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それぞれの夜

闇が深まるほど、静寂は重みを増していく。誰もが言葉を失い、時が止まったかのような静けさが場を支配していた。

(かす)かな吐息すら、夜の帳に吸い込まれていくように感じられる。

だが、やがてその沈黙を断ち切るように、レイの声が響いた。


「ラウムは、なぜ兄様(にいさま)の世界に行きましたの?」

(それがし)の召喚が途絶えそうになったゆえ、もう少し維持してもらえぬか頼みに行ったのであるな」

「ミスティさんは?」


アンナの視線が、ミスティに向けられる。


(わらわ)を呼んだのは殿ではなく、伊耶那美(いざなみ)殿じゃ」


その名が出た瞬間、空気が微かに張り詰める。


「伊耶那美さんがどうして?」


アンナの問いかけに、ミスティはふっと口の端を上げた。


「先の戦の礼がしたいと申されてな。少し、(たわむ)れておった」


軽く言うその声音の奥に、何が潜んでいたのか……誰が知る(よし)もなかった。


「戻る前に、殿の世界に侍女を連れて行くと申されてな。それで妾も同行したところ、ラウム殿に出会ったのじゃ」


一瞬にして、アンナの表情が曇る。


「ミスティさん……侍女とは?」


低く鋭い声が、場の空気を張り詰めさせる。

ミスティはわずかに首を傾げながら、まるで取るに足らないことのように言った。


「殿も男一人では不便であろうとな、伊耶那美殿が、己の肉より生み出したのじゃ」

「そういうことを聞いているのではありません」


アンナの声が一段と鋭さを増し、空気が凍りつく。

ミスティは顎に手を当ててしばし考え、それから肩をすくめた。


「うむ、すまぬ。見目麗(みめうるわ)しき四人の美女じゃ。この衣装もその者が着ておったのを真似たのじゃ」


そう言って、ミスティは今までとは異なる新しい衣装の裾をひるがえす。

その仕草を見たレイは、ふっとため息をついた。


「アンナ、怒るだけ無駄ですわ」


その冷めた声に、アンナは一瞬何かを言いかけるが、唇を噛んで飲み込む。


「……あの、女子(おなご)どもは、伊耶那美殿が殿を監視するために遣わしたようなものじゃ」


ミスティが軽く言い放つ。


「どういうことですか?」


アンナが食い気味に問い詰める。


身体(からだ)を得た殿に何かあれば、伊耶那美殿が妾とラウム殿、そしてレイ殿に知らせてくれるそうじゃ」

「……監視ですか」


アンナが皮肉げに笑う。


「あの女、なかなか気が効きますわ」


レイはどこか満足げな表情を浮かべていたが、ふと何かに気付いたように目を見開いた。


「ちょっと待ってくださいまし。その状況なら、ラウムと同じように、兄様厨二形態を召喚できるのではありませんの?」

「それはできぬのであるな」


ラウムは淡々と答え、グラスの中で氷を揺らす。


「どうしてですの?」


レイが疑問を重ねると、ラウムが静かに口を開いた。


「あの世界は、未だ肉体の中に存在するゆえ」


低く響くラウムの声が、部屋の空気を微かに重くする。

彼はグラスを飲み干し、ゆっくりと目を細めた。


「召喚すれば、あの世界に溜め込まれた膨大な量の魔力が暴走するかもしれぬ。そうなれば、肉体はただではすまぬのであるな」

「うむ、殿の存在があの魔力を留め置いておる」


ミスティの声には、どこか慎重な響きがあった。


「それと、もう一つ。肉体の方は感情を取り戻すであろう」

「……なぜですか?」


アンナの声がわずかに震える。

ラウムは静かに目を閉じる。


「肉体に生まれる感情を魔力にすることが難しくなったと申しておった」

然様(さよう)じゃな……」


ミスティは微かに息をつき、続ける。


「人のことまで構う余裕はないと申しておった」


ミスティの声に、ラウムはうなずいた。


「主人は少しやりすぎたのであるな。常に増え続ける魔力に、三千もの概念者の身体と魂を魔力に変えて加えてしまったゆえ、少しでも生まれる魔力を減らしたいのであろう」


レイは言葉を失い、イオナも沈黙したまま微かに眉をひそめる。

彼女の瞳が揺れるのを、ミスティは静かに見ていた。


「もし……もし兄様が感情を取り戻したら……」


レイの呟きに、ラウムは短く息を吐いた。


「分からぬのであるな。だが、戸惑うことや不安定になることもあるゆえ、(なんじ)ら全員で支えてくれと言っておったのであるな」

「勝手すぎます!」


突然、アンナの声が響いた。


「アンナ殿、いかがなされた?」


気遣うような表情で、ミスティが問いかける。


「面倒事を私たちに任せて、ご主人様は美女四人と戯れているのですか?」

「そうではあるまい。主人は肉体が寿命を迎えるまで、汝らにも人間の世界を謳歌させたいのであろう」


ラウムの言葉を補うように、ミスティが続ける。


「アンナ殿、あの魔力の量は尋常ではない。恐らく、魔力を肉体に供給するのを止めたのではなく、供給する余裕がないのではないかの」

「……それほどまでですの?」


レイが驚愕の表情を浮かべた。イオナも眉をひそめる。


「然様であるな。あれを新たに創った自身の身体に取り込もうとしておる」

「なぜそのようなことを?」


見開いた目で問いかけるイオナに、ラウムが落ち着いた声で答える。


「それが一番暴走しにくい方法であるゆえ」

「全てをコントロールしようと?」

「……あの世界の概念は既に崩壊しかけておる。新たな概念を産み出すより、一度全てを取り込む方が早いのであろう」

「それは……」

「うむ。損じれば、主人の存在すら危うい。だが、その時は、あの世界ごと消え去るつもりであろうな」

「そんな……私も、ご主人様に御恩があります。私も、最後の時まで傍で仕えたいです」


アンナの声には、かすかな震えが混じっていた。

レイが不思議そうに首を傾げる。


「アンナは兄様厨二形態を気に食わなかったのではありませんの?」

「正直に言うと、そのとおりでした。でも……私は、勘違いをしていました」


レイの顔をまじまじと見つめると、アンナはティッシュを手に取り、レイの口元に付いていたクリームを拭き取る。


「アンナ殿。恩を返すのであれば、今のこの世界の環境を、より良くするだけでも良いと思うのじゃ」

「然様であるな。アンナがあの世界に行けども、今は主人の邪魔にしかならぬであろう」

「——そんな」


アンナは何も言い返せず、そっと視線を落とした。

イオナが静かに口を開いた。


「アンナ様。この際正直に話しますが、私も今の耀様には思うところはあります。ですが、その思いのままに行動を起こすことは、人間の身体の幸せを願う、もうひとりの耀様に申し訳が立ちません」

「そのとおりですわ、アンナ。レイも、イオナと同じことを考えておりますの」

「……ミスティさんは?」


アンナが問うと、ミスティは微かに笑みを浮かべながら答える。


「妾か。妾は蛇の姿のまま、この屋敷を守るだけが、この世界での努めだと思っておる。それが妾に与えられた役目であり、妾が望むことでもあるのじゃ」


アンナは息をつき、静かに目を伏せた。


「……ええ、分かりました。きっと、それが一番なんですね」

「そのとおりですわ」


レイはニッコリと微笑んで、アンナを見ていた。


——その頃、話題となっている世界は、変わらず様々な色を(まと)い、まるで生き物のように(うごめ)く魔力が渦を巻いていた。その中心に、耀は静かに座り込み、目を閉じている。

四人の美しい女性が、その様子を慎重に見守っていた。


「静かに座っておいでですが……寝てございまするか?」


ひとりが穏やかな声で問いかけると、耀は目を閉じたまま、低く答えた。


「いや、起きている」

「何をなさっておられます?」

「……これをどうしたものかと思ってな」


その言葉に、女性たちは無言のまま互いに顔を見合わせる。

耀がゆっくりと目を開けた。彼の視線の先、いや、それだけではない。周囲の空間すべてが、濃密な魔力に満ちていた。

まるで大海の底に沈んでいるかのように、魔力は重く、絡みつくようだった。静寂の中にも、微かに脈動が感じられる。

四人の女性の表情はそれぞれ違っていた。一人は興味深そうに、一人は警戒心を(にじ)ませ、一人はどこか切なげに。そして、最後の一人はただ静かに微笑んでいた。


「この魔力……お身体に負担はございませんか?」

「問題ない」


そう答えた耀の声には、確かな自信があった。しかし、溢れる魔力を我が身に取り込み続けるのは、できたての身体には負担となっているのも事実であった。


「おとと様、もしやご存じではないのでしょうか?」

「何をだ」

「これほどに怨念の混じった魔力は、既に……瘴気と呼ばれるものにございまする」

「瘴気……だと?」


耀はその言葉を口にしたものの、具体的に何を指すのか見当もつかなかった。ただ、どこかで聞いたことがある。それがいい意味を持つ言葉ではないことは、本能的に理解できた。


「然様にございまする」

「おかか様に聞きましたる話では……この地で、おとと様が幾千もの命を屠られたと」

「そうだな。しかし、その魂ごと魔力へと変えたはずだ」

「……おとと様が感情で作りたる魔力には、それぞれ異なる色が宿っておられます。しかし、なぜ感情ごとに別けられたのでございましょうや」


四人の美女のうち、一人が言葉を紡ぐと、他の三人も後に続く。


「おとと様は、魔力の性質が感情によって異なることを見分けられるのではございませぬか?」

「感情とは魂に宿るもの。混ざり合っておりましても、分かるはずにございまする」

「おとと様、我らの力もお貸しいたします」


四人は静かに耀へと歩み寄ると、そっとその身に(すが)りついた。そして、微笑みながら(ささや)く。


「どうぞ、この世界の今の姿に目を凝らしてくださいませ」


目を閉じ、漂う魔力に意識を向ける。そこに混ざり込んだものを探るように、目を凝らすように心を研ぎ澄ませた。


「恐怖、後悔、絶望、憎悪、恨み、憤怒……」


それらはどれも負の感情であり、魔力となっても行き場を失ったように宙を彷徨(さまよ)っている。

恐怖は鋭く、後悔は絡みつき、絶望は深い(ふち)のように広がる。憎悪と恨みは絡み合い、もつれた糸のように魔力の中に混じり、憤怒は今にも燃え上がる炎のように揺れている。


「お見えになりましたようでございますな、おとと様」

「魔力に換えられし時に(いだ)いていた感情でございましょう」

「恐ろしゅうございまするか?我らが身にて、しばしの安息を」

「おとと様ありての我らでございますれば、遠慮なされてはいけません」


四人は静かに立ち上がると、柔らかな布のように衣を滑らせ、宙に溶けるように脱ぎ去った。

混沌と魔力が渦巻く空間の中で、肢体は白く輝き仄かに揺らめく。

次の瞬間、四人は耀のもとへと歩み寄り、それぞれがその身体の一部にそっと口づけを落とした。

四つの口づけが、そっと耀の意識を抱きしめていく。


「だが、この感情は俺に向けられたものではないが」

「そのとおりでしょう。ここで屠られた者たちは、相手が誰かも分からぬまま、存在をも否定され、消え去ったのです」

「確かにそうだ」

「では、これは誰に向けられたものでございましょうや?」

「……分からんな」

「自らを戦いの場へ引きずり出した者でございましょう」

「それは?」

「彼らの雇い主、上官、ひいては、彼らが生まれし世界の主でございましょう」


四人は一斉に耀を見つめた。心配そうな表情を浮かべながらも、その瞳の奥には、得も言われぬ(つや)が宿っている。


「そのような恐ろしき魔力を身に取り込めば、おとと様は恐ろしき存在になりまする」

「おとと様、覚悟はおありですか?」

「おとと様の魂まで汚されぬよう、安息が必要にてございます」

「此度は我が順にございまするな……」


ひとりがゆっくりと耀の前に出る。白い指がそっと耀をなぞり、その熱を確かめるように絡めた。


「では、おとと様。恐ろしき瘴気に(とら)われて、(はした)なく忍音など漏らさぬよう……我が内にて、枯らしてくださりませ」


微かに笑みを浮かべながら囁き、静かにその身を耀の前にさらけ出した。

……ラウムたちのフォローも、清々しいほどに虚しく、概ね、アンナの予想通りのことが起きていた。


自宅のリビングでは、突然心に湧き上がった鬱屈した気持ちに、アンナが盛大にため息を漏らした。

それを見たミスティが、何かに気付いたようにレイに問う。


「ところで、真由美殿の姿が見えぬが……」


軽く言うその声音の奥に、何が潜んでいたのか……誰も知る由はなかった。


「兄様のお部屋ですわ」


レイは含みのある笑顔を浮かべる。


同衾(どうきん)しておるのか。その割には静かなようじゃが」

「アンナと違って、真由美は静かですわ」


その一言に、アンナの鋭い視線がレイを貫いた。


「レイ、それでは私の声が大きいみたいじゃないですか」

「ええ、そのとおりですわ」


レイは口元に手を添えて、くすくすと笑う。

アンナがリビングを見回すと、イオナはわざとらしく天井を見つめ、ミスティは小さく咳払い。ラウムはグラスを口に運びつつ、そっと視線を()らした。

アンナは声をひそめるようにレイに尋ねる。


「もしかして、ここまで聞こえていたなんてことはありませんよ。ね?」


レイは優雅に微笑むと、楽しげに答えた。


「全部、聞こえておりましたわ」


アンナは両手で顔を覆ってうつむいた。耳の先まで真っ赤に染めながら、小さく呻くように息を漏らした。


ちょうどその頃、話題の種となっている耀の部屋では、真由美が倒れるように耀の胸に抱きついた。


「……あなた」

「真由美、疲れたんじゃないか」

「大丈夫です」


息切れしながらも上体を起こそうとする真由美を、耀は優しく抱きとめた。彼女の細い肩がわずかに震えているのを感じ、耀はそっと背を撫でる。


「優しすぎます。——あの、気を悪くしないでくださいね」

「ああ、どうしたんだ?」


真由美は耀の胸に顔を埋めたまま、小さく息をついた。


「もうひとりの旦那様の気配がなくなってから……あなた、とても優しくなりました」

「真由美が、そう思っているのなら、それで間違いないだろう」


前にも似たような話をした記憶があるが、耀は黙って聞いている。


「あなたの、この相手は私だけにしてください」


耀はふっと息をのみ、一瞬だけ真由美を見つめた。


「それはどうして?」

「今、アンナさんとかと、こんなことしていたら……私は嫉妬で狂い死にます」


震える声でそう言いながら、真由美は耀の胸を指先でなぞる。

耀は少し考え込む。その思考を読んだかのような言葉が聞こえてくる。


「皆さんもあなたの妻と言っているのは知っています。でも、本当にそうなんですか?」

「どういう意味だろう?」

「妻と言っているのは、もうひとりの旦那様も含めてだと思います。だから、今の本当のあなたの妻は私だけです」


耀は目を細める。


「じゃあ、アンナたちを追い出すのか?」

「違います。妻でなくても家族には変わりないです。だってそうでしょう。困っていた私を助けてくれた。そして今は私とあなたのことを応援してくれているから」

「みんな納得しているのか」

「もちろん。あなたの相手は私と決めたのは、アンナさんだったりします」


耀は一瞬、言葉を失った。


「それでみんなはいいのか?」

「そうですね……でも、たまに寂しくなることもあると思います。そんなときに、そっと寄り添うくらいならいいです。でも、それ以上は許しません」

「真由美の言うとおりにするよ」

「約束ですよ」


真由美が耀を見つめる。潤んだ瞳の奥に、微かな影が見えた。


「もし他の誰かとこんなことをしたら。あなたを殺して、私も死にますから」


耀は息をのんだ。冗談だろうか。それとも本気なのか。

彼女の指が耀の胸元を軽く掴む。その小さな力に、異様な重みを感じた。


「……この身体は、もうあの旦那様に貸さないでください。もし貸して、他の女といちゃついても、私はあなたを殺してしまいそう」


この言葉は僕に向けられたものではない、彼女の覚悟がその言葉の重さになっただけだ。

真由美をこの手を離す理由がもう見つからない。彼女を抱き寄せる手に自然と力が入る。

本当の僕のことを、ここまで思ってくれる人がいる。

その事実が、自分への自信と、彼女への愛おしさを確かにしていく。

お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。


休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。

出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。

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