秘蔵の書物
ラウムの冷たい口調と、凍りつくような空気感に、部屋は静寂に包まれた。
そんな中で、酒を求められたアンナは、ようやく落ち着きを取り戻したようだった。
「——お食事を用意します」
少し気まずそうな様子で、キッチンへ向かう。
「お片付けしますわ——」
一方のレイも少し恥ずかしそうな表情で、床に散らばった紙幣を集め始める。
年頃の可愛らしい女の子が、悪魔とはいえ、見た目は初老の男性が床にばらまいた紙幣を集める。——なぜだろう、とてもいけないものを見ているような気がしてきた。
そんな二人に構うことなく、ラウムは僕に話しかけてくる。
「うまくやっておるようだな」
「この数日、退屈はしてないよ」
その後、再びしばらくの沈黙が続いた部屋に、アンナの声が響く。
「お食事の用意ができました」
三人はいつもの席に腰掛ける。
……ラウムは黙ったまま僕の隣の椅子に腰を下ろし、背筋をまっすぐに伸ばしたまま動かない。
手を組み、まるで何かを『待っている』かのように、皿に目もくれなかった。
——むさ苦しいが四人掛けのテーブルでは仕方のないことか。
それぞれの皿には、見たことのない霜降りの分厚いステーキに、野菜が彩りよく付け合わせとして盛り付けられている。
僕とラウムの側にはチーズが綺麗に盛り付けられた皿もおいてある。
「豪華な食事であるな」
「——私たちが何も考えずに買ってしまいましたので」
「兄様に申し訳ありませんの……」
豪華な食卓を前に、二人はまだ落ち込んでいる様子だ。
「気にすることはないよ、ラウムのおかげでお金の心配はなくなった。アンナもレイも沢山食べて元気を出して」
レイは驚いたように顔を上げ、ぱぁっと花が咲いたような笑顔を浮かべる。
「兄様、もう食べてもよろしいですの?」
「ああ、先に食べなよ」
その言葉を聞き終わる前に、レイは静かにナイフを入れ、優雅な手つきで、ステーキを切り始めた。
アンナは氷を入れたグラスを僕に差し出し、ウイスキーを注いでくれる。
「どうぞ、ご主人様」
「ありがとう、アンナも先に食べて」
「よろしいのですか?」
アンナは遠慮がちに僕の表情を伺っている。
「もちろん、どうせ何か話があって来たんだろうから」
そう言って隣を見る僕に、ラウムはアンナの酌を断ったグラスを差し出す。
「然様であるな。だが、まずは注いでくれぬか」
僕はアンナからボトルを受け取り、ラウムのグラスにウイスキーを注ぐ。
「男が好きなのか?」
「否、主人に酒を賜りたいだけである」
「——その割に態度がデカいよな」
最後の言葉を無視するように、ラウムは食事に夢中の二人に声をかける。
「汝ら、主人から名を賜ったのであるか?」
「はい、良き名を付けていただきました」
「レイはとても気に入っておりますわ」
嬉しさを隠せないように、レイは少しだけ身体を揺らして座り直した。
二人が食事の手を止め、顔を上げてラウムに答えるその表情は、喜びに満ちていた。
不思議だ——僕が適当……いや、親しみをもってつけた名が、そんなにも嬉しいのだろうか。
「良きことであるな。いっそう主人のために励むがよかろう」
「もちろんです」
「当然ですわ」
ラウムは僅かにうなずいた後、グラスを揺らしながら僕に視線を戻す。その瞳は、不穏な笑みを隠すように揺れていた。
「其方、二人が人間であったことは聞いたであろう」
「——ああ。聞いたよ」
ラウムはウイスキーを一口飲み、話を続ける。
「サキュバスと呼ばれる存在になっておったが、今は人と違わぬ身体を備え、元の感情を取り戻しておる。サキュバスとしての性質も残しておるようであるが……おそらく、其方に害は及ばぬであろう、遠慮なく交わって構わぬ」
レイはステーキを切りながら、小声で何かを呟き、アンナはフォークを持つ手を止めたまま、視線を皿に落としていた——そして二人とも、なぜか頬を染めている。
僕もステーキにナイフを入れ、ひと切れ食べてみたが、頬が染まるほどに美味しかった。——二人の様子もステーキのせいとしておこう。
それよりも、こいつは不吉なことを言っていなかったか?
「何か害があるのか?」
「その気はあるようであるな。サキュバスの交わりとは互いのことを深く知る行為である。サキュバスは自身を深く理解し、受け入れてくれる相手を探し、彷徨っておるゆえな」
ラウムもステーキにナイフを入れ始めた。その慎重で洗練された動作と、意外ときれいな手に目を見張る。
「サキュバスは交わりの際に、満ち溢れるほどの快楽を相手に与える。並の人間であればそれに耐えられず、サキュバスのことを理解する前に、快楽に溺れ気が狂う。ゆえにまずは夢の中に現れ、快楽に耐えうる相手か試すのであるが、夢で与えられる快楽だけで気が狂うものも多い。夢魔と呼ばれる所以であるな」
ステーキを切りながらも、話の調子は変わらない。
その話は六割ほど理解した。それよりも、意外にもこいつは、先に全部切り分けるタイプらしい。
「——まあ、そうなることもあるかもしれないな」
そう返事をした僕の興味は、ラウムがどこまで小さく切り分けるのかに奪われている。
「然様、焦ることもなかろう。サキュバスの交わりは、身体の交わりに限らぬのだ。そうであるな……互いが同時に相手を求める……と言えば理解できよう」
しかし、こいつの話は遠回しで、分かりにくいことが多い。
「だが、二人は元とほぼ同じ身体を手に入れたゆえ、慣れるまでに大した時間を必要とせぬ。そう遠からずその時はくるかもしれぬな」
ラウムはステーキを一切れ口にしたが、表情は変わらない。
そんな高級肉を無表情で食う男の話に、気になる言葉があった。
「——元と同じ身体?」
「然様、異なるのは髪と目の色くらいであるな?」
そう言って二人を見たラウムに、アンナとレイは同時に返事をする。
「「そうです」わ」
その話を理解しようと、僕の思考が駆け巡る……二人は僕を陥れるために、美しく、可愛く創ったのではなく、元からアンナは美しくて、レイは可愛かったということなのか。
——そして、レイはともかく、アンナはもともとこの大きな身体だったのか?
「驚いておるようであるな」
僕の思考を遮るように、ラウムの声が届いた。
「アンナと申したな。汝は生前からそのように大きな身体をしておったのであろう?」
「そのとおりです」
僕はただ、黙ってアンナの姿を見返すしかできなかった。
「身体の大きさも感覚も以前のままです。ご主人様の力の偉大さには感謝しかございません」
レイがほぼ目線と同じ高さにある、アンナの双丘を見つめている。
「アンナは元からこんな大巨乳でしたの?」
「そうですよ。大きさも柔らかさも変わりません」
「ぐぬぬ……でも、レイには張りがありますわ」
「負け惜しみですか」
「話の腰を折るでない」
ラウムの一言で二人は、バツが悪そうにうつむき、大人しくなった。
「アンナは人並み外れた力と運動能力を持っておった。そうであろう?」
「はい。ですが——それが以前より増しているようなのです」
アンナの言葉を聞いたラウムがうなずく。そして、切り分けた肉をひたすら頬張っている。
無表情のままだが、やっぱり美味かったのだろう。しかしだ、なぜこいつは野菜をひとつも食っていないんだ。野菜を食ったら消滅でもするんじゃないのか?
そんなことを考えていたら、満足したようにラウムが話し始めた。
「然様であろう。某を意図せずに召喚して、際限なく権限化し続けるほどの魔力が主人にはある。その力を惜しげもなく使い、与えられた身体であるからな。汝の持っていた能力が、何十倍に増していてもおかしくあるまい」
ラウムが僕に酒を勧める。それに応えるようにグラスを一気に空けた僕を、なぜかアンナが期待に満ちた目で見ている。そして、レイはなぜか頬を染めている。
「そんなに凄い力なのか?」
「其方であれば指一本で持ち上げ、投げ飛ばせるであろうな」
ウイスキーを注ぎながら答えたラウムに、アンナが反応する。
「そのようなことは致しません!」
口調を荒げるアンナを無視して、ラウムはレイに視線を移す。
「汝はレイと申すのだな。汝も気付いておるであろう」
ラウムの言葉にレイは目を逸らす。
——こんな可愛いレイに指一本で持ち上げられて、投げ飛ばされるなんて……
高笑いするレイに文字通り、手玉に取られ投げられるなんて——ご褒美じゃないか!
「それは否であるが、其方は変わった性癖を持つようであるな——」
心を読んだのであろうラウムは、僕にだけ聞こえるような小声で言いながら、空いたグラスを僕に差し出す。
「この者は少し特殊であってな」
「特殊?」
僕はウイスキーを注ぎながら、次の言葉を待った。
「いずれ知る日も来よう」
そう言って、ラウムは再びレイに目線を向ける。その視線に気づいたレイが、暗い表情でうつむいている。
「レイ、何も慌てる必要はないし、僕が強制するつもりもない。心配しないで」
レイはうつむいたまま、ほんの一瞬、唇を噛んだように見えた。
だが、顔を上げたその瞳はいつもどおりの輝きを取り戻していた。
「はい!兄様!」
レイが笑顔を取り戻すのを待っていたように、ラウムが口を開く。
「ところで主人よ」
「まだ何かあるのか?」
「然様、これからが本題であるな」
前説が長かったので、本題は朝までかかるのではないかと不安になる。僕はグラスを飲み干し、ラウムを見る。
「それで、本題は?」
「ご主人様、どうぞ」
ラウムが手に取ろうとしたボトルを、アンナがサッと手に取り、キラキラした目で見つめながら、僕のグラスに注いでくれる。
「うむ。困ったことに、某の知り合いが、其方に興味を抱いておる」
「何でだよ」
「某が話したからであるな」
さも被害者のような言い方をしたが、困ってるのは自業自得だろう。そもそも僕には理解できていないことがある。
「アンナとレイのことは何となく理解できたけどさ。ラウムの様な存在って何なんだ?」
ラウムは右手で顎を擦りながら、答えを思案している。やはり細くて綺麗な手をしている。貴族的な奴は箸より重いものを持たないからだろうか?
「ご主人様、もう少しお飲みになられますか?」
いや、さっき注いでくれたグラスに、まだ口も付けていない。なのに、なぜそんな期待に満ちた目で、僕に酒を勧めるんだ?それに、なぜレイが頬を染めている……
「いや、また後でお願いするよ」
暫く押し黙っていたラウムが口を開く。
「概念上での存在とでも言うべきか……」
ラウムはひと口ウイスキーを飲み、真剣な目で僕を見る。
「——後は詳しい者に委ねよう」
こいつ、かっこつけて説明を放棄しやがった。
「話を戻すとだな。その者に、其方と引き合わせるよう頼まれておる。幸いその者はあらゆる知識を持ち合わせておるゆえ、その者を呼び出せば、其方の疑問を、其方が理解できる言葉で解いてくれよう」
ラウムが僕に目を向ける。表情は変わらないが懇願しているのだろう。
「同意してはもらえぬか?呼び出すためには、其方の力を借りねばならぬ。しつこくて某も困っておるのである」
グラスのウイスキーを眺めながら、僕は長い話を適当に聞き流していたが、急に悪寒が走った。
顔を上げると、アンナとレイが冷め切った目でラウムを睨んでいる。
「それは女ですの?」
珍しく静かにしていたレイが、魂をも凍らせるような声でラウムに問い正す。
「女であれば断固拒否します」
さっきまでと同じ目とは思えないほど、怒りを孕んだ視線でアンナがラウムを睨んでいる。
「男でも女でもない。それに汝らが拒否することではあるまい」
二人の視線が僕に向けられる。
「兄様、お断りくださいまし」
「ご主人様、断固拒否すべきです」
「汝ら、主人を責めるでない」
ラウムはグラスを傾けながら、二人を窘める。
「主人がその者に劣情を抱くことはありえぬ。安心せよ」
二人の表情が少しだけ緩む。
「それならいいですわ」
「他の女は、一度私と肌を重ねてからにしてください」
「胸で語る女は、ろくなことを言いませんわ!」
「これは愛です!」
そんな二人の会話を無視して、ラウムは話を続ける。
「力を貸してもらえぬか?」
「勝手に使うんだろ?」
「それができぬゆえに頼んでおる」
ラウムは僕の魔力を使って、アンナとレイに身体を与えた、なのに、なぜ今回はダメなんだ?
それと、僕とラウムはどういう関係なんだろうか?
「できない理由を聞いても?」
まず、ひとつ目の疑問をラウムに投げてみた。
「其方に引き合わせるには、其方に召喚してもらわねばならぬゆえであるな」
こいつ、さらっと聞き捨てならないことを言ったぞ。でも、これでふたつ目の疑問にも、答えざるを得ないだろう。
「召喚か。僕とラウムの関係も理解できていないのに、別の何かを召喚するのは無理だな」
「其方と某は対等である」
「対等とは?」
「某と其方は対等な契約によって結ばれておる。その契約を履行するために、某は其方の魔力を使い、其方は某の術を使える」
「僕もカラスになれるのか?」
「それは否である。某が二つの姿を取れる存在であるだけで術ではない」
「術ってのがよく分からないけど、要は持ちつ持たれつ的な関係なんだな」
「そう考えて良かろう」
もっともらしい話をしているが、こいつは遠回しに僕を言いくるめているだけかもしれない。やはり悪魔と呼ばれる存在だ、警戒した方がいいだろう。
一方のラウムは一気にグラスを飲み干し、アンナに差し出した。彼女はそのグラスを一瞥し、ボトルごとラウムに手渡す。
「このアンナから見ると、某はどういう立場だと思う?」
「嫌ってるんだろ」
ラウムは自分のグラスにウイスキーを注ぐ。
「それは答えになっておらぬ」
「じゃあどうなんだ?」
ラウムが置いたボトルを、素早くレイが手に取る。
「兄様、もう少しお飲みになってはいかがですの?」
氷を足そうと半分ほど空けた僕のグラスに、レイがたっぷりと注いでくれた。
「其方に対する、某と二人の立場は対等と見ておるな」
「対等?それはおかしくないか?ラウムの術で身体を与えたんだろ?」
「この二人に某の術で身体を与えはしたが、それは某の術が其方の魔力を使う媒介となっただけに過ぎぬ。某の力だけでは思念に肉体を与えることはできぬ」
ラウムはグラスを一口飲み、軽く息を吐くと話しを続けた。
「無論、無から人間など造り出せぬゆえ、其方の力なく女を求められれば、せいぜい生きている人間を傀儡にする程度だ」
「それでなぜ、アンナ達とラウムが対等になるんだ」
「この二人から見ると、身体は其方の魔力で与えられたゆえ、其方の存在なくして身体を保つことはできぬ。だが、一度与えられた身体に某の術は必要ない。そして、某は主人に魔力を借り、顕現化している者でしかない」
「でも僕には術が使えないから、ラウムの存在も必要なんじゃないか?」
「それは否である。其方は術を使えぬのではなく、術を知らぬだけである」
まて——今の言葉から確認事項ができた。
「アンナとレイに身体を与えたのは、術なんだな?」
「然様」
「服を造ったのは?」
「それも術であるな」
「アンナとレイを選んだ理由は?」
「この二人は、護衛に適した能力を持ち合わせており、元より容姿が良かったのでな」
それは僕が術を使えれば、好みの思念を選び出して身体を与え放題なのか?際どい服も着せてみたりなんかも?
「それを実現するには、かなりの研鑽を積まねばならぬ」
「やっぱりそうだよな……」
こいつ、また心を読んだな。
「手解きしてやっても良いが、其方には研鑽を積んだ人間よりも術に長けた、某がおるではないか」
こいつ、超いい奴かも。こいつのこと信頼できる気がしてきた——
「其方の魔力と某の術があれば、サキュバスのような強い思念をもっておらぬ、そこらの有象無象の思念でも、其方の好みにしてみせよう」
「もふもふの猫耳とかできたりする?」
「それは是である。其方の膝で喉を鳴らして甘えさせることもできる」
「スタイルなんかも選べたり?」
「それも是であるな。其方の秘蔵書の如き者もできよう」
「じゃあ、人外娘なんてのは?」
「それも是であ……」
——バン!
突然テーブルが叩かれた。
耀とラウムが視線を向けると、その先には怒りに身を震わせるアンナとレイの姿があった。
「アンナさん」
「はい、レイさん」
「兄様は少しお酒が過ぎたご様子ですわ」
「はい、かなり悪いお酒をお飲みになられたようです」
いや、そのお酒は二人も注いでくれましたよね?キラッキラした目で注いでくれましたよね?
そんな耀の言い訳は、淡々と躍動のない口調で会話する二人に言えるはずがない。
「アンナさん、お願いしますわ」
「任せてください、レイさん」
アンナが立ち上がり、冷たい笑みを浮かべ耀に近づく。
「——ご主人様、お休みの時間です」
淡々とした口調でそう言うと、アンナは耀を抱き上げた。
「某も暇をもらおうか」
そう言って立ち上がるラウムを、怒鳴る声が響く。
「お待ちなさいっ!少しお話がありますわっ!」
「ええ、お話があります」
アンナは耀を抱き上げたまま寝室へと運び、自らも覆い被さるようにベッドに寝かせた。
「——ご主人様、秘蔵書はどちらに?」
耀の顔に、アンナの冷たい笑顔が近づく。
「ク、クローゼットの上段です……」
「お預かりします」
アンナは静かに耀の寝室を後にした。
その手に、彼の妄想と羞恥、そして命運が詰まった一冊の秘蔵書を持って——
休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。
出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。