友人夫妻
「久しぶりだね、耀君」
訪ねてきてくれた泰嗣を、僕とイオナが庭先で出迎える。
相変わらず柔らかい何かを大量に収納しているような、デブ……いや、豊満な彼だが、その笑顔には邪気がなく、心からの喜びがにじんでいる。
まるで自分の体格を無視したかのようなコンパクトカーに乗って、まだ肌寒いのにTシャツ一枚で現れた。
「お前、寒くないのか?」
思わず問いかけると、泰嗣は額の汗を手で拭いながら、「いや、全然」と笑う。嘘ではなさそうだ。その額から流れる汗が全てを物語っていた。
「奥様、ようこそお越しくださいました」
僕が泰嗣と話している間に、イオナは泰嗣の妻に声をかける。
「耀様、少し肌寒いので家に入りましょう」
イオナに促され、僕たち四人は囲炉裏のあるリビングへ向かった。
リビングではアンナとレイ、そして真由美が出迎える。メイド服姿のアンナと真由美を見た泰嗣は、まるで少年のように目を輝かせた。
「耀君の家にはメイドさんが二人もいるんだ。羨ましいよ」
次の瞬間、泰嗣の脇腹に衝撃が走る。
小さくて可愛らしい拳……だが、見た目とは裏腹に意外と鋭い一撃が彼の横腹にめり込んだ。
「ごめんよ、陽菜ちゃん……」
泰嗣は苦笑しながら額の汗を拭い、その拳の持ち主は丁寧にお辞儀をして、にこやかに笑う。
「はじめまして、泰嗣の妻の陽菜です」
「初めまして。泰嗣とは大学時代に付き合っていた相葉耀です」
「付き合って?泰ちゃん……」
「耀君、変なこと言わないでくれよ!」
泰嗣は焦った顔で、耳の後ろを掻きながら奥さんに弁明を始める。
「違うんだ陽菜ちゃん。耀君とは大学もバイト先も一緒で、家も近かったからよく一緒にいたんだ」
「そうなんです。うちにゲームを持ってきては、一言も話さず一日中遊んでいました」
奥さんも奥さんだ。どう見ても男の俺に疑いの目を向けないで欲しい。
「そ、そうなんだよ」
「喧嘩もしたな」
「そう、そう」
僕と泰嗣は一度、本気で取っ組み合いの喧嘩になったことがある。どうでもいいことが原因だったが、今となっては懐かしさしか残っていない。
「仲が良かったのですね」
イオナがまるで子供を見るかのような、穏やかな笑顔で話しかける。
「そうだね。泰嗣とは気が合ったんだ。似たもの同士なのかな」
「その喧嘩はどちらが勝ったのですか?」
アンナの興味は勝敗の行方なのか……
「泰嗣だ」
アンナは眉をひそめ、レイは口を開いたまま固まり、イオナは目を見開き、真由美は「うそ……」と小さく呟いた。
「も、もういいだろう」
「どうぞ、お上がりください」
イオナに勧められ、玄関を上がり火は入っていないが、なぜか温かみを感じる囲炉裏の周りに腰をおろした。
「お飲み物を用意してきます」
「泰嗣には冷たいものを頼むよ」
「はい、旦那様」
アンナと真由美はリビングを後にして、キッチンへと向かった。
「驚いただろう? いつの間にか大家族になったんだ」
「いいと思うよ。うん、賑やかでいい」
その賑やかの代名詞たるレイは、イオナに固く言いつけられて、笑顔で静かに座っている。
「陽菜さんも、来ていただいてありがとうございます」
「夫から話を聞いて、楽しみにしていました」
「すみません、ロリータ服の作り方を教えて欲しいなんて、頼める人がいなくて」
「いいえ、私も作るのは好きですけど、教えるのは初めてなので、うまく教えられるか不安ですけど」
「アンナ様も真由美も、器用で理解も早いので、問題ないと思います」
イオナの話を聞き、陽菜はホッとした様子を見せた。
「二人共素人ではありません。特にアンナは自分の身体に合う服が市販されていないので、作っていますし」
「それなら、少し教えるだけで大丈夫かもしれませんね」
「ただ……デザインが難しくて。それに、甘ロリ、クラロリ、ゴスロリ……あとパンロリやミリロリにも興味があるらしいんです」
「——なるほど」
陽菜は泰嗣に持たせていた紙袋から、本を取り出し、掲げて見せた。
「何冊か差し上げます。ロリータ系は夫があまり好まないようなので」
「別に嫌いってわけじゃないんだけどな……」
泰嗣はぼそっと言い訳をしたが、陽菜はくすっと笑って紙袋に本を戻した。
「お待たせいたしました」
アンナと真由美が、囲炉裏のあるリビングに戻ってきた。
「どうぞ、甘いほうが好みと聞きましたので、甘めにしてありますけど、足りなければ遠慮せずおっしゃってくださいね」
そう言って、アンナは泰嗣の前にアイスコーヒーを丁寧に置いた。
「紅茶をご用意しましたが、他のものが良ければおっしゃってくださいね」
カップを差し出した真由美の目から、一瞬笑みが消えた。
「いえ、紅茶好きなんです」
「それは良かったです。今日はよろしくお願いします」
「はい」
全員に飲み物を配った後、真由美はゆっくりと陽菜に歩み寄ると、不意に動きを止めた。
「……」
陽菜が戸惑いを浮かべる中、真由美は軽く鼻を動かし、わずかに眉を上げる。
「あ、あの……私が何か匂いますか?」
焦るような表情で身を縮める陽菜を気に留めることなく、真由美がふっと微笑んだ。
「陽菜さん……もしかして、おめでたじゃないですか?」
「えっ……」
「妊娠されているんじゃないですか?」
陽菜は恥ずかしそうにうつむき、指をもじもじする。
「あっ、あの……そうかもしれないなって、最近……」
「陽菜ちゃん、本当なのかい?」
「泰ちゃん。まだ、分かんないけど、そうかも……」
「陽菜ちゃん、うれしいよ」
「本当?もう泰ちゃんだけの相手はできなくなるよ」
「いいんだ。うわー……僕、パパになるのか……」
「泰ちゃんの子供だから、可愛い子が生まれるよ」
二人は手を取り合い、笑顔で見つめ合っている。
「泰嗣の方が顔を真っ赤にしてるじゃないか。おめでとう」
嬉しそうな二人を見て、思わず僕も嬉しくなり、気の早い言葉をかけた。
「おめでとうございます。泰嗣さんもおめでとうございます」
アンナは胸の前で手を組み、柔らかな笑みを浮かべる。
「お二人共、嬉しそうで何よりです。陽菜様、早めに病院に行かれたほうがよろしいかと」
イオナの冷静な言葉に、二人は同時にうなずいた。
「お二人共、良かったですね……ちょっと羨ましいです」
真由美は微笑みながらも、その目だけが笑っていなかった。なぜか、まっすぐ僕に視線を向けてくる。
「きっと子供もデ……」
レイの言葉を遮るように、イオナがすばやくその口を塞いだ。
「レイ様、少しお部屋でご休憩なさってください。顔色がよろしくありません」
レイはイオナの手によって、そのまま強制退場させられた。
きっと部屋で説教されるのだろう。イオナはレイに容赦のないところがあるからな。
残った四人で、穏やかに言葉を交わす。
アンナも真由美も、笑顔が絶えない。その柔らかな表情が、部屋の空気を優しく彩っていた。
「そろそろ、始めましょうか」
陽菜が声をかけると、アンナと真由美がうなずく。
「陽菜さん、こちらに家事用の部屋がありますので、ご案内します」
「私は飲み物を用意してから行きますね」
泰嗣から受け取った紙袋を持とうとする陽菜を、アンナがさりげなく手を伸ばして受け取った。
「結構重たいのに、軽々と持つんだね」
泰嗣の驚いた声に、アンナは振り向いて微笑む。
「泰嗣さんなら、片手で持ち上げられますよ」
キョトンとした表情の泰嗣を残し、三人は部屋を後にする。
扉が閉まると、部屋は少し静かになった。残ったのは、泰嗣と僕だけ。
ふと、カップの中のコーヒーが揺れるのを眺める。さっきまでの賑やかな会話が、まだ部屋に溶け込んでいるような気がした。
「……冗談だよね?」
泰嗣はようやく理解が追いついたのか、目を見開いて僕に問いかける。
「いや、本当に片手で持てる」
「そうか……いや、話には聞いていたけど、賑やかでいいね」
泰嗣が微笑む。その表情には、どこか安心したような温かさがにじんでいる。
「泰嗣も、もうすぐ家族が増えるかもしれないんだ。すぐに賑やかになるさ」
自分で言いながら、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
賑やかで、穏やかで、こんな時間が続けばいい——
「そうだ、耀君。あの本、見せてくれないかな?」
突然、泰嗣が思い出したように言った。
「あの本?」
「そう、あの本」
「あー、久しぶりに会った時に買った本か」
悠斗に呼び出され、ついでに寄った古本屋で見つけた、どこか不思議な雰囲気のある本。
結局、読まずに本棚の飾りと化していたが、元は泰嗣が買おうかどうか悩んでいたものだった。
「そう、それ」
「ちょっと待っててくれ、取ってくるから」
席を立ち、部屋へと向かう。
本棚からその本を手に取ると、表紙に指を滑らせた。独特の手触りと、時間の染み込んだような風合い。
リビングに戻る途中、家事部屋から三人の楽しそうな声が聞こえてくる。
アンナの澄んだ笑い声に、真由美の優しい相槌。陽菜さんも、さっきより声の調子が軽やかに感じた。
囲炉裏のあるリビングへ向かいながら、ふと息をつく。
この穏やかな時間が、当たり前のようでいて、どれほど貴重なものなのか。
静かに、一瞬だけ目を閉じた。温かい空気が、じんわりと心に沁みる。
囲炉裏のあるリビングに戻ると、泰嗣はまるで子供のように目を輝かせて、僕の手にある本を見つめた。
「やっぱり、目を惹くものがあるね」
「そうなんだ。何語で書かれているかも分からないから、本棚に飾ってただけだけどな」
「うん。それもいいと思う」
本を手渡すと、泰嗣は感触を確かめるように、ゆっくりと表紙を撫でた。
「何の皮だろうね?」
「いや、分からない。皮なのは間違いないと思うんだけど」
革の手触りは、どこかしっとりとした独特の感触がある。
泰嗣は慎重にページを開き、じっと眺める。
「本当に読めないね……」
「そうなんだ、最初のページで諦めたよ」
「うん。僕もそうなると思う」
泰嗣はページをパラパラと捲る。手の動きがどこか探るようなものに変わっていった。
「これは、羊皮紙なのかな?」
「分からない。本の厚さの割に、ページ数が少ないよな」
「そうだね。あの日、これを買って帰ったら陽菜ちゃんに怒られたな」
「僕もまだ、誰にも見せていないんだ」
「そうなっちゃうよね」
ふと、泰嗣の手が止まった。
「これは何だろうね?」
開かれたページには、奇妙な模様の絵が描かれている。幾何学的な――もしかすると、魔法陣のようなものかもしれない。
「魔法陣みたいだ」
僕が言葉に出す前に、泰嗣が呟いた。
僕が言葉に出すのを躊躇った理由は、以前に見たことのある魔法陣――そう、ラウムの召喚魔法陣とも、ダンタリオンの召喚魔法陣とも異なる感じがしたからだった。
泰嗣は興味を持ったようで、その絵をじっくりと眺めている。
「美少女とか召喚できないかな?」
冗談とも本気とも取れない表情で呟く。
「それは、奥さんに伝えたほうがいいか?」
「だ、だめだよ。冗談だよ冗談」
こんな焦り方をするということは、本気だったんだな。僕は軽く肩をすくめ、囲炉裏の向こうで本に夢中になっている泰嗣の様子を眺めた。
しばらく静かな時間が過ぎる。泰嗣がページをめくる音だけが部屋に響く。
ふと、大学生の頃を思い出した。いつもこうやっていた。一緒にいるけど、何かをするわけではない。ただ同じ空間にいて、それぞれが好きなことをして過ごす。言葉はなくても、心地よさだけがそこにあった。
——こんな時間も悪くはない。
ぼんやりと懐かしんでいると、ふいに声をかけられる。
「何を読んでいらっしゃるのですか?」
イオナは首を傾げて、泰嗣の手にある本に視線を向けていた。
「古本屋で泰嗣が見つけて、僕が買った本なんだ」
「変わった本ですね」
そう言いながら、イオナは泰嗣の隣に腰をおろす。
なぜか泰嗣は顔を真っ赤にしてしまった。
「拝見させていただいてもよろしいですか?」
「はい!……どうぞ」
照れくさそうにイオナに本を差し出す泰嗣を見ると、笑いがこみ上げそうになる。
イオナは手渡された本のタイトルを一瞥した後、何かを探るように表紙を指でなぞる。まるでその手触りから、何かを感じ取ろうとしているようだった。
「耀様、これをどこで手に入れたのですか?」
「大学生の頃に通っていた古本屋だよ。イオナは読めるか?」
「いえ、読めません。ですが……」
イオナの指が表紙を撫でる動きが、ふと止まる。
「この材質には、覚えがあります」
「何かの皮みたいだよね」
泰嗣が興味深そうに尋ねる。
「ええ」
イオナは静かに言った。
「——人間の皮です」
僕と泰嗣は目を見開き、イオナを見る。しかし彼女は、まるで何事もなかったかのように平然とページを捲り始めた。
「イオナ、本当なのか?」
「はい。以前、実際に鞣されたものに触れたことがあります」
「……ただ良く似ているだけって可能性は?」
「ゼロではありませんが、限りなく低いでしょう」
目を合わせ、息を飲む僕と泰嗣。そんな僕たちの動揺をよそに、イオナは興味深げに視線を落としている。
「ルーン文字のように見えますが……」
冷静に呟くイオナ。その穏やかな声が、逆に僕たちの不安を静めるように感じられた。
――僕は、とんでもないものを手に入れてしまったのかもしれない。
この本を所持していてもいいのだろうか。不安が胸に広がっていく。
「なんですの、その悪趣味な本は」
部屋にレイの明るい声が響き、沈んでいた空気が一気に晴れる。
「悪趣味とは何ですか。耀様が購入された本ですよ」
「兄様、なぜあのような悪趣味な本を買いましたの?」
「悪趣味かな?装丁が変わっていて、思わず買ってしまったんだけど……」
「『ヴェリディシア黙示』なんて、趣味がいいとは思えませんわ」
全員の視線がレイに集中する。そんなことを気に留める様子もなく、レイは僕の隣に腰をおろした。
「レイ様、この本が読めるのですか?」
「読めますわ」
イオナにそっけなく返事をしたレイは、手に持っていたジュースの缶を僕に差し出す。
缶を開けて返すと、笑顔を向けてくれた。未だに自分では開けられないらしい。
「その本は、ラザール・ドレヴァンという教皇が、死を前にして書いた預言書のようなものですの」
その名を聞いた瞬間、僕の頭に不快な痛みが走った。
どこかでその名前を聞いたことがあるような気がする。でも、思い出せない……
「レイ様、この本には何が描かれているのですか?」
レイは少し眉をひそめ、明らかに嫌そうな表情を浮かべた。
「レイもあまり覚えていませんの。ちょっと貸してくださいまし」
そう言うとイオナから本を受け取り、ため息をつく。その様子を気遣ったのか、泰嗣がレイに声をかける。
「あの、さっき見つけた絵、何か分かるかな?」
その声を聞き僕はレイから本を借り、魔法陣のような絵が描かれたページを開いた。
「大天使ウリエルの召喚魔法陣と書いてありますわ。この魔法陣で召喚したとも書いてありますの」
「美少女じゃなかったな」
僕のからかうような言葉を聞き、少し肩を落とす泰嗣を見て、イオナが呟く。
「ロリコン趣味も同じですか……」
「イオナ、どういう意味だ?」
「いえ、独り言です」
「僕は耀君と違うよ。ロリコンじゃなくて、美少女が好きなだけなんだよ」
「泰嗣、どういう意味だ?」
レイがさっきより大きなため息をつき、少し声を張り上げる。
「兄様、本を貸してくださいまし」
僕がレイに本を渡すと、レイは静かに表紙を開いた。
「前付けを読めば、どのような本か分かると思いますわ」
部屋にいる全員が、期待と不安が入り交じる気持ちで、静かにレイの声を待っていた。
ページを捲るレイの指先だけが動き、他のすべてが——まるで時間を忘れたかのように、静止していた。
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。
休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。
出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。




