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空ろな戦

伊耶那美(いざなみ)の向かう先に、巨大な扉が三つ、立ち塞がるように出現した。

次の瞬間、中央の扉が低く唸るような音を立てて(きし)み、ゆっくりと開いていく。そこから現れたのは、大杖をついた男だった。

褐色のマントを(まと)い、フードを深々と被ったその姿は、闇に溶け込む影のようだ。男が杖を突くたび、鈍く響く音が静寂を切り裂く。

その背後から、武器を携えた大勢の兵が、(せき)を切ったように雪崩れ込む。瞬く間に戦の気配が満ち、空気が張り詰めた。

続いて、右の扉が開き、真白な鎧をまとい、槍を片手にした部隊が現れる。左の扉からは、銀色の鎧に身を包む部隊が姿を見せ、それぞれが整然と布陣を始めた。

八千の兵が戦の陣を組む中、伊耶那美は凛と背筋を伸ばし、ただひとり、微動だにせずその場に立つ。

そして、静かに、しかし揺るぎない声で語りかけた。


「どうやら客人のようではあるが、()らを招いた覚えは、()にはなき」

「ラザール様に仕えし賢者のゼルマリクと申す、以後お見知りおきを」


ゼルマリクと名乗る男は、薄ら笑いを浮かべ、()めるような視線で伊耶那美を見ている。


「そのゼルマリクとやら、いかなる用向きにて参られたか?」

「唯一神ラザール様の(めい)により、この世界を通じて人間の世界へ降臨するための道を開きに参りました」

黄泉(よみ)の力を借りねば成せぬとは、神を名乗るには(いささ)か力及ばぬ証に過ぎぬ」

「あなたとて、ラザール様に傅くべき下僕に過ぎません。我が神の大望を阻まぬ限り、何も奪うことはありませんが……」

「奪われるべきものなど、吾には何ひとつなき」

「この世界、耀と名乗る男に蹂躙(じゅうりん)されたのでしょう。我らがその耀を捉え、あなたの恨みを晴らしましょう。互いに利益のある話かと?」


伊耶那美は静かに笑みを浮かべ、その口元を手で覆った。


「愚かしきこと。まこと、愚かしきことよ」

「我々は耀とかいう男とは違います。軍勢をもって、この世界を蹂躙する気はありません。我が神の忠実なる下僕として、賢明な道を選ばれることをお勧めします」


伊耶那美は冷ややかにゼルマリクを見据えた。


「愚かしきことよ。吾が君の御名を軽々しう呼ぶとはな……()らば、丁重にもてなしてくれようぞ」


ゼルマリクは肩をすくめ、口元に笑みを(にじ)ませた。


「たった一人で楯突くとおっしゃられるか?」


伊耶那美は小さく嘆息し、静かに首を振る。


「如何にも、汝には言の葉が通じぬと見ゆる」


そう呟きながら、一歩前に出る。その動きだけで、場の空気が張り詰めた。

伊耶那美は鋭い視線で、布陣する兵を見回す。


「そのような雑兵にて、何を成せるというのか?」


ゼルマリクは大杖を天に掲げ、鋭く命じる。


「総軍、戦闘態勢をとれ!」


その声と同時に、布陣を終えた軍勢が一斉に武器を構え、戦の気配が濃密に満ちる。


「吾が身より産まれし(やから)よ、もてなしの支度、怠るでないぞ」


伊耶那美の声が響いた瞬間、彼女は疾風のごとく後方へ退く。その動きと入れ替わるように、大地が呻き、無数の黄泉軍(よもついくさ)が湧き上がった。

中央、右翼、左翼——三方から戦士たちが形を成す。さらに、両翼には黄泉醜女(よもつしこめ)が二人ずつ、雷神(いかづちのかみ)が三体ずつ、そして中央には雷神が二体、轟く雷とともに降り立つ。


左翼を指揮する、一際大きな馬に跨る男が高らかに嘲笑する。


「たったそれだけで歯向かうとは、片腹痛いわ!」


右翼の指揮官らしき、御輿に乗った女が鋭く指示を飛ばす。


「よいですか、敵は小勢です。一気に畳み掛けなさい!」

「左右が押し出すまで、防御に徹せよ」


ゼルマリクもまた、後方へと陣取る。彼の目は冷静でありながら、その奥底に潜む不敵な笑みが、次なる一手を秘めているかのようだった。

誰の声ともなく、一斉に鬨の声が上がり、両翼の軍勢が大地を揺るがすように押し寄せた。

伊耶那美の軍はそれを巧みにいなしつつも、徐々に後方へと押し込まれていく。


「誰に殺されたかも分からぬようでは、気の毒だな」


左翼の軍勢の前線で、一際大きな馬に跨る男が、槍を突き上げて高らかに名乗りを上げる。


「我は伯爵、モルデカイ・ブラックロウ。貴様らに神の裁きを与える者よ!」


名乗りを上げるその声は堂々たるものだったが、彼の周囲は屈強な護衛たちに固められ、まるで要塞のように守られていた。先陣を切って戦う様子はなく、それどころか、彼自身は前線に躍り出る気配すらない。

一方、右翼では雷神の轟雷が敵の前線を焼き払い、一部隊が混乱に陥っていた。


「アドリエンヌ様、前方の小隊が崩されました!」


焦燥を帯びた声が、御輿の上の指揮官へと届く。


「構うことはありません、休まず攻め続けなさい!」


鋭い指示が飛ぶが、前線の兵たちの動きには微細な迷いが生じている。


「しかし、雷を目の当たりにした者たちの士気が下がりつつあります……」


雷鳴が轟く戦場で、じわりと不安の影が忍び寄る。その瞬間、アドリエンヌの表情が険しくなった。


——戦端が切られようとしていたころ、耀の元にゾーヤが戻ってきた。

変わらず、様々な色の魔力が渦巻き、(うごめ)く異質な世界の中で、幼気な少女たちが身を寄せ合い、耀と静かに言葉を交わしていた。一番幼い子は耀の膝に抱きかかえられ笑顔すら見せている。


「来た。食べたの? ロリコン」


不意に飛んできた言葉に、耀は僅かに眉をひそめる。


「お前は何を言っているんだ? こいつらの生い立ちを聞いていただけだ」

「ロリコンは否定しないんだ。みんな、家族がいない」


ゾーヤの口調はいつもの調子だったが、その言葉には(かす)かな(とげ)があった。


「ああ、聞いたよ。暗殺部隊に抜擢されると、身内は始末されるらしいな」

「うん」


それは、否定しようもない事実だった。

耀は少女たちの怯えた表情を見渡しながら、ゾーヤの瞳を覗き込む。


「お前の指示か?」

「違う。私はこの子たちの親代わり」


その言葉に耀は小さく息を吐いた。


「そうか……お前の指示に従うのは、そういうことか」

「うん」


短い返事のあと、ゾーヤは僅かに視線を()らした。


「——それより」

「始まったか」

「うん」


戦の火蓋は、とうに切られていた。


「ゾーヤ、伊耶那美の遥か後方に移動してくれ。俺はお前を目印に黄泉の国に向かう」

「分かった」


ゾーヤが微かに微笑み、すっと(きびす)を返す。

その姿を見送りながら、膝に抱いていた少女をおろすと、耀は少女たちを見回し、低く静かな声で言った。


「お前らは、何があってもここを一歩も動くな。いいな」


少女たちは、不安げな表情を浮かべながらも、揃って小さくうなずいた。


——伊耶那美の遥か後方ながらも、戦場全体を見渡せる高台に、ゾーヤはひとり腰をおろした。

小さくため息をついた瞬間、目の前に空間の(よど)みが生じる。

その直後、揺らぎの中から耀が現れた。

周囲を一瞥(いちべつ)すると、耀はゾーヤの頭を軽く撫でる。


「いい場所じゃないか、大したものだ。これだけ見渡せれば転移もできる」


ゾーヤは小さくうなずく。

耀は視線を遠くに向け、伊耶那美の姿を捉えた。戦況を見極めながら、感心したように口元を(ゆが)める。


「いい場所にいるな。しかし……こうして見ると、ミスティはでかくなったな」

「うん。胸も大きい」

「俺が揉んだからだろ」


ゾーヤのジト目が突き刺さる。


「——ご褒美」


耀はため息をつき、ゾーヤに目線を合わせる。


「何が欲しい?」

「抱いて」


ゾーヤは純真な瞳でまっすぐ耀を見つめる。


「……ここでか? 向こうでは命のやり取りをしているんだぞ」

「その方が興奮する」


耀はゾーヤを抱き寄せ、耳元で(ささや)く。


「奇遇だな、俺もだ」


ゾーヤの唇が僅かに歪む。


「その前に、派手に爆発するものはないか?」

「ある。たくさん持ってる」

「いいな……爆炎に包まれながら抱いてやろう」

「うん」


二人の声は、炎と戦の喧騒に呑まれ、青白く輝く空間へと溶けていった。


「ゾーヤはどこにいるのです?」


アドリエンヌから、その問いが発せられた刹那(せつな)——黄泉軍の遥か後方で、爆炎が噴き上がる。地響きとともに炸裂する轟音が戦場を貫き、一瞬の沈黙が訪れる。


「アドリエンヌ様!」


一人の騎士が遠方で上がった炎を指差し、声を張り上げる。


「ゾーヤが仕掛けたようですね。まさかあのような後方にまで部隊を配置するとは、小賢しい者共です」

「あの爆発では、ほぼ殲滅したと見てよろしいかと」


騎士の報告を聞くや、アドリエンヌは高らかに笑い声を上げた。


「モルデカイ伯爵、今です!」


その声を聞いた雑兵が伝令に走る。同じ頃、対翼の陣でも爆炎を見て歓喜の声が上がっていた。


「ゾーヤがうまくやったようだ。我らを誘い込む魂胆だったようだが、甘かったな。後方の主力は崩れた!このまま押し出せ!」


両翼の勢いに押され、黄泉軍はじりじりと後退していく。それを見たゼルマリクは、前進を指示した。

対する伊耶那美の軍は、犠牲を抑えつつ、まるで厄災を払うかのような戦い方。そして計算された撤退。

だが、ゼルマリク、モルデカイ、アドリエンヌの三人は、伊耶那美の後方部隊が壊滅したと確信し、攻勢を強めた。

黄泉軍の巧みな退却に気づかぬまま、彼らの軍勢は次第に間延びしていく。


——周囲を包んでいた炎がようやく鎮まったころ、耀の腕の中でゾーヤは肩で息をしていた。余韻を惜しむように、彼にしがみつく。


「初めてが炎の中」

「忘れられない思い出になったろ?」

「炎のお陰で耀に強く染められた」


耀はゾーヤの髪を撫で、戦況を見渡す。


「だいぶ伸びてきたな」

「うん、戦いは素人……」

「そのようだな」

「こんな戦争ないから」

「そうか。伊耶那美のところに行けるか?」

「うん」

「左翼を押せと伝えてくれ。直ぐにここに戻るんだ」

「左翼を崩す?」

「ああ——地獄に沈める」


ゾーヤは手早く身支度を整え、耀を一瞥する。


「じゃあ」


その一言を残し、闇に溶けた。


戦況を見ていた耀の元に、ゾーヤが戻ってきた。


「伝えたようだな」

「うん」

「左翼の後方が塊になっている」

「大隊がまとまってる」

「あれを潰してくる。待っていろ」

「ご褒美」

「全部片付いたらな」

「約束」

「ああ、約束だ」


耀は目を細め、視線を戦場に向ける。そして次の瞬間、影に溶けるように姿を消した。


「押すな!進軍が遅れている!」


混乱するモルデカイの兵たちの叫びが飛び交う中、耀がふいに隊の中央へ現れた。

しかし、誰一人その存在に気づかない。前方の戦況を伺う兵たちの足元に、突如として澱みが広がった。

巨大な穴に落下するように、悲鳴が響く間もなく、部隊が闇に呑まれる。

次の瞬間、そこには何事もなかったかのように、ただ静かに平坦な地面が広がっていた。


「伯爵様!」

「どうした!」

「後方の隊が……消えました!」

「何を馬鹿なことを——」


伯爵が振り返る。そこに広がっていたのは、あり得ない光景だった。

隊の後方がまるで大穴が開いたようにごっそりと消えている。兵の影ひとつ残らず、ただ静まり返った地面があるのみ——


「何があった!」

「分かりません!」


伯爵が声を荒げる間もなく、さらに後方の部隊が突如として消えた。悲鳴すら響かない。ただ、一瞬の静寂とともに、彼らはこの世から掻き消えた——

残るは、前方で交戦中の部隊、伯爵の身辺を警護する部隊、そして最後方の部隊のみ。


「何が起こっている!」

「分かりません!罠かもしれません!」

「一隊を囮にして後方への道を開け!撤退する!」

「しかし——!」

「半数以上が消えたんだ!」

「だが、我々の方がまだ多勢です!」

「うるさい!ワシが生き残ることが最優先だ!撤退の用意をしろ!」


——様々な色の魔力が渦を巻き、蠢く異質な世界の中で、じっと身を寄せ合う少女たちの目の前に、突然大勢の兵士が現れた。

あっけに取られる間もなく、兵士たちは渦巻く魔力に飲み込まれ、(あらが)う暇も、叫び声をあげることもできず、次々と消え去っていく。

まるで周囲の空間そのものが意思を持つ生き物のように、容赦なく彼らを呑み込んでいった。少女たちはただ震えながら、それを見つめていた。

全ての兵士が消え去ると、ほぼ同時に、再び大勢の兵士が現れた。今度は、その数を把握する余裕があった。そして、その中央には耀の姿があったが、すぐに消えてしまった。

おおよそ五百から六百の兵が、目の前で飲み込まれていく。周囲の空間の全てが静かな捕食者のように振る舞い、逃げ場はどこにも存在しない。ここに足を踏み入れた者は、例外なく飲み込まれるだけの運命だった。


——膝を抱え座るゾーヤの元に、耀が戻ってきた。


「耀、すごい……」


荒い息を整えながら、ゾーヤは耀を見上げる。


「戦況は?」

「左翼は崩れ始めた」

「次は中央をやる」

「右翼は?」

「伊耶那美に伝えてほしい。中央が潰走し始めたら、全力で右翼を叩けと」

「分かった」


耀はじっと右翼の方を眺め、まぶたを閉じる。戦場の喧騒が遠のいたように感じるほど、深く考えに沈む。

やがて、ゆっくりと口を開いた。


「それと、右翼の指揮官らしき者を二、三人、無傷で生け捕りにしろ、と」

「うん」


耀とゾーヤは、ほぼ同時に闇に溶け込むように姿を消した。


乱れ始めた左翼の状況を把握しようと、ゼルマリクが目を凝らす。

その時だった。広く展開する自軍のほぼ中央、そこに魔力が静かに集まり始めた。


『何だ……?』


理解しようとする暇もなく、魔力は右へ、次いで左へと集まる。全ての部隊を射程に捉えるかのように、人間大の塊を形作る。


「全軍後退!」


直感的に発した命令を、誰もが待っていたかのようだった。

次の瞬間——魔力の塊と入れ替わるように、人影が一瞬現れたかと思うと、中央に展開していた部隊が、まるで最初から存在しなかったかのように掻き消えた。

そして右側。

さらに左側。


「あ……?」


兵士たちの声が、悲鳴にすらならずに消える。ほんの数秒で三千の兵は、五百ほどにまで減っていた。

恐怖が指揮を飲み込み、戦線は完全に崩壊する。


「伝令! 全軍に撤退を命じよ!」


——時折流れ来る矢や炎弾から、伊耶那美を守りつつ戦況を眺めていたミスティが、伊耶那美に語りかける。


「伊耶那美殿、中央が潰走しはじめたようじゃが」


ミスティの声に、伊耶那美は静かに、そして深くうなずく。

撤退する右翼に群がる黄泉軍。轟雷が次々と隊列を分断し、散り散りになった小さな軍勢を、順に叩き潰していく。

だが、殺しはしない。手負いの傷を与え、恐怖と絶望を刻み込む。ここが死者の国であることを逃げ惑う者たちの心に刻み込むように。


後方では、耀とゾーヤが再び合流し、戦況を眺めていた。


「終わったようだな」

「うん、もう終わる」

「お前らの部隊は全滅したと思われているだろう」


耀の言葉にゾーヤは微笑みを浮かべた。


「うん。もう、帰らなくていい」

「……良かったのか?」

「うん。私がいなければ、これ以上暗殺部隊は作れない」

「十人だけか?」

「うん。この十人の部隊のために、何十人もの命が消えた。でも、それも終わり」

「……そうか」


耀はゾーヤに目を向ける。ゾーヤは、ほんの数時間前まで味方だった者たちが、無残に逃げ去る様をじっと見つめていた。


「……これ以上、眺めていても仕方がないな」

「……ご褒美」


耀が聞き返す前に、ゾーヤは小さく息を吸い、躊躇(ためら)いなく言葉を続けた。


「抱いて」


耀の瞳がわずかに揺れ、しかしすぐに静かにうなずく。


「ああ……もう炎は必要ないな」

「うん」


二人は抱き合い、求め合うように地へと沈んでいく。

追撃戦の怒号と断末魔の叫びの中、その声はあまりに静かだった。

虚しさを紛らわせるように激しく交わる二人の声も、やがて喧騒に呑まれ、虚空へと消えていった。

お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。


休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。

出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。

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