制服の秘密
耀とミスティが地獄へと出発した日の夜、レイとイオナ、そして真由美が食卓を囲んでいた。いつもより静かな食卓に、アンナの姿はなく、けれど料理だけは丁寧に準備されていた。
炭火の名残を感じさせる香ばしい鳥の塩焼きが、中央の皿に盛り付けられている。藻塩が振られた皮はこんがりと焼き上がり、箸を入れるとじゅわりと肉汁が滲む。
湯気の立つ味噌汁は、刻んだ三つ葉の香りがふわりと広がり、ほのかな出汁の香りが鼻腔をくすぐった。
「アンナはどうしましたの?」
レイが鳥の塩焼きを頬張りながら問いかけると、真由美が箸を置き、僅かに沈んだ声で答える。
「アンナさんは旦那様が出発したあとから、ずっと塞ぎ込んでいます」
レイは味噌汁の椀を手に取り、一口含む。
「数日の我慢だと思いますのに、困ったアンナですわ」
イオナは箸を進めながら、落ち着いた声で続ける。
「アンナ様は別のことを気にかけておられるようですが……」
「レイが後でアンナの部屋に行ってみますわ」
沈黙が訪れる。
まだ冬の気配が残る、夜の静かな食卓に、三人が食事をする静かな音だけが響く。
そんな空気を破るように、真由美がそっと顔を上げる。
「あの……皆さん、お口に合いますか?」
「おいしいですわ」
レイが鳥の塩焼きを味わいながら微笑む。
身はしっとりとして柔らかく、塩加減もちょうどいい。炭の香りが食欲をそそる。
「真由美がひとりで準備したのですか?」
イオナが穏やかに問いかけると、真由美は少し恥ずかしそうにうなずいた。
「はい!良かったです……アンナさんがずっとあの調子なので……」
彼女の声は控えめながらも、どこか誇らしげだった。
「真由美はいい奥さんになりますわ」
レイの言葉に、真由美の頬が少し赤くなる。
「ところでイオナ、例の物は準備できていますの?」
「はい、レイ様の指示通り、連絡をすれば新鮮なものを用意できるように手配してあります」
「さすが、イオナですわ」
箸が器に触れる音が微かに響き、湯気が立ち上る。
耀の不在が落とす影と、それでも食卓を囲む者たちの静かな会話が、淡く混ざり合っていた。
レイが部屋の扉をそっと開くと、静寂に包まれた暗い部屋の中、アンナは畳の上に膝をつき、うつむいたまま微かに身体を震わせていた。
「アンナ、どうしましたの?」
レイは足音を立てずに近づき、穏やかな声で問いかけた。
「真由美が作った食事がもったいないですわ」
アンナは肩を揺らしながら、静かに顔を上げる。
「レイ……ですか……」
涙を拭おうともせず、彼女は掠れた声で言った。
「ご主人様は無事に戻られますでしょうか……」
レイは小さく息を吐く。
「心配ありませんわ。兄様のことですの、多少の無茶はしても帰ってきますわ」
「そういう意味ではなく……別人になってしまうのではないでしょうか」
顔を上げ、レイを見るアンナの瞳には、恐れが滲んでいた。
「それは否定できませんわね」
レイはそう答えながらも、どこか達観したような微笑を浮かべる。
「では、アンナの愛している兄様はどんな方ですの?」
「レイも分かると思いますけど、最初に出会ったご主人様です」
アンナは膝の上で拳を握り締めた。
「アンナ、レイも同じですの。でも、もう手遅れですわ」
「レイもそう思いますか……」
アンナは涙を拭いながら、ゆっくりと呟く。
「優しさはそのままなんです。これ以上変わってほしくありません」
「そうですわね。でも、レイには既に物足りませんわ。例えば、あの美しい魔力とか」
「見えなくなってきましたね。私の過去を知ってもらった頃から少しずつ」
レイはアンナに微笑みかけて、首を横に振った。
「あれはひとつのきっかけだったかもしれませんの。でも、極端に変わったのは最近ですわ」
「はい……レイは、なにか知っているのですか?」
「なにも知りませんの……」
アンナは顔を上げ、遠くを見つめるように目を細めた。
「私は、余計なことをしてしまったのでしょうか」
「いいえ、あの時、アンナがいなければ兄様は死んでいましたわ。アンナは両方の兄様にとって恩人だと思いますわ」
レイはふと、静かに目を細める。
「それと、アンナの記憶を見たのは、両方の兄様だと思いますの」
レイはアンナの隣に膝をつき、そっと肩に手を副える。
「でも、レイが思うに、アンナを本当に理解して、ありのままを受入れてくれるのは、いつもアンナが相手している兄様ではありませんわ」
アンナの瞳に、一瞬だけ揺らぎが生まれる。
「そうですか……」
しばしの沈黙が二人を包んだ。
「レイ、死にたいのですか?」
アンナの太い声と、鋭い視線がレイを貫く。
「アンナ、現実を見てくださいまし」
レイは静かに立ち上がと、アンナの髪をそっと撫でた。
「レイが言えるのはそれだけですわ」
「離れると……離れると、変わってしまうような気がして……」
アンナの声は、今にも消えてしまいそうだった。
「レイはもう諦めていますわ」
「でも、兄様厨二形態が兄様の身体の中にある以上、レイは兄様を大切にいたしますわ」
レイは扉の方へ向かいながら、振り返った。
「レイはお風呂に入りますわ。アンナも食事を取ってお風呂に入ってくださいまし、ひどく臭いますわ」
「レイ!失礼ですよ」
「アンナ、その調子ですわ」
レイは笑顔で手を振って、アンナの部屋を後にして、浴室へと向かう。
入浴を終えたレイは、脱衣場で頭を悩ませていた。
「困りましたわ、今日は兄様のお洗濯物がありませんの」
レイはなぜか毎夜、耀の脱いだ服を持って部屋に行くのが日課となっていた。
「見栄を張りましたのに、レイは兄様の洗濯物なしでは一日も我慢できませんわ」
湯気の立ちこめる脱衣場で、レイは腕を組んでしばし考え込んだ。柔らかいタオルが濡れた髪に絡む。すると、ある物が閃いた。
「そうですわ。イオナに貰った服がありますの。しばらくはあれで楽しみますわ」
レイは、バスローブを羽織り、気分高らかにリビングへ入る。そこでは、ソファに深く腰掛け、グラスを傾けるイオナの姿があった——ワインの赤が仄かに光を反射し、イオナを妖しく照らしている。
「イオナはお酒を飲んでいますの?」
「はい、レイ様も飲まれますか?」
「兄様にはダメと言われましたが、少しだけ飲んでみますわ」
レイは手渡されたグラスを慎重に受け取り、鼻先で香りを確かめる。ほんのりと果実の甘みが漂うが、その奥にはどこか鋭い酸味があった。恐るおそる口をつける。
「……不味いですわ」
突き返されたグラスを受け取り、イオナが小さく微笑む。
「いつか美味しく飲める日が来るかもしれませんね」
ワインの余韻を振り払うように、レイは話題を変えた。
「ところで、イオナ。何を考え込んでいますの?」
「はあ……レイ様にはお見通しですか」
イオナはグラスを置き、少し躊躇するように言葉を選んだ。
「アンナ様には内緒にしてくださいね。ダンタリオン様より連絡があったのですが……」
「兄様になにかありましたの?」
「実は、ラウム様が耀様に与えるために、若い獣人の娘を募っていると……」
レイはしばし沈黙する。そして、ふっと肩をすくめた。
「そんなことですの。それは仕方がありませんわ」
「レイ様は許されるのですか?」
レイは呆れた表情で笑顔を浮かべる。
「黙っていても兄様には女が寄ってきますの。それならあてがわれた女を侍らせている方が、悪い女に捕まらなくていいと思いますわ」
「おっしゃるとおりかもしれません」
「それに、兄様はその女には何もしませんわ」
厨二形態と呼ばれる耀と、普段から平然と会話で渡り合うレイの言葉に、イオナは胸を撫で下ろす。
レイの少し沈んだ声がイオナの耳に届いた。
「それより、レイが気にしているのはミスティですの」
「何か心配事でも?」
イオナはグラスをテーブルに置き、レイに顔を向けた。
「兄様厨二形態に毎晩抱かれたミスティは、芳醇な魔力をたくさん貰って、力を増して帰ってきますわ」
イオナは目を伏せ、ゆっくりとグラスを手に取り、ワインを揺らした。
「それは……何か問題でも?」
「イオナは気づいていませんの? ミスティはアンナより強いですわ」
「……まさか、そこまでとは」
「考えれば分かりますわ。兄様厨二形態を絡め取って、寝取るだけの力がありましたの」
「確かに……そうでしたね」
「それがさらに力を増して帰ってきますの」
レイはソファの背に身を預け、小さくため息をついた。
「アンナはせいぜい、胸に抱きしめて気絶させることしかできませんわ」
「それも、いろいろ凄いと思いますけど……」
ふふっと微笑み、レイは立ち上がる。
「では、レイはお部屋で寛ぎますわ。ごきげんよう」
バスローブの裾をひるがえし、レイは軽やかにリビングを後にした。
残されたイオナはワインを一口飲み、グラスの向こうに揺れる灯りをぼんやりと見つめていた。
部屋に入ったレイは、タンスにしまっていた耀の黒歴史を象徴する学ランを取り出す。
イオナから預かってから、眺めるだけで満足していたその黒歴史を、丁寧にベッドに置くと、羽織っていたバスローブを脱ぎ捨てた。
そして、下着も全て脱ぎ捨てると、ボンタンと長ランを肌身に纏う。体格の差があり、子供が大人用のコートを纏い、長袴をはいたように見える。まるで体を優しく包み込みながらも、どこか背徳的な感触が混じるようで……
「——これは刺激的ですわ」
直接肌に触れる裏地の優しい感触に、般若の刺繍の僅かな凹凸が、肌にかすかに触れるたびに甘美なざわめきを運んでくる、動くたびに心地よく、脚はタキシード地がそっと撫でてくれる。
「兄様の香りに包まれますわ……」
ベッドに横になったレイは、黒い布地がまとわりつく感触に身をゆだね、目を閉じる。
頬に触れる固くも滑らかな襟元から、僅かに残る耀の香りと、これを共有した喜び、何より肌に直接触れる耀の名残。
——レイはそっと息を漏らした。
しばらく後、レイはベッドに身体を丸めて、全てを悟ったかの表情で、乱れた息を整えていた。
冷静になるにつれて、ひとつの疑問がレイの頭に浮かぶ。
「若い頃の兄様はどんな方だったのか気になりますわ」
「そうですわ!この服にも記憶は残っているはずですの——でも、いけませんわ。兄様の黒歴史?なるものをレイが覗き見るなんて……ええ、いけませんわ」
レイは集中し、纏う学ランの記憶を呼び起こす。
「兄様厨二形態の過去を知れる唯一の手段ですの、兄様も許してくれますわ」
レイの頭には高校生の頃の耀の姿が浮かびはじめた。
「これは……兄様ですの?喧嘩をしていますわ……というより、一方的すぎますわ」
制服と共に駆け巡る耀の姿に、レイは胸を踊らせている。
「……なるほど、確かに兄様は、ただの乱暴者というわけではありませんわ。でも、これがイオナの話していた『時代遅れの不良』というものですの?」
しかし、しばらくするとレイは退屈しはじめた。
「兄様、喧嘩しているか、寝ているかしかありませんの…」
もう、記憶をたどるのをやめようか、そんな時に現れた場面で、思いもよらない光景を目にする。
耀の前に立つ、その女性は、耀よりも少し年上に見えた。柔らかい微笑みの奥に、決して隠しきれない後悔と、何かを決意した覚悟が滲んでいる。彼女の背後では、遠くから刺すような視線が彼女の背中に向けられていた。
「こ、これは……もしかすると……」
レイはベッドから飛び起きると、リビングに向かう。
長いズボンと長い学ランを引きずったレイが、突然リビングに入ってきた。
「イオナ、イオナいませんの!」
相変わらずワインを傾けているイオナが、ゆっくりとレイに視線を向ける。
「先程から甘美な声が漏れ聞こえていましたが、そんな格好で一体何をされていたのですか?」
誰がどう見ても異様な姿のレイは、一瞬だけ頬を赤らめ、うつむく。しかし、すぐに肩を振るわせ、気を取り直すと、顔を上げて声を張った。
「レイの格好はどうでもいいですの。それより、レイの部屋に来てくださいまし」
「何かあったのですか?」
「とにかく、すぐにレイの部屋に来てくださいまし!」
「はい。分かりました。でも、ベッドのお誘いならお断りしますよ」
「違いますの——それはもう済みましたわ」
イオナが口元に笑みを浮かべ、流し目でレイを見る。
「何が、お済みになられたのですか?」
レイは珍しく顔を真っ赤にして、声を張り上げた。
「そ、それはもういいですの、レイのことより大切なことですわ」
レイは、イオナの手を引き、リビングを後にした。
イオナを伴い部屋に戻ったレイは、長い袖を捲り、両手をイオナに差し出す。
「イオナ、レイの手を持って、目を閉じてくださいまし」
「こうですか?」
「イオナ、この制服の記憶を見てくださいまし」
イオナはレイの両手を包み込むように、手を握るとゆっくりと瞼を閉じる。その直後、目の前に先程レイが動揺した場面が浮かび始める。
——柔らかな笑みを浮かべた女性が、耀に優しく話しかける。
「相葉君、よく卒業まで頑張りましたね……」
「ああ、先生のお陰だ。感謝する」
「大学は楽しいところです。当然勉強も大切ですが、友達の一人くらい作ってみなさい」
「それはなるようにしかならないだろう——それより」
「なんですか?」
「先生、辞めるって本当なのか?」
「はい、先生にはやるべきことができました。相葉君と一緒に卒業です」
「そうなのか……」
「相葉君が大学を卒業した時に、もし先生のことを覚えていてくれたら……」
女性は少し悲しげな表情を見せ、顔を反らすと、思い直したかのように無理やり作った笑顔を見せる。
「いえ、何でもありません。とにかく頑張りなさい」
「ああ、じゃあな、先生」
「はい」
立ち去る耀を見つめる、先生と呼ばれた女性。そして背後の少し離れたところから、恨むような視線を二人に向ける、もうひとりの女性——
レイとイオナは同時に目を開いた。しばらくの沈黙のあと、イオナが静かに口を開く。
「レイ様、この女性は……」
イオナは一瞬、言葉を選ぶように沈黙する。
「……妊娠していますわ」
「私も、そう思いました。恐らくお腹の子は……」
イオナの声はいつになく低く、慎重だった。
「イオナ、これはもう、疑う余地はありませんわ」
レイは、学ランの袖を強く握りしめた。
「……兄様の子ですわ」
イオナはしばらく沈黙した後、静かに言った。
「レイ様、もっと記憶を辿りませんか?」
「そうですわね。兄様が不在の今しかできないこともあるかもしれませんわ」
「そのとおりです。私達が黙っていればいいのです」
「少なくとも、アンナには話せませんわ」
二人は顔を合わせ、深くうなずきあった。その瞳には決して破ってはならない誓いを宿していた。
イオナが、少し目を閉じた後、呟くように話し始める。
「それと、後ろにいた女性も気になりました」
「イオナも気づきましたの?レイもあの女の視線が気になりましたわ」
「ミスティ様がいれば、知っていることもあるでしょうが、今は仕方がありません」
「そうですわね、ミスティには後で聞けばいいと思いますわ」
「念の為、アンナ様と真由美の様子を見て参ります」
イオナは部屋を出ると、足音を忍ばせるようにゆっくりと歩き、様子を伺いに行った。
レイは少し長丁場になりそうな気がして、学ランの袖に顔を押し当てると、深く息を吸い込む。
「かなりの年数が経っているはずですのに、未だに魔力が残っているなんて、兄様は恐ろしいですわ」
ゆっくりと扉が開かれ、イオナが部屋に戻ってきた。
「アンナ様の部屋で、抱き合って寝ていました」
「もしかして……百合に目覚めましたの?」
「違うと思います。二人とも耀様が不在で寂しいのでしょう」
イオナがレイの前に腰をおろすと、二人は目を合わせ、微笑み合う。
「では、参りましょう」
「ええ、イオナ、もう後戻りはできませんわ」
「覚悟はできています」
お互いの覚悟を確かめ合うように、同時に小さくうなずくと、二人は再び手を取り合った。
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。
休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。
出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。




