ヴェリディシア
露骨に不愉快そうな表情のレイは、ヴェリディシア黙示なる本の前付を読み始めた。
「我は大天使の召喚に成功し、その口から神の言葉を賜った。その尊き言葉を序文に記す」
レイは僕とイオナ、そして泰嗣の真剣な表情をみると、眉をひそめ大きくため息をつき、続けて朗誦する。
「ラザール、人として生を受けた神の子よ。汝は神の意志を地上に示し、すべての者を選び、導く者なり。汝の生あるうちは、すべての人々と唯一の神を敬い、人々を教え導き、神の言葉を広めねばならぬ」
……レイの可愛い声で読み上げられる、その言葉の意味はなんとも胡散臭い。
「その生を全うした後、汝は神と一体の存在となり、祝福の世界『ヴェリディシア』を創造し、支配する運命にある。汝の意志は神の意志そのままに、すべての者の魂は、この地ヴェリディシアに集められる。その魂の中より、神たる汝に忠実なる者、すなわち人間として相応しい者を選び抜かねばならぬ」
……なぜだろうか——文中に出る『ヴェリディシア』という言葉を聞き、僕は胸が締め付けられるように苦しくなった。本のタイトルでもあるのに、文中に出てくる言葉は、それと違うように聞こえた。どこか別の意味を背負わされたかのような——そんな響きだった。
「汝が神と一体となりし後、しばらくして、人間は自らの過ちにより、あらゆる生命を道連れに世界より消滅し、その歴史に幕を下ろす。だが、再び命溢れる地となりし時、人間は新たな歴史の幕を開ける。それはヴェリディシアにて汝に選ばれた者によって紡がれる歴史となる」
……また、『ヴェリディシア』——初めて聞いた言葉なのにもう聞きたくない。
「再び人間が過ちを犯さぬよう、そして、その歴史に二度と幕を下ろさぬよう、汝に課されし使命である。汝はその歴史における神となり、汝と共に新たなる人間の世界を導くため、ヴェリディシアにて新たな歴史を紡ぐために、相応しき者を選ばねばならぬ」
……吐き気に似たような感覚と、どこからともなく血の匂いが漂ってきたような気がする。明らかにおかしい——一体この本は何なんだ。顔を上げると、イオナも泰嗣も興味深そうにレイの声に耳を傾けている。ただ、レイだけがつまらなそうに、淡々と言葉を紡いでいた。
「すべての人々に広め伝うべし。神と共にラザールを讃え、敬い、祈り、その生を全うすることこそが、ヴェリディシアに『徒民』として迎えられる。彼らは神の御心のもと、敬虔なる奉仕をもってヴェリディシアを築き、その美しく奏でられる調和の一部として生きることを許される。徒民は畏敬と労苦をもって己の役割を果たし、神の恩寵のもと安らぎを得る者なり」
「……兄様?」
ふいにレイに呼びかけられて、顔を上げると、心配そうな表情で僕を見つめていた。
「もう、読むのをやめますわ」
「いや、続きを読んで欲しい——」
これは決して強がりなどではない。全てを聞いておかなければならないような、使命感のようなものさえ感じる。
「よろしいですの?」
問いかけるレイに、僕は大きくうなずいて応えた。
「信仰篤く、ラザールの言葉を実行し、ラザールに命を捧げし者は、たとえ生前に地位なき者であろうとも『聖守徒』として、ヴェリディシアに迎えられる。彼らはより高き使命を果たすことを許される。聖者の意志のままに、ヴェリディシアの秩序を守り、徒民を導く役割を担う者なり。聖守徒に列する者は、聖者の庇護を受け、永遠の奉仕をもって神の業に仕える誉れを得る」
……胸の奥から何かが湧き上がってくる。あいつが出てくるときとは全然違う——もっと魂に刻まれたかのような何かが湧き上がってくる。
「ヴェリディシアにおいて神の祝福を与えられし者は『聖者』としてラザールの傍に仕え、その力をもって神の意志を実現し、永遠の栄光と権威を享くるものなり。しかし、その運命は生まれながらに定められたものである、他の者とは異なる才知、力、霊威、そして容姿に優れし者である。彼らはラザールの意に従い身も心もラザールに捧げることにより、ヴェリディシアを統治する」
……なぜだ『ラザール』という名前が、僕にとって何か大切な人物の名前だったように感じる。
それは尊敬する相手ではなく、敵のような人物なのではないか。その証拠に、僕は胸に何かを突き立てられたような痛みを覚えている。
「ラザールの言葉を畏れず、信仰を軽んじ、神の意志を拒みし者は、ヴェリディシアにて『永隷』とされる。彼らは生前にラザールを信仰せず、己が身を罪に染めし者の成れの果てなり。彼らはヴェリディシアにおいて贖罪のための終わりなき労苦を課される。神の赦しを得ぬ限り、徒民となることすら叶わず、永遠の奉仕をもって己が魂の罪を濯がねばならぬ。彼らの名は刻まれることなく、歴史に記されることもなく、ただその務めのうちにのみ存在する」
……『永隷』という言葉——前に聞いたときもなぜか嫌悪感を覚えたが、なぜだろうか?まるで僕が『永隷』とされたような不思議な感覚。こんな話は物語でしかないはずなのに。
「人間の新たなる歴史が幕を開ける時、聖者は神たるラザールの使徒として、すべての人々を傅かせ、教え導かねばならぬ。そのために絶対の栄光と権威をラザールより授けられよう。聖守徒は地域を支配する王となり、ラザールの教えを伝え広める役を負わねばならぬ。そのための権力は使徒の庇護のもとに与えられる。徒民は王の庇護のもと、新たな歴史の主役となり、生を紡ぎ、繁栄を享くることが叶うであろう。永隷たる者、新たな歴史が幕を開けるために、その魂を糧として捧げることにより、苦役から開放されるであろう。その対価として存在は消滅し、新たな歴史に名を刻むことは許されぬ」
……何なんだこの本は——なぜ、みんな平気で聞いていられるんだ?レイに読むのをやめてもらおうか——
「神と同体たるラザールの力にして、彼の意志を行使する者こそが、最も高貴なる者なり。その栄光と権威は、ラザールの御手に宿り、選ばれし者のみに授けらるる神の賜物なり——教皇ラザール・ドレヴァン」
前付を読み終えたレイは、ぱたんと音を立てて表紙を閉じた。
——そのヴェリディシアの大聖堂、大広間。その空間は、天を衝くような天蓋と、白金に繊細な細工が施された神々しき柱によって荘厳に満ちていた。
中央に据えられた玉座は、神の権威そのものを象るかのように、漆黒の大理石に黄金の装飾をまとい、その上にただ一人、ラザール・ドレヴァンが静かに座していた。
彼の視線の先、三人の人影が跪いていた。彼らは地に額を擦りつけるように頭を垂れ、畏れと敬意を捧げる。その姿はまるで、神の前で己の存在を問う殉教者のようであった。
広間の左手には、鋼鉄の鎧に身を固めた兵の列が静かに佇み、その瞳はただ一点、玉座を貫くように見据えている。彼らは知っていた――仕えるべき唯一の御方を、心の奥深くに刻み込んでいるのだ。
右手には、威厳ある長衣に身を包んだ文官たちが、沈黙のうちに佇んでいた。彼らは語らない。だが、その眼差しは冷徹な理知に満ち、この場で交わされる言葉の一つひとつが、この世界の法となることを理解していた。
広間を満たすのは、ただ厳粛なる沈黙のみ。
やがて、ラザールがゆるやかに片腕を上げる。それだけで、兵たちの鎧がわずかに揺れ、文官たちは息を詰めた。
跪く三人は、ただ彼の言葉を待っていた。いや、それだけではない――裁きを仰ぎ、運命の糸をその御手に委ねることを。
「モルデカイよ。なぜ、八千の兵が壊滅したのだ?」
重い空気を裂くように、ラザールの声が響く。
「狡猾な罠が張り巡らされておりまして……為すすべなく」
左側に傅く甲冑の男が、絞り出すように答える。
「それを見抜けなかったのか? 先行したゾーヤの部隊はどうなった?」
「恐らく……全滅したものと」
中央で傅く、褐色のマントを纏った男が苦渋の声で応じた。
ラザールはわずかに目を伏せ、深いため息をつく。
「ゼルマリクよ。其方ひとりでは、他の世界への道を切り開けぬではないか」
「仰せのとおりでございます」
「人間の世界への道を開くことは、我が本望である」
「承知しております。……今一度、機会をお与えいただけませんでしょうか」
右側に傅く修道服の女が、胸の前で手を組み、祈るように乞う。
「アドリエンヌ。このままではヴェリディシアは罪深き人間どもに忘れ去られ、選び導く者としての我が使命は潰える」
「全ては、私の不徳といたすところ。幸い被害の少なかった聖女の騎士を立て直し、必ずやお応えいたします」
アドリエンヌを一瞥したラザールは、天を仰ぐように視線を移す。
「今、この時こそ罪深き人間どもを導くため、ヴェリディシアを人間の世界に降臨させねばならぬ。それに必要な膨大な魔力を持つ人間も見つけておるというのに……人間の世界に渡れぬのでは始まらぬ」
「我が神ラザール様、その男に図られたのかもしれません」
モルデカイの言葉を否定するように、アドリエンヌが響くように声を張る。
「それはありえません。あの男は色欲に溺れております」
「聖女殿、それは間違いないのですかな」
ゼルマリクの問いに、アドリエンヌは確信を込めて応じる。
「ええ、我が魅了の力を分け与えし『恵莉華』という信者を通じて、私自身が、あの男の心に彼女への色欲を刻みました。今もその術は、確実に彼を惑わせております」
——アドリエンヌの言葉に、ラザールは静かにうなずいた。
「使徒より恵莉華という信者と部屋に入ったまま出て来ぬと聞いておる。アドリエンヌの話に間違いはない」
アドリエンヌは目を細めゼルマリクを睨んだ。
再び三人を見据えたラザールが口を開く。
「もうよい。今はこのヴェリディシアにさらなる繁栄をもたらすため、そして、愚かな人間を導くために魔力を欲するのみである」
「私めが、この身体と魅了の力で籠絡し、我が神ラザール様に跪かせましょう」
自信に満ちる表情を浮かべるアドリエンヌを一瞥したラザールは、冷ややかに鼻を鳴らした。
「ただの異教の神の手勢に翻弄されたものが、夢でも見ておるのか?」
「第一、人間の世界への道は完全に閉ざされておりますが」
ゼルマリクの冷徹な指摘を否定するように、アドリエンヌが声を荒げる。
「道はあります!」
「ゾーヤが亡き今、他の神の世界を使うことは不可能だが?」
ゼルマリクの言葉にラザールは応じた。視線を再び三人に向け、静かに語り始める。
「然様、道はある。人間の世界には異界との境界が危うきところが存在する。これは我が教皇であった頃から知られておったこと」
「我が神の仰せのとおりです」
アドリエンヌはラザールに深く頭を下げた。
「そこを利用すると言うことですな!」
モルデカイは、まるで自らが活路を見出したように、胸を張る。その態度を貶すかのように、呆れの表情でゼルマリクが疑問を口にする。
「しかし、その場所をどのようにして探し出せば……」
「あの愚鈍な男を使おう」
ラザールの言葉に、モルデカイが大きくうなずく。
「悠斗とか申すものですな」
「然様、伊耶那美の世界が通じる場所もあの者が住む所に近い。そのような場所であれば近接しておってもおかしくはない」
「流石我が神ラザール様。私の傀儡の力を是非にお使いいただきたい」
「あの男の使い途は、傀儡とする他あるまい。我が言葉にモルデカイの傀儡術を乗せよう。その後は其方に任せる」
「この上なき光栄にございます」
モルデカイは深々と頭を下げるが、その表情には満足感と欲望が入り混じっていた。
「しかし見つけられたとしても、人間界に渡るだけの魔力は残っておりませぬ」
再び懸念を示すゼルマリクにアドリエンヌが問いかける。
「どれほどの魔力が必要なのですか」
「先に使い切ってしまったのでな、ヴェリディシアの生命全てを魔力に換えても、ひとり渡るのがやっとかと……」
人間の世界への道を開くには、膨大な魔力が必要なのは理解していたが、その予想を超える量に、アドリエンヌの表情も曇る。
「人間どもに捧げさせれば良い。ヴェリディシア百万の民の命、人間であれば五百人もおれば足りるではないか」
モルデカイの自信に満ちた声に、ゼルマリクはため息をつき応じる。
「今の人間世界に、それほど信仰心の篤いものが五百もおるものか」
ゼルマリクの言葉にラザールは不快な表情を浮かべる。
「神託を下そう——」
一瞬の沈黙の後、ラザールの声が空間を貫いた。
「我が意志は定まった。人間の世界には我自らが降り立ち、あの男の力をこの手に奪い取る。そのために其方らは万事に備えよ——我が言葉を理解したのであれば、下がれ」
三人は揃って深く頭を下げ、その後、大広間を後にした。
——囲炉裏のあるリビングに、レイの可愛げを含みながらも、どこか呆れを含んだ声が響いていた。
「兄様、このような本は趣味が悪いとしか言いようがありませんわ」
「耀君、大丈夫か?」
泰嗣の声に反応し、レイが耀を見つめると、彼は頭を抱え、顔色を失い、苦痛に歪んだ表情を浮かべていた。
「兄様、途中から顔色が悪かったですわ」
「耀様、少しお休みになられては?」
「いや、大丈夫だ。あまりに酷い内容に、少し頭が痛くなっただけだ」
泰嗣はうなずきながら腕を組み、小さな声で呟く。
「確かに、酷い内容だったね」
「耀様、本に出てきた言葉に、聞き覚えがあったからではありませんか?」
イオナの問いに、耀は少し眉をひそめ、考え込みながらゆっくりとうなずいた。
「そうかもしれないな。どちらにしても、その本はイオナに預けておくよ」
イオナは軽く微笑んで、レイから本を預かると、慎重に脇にそっと置いた。
「あの時、買わなくて良かった。ごめんね、耀君。変なもの買わせてしまって」
泰嗣が申し訳なさそうに言うと、耀は顔を上げる。
「泰嗣が悪いわけじゃない、気にするな。それよりさ、これからもたまに遊びに来いよ」
「そうですね。子供が産まれたら、ぜひ見せてください」
イオナがにっこりと微笑んで言うと、レイも嬉しそうにうなずいた。
「レイも見たいですわ」
レイの無邪気な声に、耀は小さく笑みを浮かべた。
——だが、胸の奥にわだかまるものは、まだ消えてはいなかった。
再び温かい空気が流れ始めた部屋に、笑顔のアンナと真由美、陽菜が入ってくる。
アンナは耀の顔を見るなり、心配そうな表情を浮かべた。
「ご主人様、顔色が悪いですが」
「レイが本を読んだからですわ」
「レイ、何を読んだのですか!」
声を荒げるアンナにイオナが冷静に話しかける。
「アンナ様、レイ様はこの本の前付を読まれただけです」
「そうなんだ、僕が読んでくれと頼んだんだよ」
イオナから本を受け取ったアンナは、表紙に視線を落とすと、その瞳が一瞬だけ鋭さを帯びた。
「ヴェリディシア黙示……気分も悪くなるはずです」
「アンナ様もご存知なのですか?」
「はい、以前借りて読んだことがあります」
その声に、レイはうなずき、イオナは驚きの表情を見せた。
「泰ちゃん、そろそろ帰りましょう」
不思議そうな顔でやり取りを見ていた陽菜が、泰嗣に声をかける。
「もう用事は終わったのかい?」
「ええ、二人共、要領が良くて教え甲斐がありました」
「陽菜さんの教え方が上手なんです」
真由美が微笑みながら答えると、陽菜は照れくさそうに小さく笑った。その笑顔には柔らかい優しさが漂う。
「泰嗣さん、帰りに病院に寄ってください」
アンナの言葉に、泰嗣は顔を染めていく。
「うん、そうするよ」
玄関を出る二人を、アンナとイオナが見送りに出る。
「真由美、兄様をお任せしますわ」
そう言うと、レイは早々に自分の部屋に帰ってしまった。
「あなた、少しお部屋で休みましょう」
真由美のやさしい声に、僕は小さくうなずいた。そして、ゆっくりと立ち上がる。
「ああ、そうさせてもらうよ」
「添い寝は?」
「頼めるか。少ししんどいんだ」
僕は真由美に肩を借りると、部屋へと戻った。
胸に広がる言い難い不快な気持ちと、波のように押し寄せる耐え難い頭痛を、真由美が少しでも癒してくれるのではないかという、根拠のない期待を胸に、真由美の温もりに身を任せてベッドに横たわった。
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。
休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。
出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。




