兄様の影
翌朝、八時を回った頃。レイとイオナは、新幹線のグリーン席で揺られていた。
アンナと真由美に話せば、きっとついていくと言い出すだろう。二人には書き置きを残し、こっそりと家を出てきた。
駅で買った弁当を、肩を並べてつつきながら、イオナがふと問いかける。
「レイ様、飛行機の方が早く着きますのに、なぜ新幹線に?」
エビフライを頬張ったままのレイが、不思議そうな眼差しを向ける。
「なぜ急ぎますの?」
「いえ、早く探されたいのではないかと思いまして……」
「急いで見つかるものではありませんわ。一番の近道は、子供たちに聞くことですの」
「なるほど、では学校帰りの子供に聞いてみるのですね」
「そうですわ。十二歳くらいのはずですの。『元宮』という子を見つけて、母親の名前が『綾乃』であればいいだけですわ」
「それでも、少し早い時間に到着しますが」
「子供たちに聞く前に、兄様の通っていた学校に行きますの。何か手がかりがあるかもしれませんわ」
「確かに、それが確実ですね」
レイは、少し考え込むように視線を落とし、すぐに顔を上げた。
「ここで考えていても仕方がありませんわ。イオナ、もう一つお弁当を買ってくださいまし」
「レイ様、食べ過ぎです。次の乗り換えまで我慢してください」
小さくため息をつくレイの手元には、空になった弁当の容器があった。
飛ぶように移り変わる、窓の景色を眺めていたレイが、瞳を細める。そして、ふいに口を開いた。
「イオナ、最近の兄様をどう思いますの?」
「どうしたんですか?急に」
「アンナが塞ぎ込んだのは、兄様の変わりようですの」
イオナは少し考えるように、手を口元にあて、黙り込んだ。しばらく窓の景色に目を向け、ゆっくりと口を開く。
「正直に申し上げますと……以前のような輝きが、少し失われてしまいましたね」
「それでもアンナは、少し前の兄様が恋しいようですわ」
「アンナ様は強い方です。現実を見てくれるのではないでしょうか?」
「そうなるといいですわ」
車窓に肘をつき、外を眺めたまま、レイが少し声を荒げる。
「それよりも、レイは兄様厨二形態に言いたいことが山ほどありますわ。五人の妻にかっこよく話をしてくださったと思えば、とんだ勘違いでしたわ」
「なにか思うところでもあるのですか?」
「あんな、へなちょこな兄様を押し付けて、自分は引き篭もるなんてありえませんわ」
「確かに、そう言われるとそうですね」
「イオナ、覚悟してくださいまし。戻ってきた兄様は、更にへなちょこになっていると思いますわ」
「私は……私のお願いした仕事を片付けてくだされば、それ以上は何も期待しません」
「せっかく家も広くなりますのに、妻たちの心が離れたら無駄になりますわ」
「耀様を支えていかなければならないことに変わりはありませんから、無駄にはなりませんよ」
レイは小さくため息をつくと、肩をすくめる。
「まあ、レイは畑仕事を一緒にしてくだされば満足ですわ」
イオナは少し微笑みながらうなずく。
「そうですね。もう少ししたら暖かくなります。茂様や幸子様も手伝ってくださいますよ」
「待ち遠しいですわ」
——目的の駅に到着した二人は、駅舎を出て周りを見渡した。
「イオナ、なぜこんな何もない場所に新幹線が停まりますの?駅しかありませんわ」
「本当に何もありません。宿泊先は近くですので、荷物を置きに行きましょうか」
「そうですわね。でもイオナ、駅前ですのにタクシーの一台も停まっていませんわ」
「ご心配なく、車も運転手も用意できております」
イオナがスマホで連絡を取る。
「イオナがいて良かったですわ。ところでイオナ、兄様厨二形態を怖がっていますの?」
「お分かりになりますか……」
「電車の中でもその話になると、身体が、こう、ピクッと動きますわ」
「怖いというより、畏れ多さを感じております」
「そうですの……」
レイが何かを言いかけた時、艶やかな黒塗りの高級車が静かに滑り込むように横付けされた。
「大きい車ですわ。イオナが手配しましたの?」
「はい、一番近い支社が福岡にございますので、そこから呼んでおきました」
「イオナ、ありがとうですわ」
高級車から降りてきた二人の男が、深々と礼をすると、無駄のない動作で荷物をトランクに積み込んだ。
運転手は流れるような動作で後部座席のドアを開き、レイとイオナを招き入れる。
「ねえイオナ、このまま兄様が通っていた学校に行くのはどうですの?」
「そういたしましょう」
イオナが行き先を告げると、運転手は静かに車を発進させた。
学校に到着すると、運転手にイオナが何かを指示していた。
「レイ様、私とこの者の二人で訪問してまいります」
「どうしてですの?」
「少し考えがございますので、お待ちいただけませんでしょうか?」
イオナはレイと運転手を残し、校舎へと向かった。
「レイがお留守番なんて、つまらないですわ」
「レイ様、イオナ様は耀様の実績を引き合いに出して、似たように有能な生徒を紹介していただけないかと、お考えのようです」
「それは建前ではありませんの?」
「いいえ、嘘ではございません。耀様にお手伝い頂くようになってから、我社の業務効率は格段に上がっております。それに、イオナ様に同行している者は、九州支社長ですから」
「それはどうしてですの?」
「以前は大手に依頼していましたが、どのシステムも前例を踏襲するばかりでした。しかし、耀様の発想は斬新で、当初は疑われていましたが、運用が始まると皆がその価値を実感しました」
「兄様は優秀ですの?」
「はい、それはもう……おや、戻っていらっしゃいました」
レイがフロントガラスに視線を向けると、イオナが戻ってきているのが目に入った。
イオナがジェスチャーで運転手に窓を開けるように指示をしている。
「レイ様、校長が当時のことを知っていらっしゃいます」
「それは良かったですわ」
「レイ様もご一緒にお話を聞いてほしいのですが」
「それは楽しみですわ」
イオナとレイと支社長は校長室に案内される。
イオナと支社長が校長と仰々しく挨拶を交わしている。
その様子を眺めていたレイだったが、突然イオナに紹介された。
「相葉様の仕事をサポートしております、レイ様です。主に対外交渉を担当されています」
「そうでしたか。よろしくお願いいたします」
「よろしくお願いいたしますわ」
レイはにこやかに一礼すると、ふと校長の頭部に目を向けた。
「ところで、なぜ頭に作り物の髪を載せていますの?」
瞬間、部屋の空気が凍りついた。ひと目でカツラと分かるのに、誰もが見て見ぬふりをしていた。それだけに、居合わせた全員の目が泳ぎ始める。そこにレイが追い打ちをかけるように、さらなる一言を放つ。
「それは取ってくださいまし」
全員の顔から血の気が引いた。
校長は小刻みに震え、必死に耐えているのが分かる。そしておもむろに手を頭に乗せると、静かにカツラを取り去った。
「こ、これで……よろしいですか?」
「そちらのほうが男前ですわ」
「——はぁ」
「見た目で判断するような人を気にする必要はありませんわ。頭が薄くなるのは男らしさの証だと思いますの。あなたはもっと堂々と振舞うべきですわ」
校長は何を言われたのかすぐには理解できず、困惑した表情を浮かべた。そして、やがて怒りを堪えるようにソファに腰を下ろす。そこにレイが歩み寄り、突然、校長の頭に手を伸ばした。
「ちょっと湿っていますわ。イオナ、拭いてくださいまし」
「……」
イオナはわずかに眉をひそめたが、無言でカバンからハンカチを取り出し、レイに一枚手渡す。
校長はソファに腰をおろし、うつむいたままじっと耐えていた。見目麗しい女性二人に禿げた頭を拭かれるうちに、いつしか怒りは消え、羞恥に変わっていた。
レイは満足そうに微笑み、イオナはどこか気まずそうな表情を浮かべながら、ソファに腰をおろす。
「これでゆっくり話ができますわ。みっともない被り物をしていては落ち着いて話ができませんの」
なんとも言えない空気に成り果てた室内で、支社長が場を取り繕うように話を始めた。
「では、本題に移らせていただきます。先ほど事務長に申し上げたとおり、弊社は貴校の卒業生である『相葉耀』様の優秀さに多大な恩恵を受けております。つきましては、優れた教育環境を築いておられる貴校より、優秀な生徒をご紹介いただきたく存じます。進学後の支援を約束し、将来的に弊社の戦力となる人材を育成する取り組みをご提案いたします」
補足するように、イオナが話を続ける。
「もちろん、大学卒業後は弊社で数年は働いてもらうことが条件となりますが、返済の必要がない奨学金のようなものと考えて頂けると幸いです」
先程までとは打って変わり、真剣な表情で話を聞いていた校長が、困惑げに口を開く。
「相葉君は私も覚えています。私がここで教頭をしていた時の生徒でした。しかし、たいへん申し上げ難いのですが、素行にかなり問題のある生徒でした」
「確かにそうかもしれませんわ。レールに乗らなかったからこそ、あのような発想があると思いますの。それを容認した学校の対応は、称賛に値すると思いますわ」
「そう言って頂けると、幸いではございますが……実はひとりの教師に任せきりになっていたのが事実です」
「それはどういうことですか?」
「当時、生徒指導を担当していた教師に、相葉君の対応を任せていました。当時の校長からの指示は『穏便に済ませるように』と、それだけでした」
「理解ある教師だったのですか?」
「元宮先生は特に相葉君に目をかけていました。そうせざるを得なかったのでしょうな。他の素行の悪い生徒は他の教師でも対応できましたが、相葉君は元宮先生以外の教師が怖がって避けていましたので……まあ、敢えて指導せずとも退学は近いと考えていたのかもしれませんが」
「退学するのが目に見えている生徒には関わりたくないと?」
「そうですな。指導が悪かったと評価されることになりかねますので」
「その元宮先生に会いたいですわ」
「もう教師は辞めております。相葉君のせいだと他の教師は言っていましたが、私にはそう思えませんでした」
「辞めておられるのなら、お会いするのは難しいですわね」
ため息をつくレイに、校長の隣で静かに話を聞いていた事務長が口を開く。
「元宮先生なら少し離れたところに、娘さんと一緒に住んでおられますよ。自宅で小学生向けの英語塾をしています。うちの子もそこで英語を習っていました」
「後ほど住所を教えてくださいませんか?」
「分かりました」
逸れた話を戻すように、支社長が口を開く。
「では、今後の方針につきまして、双方窓口となる者を決めておきたいのですが」
「そうですね……学校は異動も多いので、御社との窓口は進路指導より事務方の方がいいかもしれません」
「では、弊社は九州支社長が対応いたします。よろしいですね、支社長」
「はい、懸命な判断かと思います」
「では、今後ともよろしくお願いいたします」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
イオナと校長は握手を交わし、今後の協力と、レイの無双を過去のものとすることを、妖艶な瞳と光り輝く頭頂で誓い合った。
車に乗り込んだレイは、イオナに話しかける。
「探す手間が省けましたわ」
「はい。まさか近くに住んでいるとは思いませんでした」
「そうですわね。それで、行きますの?」
「ええ、このまま向かってもよろしいかと」
運転手が後部座席を振り返りながら言った。
「イオナ様、車で二十分ほどかかりますが」
イオナは静かにうなずいた。
「大丈夫ですの。レイはお腹が空きましたけど、夕飯まで我慢できますわ」
レイの言葉を聞き、微笑んだ運転手は、ハンドルをしっかりと握ると、正面を見据えた。
「では、出発いたします」
車を走らせて十五分ほど経った頃、窓の外を眺めていたレイが、ふと何かを見つけたように声を上げた。
「停まってくださいまし」
運転手がゆっくりと停車し、少しバックしてレイが声を上げた地点へと戻る。再び停車すると、レイは窓の外をじっと見つめた。
「レイ様、どうかなさいましたか?」
「イオナ、あの子、どう思います?」
レイが指を差した先には、ひとりの女の子がしゃがみこんでいた。
具合でも悪いのかと思いしばらく様子を窺っていたが、そうではないようだ。
女の子は何かを追うようにしきりに視線を動かし、時折、楽しそうに笑みを浮かべている。
「何をしているのでしょうか?」
「あの子、見えていますわ」
「見えている?何がでしょうか?」
「イオナ、降りますわ」
そう言うや否や、レイはドアを開け、飛び出すように女の子のもとへと向かう。
慌ててイオナも車を降り、その後を追う。
ふと顔を上げると、そこには立派な鳥居が建っていた。
「レイ様、神社のようですね」
「そうですわ。兄様と以前行った神社も、そうでしたの」
鳥居にかかる神社名を見ると『加紫久利神社』と書いてある。
「……なんと読むのでしょうか?」
突然、背後から声がかかった。
「かしくりて読むとよ。はんたちゃ、どっからきやったと?」
振り向くと、年老いた男性が笑顔で立っていた。
驚くイオナをよそに、老人は続ける。
「ここは大社やったどん、西南戦争で全部燃えてしもた。もう、なんもかんも分からんと。じゃっどん、何千年もたつて、じさんたちゃ言うといやった」
——と、祖先たちは語り伝えていたらしい。
「古い神社なんですね」
「神代より前からあったっち言わんどん。じゃっどん、なんも残っとらんで、誰にも分からんとよ」
「おじいさま、あの山も神社ですの?」
レイが指差す先には、周囲より高く、鋭くそびえる山のシルエットがあった。
「あん山が神体じゃったっち言わんどん。じゃっどん、誰にも分からんと。あん山は矢筈山っち言うどん。昔は加紫久利山っち言うとったらしか」
山頂をじっと見つめるレイの様子を見て、老人はさらに話を続けた。
「矢筈山の上には矢越神社があっと。じゃっどん、登道が荒れとっで、登るなら気をつけやんせ」
「ありがとうございます。おじいさま」
老人が笑顔で去るのを見送り、レイとイオナの視線は再び女の子へと向けられた。
二人は静かに歩み寄ると、しゃがみ込んで、時おり笑顔を見せる女の子にレイが話しかける。
「あなた、見えていますの?」
突然、背後から声を掛けられ、振り向いた女の子が、少し訝しげにレイを見つめる。
「レイも見えていますわ」
「レイ様、何が見えているのですか?」
「イオナには見えませんの?」
レイが木の根元に向かい、徐ろに手を広げる。すると、手のひらに乗りそうなほど小さな女の子の姿がふわりと浮かび上がった。
「えっ、これは……」
レイの手の平に乗った精霊を、目を見開くイオナの前に持ち上げる。
「精霊ですわ。神社にはなぜかたくさんいますの」
「お姉ちゃん……すごい!どうやったの?教えて!」
「これはレイにしかできませんの」
「そっか……私にしか見えないから、みんなにも見せてあげたかったのに……」
「それはいけませんわ。精霊にも、相手を選ぶ自由がありますの」
「そうか。うん、そうだね。この先の池には、もっといっぱいいるよ」
「あなたのお名前は?」
「奈々美。元宮 奈々美」
レイとイオナは、目を合わせると同時に確信を深めた。
探していた子で間違いない。
目元と口元に刻まれた面影――耀によく似ている。
「レイはレイですわ」
「私はイオナと申します」
「レイお姉ちゃんとイオナおばちゃんだね」
「そうですわ。イオナおばちゃんですわ」
楽しそうに笑うレイに、イオナの鋭い視線が突き刺さる。
「ところで、奈々美。お母さんはいませんの?」
「今は買い物に行ってるかな。たぶん」
「奈々美さん、お母さんのお名前は?」
「綾乃だよ」
「私達は綾乃さんにお会いしたいのですが」
「じゃあ、うちで待ってるといいよ。今日は塾もお休みだし」
「近いですの?」
「うん、近いよ」
「レイ様、運転手に伝えてきますので、暫くお待ちください」
「分かりましたわ。奈々美は精霊が見えるなんて凄いですわ」
「もっと凄いのも出せるけど、お母さんに怒られるしな」
つまらなそうに少し顔を伏せた奈々美の耳元で、レイが手で口を隠し囁いた。
「レイにだけこっそり見せてくださいまし」
「うん、でもお姉ちゃん、内緒にしてくれるよね」
「もちろんですわ」
奈々美は、理解を得られる友人を見つけたように目を輝かせた。
そしてレイは、その輝く瞳の奥に宿る魔力が、耀と寸分違わぬ色をしているのを見て、確信を深めた。
――間違いない。
この子は、兄様の血を引いている。
そして、その力もまた――。
奈々美が先頭に立ち、楽しげに歩き出す。
レイとイオナは、それぞれの思いを胸に、彼女の後を追った。
春が近いのを感じる、柔らかな日差しの中、冬の名残をわずかにとどめた風が頬をかすめる。
三人の静かな足音が、風に溶けるように響いた。
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。
休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。
出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。




