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戦端の予兆

恵莉華(えりか)の部屋から青白く輝く世界に足を踏み入れると、ただの人間である僕は、何かの(ことわり)に従うように、自然と心の奥に沈み込む。

その最中、僕は深い思考に陥る……なぜ僕がこんな目に合わなければならないのか……

ただ平穏に暮らしたいだけなのに、それだけのために、なぜ……でも、良かった。僕はただの人間だ——


()が君よ……待ちわびておった」


凛とした(たたず)まいで深く頭を下げる伊耶那美(いざなみ)が出迎える。


「伊耶那美、そろそろ始まると思う」

「支度は相調うておる」


そう言いながら腕にしがみつくように、抱きついてきた。


「数は増やせたか」

「数の変わることなく、吾が身より産みし黄泉軍(よもついくさ)千五百にて……敵を迎え討とうと存ずる」


そう言いながら、伊耶那美は僕を仰ぎ見た。いつもの凛とした瞳に、ほんの僅かに翳りが宿る。唇を結んだまま、一瞬だけ僕の手元へと視線を落としたのが分かった。


「大丈夫なのか?」


彼女は僕の腕にしがみついたまま、かすかに頬を寄せた。温かい吐息が襟をかすめる。


「君より賜りしお力にて、数は変わらずとも、戦力は三倍以上に相成っておる」


その言葉とは裏腹に、細い指がそっと僕の袖を握る力が強まった。——まるで、その言葉すら、自らを鼓舞するかのように。


「後はどれほどの数が攻めてくるかだが……」

「——八千」


突然、背後から鈴を転がすような声が響く。

その声は心地よく響いたが、告げられた数字は氷のような冷たさを帯びていた。


「ゾーヤか」

「うん。会いたかった」


ゾーヤは頬を摺り寄せるように耀の背中に抱きついた。


「そうか」

「もっと何か言ってくれてもいい」


(まぶた)を閉じて強請(ねだ)るような甘い声で、耀の背中に話しかける。


「そうだな。これが終われば考えよう」

「冷たい……頑張って攻めてくる数を減らした」


ゾーヤは頬を膨らませながらも、すぐに微笑んだ。その表情には、どこか()ねたような、けれど甘えるような色が(にじ)んでいる。


「その内訳は分からぬか?」


耀の腕に抱きついたまま伊耶那美の問いに、ゾーヤは素直に答える。


「中央三千、右翼二千五百、左翼二千五百」

「三軍が同時に攻め来ると」

「うん」

「そんなことができるのか?」

「できる。神に捧げられた人間の魂が三つある」


そう言うゾーヤの声音は、どこか沈んでいた。普段の澄んだ響きがわずかに(かげ)る。


「それを魔力に換えて、三つの扉を開く」


一瞬、彼女の瞳が伏せられた。長い睫毛(まつげ)が震え、その影が頬をかすめる。


「なるほどな。魂を魔力に換えるか」

「されど、それでは禁忌たる魂食いにてあろう」


伊耶那美が静かに言葉を挟んだ。彼女の指先が僅かに握り込まれる。


「聖女様はそれができる……聖女様が作った魔力で賢者様が世界を繋ぐ」

「人の魂を(かて)とすれば、造作もなきことなり」


伊耶那美の言葉には淡々とした響きがあった。しかし、(かす)かに噛み締めるような仕草が見えた。


「ゾーヤ」


耀が名前を呼ぶと、彼女の肩がぴくりと揺れる。


「後で抱きしめてやるから、俺の問いに答えろ」

「うん……」


かすかに色を帯びた声音が、戦場となる空間の冷たさに溶けていった。


「神の名を教えろ」


鋭く発せられた耀の声に、ゾーヤははっきりとした声で答える。


「ラザール・ドレヴァン」

「それなるは、ただの人の名ではなきか?」


伊耶那美の問いに、ゾーヤは静かにうなずく。


「うん、元は人間。多くの人間を救い、たくさんの奇跡を起こした教皇──死後に天地創造の神の(めい)を受けた大天使に拾われた。そして、神と一体の存在となり、世界に秩序をもたらすために人間の世界へ降臨する」

「秩序ね……だが、それでは神とは言えんだろう?」

「神と一体……だから、神への祈りはラザールへの祈り、ラザールへの祈りは神への祈り」

「何のために人の世へ降り立つ?」

「選ばれし者が統べる世界……支配者により秩序をもたらす世界を実現するため」


耀はため息をつき、吐き捨てるように口を開く。


「腐ってやがるな」

「吾が君は、それを好まれぬか……?」

「ああ、人間なんて放っておけば勝手に調和が取れる」

「それも、いささか過ぎたることではなきか?」


呆れを含んだ伊耶那美の声に、耀は静かに答える。


「それも秩序だろ、押し付けられるか、生み出されるかの差しかない」

「だが、そのラザールの世界はどうなる?」

「人間の世界に融合するって聞いた。耀の魔力があれば、それができる。足りなければ──人間から魂を奪う」


ゾーヤの澄んだ声とは裏腹に、その言葉は耀に重くのしかかる。


「そんなくだらないことのために、俺のささやかな日常を奪おうとしているわけか」


耀は肩をわずかにすくめ、低く吐き捨てるように言った。


「それが成し得れば、人の世はすべてラザールの意のままとなるであろう」


伊耶那美は静かに微笑む。その瞳には迷いの色はない。


「そんなことはどうでもいいが、一応理由を聞いておこう」


耀は片眉をわずかに上げながら問いかける。


「吾が君が創造された世界は、望まれぬものすべてを呑み込む。それもまた、一種の魂食いと言うべきなり」


伊耶那美の声は穏やかだが、その指先が微かに震えた。


「だが、俺ひとりしかいない世界では、魂食いは成り立たない」


耀はゆっくりと息を吐き、天を仰ぎ見る。

どこまでも続く青白い空間は、星の瞬きすらなく静まり返っていた。


()れど、吾が君の創りし世界が現世(うつしよ)と交われば、生きるものすべてが呑み込まれる対象となるなり。人間のみならず、草木や獣までもが、免れぬものとなるであろう」


伊耶那美が静かに言葉を挟む。その瞳には感情の色が見えぬ。


「ラザールの世界がいかなるものかは存ぜぬが、魂食いを成すなれば、それと等しき理を成すことも叶う。概念者を生みし人の子らは、概念者に対して無力も同然なり」

「そう、神の秩序は神が定めるもの。その秩序を維持するのが選ばれし者」


ゾーヤはまるで当然のことのように言いながら、耀の背中を確かめるように顔を押し付ける。


「都合の悪いものは排除するのか」


耀の低い声が背中から身体(からだ)に直接響いてきた。


「──魔力の糧にしてしまう」


ゾーヤは震える声で、誰にともなく答えた。

耀は肩を軽くすくめ、半ば投げやりな調子で問いかける。


「俺の魔力は狙うほどのものなのか?」


伊耶那美はふっと小さく息をつき、呆れたように彼を見やった。


「吾が君の魔力は、吾と黄泉醜女(よもつしこめ)に与え続けておるが、減ずることなく、むしろ増す一方なりゆえ」


耀は眉をひそめ、指先で軽くこめかみを押さえた。


「そのラザールに側近はいるのか?」


ゾーヤは静かにうなずく。その動きには、一切の迷いがなかった。


「聖女様、賢者様、伯爵様、そして私」


耀は短く息を吐くと、片眉をわずかに上げる。


「そうか。お前を信用するのは、ある意味掛けでもあるな」

「——信じて」


ゾーヤは耀にさらに身を寄せると、その腕にひしと力を込め、しっかりと抱きしめる。


「そうだな、いい女だから信じてやろう」


伊耶那美は無言のまま、そのやり取りを見つめる。やがて、さらに呆れた色を濃くした瞳で、静かにため息をついた。


「最後にもう一つ教えてくれ」


耀は低く問いながら、背中に感じるゾーヤの温もりを意識した。彼女はしがみつくように腕を回し、指先が微かに耀の衣を握る。


「なに?」


ゾーヤの声は、背中越しに直接染み込むように響いた。


「この黄泉(よみ)の国を通る以外に、人間の世界に渡る方法を知っているのか?」

「知らないと思う。私でも人間の世界には渡れない」


耀は視線を落とし、ゾーヤの指がかすかに震えているのを感じ取る。


「お前は世界を渡れるのか?」

「そう。私は目標を感じ取れれば渡れる。でも人間の世界には渡れない」

「分かった。それでお前は何をしにきたんだ?」

「偵察」


ゾーヤの腕が、一瞬だけ強く耀を締めつけた。まるで今のぬくもりを逃したくないかのように。


「見てのとおりだ、何一つ準備はできていない。そう伝えるといい」


耀はため息をつくと、ゆっくりと腕を上げ、ゾーヤの手をほどくように指を絡め取る。


「分かった」


ゾーヤの力が抜け、耀の背中から離れる気配がした。

だが、完全に離れる前に、ゾーヤはふと足を止め、かすかな(ささや)きを残した。


「主力は右翼の聖女の騎士、次に左翼の伯爵隊、中央は数が多いだけ」


そして、ゾーヤの腕のぬくもりが消えたかと思うと、その姿もまた、闇に溶けるように消えていった。

耀はしばらく背後に残るわずかな体温を感じながら、静かに目を閉じた。


「……なるほどな」


ゾーヤが闇に溶けるように消えた瞬間、まるでその時を待っていたかのように、伊耶那美が滑らかに耀の正面へと身を(かわ)した。

そして、徐ろにその細い腕を回し、しなやかに抱きつく。

耀は、ふわりと香る伊耶那美の髪を撫でながら、静かに問いを投げた。


「伊耶那美、どう備える」


彼女の髪は指先に絡むほど滑らかで、触れるたびに現世のものではないことを思い知らされる。


「右・左・中央に各五百ずつ。——それにてよかろう」


伊耶那美は、耀の胸に額を押し当てるようにしながら、迷いなく答えた。


「お前は中央か?」

「否、吾は最後方に控え、采を振るうて参ろう」

「ひとりでか?」


耀は伊耶那美の背に手を添えながら問う。彼女の身体はまるで水面のようにしなやかで、だがその内に秘めた意志の強さを感じさせた。


「満ち足りておる。君は、いかに振る舞うや?」


伊耶那美の声は穏やかだったが、耀の決断を気にかけているのが伝わる。

彼女は、さらに身を預けるようにしながら、その胸元で小さく首を傾げた。


「俺は表には立たず遊撃する。この世界を攻め落とすことは不可能だと思い知ってもらうためにな」


伊耶那美は、目を閉じたまま小さくうなずく。


「さればこそ、圧して討ち勝たねばなるまい」

「そのとおりだ」


耀は伊耶那美の肩を軽く抱き寄せ、彼女の体温を確かめるように指を滑らせた。

黄泉の国を覆う静寂が、決戦の重さを一層際立たせていた。

耀がふと口を開く。


「俺が心配だ」


そう呟くと、まぶたを閉じ、静かに息を整える。

まるで何かを探るように、意識を研ぎ澄ませると、やがて微かな気配を捉えたのか、瞳を開いた。

そして、ゆっくりと右腕を天へと突き上げる。


——その頃、自宅のリビングでは五人の妻が集まり、穏やかな時間を過ごしていた。


「それで、真由美……兄様(にいさま)はどうでしたの?」


レイが身を乗り出し、興味津々に尋ねる。


「は、恥ずかしいです……」


頬を染め、真由美は視線を泳がせる。

イオナが鋭い眼差しを向ける。


「真由美、答えなさい。私も興味があります」

「イオナさん、目が血走ってて怖いです……」

「レイもイオナさんも、真由美さんを困らせてはいけません」


アンナがやんわりとたしなめるが、その横顔には微かな関心が滲んでいる。


「アンナも興味ありそうな顔をしていますわ」

「いいえ、興味はありませんよ」


そう言いながらも、アンナは視線を()らさず、話を続ける。


「ところで、真由美さん。子供はできますか?」

「そ、それは私が決められることじゃないので……分かりません」

「ということは、子供ができる可能性のあることはしたのですね?」

「楽しみですわ」

「耀様がいないうちに、名前を決めておきましょう」

「そうですわ。兄様がつければ厨二的名前になってしまいますわ」


次々と勝手に進んでいく話に、真由美は顔を伏せるしかない。恥ずかしさを隠すように、膝の上でとぐろを巻くミスティを撫で続けている。


「きゃっ!」


真由美が突然悲鳴を上げると、彼女の太ももの間から腕がするりと伸び、膝の上のミスティを掴むと、まるで当然のように太ももの間へと消えていく。


「ええぇぇぇ!」


真由美の驚愕に、レイが落ち着いた声で呟いた。


「……兄様の腕ですわ」

「困ったものです」


イオナは微笑みながらも呆れた様子を見せ、アンナは静かに首をかしげる。


「ご主人様らしいのでしょうか……」


耀が突き上げた右腕をおろすと、そこにはミスティが掴まれていた。


「上手くいったな」


ミスティは耀の身体を伝い、地面に降りると、ラミアの姿へと変わる。


「殿、もうちっと女子(おなご)らしく扱ってくれんかの……それで、突然どうしたんじゃ」

「これは第五妻殿(だいごさいどの)


耀の胸に抱かれたままの伊耶那美が、視線だけをミスティに向ける。


「伊耶那美殿、幸せそうでなによりじゃ」

「ミスティ、お前は伊耶那美を守れ」

「いよいよなんじゃな。承知した、(わらわ)に任せよ」

「さて、残る問題はどこから出てくるかだな」

「計りかねるゆえにこそ、吾はただ、時を待つのみとなろうぞ」


ミスティがふと、怪訝そうに首をかしげる。


「殿よ、ちと良いか?」

「どうした?」

「殿と伊耶那美殿を見ておると、まるで逢引(あいびき)しておるようにしか見えんのじゃが……」

戯言(ざれごと)は後とせよ。戦の備えを整えておるゆえな」

「そのとおりだ。何日でもこうやって待ち続ける」


ミスティはふっと鼻を鳴らす。


「妾はラウム殿の屋敷でたっぷり可愛がってもらったゆえ、これ以上は何も言わぬ」

「ミスティも十分に警戒してくれ」

「女子を抱いたまま言われても、本気になれんのじゃが」


ため息をつきながら、ミスティは周囲を警戒し始める。

沈黙が支配する空間に、時折、伊耶那美の吐息が微かに響く。

耀は目を閉じ、伊耶那美を抱き寄せたまま動かない。

時の流れは曖昧になり、どれほど経ったのかも分からなくなる。

一日、いや、二日ほど過ぎたのかもしれない──そう思えるほどに、静寂が続いていた。


「来る!」


ミスティが鋭く耀の方を振り向く。


「うん、来た」


その声の主は、いつの間にか耀の背中にしがみついているゾーヤだった。


「お前、気配を消すのが上手いな」

「君よ。来たるは独りにあらず」

「うん、他に十人いる」


見るとゾーヤの背に隠れるようにして、少女が十人並んでいた。


「それで、今度は何をしにきた?」

「もうすぐ来る。私たちは奇襲のために先行した」

「どっちからだ?」

「あっち」


ゾーヤが指し示す方向に、耀から離れた伊耶那美がゆるりと身を返す。


「吾、自ら出迎えんと致す」

「俺は後方に潜む。ミスティ、お前は蛇の姿で伊耶那美に抱かれておけ」

「承知した」

「ゾーヤ、全員を連れてついてこい」

「うん」


耀はゾーヤを伴い、目の前に作り出した空間の(よど)みに足を踏み入れた。

その先は、様々な色の魔力が渦巻き、(うごめ)く異空間。耀が創り出した世界だった。

次々と入ってくる者たちを、耀はひとりずつ抱き寄せる。


「……セクハラ?」


ゾーヤがじと目で見上げる。


「こうしておかないと、魔力の糧になる」


耀は冷静に答えた。


「仕方ないの?でも、やってることは変態」

「どういうことだ?」

「私の部隊は、全員少女」


耀は傍らの人影に目を凝らす。

ゾーヤの言うとおり、そこに立つ者たちは、皆、十代前半ほどの幼い容姿をしていた。


「……なるほど、変態だな」

「うん、変態」


ゾーヤが真顔でうなずく。


「私は抱いてくれなかった」


頬を膨らませてジト目で耀を見つめる。


「お前はここに来たことがあるだろう?」

「約束」

「それは終わってからだ」

「……分かった」


耀はじっとゾーヤを見つめる。


「なあ、お前は世界を渡れるって言ったな」

「うん」

「ここにも来れるのか?」

「うん、前に来たとき覚えた」

「なら、いつでも来ていいぞ」


ゾーヤの瞳が、わずかに輝いた。


「本当?」

「ああ、それと頼みがある」

「偵察?」

「よく分かったな」


ゾーヤは胸に手を当て、誇らしげに微笑む。


「……愛の力」


耀はゾーヤを優しく抱き寄せる。


「深い愛だな。頼めるか?」

「うん、始まったら知らせに来る」


ゾーヤは耀の腕の中で微かに息を漏らし、そのまま影へと溶けるように姿を消した。

お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。


休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。

出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。

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