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第1話「事故と転生」

深夜の実験室に、空調の低い唸りだけが響いている。無機質な白い壁に囲まれた空間で、私は最後のチェックリストと向き合っていた。デジタル時計が23:57を指す。


「高橋さん、本当に今日やるんですか?」

助手の山田くんが、疲れの見える顔で心配そうに声をかけてくる。確かに深夜の実験は異例だが、これには理由があった。


「ええ。量子もつれの状態を最大限に安定させるには、外部からのノイズを極力減らす必要があるの」

私は画面から目を離さず、キーボードを叩きながら説明を続ける。

「人の活動が最も少ない深夜がベストなのよ。これまでの実験の失敗も、すべて微細な外乱が原因だったんだから」


私、高橋美咲。28歳にして量子物理学研究所の主任研究員。女性研究者として最年少での昇進だと話題になったが、それも今夜の実験で報われるはずだ。


研究室の中央に据え付けられた装置が、青く冷たい光を放っている。高さ2メートルほどの円筒形の機械は、まるで未来から取り出してきたような洗練された佇まいだ。これは量子テレポーテーションの距離限界を打ち破るために私が設計した、世界でただ一つの実験機器。


「理論上は、量子もつれを利用すれば、どんなに離れていても瞬時に情報を転送できるはず」

机の上で、最終チェックリストにチェックを入れながら呟く。目の前のホワイトボードには複雑な数式が所狭しと書き込まれている。シュレディンガー方程式を基に、私が導き出した独自の理論式。その一つ一つが、私の研究人生を賭けた証明だった。


「でも、高橋さん」

山田くんが再び声を上げる。白衣のポケットに手を突っ込み、落ち着かない様子で続ける。

「これまでの実験では、数十キロメートルが限界だったじゃないですか」


「そう。でもね」

私は微笑んで振り返る。

「それは観測時の量子もつれの崩壊を制御できていなかったから。私の理論なら、その問題は解決できるはず」

瞳に自信の光を宿したまま、私は時計を見た。0時。実験開始の時間だ。


「では、始めましょうか」

私は実験台に向かい、装置のスイッチに手をかける。この瞬間のために、どれだけ多くの時間を費やしてきただろう。徹夜の日々、失敗の連続、それでも諦めなかった日々が、この一瞬に集約される。


装置から放たれる青い光が強まり、まるで生き物のような唸りを上げ始めた。空気が振動し、実験室全体が共鳴するように揺れている。モニターには予想通りの数値が次々と表示される。


「すごい!理論通りです!」

山田くんが興奮のあまり机を叩く。その振動さえも、今は気にならない。


その時だった。


突然、けたたましい警告音が鳴り響き、装置の光が異常な輝きを放ち始めた。


「え?これは...」

慌ててモニターを確認する。数値が予想を遥かに超えて上昇していく。画面上の警告表示が、不吉な赤色で点滅を始めた。


「高橋さん!危険です!」

山田くんの悲鳴のような声が響く。私は急いで非常停止ボタンに手を伸ばす。しかし、その前に―


まばゆい光が実験室を包み込み、それは次第に虹色の渦となって私を中心に収束していく。


「まさか...これは量子トンネル効果...?」

理論上の可能性として考えていた現象が、目の前で現実となっている。

私の意識が、光の渦の中へと溶けていく。量子化された意識が、未知の次元へと引き込まれていく感覚。


最後に聞こえたのは、山田くんの悲鳴と、装置の爆発音。

そして、すべてが闇に沈んだ。


* * *


「お嬢様、お目覚めの時間です」


優しい声が、深い眠りの中にいた私を呼び覚ました。まるで長い夢から覚めるような、不思議な浮遊感。


「んん...」

まぶたが重い。ゆっくりと目を開けると、見慣れない天蓋付きのベッドが視界に入る。深紅のベルベットのカーテンが、柔らかな朝の光を優しく和らげている。


「良かった。今朝は、なかなかお目覚めにならないものですから」

中年の女性が、母親のような温かな微笑みを浮かべながら私を見下ろしている。完璧な仕立ての黒いメイド服...?


「私は...?」

言葉を発した瞬間、違和感が走る。喉から出る声が、まるで他人のよう。


「あれ...?」

もう一度声を出してみる。間違いない。これは私の声ではない。


慌てて上半身を起こし、周囲を見回す。豪華な調度品が並ぶ広い寝室。壁には見たこともない紋章が飾られている。そこかしこに散りばめられた金箔の装飾が、朝日に輝いている。


「お嬢様?どうかなさいましたか?」

メイドが心配そうに覗き込んでくる。その表情に、深い愛情が滲んでいる。


鏡...鏡はないかと部屋を見渡した私の目に、大きな姿見が映った。

そこに映っていたのは、金色の長い巻き毛と碧眼を持つ、私とは全く違う少女の姿。


十二歳くらいだろうか。整った顔立ちの西洋人形のような少女が、私と同じように目を見開いて鏡を見つめている。


「...これは...」


その瞬間、すべての記憶が蘇った。

実験。事故。そして―


その時、私は確信した。

これは夢でも幻でもない。量子物理学者だった私は、異世界で第二の人生を歩み始めたのだ。

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