第2話「新たな世界」
「お嬢様、お着替えのお時間です」
メイドのマーサ(彼女の名前を知ったのは数分前だ)の声に、私は深いため息をつく。その仕草に、マーサは心配そうな視線を向けた。普段の「お嬢様」なら、着替えの時間を心待ちにしているはずなのに。
「今日は体調がお悪いのですか?」
マーサの声には深い愛情が滲む。どうやら、アイリスは彼女に本当に大切にされていたようだ。
目の前のクローゼットには、どれも手の込んだ刺繍が施された華やかなドレスが並んでいる。これが日常着なのだと理解するだけでも、かなりの心の準備が必要だった。
「では、今日は水色のこちらを」
マーサが取り出したドレスを見て、私は思わず目を見開いた。生地の上を光が流れるように煌めいている。まるで、量子の重ね合わせを視覚化したような美しさだ。
「これは...魔法で加工された生地なの?」
言葉が口をついて出た。研究者の直感が、この不思議な生地の性質を見抜いていた。マーサは少し驚いたような表情を見せる。
「さすがはお嬢様。見分けがおできになるのですね。これは魔法織物と呼ばれる特殊な生地です。光を纏う魔法が織り込まれているのですよ」
私は生地に触れ、その性質を確かめる。するとほんのりとした温かみと共に、微細な魔力の波動を感じた。まるで量子の振動のような、規則的で美しい波動だ。
「魔法織物は、お嬢様が最も得意とされる光の魔法が込められているんですのよ」
マーサが誇らしげに付け加える。
魔法。
この異世界で最も理解しなければならない要素だ。しかし不思議なことに、その存在に違和感を覚えない。むしろ、私の研究していた量子物理学と、どこか通じるものを感じる。
朝食の間に向かう途中、私は自分の中の二つの人格について考えていた。
高橋美咲の知識と経験、そしてアイリス・ヴァンフォードの記憶と感覚。
それらは次第に溶け合い、新たな私を形作りつつある。
不思議なことに、この状況に大きな違和感はない。
むしろ、量子物理学者としての直感が、この世界の魔法の本質に強く惹かれているような感覚があった。
長い廊下の壁には、歴代のヴァンフォード家当主の肖像画が並ぶ。その中に、現在の私の父...つまりアーネスト・ヴァンフォード伯爵の肖像もある。凛とした眉目の中に、どこか優しさを感じさせる表情。アイリスの記憶が、その温かな人柄を教えてくれる。
「お嬢様、昨日の魔法練習の影響でお疲れなのでは?」
マーサが心配そうに声をかけてくる。
「魔法...練習?」
「ええ。新しい詠唱法を試されていたとか。確か『波動関数の収束による魔力の制御』とおっしゃっていました」
私は足を止めた。
昨日の記憶。そう、この身体の持ち主だった「アイリス」の記憶が、断片的に蘇ってくる。
彼女は魔法の天才と呼ばれていた。しかし、従来の魔法理論では説明できない独自の理論を展開し、周囲を困惑させることも多かったという。まるで、量子物理学の知識を持っていたかのように。
「私の...理論?」
つぶやきながら、右手を上げる。すると、指先から淡い光が漏れ出した。
(これは...!)
その瞬間、体の中を流れる魔力を感じた。それは、まるで量子の波のように、確率的な振る舞いを示している。波動関数の収束...アイリスは直感的にそれを理解していたのかもしれない。
「お嬢様?」
「ごめんなさい。少し考え事をしていただけよ」
私は微笑んでマーサに答えた。頭の中では、様々な仮説が組み立てられていく。
朝食の間に入ると、すでに両親が席についていた。
「おはよう、アイリス」
父親のアーネストが穏やかな声で私を迎える。その隣で、母親のクラリスが優しく微笑んでいる。
「おはよう、父様、母様」
言葉が自然と出てくる。この世界の礼儀作法が、身体に染み付いているようだ。
「昨日の魔法練習の成果はどうだった?」
父が尋ねる。その声には期待と、わずかな心配が混ざっている。
「ええ、面白い発見があったわ」
私は朝食を取りながら答えた。
「魔力の流れには、確率的な性質があるの。それを制御することで、より効率的な魔法の詠唱が可能になるはず」
父と母が顔を見合わせる。
「また難しい理論かい?」
父が苦笑する。
「お前の理論は、王立魔法学院の教授たちでさえ理解できないというからね」
「でも、実践では確かな成果を出していますわ」
母が私を擁護するように言う。
「来月の入学試験も、アイリスなら大丈夫でしょう」
そうだ。王立魔法学院。
この世界の魔法研究の最高学府だ。そして私は、来月その入学試験を控えているという。
「ありがとう、母様」
感謝を述べながら、私は決意を固めていた。
この世界の魔法。その本質は、私が研究してきた量子物理学と深く関連しているはずだ。その証明のために、王立魔法学院は最適の場所となるだろう。
そして、私の転生にも何か重要な意味があるのではないか―。
その謎を解くためにも、まずはこの世界のことを知らねばならない。
「あの、父様」
朝食を終えようとする父に、私は声をかけた。
「図書館を使わせてもらえるかしら?魔法の基礎をもう一度学び直してみたいの」
「もちろんだとも」
父は嬉しそうに頷いた。
「お前の探求心は、私たちの誇りだよ」
* * *
重厚な扉を開け、図書館に足を踏み入れる。
古書の香りが、懐かしい実験室の匂いと重なった。
天井まで届く本棚には、魔法に関する古今の知識が詰まっている。
背表紙に刻まれた金文字が、夕陽に輝いていた。
「さて、と」
私は深く息を吸い込んだ。
これが、物理学者として転生した私の、新たな研究の始まりとなる。
最初に手に取ったのは、『基礎魔法理論序説』という古めかしい装丁の本だった。
ページを開くと、見慣れない魔法陣の図譜が目に飛び込んでくる。
その幾何学的な美しさに、私は思わず息を呑んだ。
(これは...まるでシュレディンガー方程式を図式化したようね)
窓から差し込む夕陽の中、私は魔法の世界への第一歩を踏み出していた。