あの時のまま
レイとイオナは朝から綾乃の自宅を訪れていた。その日は朝から濃い雲に覆われていたが、空に雨の気配はない。
リビングのテーブルには、レイが選んだケーキと、イオナが持参した紅茶が置かれている。しかし、三人の間は沈黙が支配していた。
綾乃は手元のティーカップを見つめながら、ゆっくりと口を開いた。
「相葉君は……どうしているのですか?」
レイはフォークでケーキを軽くつつき、ため息をつく。
「昨日の悪魔が言っていたとおりですわ」
イオナが静かにカップを置く。
「自分の世界を創り出して、引き篭もっておられます」
レイはカップを手に取り、琥珀色の液体をじっと見つめた。
「今は地獄に行っておりますの」
綾乃が一瞬、まばたきをして、首を傾げる。
「地獄?」
イオナが軽くうなずき、落ち着いた声で続ける。
「はい、引き篭もりの邪魔をする存在を排除するために必要だと」
「でも、実際は女を誑かしておりますわ」
レイは小さく笑みを浮かべ、紅茶を一口飲んでから言った。
綾乃はふっと微笑み、ケーキの皿に視線を落とす。
「何となく分かります。相葉君は無自覚で女性を惹き付ける魅力を放っていました」
「先生もそうだったのですか?」
イオナが興味深そうに綾乃に視線を向ける。
綾乃はふと視線を逸らし、考えるように紅茶をひと口含んだ。
「彼、真面目なんです。そして、行動が素直で優しい……優しい言葉を掛けてくる人はたくさんいても、言葉を抜きにして優しい人はあまりいません」
イオナが静かに微笑みながら、綾乃の言葉を肯定するようにうなずく。
「レイは最初、殺されかけましたわ」
綾乃が驚いたようにレイを見る。だが、レイは肩をすくめて楽しげに笑った。
「それは、レイ様のいたずらが過ぎたのです。私は未だに……」
イオナが言葉を続けようとしたが、その先を言わずに小さく息を吐いた。
静かな空気が、三人の間にゆっくりと流れていった。
ふいに顔を上げた綾乃が口を開いた。
「もうひとりの相葉君はどんな人なのですか?」
綾乃は普段の耀の姿を知らない——そして、それを訪ねた二人も、普段の耀にはあまり興味を持っていない。
「うーん、分かりませんわ」
「本当に引き篭もった後、どうなるのでしょうか?」
「五人も妻を揃えてあれではいけませんわ」
「五人?」
綾乃が驚き、思わず身を乗り出す。
「はい、正妻にアンナ様、二番目がレイ様、三番目が私、四番目に真由美、五番目がミスティです」
イオナは淡々と告げるが、綾乃はすぐには言葉が出てこなかった。
「ミスティが兄様と地獄に行っていますの」
綾乃はそっとティーカップを置き、困惑したように唇を噛んだ。
「相葉君が二人いるなんて、ややこしい話ですね……」
「綾乃が愛した兄様のことは『兄様第二形態』と呼んでいますの。ちなみに厨二病を発症した状態は『兄様厨二形態』と呼んでいますわ」
レイの言葉を聞き少し微笑んだ綾乃は、その表情とは裏腹に寂しそうに話し始めた。
「今でも……今でも相葉君を愛しています。でも、死んでいるんですよね……」
綾乃は顔を伏せ、小さくため息をつく。
「心のどこかでもう一度、相葉君が会いに来てくれると、信じていましたけど、もう会えないのでしょうね」
「会えないことはありません」
イオナの声に驚いた表情を見せた綾野を見て、レイはカップを置き、穏やかに微笑む。
「地獄に行っていなければ呼び出せますわ」
「今、第二形態の耀様が親しく接するのは、レイ様とミスティだけです」
「ラウムと伊耶那美もいますわ」
「伊耶那美?」
綾乃が眉をひそめる。
「伊耶那美命のことです。黄泉の国に迷い込んだついでに娶られました」
「相葉君が神様を妻に?その話をどこまで信じていいのか分かりません……」
綾乃はティーカップを見つめながら、ぼんやりと呟いた。
「綾乃」そう呼びかけて微笑んだレイは、おもむろに開いた手をテーブルの脇に向ける。
「おいでまし、伊耶那美ちゃん」
輝く霧が立ち込め、視界を遮る。だが、風に吹かれたかのように霧が晴れると、そこには伊耶那美が立っていた。
ゆっくりと目を開いた伊耶那美が、微笑みながら言葉を紡ぐ。
「此れは、第二妻殿と第三妻殿——いかがなされたか?」
レイが視線を向け、問いかける。
「兄様は伊耶那美のところに寄りましたの?」
「吾が君は、いよいよ威厳を増され、荘厳なるお姿にてあられたな」
うなずいたイオナも、伊耶那美に問いかける。
「無事に旅立たれましたか?」
「湯殿を共にせんと思うておったが、その間もなく、第五妻殿とラウム殿とが共に出立なされた」
恥ずかしそうに頬を染める伊耶那美を気に留めることなく、レイが口を開く。
「伊耶那美、綾乃の話も聞いてくださいまし」
伊耶那美は綾乃を見つめ、首を傾げる。
「綾乃……ただの人間に見ゆるのみなれど?」
言葉尻とは裏腹に、どこか威圧感のある雰囲気に、綾乃はおどおどと答える。その美しい顔立ちとは裏腹に、確かに何か『人ならぬもの』を前にした感覚が、背筋をひやりと撫でた。
「——相葉君の教師でした」
「師が吾が君を愛したとな……実に興味深きことなり」
「綾乃が愛した兄様は、伊耶那美と同じですわ」
「かの恐ろしき御仁を、人の身の者が愛したとな……否、今なお、汝は吾が君に慕われておるな」
イオナが伊耶那美に振り向く。
「分かるのですか?」
「吾も神と称されし者なれば、万事、見通し得よう。ましてや、吾が君のこととなればな」
「ところで、伊耶那美。この近くにある加紫久利神社を知っておりますの?」
伊耶那美はゆるりと目を伏せ、一拍置いてから微笑む。
「主祭神は大日孁尊、即ち天照大神にてある。されど、元は山岳信仰の対象たる加紫久利山を神体としておったと聞くな」
「やはり、そうですの」
レイは思案するように呟いた。
「その加紫久利山は……」
伊耶那美は静かに手を組み、ゆるりとした動作で顎を引いた。
「第三妻殿の察しのごとく、現世と常世を繋ぐ澱みが、そこにあった。千年以上前に封じられしものにてある」
イオナはわずかに眉をひそめ、伊耶那美を見つめる。レイは伊耶那美に笑顔を向けた後、感心したようにうなずく。
「伊耶那美は何でも知っておりますわ」
微笑みながらも、伊耶那美は慎ましく頭を垂れる。
「褒められしこと、悦ばしく思うておる。さて——」
彼女はゆるりと視線を持ち上げ、どこか寂しげに目を細めた。
「吾が君は、自らの常世に籠もられんとの思し召しと聞く。何か、事の起こりでもあったのであろうか?」
「分かりません。ただ、そこが自らの存在する場所だと思っているのではないかと話しておりました」
「然様にてあるのか……」
伊耶那美はまぶたを閉じ、指先で袂を軽く撫でた。
「君が常世に在らば、吾は何時でも相まみえること叶うゆえ、悦ばしき限りなり」
レイが伊耶那美の様子を窺うようにしながら、静かに言う。
「綾乃にも会わせてくださいまし」
伊耶那美はゆっくりと綾乃へと視線を移し、首を僅かに傾げた。
「その術、吾が案じておくとしよう」
「お、お願いします……」
綾乃は肩をすくめ、ぎこちなくうなずいた。
「兄様が帰りにも寄りましたら、準備が整っているとお伝えくださいまし」
「しかと承った」
伊耶那美は優雅に一歩下がり、袖を広げるようにして恭しく一礼する。
「これにて、吾は下がるとしよう」
霧が晴れるように姿を消した伊耶那美を見送った後も、綾乃はじっとその場を凝視していた。しばらくして、ぽつりと呟く。
「どうやらあなたがたの話は信じるしかなさそうです……」
「そう言ってもらえると幸いです」
綾乃に感謝の意を伝え、イオナは紅茶を一口飲む。
「でも、なぜ相葉君は……」
綾乃が言いかけると、レイはゆっくりと視線を上げた。
「兄様のお話ですと、高校生の三年間は第二形態で過ごされたようですの」
そう言いながら、レイは手つかずのイオナのケーキをじっと見つめる。フォークを取るでもなく、ただその甘やかな断面に目を落としている。
「綾乃様が知っているのは、その時の姿です」
イオナはそっとケーキの皿を押しやり、レイの前へと寄せる。レイは小さく瞬きをし、わずかに口元を綻ばせた。そのやり取りを見ていた綾乃が、少し微笑む。
「私は運が良かったのか、悪かったのか……」
「綾乃、運は綾乃に味方しますわ」
レイが優しく言葉を添えながら、ケーキを頬張る。
綾乃は一瞬、肩をすくめるようにしてから、ゆっくりとうなずいた。
「そう……信じてみます」
綾乃はそっとカップを持ち上げ、一口の紅茶で口を潤す。僅かに目を伏せ、淡く広がる香りとともに、言葉を探すように息を整えた。
「——彼が死んだというのは?」
静かに問いかける綾乃に、レイは迷いなく答えた。
「間違いありませんわ」
「私達も聞いた時は驚きました。でも、それまでの出来事が全て納得できたのも事実です」
綾乃はカップをソーサーに戻し、指先でそっと縁を撫でる。その表情はどこか遠くを見つめるようで、静かにまぶたを伏せた。娘のことが頭から離れないのだろう……
「綾乃様は、どうして未だに耀様を?」
レイの問いに、綾乃は小さく微笑んだが、どこか寂しげだった。
「どうしてでしょうね……分かりません。私の中には彼のあの時の姿が、そのまま生き続けています。けれど、十年以上経って……変わったでしょうね」
「でも、無邪気で可愛いところもありますの」
レイはくすりと笑いながら、指先でティースプーンを軽く回す。
「確かに、そんなところもありました」
綾乃も小さく笑ったが、すぐにその笑みは消えた。
「私には、怖いだけですけど……」
ぽつりと呟いたイオナは、言いかけた言葉を飲み込み、わずかに肩を竦める。すぐに何かを振り払うように表情を整え、話題を変えた。
「綾乃様、次の連休に奈々美様を連れて、遊びに来てください」
「それはいいですわ。家も大きくなって、泊まる部屋もありますの」
イオナの明るい声に、レイも小さくうなずいた。
「そうですね……奈々美とも相談してみます」
綾乃はふっと息をつき、少し柔らかく笑った。その表情には、ほんの僅かだが、迷いが和らいだようにも見えた。
「ただいまー!」
玄関が開く音と同時に、弾むような声が響き渡る。
玄関が閉まる音と同時に、ドタドタと勢いよく駆ける足音が近づき、リビングの扉が勢いよく開いた。
「お姉ちゃんとおばちゃん、来てたんだ!」
息を弾ませながら奈々美が立ち止まり、ぱっと顔を輝かせる。
レイは嬉しそうに微笑み、イオナは少し肩をすくめながらも、優しく迎え入れるように微笑んだ。
「奈々美、ケーキがありますわ。食べてくださいまし」
「やったー!」
飛び跳ねるように椅子を引こうとした奈々美の腕を、綾乃がそっと押さえた。
「手を洗ってきなさい」
「はーい!」
勢いよく返事をすると、奈々美は再びドタドタと駆け出していく。その背中を見送りながら、綾乃は小さく息をついた。
「もうすぐ中学生なんですけど……」
小さく苦笑しながら呟く綾乃に、イオナが静かに微笑む。
「きっと、ここが安心できる場所なんですよ」
柔らかく言葉を紡ぐイオナの横顔を見て、綾乃の表情も少し緩んだ。
リビングに戻り、ケーキを頬張る奈々美の口元には、クリームがついている。
レイは微笑みながら、そっと紅茶を口に運び、優しく話しかけた。
「奈々美、今度綾乃と一緒にレイのお家に遊びに来てくださいまし」
「うん!」
ぱっと顔を上げた奈々美が、期待に満ちた瞳で綾乃を見つめる。
「ねぇ、お母さん、いいでしょ?」
「そうね。行きましょうか」
綾乃が微笑んでうなずくと、奈々美は小さくガッツポーズを作り、嬉しそうに笑った。
「やったー!」
「私達は明日、帰りますので、奈々美さんが来るのを楽しみに待っています」
スプーンをくるくると回していた奈々美の手がぴたりと止まる。
「もう帰っちゃうの?」
「レイもイオナもお仕事がありますの」
少ししょんぼりした奈々美だったが、すぐに気持ちを切り替えたように、元気よくスプーンを持ち直す。
「そっか。じゃあ、もうちょっと遊ぼう!」
「いいですわ」
奈々美がケーキを食べ終えるのを見たレイは、そっと椅子を引きながら立ち上がる。
「あの神社の池に連れて行ってくださいまし」
「うん!河童が出るんだよ!」
奈々美がいたずらっぽく笑いながら、大げさに身振りをつける。
「河童とは、あの妖怪ですわね?」
レイは少し首を傾げながら、興味深そうに尋ねる。
「うん!ぬるっとした手で……」
奈々美が大きく手を広げると、イオナが小さく笑いながら口を挟んだ。
「それは楽しみです。綾乃様もご一緒しましょう」
「そうですね」
綾乃は紅茶を一口飲みながら、穏やかに微笑んだ。
——レイと奈々美は参道を楽しそうに見て回り、時折何もないところを指差したり、何かを追いかけるように走ったりしている。その後ろをイオナと綾乃がゆっくりとついていく。
「あの子は幼い頃から、あのように何かを追い回すような、落ち着きのない子なんです。レイさんも付き合ってくれているのでしょうね」
「いいえ、レイ様も奈々美さんと同じものが見えているはずです」
驚いた表情を浮かべる綾乃に、イオナが話を続ける。
「レイ様は精霊が見えているそうです。おそらく奈々美さんも」
「信じられません」
「でも、あの二人の行動は同じものを見ているとしか思えないです」
「——そうですね」
「レイ様は精霊の記憶を見ることができます。精霊は生き物だけでなく、愛着をもって使われた物にも宿るそうですよ」
「物にですか……」
「綾乃様のことを知ったのは、耀様の悪趣味な制服の記憶を見た時です。耀様の卒業を労う綾乃様が妊娠しているのではないかと気づきました」
「相葉君が大学合格を知らせに来てくれたときですね。卒業式の日、彼はどこかに消えてしまいましたから」
「その後、レイ様と制服の記憶を深く辿ったのですが、耀様と綾乃様の胸焼けしそうなほど甘い夜をみて、確信しました」
「えっ!見たんですか!」
「はい。教師と生徒……それはそれは禁断の甘い夜でした」
「それはダメでしょう、マナー違反とか言うレベルではありません!」
イオナが一枚の紙をポケットから取り出し、綾乃に差し出した。
「——敢えて話しました」
どことなく見覚えのある紙を手に取り目を落とすと、そこには『あなたの給料を預かりました。お金はそこから引きましたので、お弁当は遠慮なく食べてください。本はあなたが苦手にしている文法の解説が分かりやすいので、読んでみなさい』と書かれている。
じっとメモを見つめる綾乃に、イオナが話を続ける。
「耀様も綾乃様を慕っていたのでしょう。制服に縫い込まれていました。耀様は無意識に綾乃様を想っていたのかもしれません。これほど大切にしていたのです。また、元通りに縫い込んでおきます」
綾乃の指が、わずかに震えた。
「相葉君が……」
メモの文字をなぞるうちに、ふとあの日の記憶が蘇る。
素行の悪い少年――けれど、本当はただ不器用なだけだった。
ひとりでいるのが当たり前のように振る舞いながら、時折見せる寂しげな横顔。
放っておけないと思ったのは、きっと同情なんかじゃなかった。
気づけば、手を差し伸べていた。
それがいつの間にか、心を満たされていたのは、自分の方だったのかもしれない。
あの夜、相葉君は何を考えて私を抱いていたのだろう——
今さらながら、胸が締め付けられる。
「……愛し合っていたのですね」
イオナの言葉が、静かに降りてくる。
綾乃の目から、一粒の涙がこぼれた。
池のほとりでレイと無邪気に遊ぶ奈々美の笑い声が、木々の間を駆け抜ける。綾乃は静かに目を閉じ、小さく呟く。
「産んでよかった……生まれてくれてありがとう……」
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。
休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。
出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。




