第6話「学院生活」
入学式から一週間。
古城のような校舎に、朝の光が差し込んでいく。教室の床に映る影は、規則正しい格子模様を描いている。
窓辺の机に座った私は、その光の干渉パターンに見入っていた。
(まるで光の二重スリット実験ね...この建物自体が、巨大な魔法実験装置なのかもしれない)
机の上には、既に三冊のノートが開かれている。
講義用、理論研究用、そして実験記録用。
28歳の研究者の几帳面さは、12歳の少女の体でも健在だった。
「おはようございます」
教室に入ってきたのは、魔法理論第一講座の担当、グレイス先生。40代ほどの女性で、鋭い観察眼を持つ魔導士だ。着任したばかりとはいえ、既に生徒たちの信頼は厚い。
「今日から本格的な理論講義に入ります」
黒板に大きく『基礎魔法理論』と書かれる。その下に、見慣れた魔法陣の図が描かれていく。円と多角形が織りなす幾何学模様は、量子状態を記述するブラケット記法を思わせた。
(ここが正念場ね)
入学試験では「基本に忠実に」を守り通した。しかし、これからは違う。魔法の本質に迫るには、従来の理論の限界を指摘する必要がある。
「魔法の基本は、魔力の流れを制御することです」
グレイス先生の声が教室に響く。
「その際、最も重要なのが...」
「波動関数の収束過程です」
言葉が口をついて出た。教室に静寂が走る。前列の生徒たちが振り返り、後ろからはざわめきが聞こえ始めた。
(やってしまった...)
気づけば、研究者としての私が前面に出ていた。アイリスとしての自分を保とうとしたのに。
しかし―
「アイリス・ヴァンフォード」
グレイス先生の声には、意外にも興味を示す響きがあった。
「面白い表現ね。もう少し説明してくれるかしら?」
立ち上がる。背筋を伸ばし、研究発表のように話し始める。
「はい。従来の理論では、魔力は単なる『流れ』として扱われています。しかし実際には、魔力は確率的な性質を持つ波動であり...」
黒板に向かい、魔法陣の図に補足を加えていく。量子力学の数式を、この世界の魔法理論に翻訳しながら。心の中では、かつての量子力学の講義を思い出していた。
「つまり、詠唱は波動関数を特定の状態へ収束させるトリガーとなり、魔法陣はその観測装置として機能するのです」
教室が、さらに静まり返る。後ろの席からは「なんて言ってるの?」という囁きも聞こえるが、最前列の数人は真剣にノートを取っていた。
「非常に...興味深い理論ね」
グレイス先生の目が鋭く光る。
「これは貴女独自の解釈?」
「はい。実験データもございます」
「後ほど、詳しく聞かせてもらえるかしら」
講義後、職員室への呼び出しは覚悟していた。しかし―
「素晴らしい!」
グレイス先生は、私の実験ノートに目を輝かせていた。窓から差し込む光が、ノートの上で魔法陣の図を照らしている。
「これまでの理論では説明できなかった現象の多くが、この解釈で理解できる可能性がある」
彼女は熱心にページをめくる。
「特に、魔力の干渉現象の説明は...」
「アイリス様!」
声に振り返ると、廊下に一人の少女が立っていた。
銀色の長い髪は月光のように輝き、切れ長の瞳には知的な光が宿っている。
「リリア・シルバーメイン...」
その名を聞いて、グレイス先生が小さく息を呑むのが分かった。
学院随一の実践力を持つ魔法使い。天才少女と呼ばれる彼女が、なぜ私のところに...?
「素晴らしい理論でした」
リリアの声には、純粋な興奮が滲んでいた。
「私も、従来の理論に違和感を覚えていたんです。特に、魔力の干渉現象について...」
彼女の目が輝きを増す。その瞳に、研究への純粋な情熱を見た気がした。
「一緒に研究させていただけないでしょうか」
(研究パートナー...?)
思わず目を見開く。前世では、常に一人で研究を進めてきた。しかし、この世界では違うのかもしれない。
「もちろん」
私は微笑む。
「一緒に研究できたら嬉しいわ」
* * *
夕暮れの図書館。
積み上げられた魔法書の間から、時折、小さな議論の声が漏れる。
「この現象、従来は『魔力の共鳴』と説明されてきました」
リリアがノートに図を描きながら説明する。
「でも、アイリス様の量子もつれの理論を応用すれば...」
「ええ、より正確な予測が可能になるはず」
私も熱心にメモを取る。
「実験で検証してみましょう。二人なら、より複雑な魔法陣の制御も...」
言葉を交わすうちに、私たちの間に不思議な一体感が生まれていた。
まるで、長年の研究パートナーであるかのように。
窓の外の塔に、次々と魔法の灯りが灯る。
その光は、私たちの未来を照らすように輝いていた。
「明日は第一実験を」
「はい、早速準備を」
二人の声が重なる。
新しい理論の証明に向けて、私たちの挑戦が始まったのだ。
ノートに最後の一文を書き加えながら、私は確信していた。
この出会いが、魔法の真理への扉を開くことになるだろうと。