第5話「学園への道」
夜明け前の静寂を、柔らかなノックの音が破る。
「お嬢様、そろそろご準備の時間です」
デスクから顔を上げる。夜通し理論の最終確認をしていたらしい。机上には、びっしりとメモが書き込まれたノートが広がっていた。
「はい...」
声が予想以上に掠れている。理論式を眺めながら徹夜してしまうのは、研究者時代の悪い癖だ。
姿見の前に立つと、白を基調とした制服姿の少女が映っている。胸元の金の紋章が、朝日を受けて輝き始めていた。
「お嬢様、理論ノートは鞄の中に入れておきました」
マーサが部屋の準備を整えながら言う。
「実験データも、参考資料も」
「ありがとう、マーサ。でも、まだ確認したいことが...」
「その前に」
マーサが優しく言葉を遮る。
「理論より先に必要なものがございますよ」
そう言って差し出したのは、上質な布で包まれた小さな箱。開けると、中から深い青色の万年筆が現れた。
「これは...」
「ヴァンフォード家代々の入学試験のお守りです。お父様もこの万年筆で試験に臨まれました」
万年筆を手に取る。深い青は、まるで量子の海を思わせる。そして、その中に刻まれた家紋には、確かな重みがあった。
(前世では...こんな経験は...)
突然の感情の波に、私は戸惑う。科学者としての冷静さと、12歳の少女の素直な喜びが、胸の中で混ざり合う。
「ありがとう、マーサ」
声が少し震えた。この世界での家族の温かさは、時として私の心を、科学では説明できない方法で揺さぶるのだ。
* * *
馬車が石畳を走る音が、規則正しいリズムを刻んでいた。窓の外には、王都の整然とした街並みが流れていく。
「緊張されていますか?」
向かいの席でヴィルヘルムが声をかける。
「ええ、少し」
正直に答える。この1ヶ月の特訓は、理論と実践の両面で充実したものだった。しかし...。
(12歳の体での魔力制御には、まだ限界がある)
実験を通じて分かってきたことがある。魔力...つまり量子場の制御には、精神的な負荷だけでなく、肉体的な制約も大きく関わっているのだ。
馬車が丘を登り始めると、窓の向こうに白亜の塔が姿を現した。七つの塔が空を突き、その間を虹色の魔力の帯が結んでいる。朝日に照らされた塔の表面には、無数の魔法陣が浮かび上がっていた。
(この建築自体が、巨大な魔法実験装置のようね)
魔法陣のパターンを観察しながら、私は思わず理論式を組み立て始めていた。建築物全体を使った魔力増幅システム...その発想は、量子コンピュータの設計に似ている。
馬車が正門をくぐる。中庭には既に多くの受験生が集まっていた。12歳前後の少年少女たち。彼らの中には、貴族の子女だけでなく、才能を見出された平民の子供たちもいる。
「お嬢様」
下馬車する私に、ヴィルヘルムが静かに言った。
「最後のアドバイスを」
私は足を止めて振り返る。
先生の表情には、師としての厳しさと、父のような優しさが混ざっている。
「理論は素晴らしい。しかし、試験官の方々は従来の魔法理論に基づいて評価されます。あまり斬新すぎる手法は...」
「分かっています」
私は微笑む。
「基本に忠実に、ですね」
実は、これも実験の応用だった。
魔力の波動関数は、観測者の「認識」によって収束する。つまり、試験官の「期待する魔法」に波動関数を合わせることで、より効率的な魔法発動が可能なはずだ。
「では、行ってきます」
深く一礼して、私は試験会場へと向かう。白い制服の群れの中に、金色の巻き毛が溶けていく。
入り口で、名前と受験番号を告げる。
「ヴァンフォード家、アイリスです」
「こちらへどうぞ」
案内役の教師が、厳かな表情で廊下を示す。その姿に、かつての研究所の警備員を重ねる。
重厚な扉の前で足を止める。
心臓の鼓動が早くなるのを感じる。28歳の研究者の冷静さと、12歳の少女の緊張が、不思議な均衡を保っていた。
深く息を吸い、父の万年筆を握り締める。その感触が、私に確かな決意を思い出させた。
(この試験は、単なる入学試験じゃない)
(これは、魔法と科学の融合への第一歩...)
扉の向こうには、未知の発見が待っているはずだ。
そう信じて、私は一歩を踏み出した。
* * *
「第一試験、筆記試験を始めます」
試験官の声が、静かな教室に響く。
青い万年筆を取り、問題用紙に目を通す。
(なるほど...基礎理論と応用、そして創造的思考を問う構成ね)
理論体系は違えど、科学的思考の本質は同じ。
万年筆のペン先から、深い青のインクが滑らかに流れ出す。
その色は、量子の波紋のように、未来への可能性を広げていく。
私は静かに、答案用紙に向かい合った。