お披露目の日
「おはよう。あなた」
まぶたを開くと、ぼんやりと真由美の姿が写った。寝起きなのだろうか、まだ髪も乱れ、化粧もしていない。
「もう少し寝ていてください。後でお越しにきます」
「ああ、そうさせてもらうよ」
あっという間に服を羽織ると、真由美は僕の部屋を後にする——何だか名残惜しい。
すると、扉の向こうから声が聞こえてきた。
「真由美、兄様はお目覚めになりましたの?」
「旦那様は、まだお休み中です」
真由美が気を利かせてくれたようだ。
「起きていますわ」
すぐに顔に出る真由美のことだ。察しのいいレイには、そんな小細工は通じない。
ふたつの足音が廊下の向こうへ消えていく。そして、すぐに軽やかな足音が近づいてきた直後、勢いよく扉が開いた。
「兄様!お薬の時間ですわ」
あの日以降、毎朝、アンナとレイが交代で、粘度の高い液体を飲ませにくるようになった。
確かに、あれを飲むと身体が軽くなる感じはある。軽くなるというより、身体の重みが消えると言ったほうが正しいかもしれない。
「レイ、おはよう」
「おはようございます。さあ、兄様、お薬を飲んでくださいまし」
薄い黄色の液体が入った瓶を差し出してくる。不味くはないのだが、口と喉に纏わりつく感じが好きになれない。
「レイ、これは何で作ってるんだ?」
一瞬たじろぐ様子を見せたレイが、目を泳がせながら答える。
「お、乙女の秘密でございますわ」
なんか口調がおかしい。それと、『秘密』とだけ言ってほしかった……
レイが部屋を出るのと入れ替わるように、真由美が戻ってきた。
いつものメイド服に着替え、さっきまでの雰囲気が嘘のように変わっていた。
「あなた、そろそろ起きてください」
「レイに起こされて、もうずっと起きてるよ」
「ごめんなさい。すぐにバレちゃいました……」
「気にしなくていい。それより、その格好も可愛くていいね」
真由美が、ふっと微笑みながら僕の上に覆いかぶさってくる。
「……します?」
「お願いしようかな……」
僕の顔を見て、真由美はニコッと微笑む。
「今日はダメですよ。茂さんと幸子さんが来ますから」
「そうだった……」
高ぶった気持ちを落ち着かせながら、真由美に手伝ってもらい身支度を整える。
「あなた、明日の朝……着たままでお願いしますね」
この昂ぶりを、明日まで持て余すことになりそうだ。
朝食を終え、僕は完成した新しいリビングへと向かう。
いつの間にか、大きなソファとカーペットが加わり、以前よりも豪華な雰囲気になっていた。
ついでにイオナの部屋を覗かせてもらったが、机とベッド以外、何もない。イオナらしいと言えばイオナらしい。
問題は隣の真由美の部屋だ。何せ、ベッドがない……見なかったことにしよう。きっと何かの事情があるんだ。たぶん。
アンナと同じように、きっと押し入れから布団を出して敷くんだろう。そう、そうに違いない。
でも——真由美は、あいつのいない今の僕だけをありのままに受入れてくれる。毎晩一緒に寝てもいいかな。いや、毎晩一緒に寝てもらおう。
「おお、でっかい家になったんだ」
「爺さん、声が大きいです」
外から声が聞こえてきた。茂さんと幸子さんが来たようだ。
その声に反応するように、軽やかな足音が縁側を駆けてくる。
「茂おじいさま!お待ちしておりましたわ」
「おお、レイちゃん。立派な家になったな」
「ええ、そうですわ。さあ、どうぞお上がりくださいまし」
レイに手を引かれ、茂さんはリビングへ上がり、室内を見回す。
「昔ながらの造りを、今風にしたんだな。うん、いい家なんだ」
「ありがとうございます、茂さん」
「おお、相葉さん。おめでとう。無事に完成して良かったんだ」
「おかげさまで。茂さんが力を貸してくださったおかげです」
「そんなことないんだ。それより、これは囲炉裏なんか?」
僕に変わってイオナが答える。
「そのとおりです。玄関を入ると囲炉裏がある、天井の高い空間は、伝統的な農家の造りと聞きましたので」
「確かに、ワシが子どもの頃は、こういう家があったんだ」
玄関を上がるなり、幸子さんは何かを探すように視線を巡らせ、そわそわとしていた。
「幸子様、いかがなさいました?」
アンナがそばに近づき、静かに声を掛ける。
「どうも、落ち着かなくてね……」
「幸子様、縁側はそのままですから、そちらに行きませんか?」
「はい、そうしましょう」
「では、こちらへどうぞ。お茶を用意いたしますので、しばらくお待ちください」
その様子を見ていたイオナが、静かにアンナへと声を掛けた。
「アンナ様、私も手伝います。真由美、こちらをお願いします」
「はい、イオナさん」
幸子さんを先に立て、アンナとイオナは、懐かしさを残す縁側へと静かに向かっていった。
「相葉さん、婆さんは口には出さんけど、本当は無事に完成して安心しとるんだ」
茂さんが僕の肩を軽く叩き、目尻に深い皺を寄せながら笑う。
「ありがとうございます」
レイが茂さんの袖を両手でそっとつまみ、軽く揺らしながら上目づかいで話しかける。
「茂おじいさま。兄様の女がまた増えましたので、畑も増やしたいですの」
「女が増えたんか、そりゃ困ったもんだ」
茂さんは大げさに頭をかきながら、苦笑いを浮かべる。
「ええ、困ったものですわ」
レイは口元に手を当てて、ふふっと含み笑いをする。
「よし、もう暖かくなってきたし、畑を広くするかの。レイちゃんも手伝ってくれるんだな?」
「もちろんですわ」
レイは胸を張り、小さく拳を握る。
「無理を言ってすみません」
僕が軽く頭を下げると、茂さんは笑顔で僕の肩を叩く
「なーに、気にするな。レイちゃんと真由美ちゃんのお陰で、正月はたっぷり稼がせてもらったしな。せめてもの恩返しだ」
茂さんは腰に手をあて、豪快に笑う。
「嬉しいですわ。茂おじいさま」
レイがぱっと笑顔を咲かせ、ぱんっと小さく手を鳴らす。その横で、真由美がぐったりと肩を落とし、遠い目をして呟く。
「あー、正月ですね。あれは本当に疲れました……」
「真由美ちゃん、そんなに暗い顔をしたらだめなんだ。たっぷり儲けたら笑顔になるもんだ」
……本当に神主なんだろうか、この人。
同じ頃、縁側では、幸子を中心に、アンナとイオナの三人が腰をおろし、穏やかに話をしていた。
「イオナさんは、相葉さんと進展はありましたか?」
幸子が湯呑を手に取りながら、静かに尋ねる。
「いいえ、相変わらずです」
イオナは小さく微笑み、湯呑を両手で包み込む。
「それは、寂しい思いをしていますね」
幸子が心配そうに顔を向けると、イオナは首を軽く横に振った。
「そうでもありません。どちらかと言うと、大勢で過ごす時間の方に楽しみを感じていますので」
「そうですか。それならいいのですが……」
幸子は安堵したように微笑み、視線を庭へと移す。
「アンナさんは相変わらずですか?」
「私も、ご主人様というより、みんなで過ごす方が楽しくなって」
アンナは湯呑みを膝の上で大切そうに持ち、庭の方をぼんやりと見つめながら答える。
「相葉さんが寂しがるのでは?」
「最近は真由美が付きっきりなんです」
イオナが肩をすくめ、わずかに口元を緩めた。
「私達はこの国の生まれではないので、真由美さんとの方が分かりあえるところが多いみたいです」
アンナはそっと湯呑を置き、柔らかい笑みを見せる。
「そうかもしれませんね。育った環境から得た経験は、そう簡単に変えられませんからね」
幸子が静かにうなずきながら、湯呑の中の茶を一口含む。
「でも、本当に充実しているんですよ。また、畑仕事が始まるのが楽しみで」
アンナの表情がほころぶ。
「休日は私も手伝いますので、幸子様、いろいろご教授ください」
イオナは穏やかな口調ながら、期待に瞳を輝かせる。
「はいはい、今年も忙しくなりそうで、楽しみですね」
幸子は小さく笑い、湯呑を手の中で転がした。
三人は庭を眺めながら、春の風に穏やかな会話を運ばせていた。
風の先には、深緑の香りが混ざり、今を受け入れるアンナとイオナを優しく癒やした。
「アンナ、お腹が空きましたわ!」
レイが勢いよく縁側へ駆け込んできた。
「レイ、もう少し静かに歩きなさい」
アンナは小さくため息をつきながら、それでも微笑みを浮かべ、立ち上がる。
「では、用意しましょうか。レイ、真由美さんを呼んできてください」
アンナはキッチンのあるリビングへと足を向けた。
「幸子様、軽い昼食をご用意いたしました。どうぞ召し上がってください」
イオナが静かに微笑みながら、幸子を囲炉裏のあるリビングへと促す。
「そうですか。じゃあ、ご馳走になりましょうか」
幸子が穏やかにうなずくと、レイが笑顔でそっと手を貸す。
三人は並んでリビングへと向かった。
おにぎりと卵焼き、野菜の煮物、それに漬物と味噌汁──質素ながらも心が落ち着く食事が並べられた。
「ワシはこんなんでいいんだ」
「私もですよ」
茂さんと幸子さんは、満足そうにうなずきながら箸をとる。
「茂おじいさま、今年は何の野菜を育てますの?」
おにぎりを片手に持ちながら、レイが茂さんに尋ねた。
「そうだな……そら豆なんてどうだ?」
「美味しいですよ」
茂さんの案に、幸子さんもうなずく。
そら豆か……茹でたてに塩をふって食べると美味いんだよな。
「私はピーマンを作りたいです」
「イオナはピーマンが好きなのか?」
「はい、あの独特の風味が何とも言えません」
イオナが少し嬉しそうに微笑む。
「レイは要りませんわ」
レイはそっぽを向きながら、きっぱりと言い放つ。その様子を見て、茂さんと幸子さんは大笑いしている。
イオナがピーマン好きなのは意外だったが、レイが嫌いなのはよく知っている。いつも皿の端に避けて、最後には隣のアンナに全部あげているからな。
「あの……茂様、大根なんて作れないのでしょうか?」
アンナが少し遠慮がちに尋ねる。
「うーん、根菜を育てるには、ここの土は少し固いんだ」
茂さんはそう答えると、大根の浅漬を口に放り込み、豪快な音を立て、美味しそうに食べはじめる。
「でも、来年くらいには挑戦してみてもいいかもしれませんね」
そう言いながら、幸子さんが湯呑を手に取り優しく微笑むと、茂さんもうなずいた。
「ワシの畑では大根を作る予定だから、収穫できたら持っていくといいんだ」
「ありがとうございます」
アンナが丁寧に頭を下げる。
「アンナさん、もう来年の楽しみが増えましたね」
真由美も嬉しそうに声をかける。
幼い頃の僕は、食事の時間がこんなにも心を満たすものだとは思わなかった。ただ空腹を満たすだけのものだった食事が、今では大切な人たちとの温かな時間になっている。アンナとレイが来て、そんなことを教えてくれたな。
食事が終わると、みんなで談笑しながら、しばらく時間を過ごした。
笑顔があふれる空間。穏やかな空気。何気ない会話。すべてが心地よく、すべてが愛おしい。
――なのに、なぜか胸の奥がざわつく。
この時間は永遠ではない。それは分かっている。人は変わり、時は流れ、やがてこの景色も失われていく。
その瞬間を迎えたとき、僕は耐えられるのだろうか。
かつての僕なら、こんなことを考えもしなかった。誰とも関わらず、一人でいることを心から望んでいた。
去る者を引き止めようとも思わなかったし、何かを失うことに怯えることもなかった。
それなのに――今の僕は、このぬくもりが失われることを恐れている。
何が僕を変えたのか——答えは分かっている。
あいつだ。
あいつがいたから、僕は人との関わりを拒んでしまった。
あいつがいたから、僕は他人の気持ちを考えられなかった。
あいつがいたから、僕は――『感情』を失った。
そして、今は不思議な感覚が胸の中でざわついている。
この感覚が何なのか、理解できるにはもう少し時間がかかりそうだ。
あいつの存在が僕の中から消えてから、世界の見え方が変わった。
人の表情、言葉の温度、風の匂い。すべてが鮮やかで、すべてが優しい。
でも、その優しさが怖い。
知ってしまった以上、もう二度と手放したくないと、そう思ってしまうから。
あいつが一度でも現れたら、この優しさを崩してしまうのではないか——
「相葉さん、今日は世話になったんだ」
「ありがとうね。相葉さん」
茂さんと幸子さんの声に、ふと我に返る。
気づけば、二人が柔らかく微笑んでこちらを見ていた。
「いえ、茂さんも幸子さんも、今日は来ていただいて、ありがとうございました。また、畑のこともよろしくお願いします」
そう答えると、茂さんはふたつうなずき、胸を張る。
「レイちゃんにもお願いされたんだ。早速明日から頑張ろうか」
「茂おじいさま、よろしくお願いしますわ」
「茂様、お願いいたします」
レイとアンナが揃って頭を下げる。
「イオナちゃんはピーマンだったな」
「はい、是非」
イオナが少し嬉しそうに微笑む。やはり意外だ。
「レイちゃんも好き嫌いせんと食べないとダメなんだ」
「嫌ですわ」
レイはきっぱりと拒絶する。
「そうかそうか」
茂さんは笑いながら、特に追及するでもなく、穏やかに受け流した。
そのやり取りに幸子さんもくすくすと笑い、二人は連れ立って玄関へと向かう。
扉の向こうへと去っていく二人の背中を見送りながら、ふと考える。
――やっと温かい時間が帰ってきた。
二人を見送り、囲炉裏のあるリビングに戻ると、イオナが待っていた。
「耀様、お疲れ様でした」
「いや、僕は何もしていないからね。イオナこそお疲れさま」
「ありがとうございます」
イオナは穏やかに微笑んだ。今日も変わらず、彼女は僕たちを静かに支えてくれている。
「僕の友達を来週呼びたいんだけど、いいかな?」
「前に話されていたご夫婦ですね。特に問題はございません」
了承を得ると、僕は早速スマホを取り出し、誘いのメッセージを送る。
「耀様、私からも……私とレイ様からもお願いがございます」
「なんだろう?」
「レイ様と旅行した際に知り合った親子を、お招きしたいのです」
「親子?」
思わず聞き返すと、イオナは静かにうなずいた。
「はい。私はお母様の方と、レイ様はお子様の方と親しくなりまして……」
「どんな人たちなんだ?」
イオナは少し目を細め、思い出すように口を開く。
「お母様は落ち着いた方ですが、不思議と惹きつけられる魅力をお持ちでした。ほんの少しお話しするつもりが、気づけばご自宅までお邪魔してしまって」
「そうなんだ」
「ええ。そして、お子様の方は……レイ様にとても懐いておりました」
レイが子供に懐かれる、というのは想像がつくようで、つかない。
「レイが、ね?」
「はい。その子は人見知りをするらしいのですが、レイ様にはすぐに懐かれました」
「珍しいな」
レイは気まぐれで、人と深く関わることを好まない。それなのに、子供が懐いたというのは意外だった。
「偶然見かけたその子にレイ様が話しかけたのが、知り合ったきっかけです」
「そうだったのか」
少し考え、僕はうなずいた。
「泊まる部屋もあるし、来月の連休にでも来てもらったらどうだろう」
そう提案すると、イオナの表情がわずかに曇る。
「先にお伝えしておきますが……偶然とはいえ、その子は以前お話しした、魔力を持つ子かもしれません」
「……その子を探しに行ったのか?」
「いいえ。本当に偶然です。レイ様が気づき、お話をするうちに、もしかすると……という話になりまして」
魔力を持つ子供。以前イオナから聞いた話が脳裏をよぎる。
「なるほど。でも、レイがその子と仲良くなったなら、いいと思うよ。レイは人の真髄を見抜けるからね。だから、魔力のことは気にせず、ただ楽しんでもらおう」
僕がそう言うと、イオナはふっと表情を緩めた。
「ありがとうございます、耀様」
彼女の微笑みを見て、僕もなんとなく悪くないなと思った。
「無理をなさっていませんか?」
「いや、僕もこれからは人と接していきたいんだ。なんとなく、そうするのが正しいような気がするんだ」
イオナは静かに瞬きをして、僕の顔を覗き込む。
「最近、優しさが増して来られましたね。真由美だけでなく、私も嬉しく思っています」
「そうかな? でも、他人の話や声、表情がとても暖かく感じるようになったかな」
「大変良いことだと思いますが」
イオナの唇がわずかに吊り上がる。
「何か含みのある言い方だね」
「いちゃつくのは自室だけにしてくださいね」
「分かったよ」
そう答えた僕の表情を伺うと、イオナは小さくうなずいた。
「さあ、今夜はイオナの誕生日パーティーだろ。主役なんだから、もうゆっくり甘えるだけにしときなよ」
そう言った瞬間、イオナが迷いなく僕に抱きついてきた。いつにも増して力強く、まるで離れることを拒むように。
「たまには私にもこのような時間をください」
彼女の声はどこか甘えた響きを帯びていた。
「いちゃつくのは自室だけだろ?」
小さな声で囁くと、イオナはくすりと微笑んだ。
「今日は私の誕生日ですから、特別に許されるのです」
「そうか」
抱きしめ返すと、彼女の体温が静かに伝わってくる。イオナの香りとともに、心地よい静寂が二人を包んだ。
『私をあなたの眷属に……無理ならあなたの手で殺してください』
イオナは耀の胸に頬をあて、瞼を閉じてそう願った。
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。
休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。
出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。




