第9話「突破口」
早朝の練習場に、冷たい風が吹き抜ける。
空はまだ暗く、魔法陣の微かな光だけが空間を照らしていた。
「準備は大丈夫?」
リリアの声に、私は実験ノートから顔を上げる。特別講座の初日、私たちは誰よりも早く到着していた。
「ええ。量子もつれの制御データは完璧よ」
言いながらも、私は少し不安を感じていた。机上の理論を実践で証明する...それは研究者として最も緊張する瞬間だ。
「おはよう、お二人とも」
グレイス先生が現れる。
普段の優雅な装いとは違い、実践用の魔導師衣装に身を包んでいた。その姿には、ただならぬ気配が漂う。
「今日は、実戦的な魔力制御を学びます」
先生の声が、静かな朝の空気を震わせる。
「アイリス、あなたの量子理論。実践でも活かせるかしら?」
その問いかけには、明らかな意図が感じられた。まるで、この瞬間を待っていたかのように。
「はい」
私は強く頷く。
「理論と実践は、本来一体のものですから」
「では、実験を」
先生が手を上げると、地面に複雑な魔法陣が浮かび上がる。
「これは、上級魔法使いの試験でも使用される課題よ」
複雑に絡み合う幾何学模様。その中に、量子回路に似た配置を見出す。
まるで、古代の魔法使いたちが残した暗号を解読するかのように、私の頭の中で理論式が組み立てられていく。
(これは...確かに!)
「リリア、私の後に続いて」
声を上げながら、私は確信していた。
この瞬間のために、あの実験を重ねてきたのだと。
「了解です」
彼女の返事には、揺るぎない信頼が込められている。
私たちは向かい合い、魔力を解放する。
青と銀の光が交差し、空間に虹色の渦を作り出す。
「そう、その調子」
先生の声が遠くから聞こえる。
「二人の魔力を完全に同期させて...」
理論研究で得た知見が、実践で花開く。
量子もつれの状態を制御することで、魔力の効率は飛躍的に向上する。
しかし、その瞬間。
空気が震え、魔力の渦から異質な波動が放射され始めた。
それは私たちの制御をはるかに超えた、何か根源的なものの反応のように見えた。
「アイリス様!」
リリアの警告が響く。
その瞬間、私の研究者としての直感が反応した。
これは事故ではない。むしろ、重要な発見の兆候。
(この波動パターン...どこかで...)
量子状態の重ね合わせを瞬時に再構築し、異常な波動を制御下に置く。
その過程で、私は確かな手応えを感じていた。
「危ないところでした」
リリアが安堵の声を上げる。
「いいえ」
私は首を振る。
「これは、むしろ発見よ」
グレイス先生の表情が、微かに変化する。
「ええ、もちろんよ」
その声には、期待と共に、何か深い感情が滲んでいた。
* * *
夕暮れの図書館。
私たちは今日の出来事を克明に記録していた。
「アイリス、あの異常波動のデータです」
リリアが実験ノートを差し出す。
「周波数分析をしてみたのですが...」
その時、古書の棚から一冊の本が滑り落ちる。
まるで、私たちの会話に反応するかのように。
拾い上げた本は、『太古の魔法陣研究』という見覚えのない古書。
ページを開くと、息を呑む光景が広がっていた。
今日見た異常波動と完全に一致する魔法陣の図。
そして、その余白には、判読できない古代文字で何かが書き記されている。
「アイリス、この文字...」
リリアが目を見開く。
「ええ」
私は頷く。
「前世で見た量子コンピュータの回路図に、どこか似ているわ」
(これは...単なる偶然じゃない)
窓の外で、夕陽が沈みかけていた。
私たちは気づいていた。この発見が、ただの技術的な突破口以上の意味を持つことに。
古の魔法使いたち、そして現代の量子物理学。
そこには、何か大きな意図が隠されているのかもしれない。
「明日も、早朝から実験を」
リリアの声に、私は静かに頷いた。
探究の道は、まだ始まったばかり。
しかし確かに、私たちは真実への一歩を踏み出していた。