第8話「理論と実践」
図書館の窓から差し込む夕陽が、積み上げられた古書の背表紙を照らしている。
「波動関数の収束時間は理論値の1.2倍...しかも、安定性が予想以上に高い」
私はペンを走らせながら、今日の実験データを整理していた。机上には、一週間分の実験ログが積み重ねられている。
(順調すぎるくらい...)
その思いが頭をよぎった時、リリアが声を上げた。
「アイリス、これを見て」
机の向こうで、彼女は古い書物に見入っていた。最近では、私の提案通り、敬称を外して話してくれるようになっている。
『古代魔法の系譜』と題された分厚い本。
黄ばんだページには、複雑な魔法陣の図版が描かれていた。
「この配置...」
私は息を呑む。
古代の魔法陣の中に描かれた幾何学模様は、まるで現代の量子回路図のよう。螺旋状に配置された制御点、対称性を持つ演算部、そして観測のための補助回路...。
「完全に一致するわ」
興奮で声が震える。
「これは間違いなく、量子もつれを制御するための回路よ」
「どういうことですか?」
リリアの目が輝く。
「この魔法陣、現代の量子コンピュータの基本設計と同じ原理を使っているの。でも、この本が書かれたのは...」
「千年以上前」
リリアが本の奥付を確認する。
私たちは顔を見合わせる。
二週間に及ぶ共同研究で、次々と新しい発見があった。しかし、これは想定をはるかに超えている。
「魔法の歴史の中に、量子力学的な知見が...」
言葉を途切れさせる。
突然、頭の中で何かがつながった気がした。
(前世での研究...転生...そして、この古代の知識)
「アイリス?」
リリアが心配そうに覗き込む。その瞳に、研究パートナーとしての信頼が宿っている。
「ああ、ごめんなさい」
私は考えを振り払う。
「少し考え事を」
その時、図書館に誰かが入ってきた。
「お二人とも、まだ研究を?」
グレイス先生の声だ。
「先生」
私たちは立ち上がる。
「座っていいわ」
先生は微笑んで近づいてきた。
「実験の進捗は?」
「はい」
私は実験ノートを開く。
「量子もつれの制御に関して、新しい発見が」
説明を続けながら、私は先生の表情を観察していた。
彼女の眼差しには、純粋な知的好奇心と共に、何か別の感情が垣間見える。
「そして、この古代の魔法陣の構造が...」
「まさか」
先生が言葉を遮った瞬間、教室の空気が変わった。
その目には、驚きと共に、何か...認識のような感情が浮かんでいる。
「先生?」
私が問いかけると、彼女は一瞬、目を閉じた。
「...いいえ、何でもないわ」
平静を装う声。しかし、その手が軽く震えているのが見えた。
「ただ、研究の進展が予想以上で驚いただけよ」
(この反応...先生は何かを知っている)
「そうだ」
先生が話題を変える。
「来週から、実践魔法の特別講座が始まるわ。お二人も参加してみない?」
「実践魔法...」
リリアが興味を示す。
「ええ。理論だけでなく、実践力も必要でしょう?」
先生の口調には、明らかな意図が感じられた。
「参加させていただきます」
私たちは同時に答える。
「良かった」
先生は満足げに頷く。その表情には、安堵のようなものが見える。
「では、来週月曜日、早朝の練習場で」
先生が去った後、私たちは顔を見合わせた。
「アイリス、先生の様子が...」
リリアも気づいていたようだ。
「ええ」
私は頷く。
「まるで、私たちの研究の方向性を知っているみたい」
* * *
夜の書斎で、私は一人、古代魔法の書物を広げていた。
ページをめくるたびに、既視感が強まる。
(この世界の魔法と、量子物理学の関係...)
(そして、私が転生した理由...)
頭の中で、パズルのピースが少しずつ組み合わさっていく。
古代の魔法陣、グレイス先生の反応、そして私の前世での研究。
ふと、実験中の事故の記憶が蘇る。
あの時の光...あれは単なる事故だったのか?
それとも、誰かの意図が...?
窓の外の満月が、まるで古代の魔法陣のように輝いていた。
その光の中に、私は答えの一端を見つけたような気がした。