01 前編①
夕暮れに雨は止んだが、東京の街には冷たい大気がのしかかっていた。灰色の雲の窓に、より高い場所の明るんだ雲が見える。それはすじ状に、広くのびやかに空に張りついている。神奈備リンは帝国ホテルの一室から、紅葉に色づいた日比谷公園ごしにこの景色を見ていた。二〇三四年の秋のことだった。
室内では、今まさにインタビューが始まろうとしていた。革張りのソファに身を委ね、黒いスーツを身につけたリンが座っていた。イギリス人の女性記者がふたり居て、ベージュのスーツを着たインタビュアとは面識があった。眼鏡をかけた神経質そうなほうは助手。カメラマンも男性がふたり。初老の男に若い見習いがついていた。
リン好みのロック――ザ・フーの『Getting In Tune』――がかけられ、万全の準備が整えられていた。しかし、リンの心は水が溜まったようにずんと沈んでいて、身体を動かすたびに振り子のように重心を揺さぶった。
息が詰まった。幾度となくもどしそうになった。しかし、結局できなかった。調和を歌った歌詞が、軽妙なピアノが、名状しがたい食いちがいの中で、沈殿の奥で、空しく響いているだけだった。
一曲が終わり、インタビュアたちが向かいのソファに腰かけた。どうやら始まりの合図らしかった。
「本日は貴重なお時間を頂戴し、ありがとうございます。早速本題に入りたいと思います。ナヤ・ルーベングレン氏はどのような影響をあなたに与えましたか?」
リンは手を組んで云う。
「はい、彼女の才能はわたしたちふたりの財産であり、同時に誇りでした。彼女が居なくても同じような、すなわちソフトウェアやゲームに関する事業を興したでしょう。しかし同じ地位を得ることは、同じ影響を世界に及ぼすことはなかったでしょう。いわば、わたしはディスク・ジョッキーで、彼女は名盤でした」
「あなたが受けた事件へのショックの大きさは測りかねます」
「ええまあ……。でもどうなんでしょう。彼女とは離れていた時間が長すぎます。これは精神的にという意味です。彼女が会社から離れた後ふたりっきりで話すことはなくなりましたし、今さらあまりショックの受けようがないのかもしれません。わたしたちが一緒に居たのは遠い昔、たった三年です。存在の影がうっすらと残っているだけです」
「そうですか」と云ったものの、インタビュアは当惑している様子だった。彼女はこの件でリン以外の多くの人間からも話を聞いてきたはずだ。そこではナヤ・ルーベングレンに対する悼辞も、感傷も、色あせるほどことばにされてきただろう。世間に飽和して風に流されていくだけのことを云うのは、時間の無駄にしかリンには思えなかった。
「そう……、偉大な才能を失ったという点については、世界にとって、そして文化にとっての損失であるかもしれませんね」
いささかの決まり悪さを感じてとっさに口にした。すぐに不必要だったと後悔した。こんなもの、だれにでも云えることじゃないか。
「ではカンナビさん。出逢ったころのルーベングレンさんの印象を教えていただけますか?」
「彼女は無口でした。わたしたちが溶けあうには長い時間を要しましたが、しだいに彼女は少女のようによく笑うようになりました。当然のことですが、あのときはこのわたしも少女だったんです。――信じられないかもしれませんけど」
リンが口を斜めにするとカメラマンまで笑った。緊張していたのか、見習いのほうがワン・テンポ遅れて笑いだした。
「わたしたちは若かった。だから友人になろうと努力しました。それ以外の関係性についてよく知らなかったのです。ですが、結局そうはなれませんでした」
「ルーベングレンさんはあなたのことを気にしていたように思えますよ。数回お会いしましたが、あなたの会社に居たころのほうが生き生きしていた印象がありますから」
「それはまだ少女だったからでしょう」
リンはテーブルに置かれたミネラル・ウォータのグラスをとって飲んだ。
「そうかもしれません。そういうことわたしも覚えがありますから」
インタビュアはノートを確認して云った。
「彼女の当時のスタイルと、最近のスタイルの違いや類似点はありましたか?」
リンは記憶を辿った。ナヤの顔が幾度となく去来する。それはあまり気分のいいことではなかった。リンはソファの中で足を組み、肘を付き、無意識に身体を縮こめた。
「作っている物も規模も違います。ゲーム、はたまたシステム。ですが出会った当時の彼女はスーパ・コンピュータのプログラムをしていましたから、もともとシステムを作りたがっていました」
リンは遠い西の空を見て云った。
「彼女のプログラムにはいつも遊び心がありました。“アヌビス”にもあります。あれ、そもそもゲームのアイデアだったんですよ」
「そうだったんですか?」
「現実世界への重なり。プレイヤが体験するのは生の現実でもあり虚構でもある。ある晩ナヤがそう云いました。夕食をとり、シャワーを浴び、ベッドの中でのことです。彼女は五感を刺激するというレベルの……要は、今のアヌビスと同じレベルの機能の話をしていました。しかしながら当時それを実現できるほどのテクノロジーはありません。まさかこうして全世界に重なるなんて、思ってもみませんでした」
「その話初めて聞いたわね」
「ええ。なんだかだれにも云いたくなかったけど、今日云わないときっと一生云わないままだろうから」
インタビュアは助手と顔を見合わせた。リンに向きなおり、うれしそうにしわを寄せて云った。
「いい収穫です」
彼女の背後から助手がやってきて、カーテンを閉めようとした。
「ああ、結構。外を見るのが好きなので」
リンは云った。助手は解きかけたひもに触れたまま、眼鏡の奥からじっとリンを見た。そして短く「わかったわ」と云い、隣の部屋にカーテンを閉めに向かった。日が暮れようとしていた。高い空には、抵抗のように紅が消えのこり、雨が再び降りはじめていた。束の間の休息は済んだ。重い雲が西から流れてきた。
インタビューはかれこれ二時間で終わった。初老の男がカメラと三脚をたたみ、見習いが照明を片付けた。リンはカーテンを閉め、話しこんでいた記者たちに歩みよった。電話がかかってきて、眼鏡の助手が隣の部屋に行ってそれを取った。
「今日は取材を快諾してくれてありがとう」
「こちらこそ、遠路はるばる感謝します」
ふたりは握手をした。
「今回は駄目元だったのよ。まさかこの時期に受けてもらえるなんて。同業はみな断られたと嘆いていたから」
「本当にナヤのことだけを聞くだろうと信じられたのはあなただけでした」
リンは今、自ら築きあげた会社を追いだされるというスキャンダルのただ中に居て、どのような取材も拒んでいたのだった。
リンより一回り以上年上のインタビュアは微笑んだ。それは職業を超越した表情に見えた。世渡いは彼女から学んだ。出会いは駆けだしの頃だった。
「リン、よく休めてる? 家に帰ったら電気を点けていますか? 落ちこんだとき暗い部屋にひとりで居ることほど空しいことはないのよ。わずかにでもあたたかさがあれば、ことはそれ以上悪くならないわ」
「ありがとう、明かりは点けますよ。それに今までよりずいぶん穏やかな生活ができていますから」
「それならいいんだけど」
隣室から助手が戻ってきた。眉間にしわを寄せていたので「なにかあった?」と彼女は尋ねたが、助手は「なんでもありません」とだけ云った。カメラマンたちがにっこりして道具を部屋の外に運んでいった。
「いずれにせよ今は英気を養うタイミングなのかもしれませんね。祈ります、あなたが幸運を見つけられるように」
「どうもありがとう」
リンは親密さをこめて云った。
「あの、カンナビさんに個人的に質問したいことがあるのですがよろしいでしょうか。記事にはいたしません」
ふいに眼鏡の助手が、淡然と云った。冷蔵庫の駆動音のような口調だった。
「ええまあ、オフ・レコなら構いませんけど……」
「ありがとうございます」
リンはいささかの不安を感じて、インタビュアに視線を送った。インタビュアは助手を見つめた。決めごとを再確認するコミニュケーションがとられたように思えた。そもそも、興味本位で会社のことを聞きたがる人物を連れてくるはずはなかった。インタビュアは「迷惑をかけて許してほしい」といった表情で片目を閉じ、向こうの部屋へ行った。
「そう……、あなたはどう思われますか? 氏が、アヌビスとともに死を遂げたことについて」
しかしリンの心は思いも寄らぬことで惑乱させられた。
「え、どういうことですか?」
「わたしはだれもこの可能性について論じないことを不思議に思っています。サーバで火災事故が起こり、そこに開発者本人が居て、死んだ。こんな悲劇、偶然だと思えますか?」
リンの身体はよろめき、それを押しころした。
「彼女は魔女。自ら産みだしたものを自らの手で壊し、この世を去った。そういう筋書きです」
「そうとは限らないと思いますけど」
「完全には否定されないのですね」
「なぜ、彼女がアヌビスを破壊する必要があるんですか? あれは別の工場の倉庫から起こった火災が原因ですよ? アヌビスが機能しなくなることによって、これほど多くの人々が困っているんですよ? あなただって今日、ここに来るためにずいぶん苦労したでしょう。なぜナヤは世の中を動乱する必要があるんでしょう?」
リンはいつのまにか拳が震えていることに気がついた。ため息を吐いて眼鏡の女の前から離れ、ゆったりとした歩調を繕って窓のところにゆき、閉まったカーテンを見つめてミネラル・ウォータを飲んだ。声は荒げなかったはずだ。振りかえるとき、インタビュアが手帳を広げてデスクに座っているのが見えた。こちらを見ていたが、踏みこんできそうな様子はなかった。リンはこの一ヶ月ばかり、自分がこうなってしまうのを恐れていた――頑として大人になれない、感情をコントロールできなかったリンは、己が興した会社の、己が治める取締役会に追放された。少し前まで狼の役をしていたはずなのに、今では孤独な子羊。その気圧差に身体が慣れない。
皮肉なことに、ひとりになれば激烈な性格は鳴りをひそめた。リンはもう、あのころに戻りたくはなかった。
グラスを空けてしまうと、それを手に持ったままで云った。
「当て推量が過ぎるんじゃないでしょうか。それに、あなたがたの誌では都市伝説の類いは書かない決まりでは?」
リンは助手のほうに向きなおった。
「そうですね、ですからこれは個人的な質問なのです」
「だとしたら邪推です。すみませんが、わたしにはそのような考えは浮かびもしませんでした」
「本当にそうですか? 以前のあなたなら――」
「いいかげんにしなさい。失礼よ」
身を乗りだそうとした助手の肩に、インタビュアが手を置いていた。助手は「申し訳ありません」と一歩下がった。インタビュアは、眉間に指を当てて目をつむり、口を開きかけたが止めた。代わりにため息を吐き、おそらく云いたかったことを飲みこんで別のことを云った。リンはみごとなものだと感心した。
「――そろそろ、下で告別式が始まりますよ。もしよければご出席なさってください。今日はほかの取材も行われていたから、海外のお知り合いに会えるまたとない機会じゃないかしら。そうだ。この部屋も明日の十一時まで使えますが」
云って、昔ながらのカード・キーを指に挟んで立てた。しかしリンは首を振り、
「いいえ、辞めておきます。今日はそのつもりじゃありませんでしたから。家に帰って明かりを点けたいと思います」
インタビュアはちょっと面食らって、すぐに破顔した。美しい笑顔だ。
「われわれも今夜は泊まります。気が変わったら連絡を。リン、今日はありがとう」
「こちらこそありがとう」
ふたりは抱擁して別れた。




