもないものばかりだ。

「もしわたしがとんでもないコードを書けば、太陽が失われることだってあるのかな?」

「あんねえ、これだって十分な金額を稼ぎだせる代物なんですよ? これがガーベラ一本なら、太陽が消えるのはまだもっと先のことだよ」

 ナヤはまどろみの中に居るようにゆっくりと立ち、ポットから紅茶をカップに注いだ。肩から典麗な長い髪が流れおちていた。紅茶を飲みながらあたしの隣に立った。そしてどこともない遠くを眺めた。思いかえすと、彼女はよく外を見ていた。否、本当は自然を見ていたのだろう。風や雨を読み、人煙を遠巻きに見ていた。その目はあたしと違いすぎるようでしばしば羨ましかった。

「リンは、()()()で世界を変えたいの?」

 ナヤが聞いた。

「はあ、世界を()()()で? 変わりっこないよそんなの」

「でも、熱心だよね」

「そりゃあ、優れたものを世に出そうとしてるんだもの」

「わたしへの賛辞なの?」

「ある意味では……。()()()を作るのはナヤ、あんたを動かすのはあたし。素晴らしいことをしているのは、結局のところどっちなんだろうね?」

 あたしは眉を歪めて云った。しかしナヤはそれに気づかず、

「世界を変えようとして行動を起こすのは順序が逆だと思わない? 行動が正しいと誓えるなら、きっと世界は変わるもの。意思は不必要なはずなんだ」

「動機がないところに意味はある?」

「動機が要らないなんて云ってないよ。『行動』ってことばは『行い』と『動機』と書くんだから。でもそこに欲とか、よこしまな考えが入ると、だれも純粋だと証明できなくなる。それだけだよ」

 正直なにを云っているのかよく分からなかった。ただ、ナヤが純粋な人間だったかというと、そうでもないということだけは知っていた。

「もし世界が変わるようなのが書けたら、太陽は消えるかな?」

 ふいにそんな科白が思いだされた。あたし、なんて答えたっけ? そうだ、あの深夜にナヤが淹れなおしてくれた紅茶の香りが鮮明に戻ってきた。いつだって記憶と匂いは緊密に結びついている。

「それで消えるんなら、太陽もいい迷惑だね。世界が変わるとき失われるのは、この世界の中にあるものだよ」

「自己完結なんだね」

「そうじゃない?」

「じゃあ、いったいどんなものが失われるんだろうね」

 ナヤはよく思索的な会話を好み、問いかけで会話を終了させたがった。ナヤは紅茶を持ってあたしの隣に座った。ナヤの匂いがした。その夜のナヤは、笑っていた。もう、そのときの彼女に触れられないという事実に、あたしは途方もない落胆を感じた。すでにナヤの姿はソファの上から消えうせ、書斎にあたしひとりと湯気を立てる紅茶だけがとり残された。ワーク・ステーションの排気の音が空間を満たしていた。窓の外は正真正銘の暗闇が広がっていて、奥ゆきも人の気配もない。あたしはその寂しく私的な空間にあって本棚に歩みより、一冊の本を手に取った。それは文庫本だった。ページは茶色く色あせ、独特の香り。ナヤから借りていた本。



 リンが目を覚ましても、まだタクシーは夜の闇の中を走っていた。それほど時間は経っていなかった。

 リンは手が旅行鞄に突っこまれていることに気がついた、本に触れていた。 取りだしてぱらぱらとめくってみる。ギブスンの『ニューロマンサー』。ページの上を規則的に明かりが通りすぎていた。

 なにが展開しているのかリンはまるで理解できない。いつものことだ、いつも分からないのだ。ナヤはよくこんなものを読めるなと思う。その上、日本語のテキストにしたとまで云っていた。この本の存在がナヤをときおり理解できなくなる原因に違いない。リンは諦め、本を閉じた。

 目をつむりしばらく車の揺れを感じていたが、懐郷がまた心の奥で音を立て始めたので困った。きっと夢を見て、本を読み、疲れたからだ。

 故郷を懐かしまない者は居ない。ナヤと別れ、故郷からも離れた十余年の歳月。幾度となくあの街を夢に見た。ナヤとの日々を残光を。そこにはすべてがあった。今日失われてしまった赤い輝きのすべてが。

 タクシーが信号で止まった。

「運転手さん、悪いんだけどやっぱり品川に戻ってもらえますか」

「品川ですか。ここからだと結構な折りかえしになるけど、構いませんか」

「ええ、すみません」

 タクシーは交差点をUターンした。

 リンはクレジット・カード会社のコンシェルジュに電話し、リニアとホテルの手配を依頼した。これまではあたりまえに準備されてきたことがいささか現実味を帯びてきて、

「面倒になったものですね」

 つい、口を衝いてしまった。

「そうでしょうね。この間まで思いつけばすぐ、道順からみんなお膳立てでしたでしょう」

「手間はなくなったはずだったんですがね」

「ぼくたちはこういう仕事をしていますからね、あまり変化はないですがね。手間をかけるための仕事です。運転手という職業は」

「しかし、自律運転があってもタクシーの運転手がなくならなかったのは、人の温かみがあったからではないですか。でもチケットを取るのは()()にだってできる」

「だれにでもできることをだれかがやってきたのが社会というものですよ。すべて()()()()に任せられるほど、手間を嫌いになれなかったということではないですかね。ぼくたちは」

 失敬、喋りすぎましたかな。初老の運転手は乾いた声で笑った。

 リンは老いた男の(うら)を見つめた。運転手としての矜持(プライド)、感受性。それらは運転席という神殿にすっぽりと収まり、簡単には動かしがたい。前の時代から持ちこした彫像のように凝った固(ろう)。しかしそのアナクロを羨ましくも思う。男たちの青年期とともに育まれてきたロー・テクほど尊いものはない。あの時代に生きた人々にどうしても敵わないことを、リンは自覚している。

 レインボー・ブリッヂは闇の中に浮かんでいた。タクシーはその上を走った。ビルに浮かぶ光のマーブルで現された幻想的な絵画が見えた。リンにはそれは、失われたものが草葉の陰から蘇ってきたような独特な感じがした。季節が巡り、夏がまた顔をのぞかせたような。いつまでこんな日々が続くのだろう。タクシーも新幹線もホテルの部屋でさえ、人に頼まねば用意されない。鍵は開かない、カーテンも閉まらない、コーヒーも入らなければ、明かりも点かない。

 リンは強いストレスを感じて錠剤を飲んだ。これでさえ、必要ないものではなかったか?

「神奈備さん、大丈夫ですか」

 運転手の声でリンが我に返ると、品川駅のまぶしい光が見えた。

 リンはタクシーを降りてターミナルに這入り、電光掲示板の下を通りすぎ、アナウンスを聞きながして列車に乗った。二〇時二〇分発・新神戸ゆき。疲れていたリンは一も二もなく席に包まれた。列車がごとりと動きだすと、古くさい車輪の駆動音が響いてきて加速が始まる。駅のプラット・ホームが流れさり、窓の外は地下トンネルの闇に染まる。管理用の照明や表示がスピードに溶けて線になる。じきに進化の歴史とは決別したいという意志が感じられる潔さで列車は浮上する。リンは奇妙な浮遊感の中で、空間を(ばく)進していった。車内に染みこむ轟音は、戯曲の始まりの荘厳な弦楽四重奏のように聞こえた。

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