平穏を再び
黄泉の国で何があったのか、僕には朧な記憶しかない。ただ、妙に身体が重い。朝を迎えたようだが、その感覚は変わらなかった。いったい、あいつは僕の身体にどれほどの負荷を強いたのか。
そんな僕の様子を気遣ってか、真由美がそっと背中に手を添え、優しく起こしてくれる。
「おはようございます、旦那様」
「真由美、おはよう」
「顔色が優れませんね。疲れが取れなかったのですか?」
「ああ、どうも身体が重い」
「もう少し横になりますか?」
「いや、起きるよ」
真由美に手を貸してもらい、ゆっくりと身支度を整え、まだ重たい身体を引きずるようにしながら、部屋を後にした。
縁側から庭に目を向けると、レイの姿があった。
いつもどおり、鳥たちに笑顔を向け何かを話しかけながら、小屋の中を掃除している。
リビングに入ると、アンナが朝食の準備をしていた。
いつもどおり、包丁がまな板の上で心地よいリズムを刻む。部屋の中には、出汁のやさしい香りがふんわりと広がり、炊飯器からは白い湯気が立ち上っていた。
「ご主人様、おはようございます」
「おはよう、アンナ」
「真由美さん、手伝ってもらえますか?」
「はい」
真由美はキッチンへ向かい、手際よく作業に取りかかる。アンナと息がぴったりで、軽快なリズムがリビングに心地よく響く。
ソファに腰をおろし、窓の外に目を向けると、まだ薄暗いが、夜明けの訪れが早くなったのを感じる。
もうすぐ桜も咲き始めるのだろうか? 庭に桜の木を植えるのも悪くないかもしれない。でも、桜は管理が大変だと、どこかで見聞きした記憶があるから、よく考えてからにしよう。
「おはようございます」
ふいに背中から声をかけられた。
「おはよう。イオナ」
イオナはそっと僕の隣に腰をおろす。心なしか甘い香りが鼻をくすぐる。
「耀様、増築している家の方を、一度見ていただきたいのですが」
「分かった。朝食後でいいかな?」
「構いません。予定より少し早く進みましたので、問題がなければ、あと二週間もあれば完成します」
「そうか、イオナの誕生日と一緒に祝えそうだな」
「覚えていらっしゃるので?」
「もちろんさ」
「嬉しいです」
イオナが僕にしなだれかかる。微かな吐息が頬をくすぐる。
「イオナさん!」
キッチンから響いたアンナの声に、目を向けると微笑んでいるアンナとは対象的に、真由美の鋭い視線がイオナに向けられていた。
イオナはすっと姿勢を正し話を続けた。
「本日より、向こうの家でお仕事をなさいますか?」
「ああ、そのつもりにしている」
「使用人たちにも伝えてあるので、遠慮なく使ってください」
「ありがとう。あの家の呼び名を決めないと分かりにくいな」
「確かにそうですね」
イオナは手を顎にあて、わずかに目を細めて考え込む。
「風香の要塞……なんてどうだろう?」
「却下です」
僕の提案は、一瞬で斬り捨てられた。
「当面は『離れ』でいいと思います」
「私も旦那様と離れに行きます!」
「ダメです!」
真由美の声も、一瞬でアンナに却下されてしまった。
「兄様! おはようございます!」
リビングの扉が開くと同時に、弾むような声が響き渡る。
「レイ、おはよう」
レイはぱたぱたと駆け寄り、イオナの横からするりと割り込むように僕の隣へ座った。
「兄様、見てくださいまし。産みたての卵ですの!」
「冬場はあまり産まなかったけど、暖かくなってきたのかな?」
「そうですの。最近は朝の冷え込みも弱くなって、また産み始めましたわ」
にこにこと卵を見せてくれているレイに、キッチンから声がかかる。
「レイ、その卵をもらえませんか?」
「いいですわ」
レイはそっと手のひらに乗せたまま、キッチンのアンナに渡した。
——僕の日常が戻ってきた。
不安な要素はまだある。けれど、最大の問題はあいつが片付けた。
残るは、この世界に住む残党だけ。概念者の力添えがなければ、ただの雑魚に過ぎない。
あとは、この小さな幸せを守るだけだ。
そして——もう、あいつに頼らない。絶対に。
——昨夜、ベッドで真由美と約束したんだ。
ぼんやりしていると、レイが不思議そうに僕を覗き込んでいた。
「兄様、どうしましたの?」
「いや、なんでもないんだ」
「そろそろ、畑の準備をしてはどうかと思いますの」
「そうだな、何を育てるのがいいだろう?」
「茂おじいさまに聞いてみますわ」
「そうだね。去年も茂さんに頼ったけど、慣れるまでは教えてもらうほうがいいだろう」
「あとで電話してみますわ」
イオナがそっと髪をかき上げながら会話に割り込む。
「今年は私もお手伝いいたします」
「私もです」
テーブルに料理を並べる真由美も後に続いた。
「ご主人様、もう少し畑を広くしてもいいかもしれません」
確かに、アンナの言うとおりかもしれない。
作りたい野菜を出し合って、みんなで育てるのも楽しそうだ。
「そうだな。レイ、それも茂さんに聞いてみてくれないか?」
「分かりましたわ」
食卓に並ぶ朝食。これも、もう僕にとっては大切な日常。
僕にだけ生卵が置かれているのも、見慣れた光景。
みんな思い思いに話しながら、賑やかに朝のひとときを過ごしている。
「ご主人様……お口に合いませんでしたか?」
アンナの声で、ふと我に返る。
「どうも顔色が優れないようですが」
アンナは箸を置き、心配そうに僕を見つめている。
「旦那様は無理をされたようで、疲れが取れていないみたいなんです」
真由美も同じように、心配そうな表情を浮かべている。
「兄様、生卵を飲んでくださいまし!元気が出ますわ!」
レイは変わらぬ明るい声で、生卵を勧めてくる。口元についたごはん粒すら、可愛く見えた。
「耀様、今日はゆっくりとされても大丈夫です」
イオナは気遣うように、そっと休むことを勧めてくる。
「いや、大丈夫だ」
みんながこうして僕を心配してくれる。
今まで、こんなことがあっただろうか……
——暖かい。
「僕も、いろいろやりたいことがあるんだ。だから、大丈夫」
「ご主人様、無理はなさらないでください」
アンナの声に同意するかのように、みんなが僕を見ている。
「ありがとう、みんな」
朝食を終え、少し休んだ後、イオナと共に増築された家を見に行く。
新しい玄関のドアを開くと、そのまま広々としたリビングが広がる。
その脇を通ると、元の家へとつながる構造になっていた。
リビングから直接出入りできるのは、イオナの部屋、真由美の部屋、それに客用の部屋が二つ。
「今のリビングと客間はどうするんだ?」
「リビングは家族専用にして、普段はこちらのリビングは使いません。客間はアンナ様と真由美の家事室になります」
「あの辺りは家事関連の部屋が集まっていますので、その方が便利かと。それに、新しいミシンを一台購入予定です」
「広いキッチンを作るんじゃなかったのか?」
「アンナ様の要望で、今のキッチンがいいそうです。なので、リビングが広すぎるくらいになりました」
「そうだったんだ……でも、開放的で僕は好きだな」
そのまま客用の部屋を見て回る。和室と洋室が一部屋ずつ。どちらもシンプルで落ち着いた雰囲気だ。
「いいんじゃないか?」
「いずれ、どちらかが子供部屋になるかもしれません」
ふと漏れたイオナの一言に、一瞬、胸が高鳴る。
「そうなるといいな……」
「——はい」
イオナと真由美の部屋は、少し広めの洋室で、装飾を抑えたシンプルな作りだった。
「真由美の部屋は、僕の部屋の隣なんだ」
「はい。最近、耀様の身の回りは真由美が見ているようですので、ちょうどいいかと思います」
そのどこか含みのある言葉の真意を探るように、そっとイオナの横顔を盗み見るが、彼女は変わらない穏やかな表情をしていた。
「これでいいと思うけど、イオナはどうなんだ?」
「私もいいと思います」
「じゃあ、このまま進めて欲しい」
「かしこまりました」
イオナは小さくうなずき、手元のメモに軽くペンを走らせる。
「いつ頃から使えるようになるんだ?」
「四月の中旬には間違いなく…」
イオナはペンを指先で回しながら、少し考えるようにして答えた。
「それなら、友達を招いてもいいかな?」
「友達?」
イオナの動きがふと止まり、僕を見つめる。
「友人がいらっしゃったのですね……まさか、女性ではありませんよね?」
僅かに細められた目と、控えめな微笑み。からかっているようにも、本気で確認しているようにも見える。
「ひとりだけいるんだ。男だけど、奥さんも連れてきてもらおうと思っている」
「承知しました」
イオナはホッとしたように息をつき、柔らかく微笑む。
「ですが、その前に茂様と幸子様をお呼びして、お披露目をしようかと思っています」
「それは是非やってほしい」
僕は軽く腕を組みながらうなずく。
「任せておいてもいいかな?」
「はい」
イオナは静かに微笑み、メモを閉じる。
「じゃあ、僕は仕事をしに行くよ」
伸びをしながら、少し首を回す。
「だいぶ溜まっていそうだし」
「お察しのとおりです」
イオナはクスリと笑うが、すぐに表情を引き締める。
「でも、顔色が優れません。無理はなさらないでくださいね」
そっと伸ばされた指先が、僕の頬に軽く触れる。わずかな温もりとともに、その言葉が妙に胸に響いた。
風香の要塞……いや、離れに向かおうと玄関を出ると、イオナも一緒に付いてきた。
「イオナも離れに行くのか?」
「いいえ、私は仕事がございますので、出掛ける予定です」
隣を歩きながら、柔らかく微笑む。
「そうか、イオナも無理はするなよ」
「お気遣いいただき感謝いたします」
イオナはふっと目を細める。
「もうすぐ楽しいことになりますよ」
「……あまり、いい予感はしないけど、楽しみにしとくよ」
「では、耀様。また夕食の時に」
イオナは優雅な仕草で一歩後ろに下がると、静かに車へと乗り込む。運転手とボディーガードを伴い、車は滑るように門を抜けていった。
僕は軽く片手を上げ、遠ざかる黒塗りの車を見送る。
イオナの言葉が頭に残る。彼女が言う「楽しいこと」が、素直に楽しめるような気がしない。
僅かに冷えた風が吹き、頬を撫でる。それでも僕の中には、ほんの少しだけ、安堵が残っていた。気を引き締めて、離れの玄関を入る。
「今日はひとりで集中して仕事ができそうだな」
お昼前、玄関の開く音がしたと思ったら、仕事部屋の方にまっすぐ足跡が近づいてくる。
「ご主人様、昼食をお持ちしました」
扉が開くと同時に、アンナが部屋に入ってくる。
「ありがとうアンナ。ひとりできたのか?」
「真由美を連れてくると、何か良からぬことを始めて、お仕事にならないのではないかと思いましたので」
「いや、ここでそれはないよ」
「いえ、前科もございます」
恵莉華のことを言っているのだろう……言い返す言葉も出ない。
「ところでご主人様、身体が重いとおっしゃっていたそうですが?」
「ああ、何となく朝から重く感じるんだ」
アンナが胸元から小さな瓶を取り出す。中にはいつか見たことのある、淡い黄色の液体が入っている。
「これは?」
「レイと一緒に作りました。試しに飲んでみてください。」
受け取った瓶を少しかかげ、覗き込むように見る。
「二日酔いの時に飲んだものに似てないか?」
「よく覚えていらっしゃいますね。でも少し違います」
「そうなんだ……」
あの時は二日酔いのしんどさから逃れたくて、半ば勢いで飲み干せたが、今日は飲める気がしない。
アンナがじっとこちらを見つめている。その瞳には、ただの興味ではなく、確かな期待が宿っていた。
よし、と覚悟を決めた。だが、指先はわずかに震えたまま、蓋を取ることができない。その間もアンナの笑顔が、変わらぬままこちらを見つめている。
もう迷う暇はない。僕は瓶の蓋を取り、一気に中身を口の中に注ぎ込む。
心なしか、前に飲んだものより粘度が高く、口の中に纏わりつくような感じがする。それを無理やり喉の奥に押し込むように飲み込んだ。
「いかがですか?しばらくしたら少しは身体が軽くなると思います」
「うん。味は分からなかった」
「食器は後ほど下げに来ますので、そのまま置いておいてくださいね」
そう言って、アンナはなぜか空き瓶だけを持って、部屋を後にした。
溜まっていた仕事を順に片付け、ひとまず手を止める。外は少し暗くなっている。十九時頃だろうか?
アンナが食器を下げ、コーヒーを置いていってから、どれくらい経っただろう。
僕は椅子を押し、軽く伸びをする。それから離れを出て、自宅へ戻る。ほんの僅かな距離なのに、やけに寒くて、自然と足が速くなる。
「ただいま」
「おかえりなさいませ、ご主人様」
玄関を開けると、アンナが待っていた。彼女の視線が静かに僕を迎える。
「ご主人様、先にお風呂を済ませてもらえますか?イオナさんも、もうすぐ戻られるようですので」
「ありがとう。そうさせてもらうよ」
そう言うと、アンナはふとリビングの方を見て「真由美さん」と短く声をかけてリビングへ向かった。
僕はまっすぐ風呂場へ向かい、シャワーで軽く汗を流していると、湯気が立ちこめる中、シャワーの音に紛れて扉が静かに開く気配がした。
「旦那様、背中を流させてください」
「いや、ひとりで大丈夫だよ」
「ダメです。旦那様は無理をしたのですから。はい、座ってください」
真由美はこういう時、意外と強引だったりする。
背中どころか、頭のてっぺんからつま先まで入念に洗われた。それから──ほんの少しだけ、いちゃついた。
風呂場を出て、リビングへ向かうと、食卓には料理が並び、湯気がほのかに揺れていた。まるで皆の帰りを待っているようだ。
ソファに腰を下ろすと、アンナが静かにお茶を淹れ、差し出してくれる。
「イオナさんが戻られたら、皆で食事にいたしましょう。」
「ああ、ありがとう」
軽やかな足音が近づき、レイが勢いよくリビングへ入ってきた。
「兄様、おかえりなさいまし」
「ただいま」
レイはちらりとアンナを見ると、少し首をかしげる。
「アンナ。お風呂に入る時間はありますの?」
「それくらいの時間ならあります」
その時、真由美がリビングへ入ってきた。
「レイさん、お風呂空きましたよ」
レイは僕と真由美を交互に見つめる。
「真由美、お風呂で……何かいたしたりしていませんわね?」
「えっ……? あっ、はい。洗っただけです」
レイは納得したようにうなずくと、すぐに踵を返した。
「では、お風呂に入ってきますわ」
「レイ、待ってください。私も一緒に入ります」
レイにつられるように、アンナも慌ただしくリビングを後にした。
二人を見送った真由美は、少し戸惑うように僕の隣に腰をおろした。
手を膝の上で組み替えながら、ちらりと僕を見上げる。
「あ、あの。旦那様」
「どうしたの?」
「気持ちよかったですか? 洗い方とか……」
真由美の声はどこか不安げで、目が少し泳いでいる。
「うん。気持ちよかったよ」
僕が答えると、彼女はほっとしたように微笑んだ。
「良かった……一緒にお風呂もいいですね。なんか距離が縮まったようで」
「そうだね。でも緊張したよ」
「あのっ。お疲れのときには、言ってください。また、お手伝いします」
そう言って、真由美は少し嬉しそうに視線を落とした。きっと彼女なりに、僕を労わりたいのだろう。
── だが、お疲れのときほど、ひとりでゆっくり風呂に浸かりたいものだ……でも、この言葉は、今は飲み込んでおこう。
しばらく、静かな時間が過ぎる。
その間、ちらちらと僕を伺っていた真由美が、意を決したように口を開いた。
「あ、あの。旦那様」
「うん。どうした?」
「いえ、なんでも……」
言いかけて、彼女は視線を落とす。
「遠慮することはないよ」
少しの間があって、真由美は戸惑いながら言った。
「あ、はい。あの……二人きりでいる時は、『あなた』と呼んでもいいですか?」
その言葉に、僕は少し瞬きをする。
「好きに呼ぶといいよ」
呼び方なんて、互いのことが伝われば何でもいい。そんなものに意味を持たせる必要はないと思っていた。
しかし──「あ・な・た」ゆっくりと聞こえてきたその言葉は、妙に心の奥に響き、胸の奥がざわつく。
なぜ、ただ呼び方が変わっただけで、こんなにも心が揺さぶられるのか。
真由美に目を向けると、彼女はそっと目を閉じ、顔をこちらに向けていた。
考える間もなく、僕は流れるように真由美を抱き寄せ、吸い込まれるように唇を近づけていく。
「その続きは自室でお願いします!」
突然響いた声に、僕と真由美は驚いて顔を向けた。そこには腕を組み、呆れた表情のイオナが立っていた。
「まったく……帰ってきて早々、見せつけられるのは何度目でしょうか」
「お、おかえりなさい。イオナさん」
「イオナ、おかえり」
「ただいま帰りました」
イオナは、ため息混じりに肩をすくめると、ふっと笑みをこぼした。
みんなが揃い、賑やかに食卓を囲む。
「兄様、お薬は飲みましたの?」
あの喉に絡みつくような液体のことか?そう言われてみれば、妙に身体が軽い。
「ああ、効いたみたいだ」
「良かったですわ。毎朝、起きたらすぐに、お飲みくださいまし」
不穏な言葉が耳に残る。だが、今はそれもどうでもいい。
食事をしながら、今日の出来事や、これからの楽しみなど、思い思いに語り合う。
朝と変わらない光景が、夜も同じ場所で繰り返される。そして、明日の朝も。
——何気ない幸せ、でも大切な幸せが、ようやく戻ってきた。
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。
休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。
出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。
 




