揺らぐ正妻
真由美がそっと引き戸を開け覗き込むと、アンナは部屋の真ん中に顔を伏せたままじっと座っていた。
いつもの頼もしい雰囲気はなく、何かを悩んで答えが出るはずもない、無限の思考に陥っているように見えた。
「アンナさん…」
「……真由美さん、ですか」
「ご飯持ってきました。ここに置いておきますね」
テーブルに食事を置き、部屋を出ようとする真由美に声がかかる。
「あなたはご主人様のことをどう思いますか?」
「私ですか……好きですよ」
「結婚してもいいと思いますか?」
「んー……そうですね、私なんかで良ければ」
「では、真由美さん。あなたがそう思うのはどっちのご主人様ですか?」
真由美はハッとした表情で目を見開いた。明らかな別人が共存する耀のどちらかと聞かれるとは思っていなかった。
「……優しい方です」
その真由美の声に迷いはなかった。彼女にとって、もうひとりの耀は空想上の存在でしかない。
「そうですか……」
「アンナさんは違うのですか?優しくて頼もしいと言っていましたよね」
「優しいだけに……優しさが、何かを隠すためのものに思えてしまう」
真由美はアンナの様子を見て、話を聞きたいと思い立ち止まった。そして、テーブルの前に腰をおろす。
「アンナさん、先にご飯食べてください。もう少しお話をしましょう。ねっ」
アンナもテーブルの前に移動し、少しずつ食事を取り始める。
「アンナさん、美味しいですか?」
「はい、真由美さんがひとりで作ったのですか?」
真由美は小さくうなずく。
「まだまだ、アンナさんには及びませんけど……」
「もう追い越される日も近いですね。嬉しく思いますよ」
雑談や家事の話をしながら食事をする。主に家事を担当する二人は、自然と一緒に居る時間が長くなり、気兼ねなく話せる関係になっていた。
そして、食事を終えたアンナが、そっと箸を置くと、その大きな胸の奥で、小さく呟く。
『その日が来たら、私は何を思うのでしょうね』
後片付けを終えた真由美が、再びアンナの部屋を訪れると、アンナはいなかった。さっき浴室の方へ歩いていったから、まだ入浴中かもしれない。
真由美は部屋に布団を敷き、塞ぎ込んでいるアンナがいつでも休めるよう、準備を整える。
しばらく部屋で待っていると、引き戸がゆっくりと開かれ、アンナが部屋に戻ってきた。
「真由美さん、ありがとうございます」
「あっ、アンナさん、お風呂だったんですね」
「はい、真由美さんはもう済ませましたか?」
「はい。アンナさん、今度お裁縫を教えてください」
「そうですね、きっと役に立ちますから、一緒に練習しましょうか」
「ありがとうございます」
暫く沈黙が部屋を支配する。
「あ、あの、アンナさん。旦那様のことで悩んでいるのですか?」
「いいえ、ご主人様が暫く留守にするのが、寂しいだけです」
「アンナさんは寂しい時、こんなふうに考え込んだりしないでしょう? だから……アンナさん話を聞かせてもらえませんか?」
アンナは、ため息をつきながら小さく微笑んだ。しかし、その笑みはどこか寂しげだった
「真由美さんはご主人様と結婚してもいいのですね」
「はい、でもアンナさんは……」
「私は人間ではありませんから、結婚できません。真由美さんならご主人様を幸せにしてくれますよね」
「——アンナさんと一緒に」
「そうですね……そうなるといいですね」
再びため息をついたアンナは、ゆっくりと視線を落としながらも、どこか遠くを見つめている。
そんなアンナを見て、真由美は心配そうに眉を寄せた。
「アンナさん、不安なんですか?」
アンナはふと瞬きをして、真由美へと向き直る。
「……そうですね。レイに現実を見るように言われました」
「どうしたんですか?旦那様は必ず帰ってきますよ」
「ご主人様は、帰ってきても同じでしょうか?」
真由美は小さく首を傾げ、考え込むような仕草をする。
「真由美さんは優しいご主人様が好きなんですね。では、怖いご主人様はどうされますか?」
「どちらも……好きですよ。でも、結婚するなら、優しい旦那様がいいです」
「どうしてですか?」
「……私を助けてくれたのは、怖い方の旦那様だったと思います。でも、とても軽薄なように思えてしまって」
アンナは静かに微笑み、真由美に優しい眼差しを向ける。
「では、なぜご主人様はあなたを助けたのでしょう?」
「……分かりません。女だからですか?」
「気に食わなかったのです。自分に楯突く相手が、気に食わなかったのです」
「どういうことですか?」
「自分が気に食わない相手は、徹底的に心を折るのです。それは、私や真由美さんに向けられるかもしれませんよ」
真由美は思わず腕を抱くようにして、肩をすくめた。
「……怖いですね。でも、それが旦那様なら……受け入れるしかないのでしょうか」
「ええ。でも私は、優しいご主人様と怖いご主人様が共存している時に出会いました。そして、心惹かれました。だから、どちらか一方では、私の愛したご主人様ではないと、認めざるを得なくなりました」
「私はイヤです。自分の父親のように見えてしまうことがあります。だから怖い方の旦那様は嫌いです」
その言葉を聞いたアンナは、顔を上げた。真由美は目を閉じ、後悔や悔しさが滲んだ表情を浮かべている。
「真由美さんに何があったのかは聞きません。あなたがいいと思うなら、優しいご主人様を大切にしてください」
「アンナさんはそれでいいんですか?」
「はい、構いません。私はいずれ去るかもしれません」
それまでとは違う、張り詰めた響きに——真由美は、息を呑んだ。
「旦那様はアンナさんがいないと寂しがると思います」
「……そうかもしれませんね。でも、足りないのです」
「足りない?」
「はい。私は、ご主人様が優しいままでいてくださることを望んでいました。でも、怖いご主人様の言葉と態度を見ていて分かります。ご主人様は優しいのではなく……怖いご主人様を盾にして、ただ、目の前の危機から逃げているだけなのかもしれません」
アンナは寂しそうに目を細め、遠くを見つめる。
「……そうしたのは私の責任です。だから、これからもご主人様に尽くすことは変わりません。でも——今は、ちょっかいを出してくる人たちがいます。それが片付いたら、怖いご主人様は、きっと私たちに関わらなくなるでしょう。そうなった時……私は、ご主人様を拒絶してしまいそうな気がするのです」
再び、優しい眼差しが真由美に向けられた。
「……だから、あなたにしかできない役目をお願いしなければなりません」
「役目?」
「夜のお相手は、真由美さんにお任せします」
真由美の指がぴくりと震え、顔が一気に紅潮する。
「えええ!? そ、そんなこと急に言われても……心の準備が……」
「大丈夫ですよ。ご主人様が戻られるまで、まだ数日ありますから」
「で、でも……旦那様は、私をそういう目で見たことがありませんし……」
アンナは指先でそっとテーブルをなぞった。その動作はどこか楽しげで、だが、有無を言わせぬ決定の重さを含んでいる。
「自信を持ちなさい、真由美。私がそう決めたのだから——ご主人様も、きっと理解してくださるはずです」
真由美は唇を噛みしめたまま、言葉を探していた——けれども、何も見つからなかった。
真由美は呼吸を整え、静かに立ち上がった。
「アンナさん、お茶、淹れてきますね。あっ、ビールの方がいいですか?」
「お茶をお願いします」
アンナの声にうなずくと、真由美は部屋を後にしてキッチンへと向かう。お湯が沸くまでの間、コンロの炎を見つめ自分の心と向き合う。
何かが違う……アンナの様子が、どこか違って見えた。そんな気がして……それが分かるまで、耀の相手をすることに不安を覚える。
じゃあ、何が違うのか——そう考えているうちに、やかんは唸る音を上げていた。
お茶を淹れながら、ふと思いついた。そう、急なんだと。
『朝までは旦那様にべったりだったアンナさんが、旦那様を突き放すような口ぶり……何があったんでしょうか。もしかして私への当て付けで、旦那様の相手をさせようと……』
アンナの部屋に戻ると、お茶を置きアンナが口を付けるのを待った。
そして、意を決したように口を開く。
「アンナさん、急に旦那様を突き放すように見えるんですけど、何かありましたか?私が何かをしたのであれば教えてください」
アンナは湯呑みを置き、首を傾げる。
「何もありませんよ」
「でも、おかしいです。朝まであんなにベッタリだったじゃないですか」
「そうですね……行かせたくなかっただけです。それに急な話ではありません」
アンナは湯呑みから立ち上がる湯気に語りかけるように話し始めた。
「ずっと考えていたのです。私が愛したのは本当にこの人なのかと……レイに現実を見るように言われて理解しました」
そう言いながら、アンナは静かに目を伏せた。長い睫毛が影を落とし、胸の奥に沈む想いを隠すようだった。
「私は、自分の心に生まれた疑念を認めたくなかったから……それを忘れるためにご主人様と肌を重ね続けたのだと……」
湯呑みを持ち上げかけた手が、躊躇うように止まる。アンナは小さく息を吐き、そのまま湯呑みを置いた。
「その点、レイは強いです。はっきりと自分の中で線を引いています。ご主人様があの身体にある限りは大切にすると言っていました。でもそれは、怖いご主人様がいなくなれば、レイはご主人様を見限るということです」
真由美は驚いたように眉を寄せる。
「そんな——レイさんがそんなことするでしょうか?」
アンナはふっと笑うように唇を動かしたが、その笑みはどこか寂しげだった。
「レイはするでしょうね。彼女が愛しているのは、明らかに怖い方のご主人様です。ミスティもそうです。イオナさんは多分……」
アンナはゆっくりと顔を上げ、遠くを見るように視線を彷徨わせた。
「イオナさんは少し前から、自分の利益のためだと割り切っていますよ」
真由美は無意識に膝の上で指を組む。アンナの言葉の一つ一つが、何かの予兆のように響いた。
「それは優しい方のご主人様に対してですね。私が見る限りでは、怖い方のご主人様に酔心していると思います」
「じゃあ、アンナさんも?」
アンナは僅かに肩をすくめた。
「私はさっき話したとおりです。だから私の愛したご主人様に二度と会えなくなるような気がしたのです」
真由美は言葉を探すように唇を噛んだ。
「そうですね。微妙なバランスの中で、短期間だけ存在できた旦那様だったのかもしれませんね」
アンナは小さくうなずき、手のひらをそっと湯呑みの熱に添わせる。
「私は、これからも悩みます。答えは出ないかもしれませんが、悩み続けると思います」
湯気がふわりと揺らぎ、アンナの揺れる心と共に、部屋の空気に溶けていった。
「そんな気持ちで、ご主人様の夜のお相手をするのは嫌なんです。人間でなくても私は女性ですから」
アンナは視線を落とし、湯呑みの縁に指を這わせた。その指先は、僅かに震えているようにも見えた。
真由美はしばらく黙っていたが、静かにうなずいた。
「——気持ちは分かります」
アンナは小さく息を吐き、肩の力を抜いた。
「それで真由美さんにお願いしようかと思いました。嫌なら断わってください」
真由美は驚いたように瞬きをした。だが、すぐに唇を引き結び、アンナの表情を探るように見つめる。
「嫌じゃありませんよ」
そう答えながら、真由美は膝の上で指を絡めた。
「アンナさんに遠慮していましたけど、いつかお願いしようと思っていましたから」
アンナの睫毛が僅かに揺れる。
「それなら良かったです」
そう言いながら、アンナは静かに湯呑みを口元へ運んだ。湯気が優しく立ち昇り、真由美の目の前でゆっくりと溶けていった。
真由美は両手で湯呑みを包み込みながら、言葉を選ぶように慎重に紡いだ。
「私は……怖い方の旦那様は魅力的だとも思いますが、正直、苦手です」
アンナは湯呑みを置き、真由美の顔をじっと見つめる。
「さっきも言っていましたね。父親に重なるところがあるんですか?」
真由美は少し考え込むように視線を落とす。
「それは、あの軽薄さです。苦手なのは、あの輝きのない瞳で見られると……心の奥まで見透かされているような気持ちになります」
アンナは、湯呑みに軽く息を吹きかけ、静かに問いかけた。
「それがどうしたのですか?」
真由美は躊躇うように唇を噛み、息を整える。
「怖いです。私、あんな目の人が……怖いです——嫌いです。怖い方の旦那様は嫌いなところばっかりですね」
言い終えた瞬間、肩が小さく震えた。
アンナは静かに瞬きをし、湯呑みを手に取る。
「だから優しい方の旦那様と答えたのですね」
真由美はうなずき、微かに指を握り締める。
「そうですね……以前勤めていた会社に、旦那様がレイさんと来たときから、気になっていました。この人ならここから救い出してくれるんじゃないかと。なんというか……直感的に感じたんです」
「そのとおりになりましたね」
「でも、あの日一瞬ですが、怖い方の旦那様を見ました。レイさんが止めていなければ……大変なことになっていたかもしれません」
アンナは視線を伏せ、指先で湯呑みの縁をなぞる。
「そんなことがあったんですか。優しい方のご主人様が逃げると、怖い方のご主人様が出てきますからね」
真由美はかすかに息を吐く。
「怒らせると怖い人なんだなって思いましたけど……今は事情を知ったので考えは変わりました」
恐るおそるアンナに視線を向けると、アンナは続きを促すように小さくうなずいた。
「アンナさん、怒らないでくださいね……私は、怖い方の旦那様がいなくなればいいのに、って思っています」
アンナはわずかに目を細め、湯呑みを口に運ぶ。
「そういえば……ご主人様と二人で話をした後から、変わりましたね」
真由美は恥ずかしそうに微笑み、指をもじもじと動かす。
「はい、まぁ……あの時は相手にされなかったので、頭にきたのもありますけど……」
「真由美さん、あなたが優しいご主人様を大切にして、守り続ければ、怖いご主人様を見ることはなくなります。頑張ってみますか?」
「はい、アンナさん」
二人は同時に湯呑みを置いた。
「真由美さん、今夜は一緒に寝ましょう」
「はい!旦那様がいなくて寂しいですもんね」
「そうですね」
軽い調子で言いながら、どちらともなく布団に潜り込んだ。肌寒い夜だった。
真由美は笑みを浮かべながらアンナに抱きついた。
「アンナさんの胸が邪魔でくっつけません。少し私に分けてくださいよ」
「邪魔ではないので、ダメです」
アンナはそう言いながら、真由美の胸を鷲掴みにする。
「真由美さんもしっかりあるじゃないですか」
「もう!アンナさんに言われると、悪口にしか聞こえません」
二人はくすくすと笑い合った。けれど、その笑い声はどこか頼りなく、隙間風のように儚かった。
——やがて、静寂が訪れる。
「……アンナさん」
「はい?」
「……なんでもないです」
「そうですか」
「ご主人様をお願いします」
「イヤです。アンナさんも一緒でないと……」
沈黙の中、互いの温もりだけが確かだった。
夜の闇は深く、寂しさが胸の奥をじわりと染めていく。
「おやすみなさい、アンナさん」
「おやすみなさい、真由美さん」
二人は目を閉じた。
それでも、消えない寂しさを紛らわせるかのように、どちらからともなく二人は抱き合って眠りについた。
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。
休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。
出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。




