揺らめく瞳
豪華な夕食を終え、部屋に戻った耀とミスティは、用意されていた紅茶を飲みながら話をしていた。
部屋は不思議なくらい明るいが、テーブルに置かれたランプの揺れる光が、静けさに温かみを添えていた。
窓の外には静けさと、暗闇で瞬く星明かりに照らされる草原が広がっている。
「殿、妾も鍛錬したいのじゃが……ダメかの?」
ミスティはカップを手にしたままうつむき、視線を紅茶の表面に落とす。彼女の声はどこか遠慮がちだった。
耀はカップを口元に運びながら首を傾げる。紅茶の湯気が顔をかすかに覆う。
「何を鍛錬するんだ?」
ミスティは目を伏せたまま、カップをテーブルに戻した。手元がほんのわずかに震えているのが分かる。
「そのな、殿を守りたいのじゃ。殿は攻撃の際に隙が多いように見えての」
耀はミスティの動きを見て少し表情を緩めたが、その視線は真剣だった。
「ミスティの鱗は恐ろしいほど硬いしな、防御に特化するのも悪くないかも知れない」
「そうじゃろう?」
彼女は小さくうなずき、耀を一瞬だけ見上げた。その瞳に期待と不安が入り混じっているように見える。
「だが、黄泉の国を守りきれば使う機会などない」
耀の言葉が静かに部屋に響くと、ミスティは再び視線を落とし揺らめくランプの炎を見つめていた。
「そうかもしれぬが……」
彼女は手を握りしめ、か細い声を絞り出した。その仕草には言葉では語れぬほどの葛藤が滲んでいる。
「どうした」
耀が穏やかな声で促すと、ミスティは意を決したように顔を上げた。
「もう後悔はしたくないのじゃ」
その瞳には微かな涙が光り、決意と共に揺れている。ランプの炎が二人の間でふわりと揺れた。
朝話していた『何者にも傷つけられたくない』という言葉は、彼女の後悔を現していたのだろう。
耀にはミスティの瞳に決意がみなぎるように見えた。
淡いランプの光がその瞳に反射し、彼女の心の強さを際立たせているようだった。
「ミスティに大盾を創ろう」
静かに響いた耀の言葉に、ミスティの瞳がぱっと輝く。彼女は身を少し乗り出し、期待に満ちた声を漏らした。
「まことか?」
「ああ、どう見ても上半身の防備は薄い。胸は柔らかいしな」
耀は冗談めかした口調で答えながらも、真剣な眼差しを崩さなかった。
「その上半身と背後に居るものを守れる大きな盾がいいんじゃないか?」
「おお、ありがたい。しかし、殿の負担にならんかの?」
耀はカップをテーブルに置きながら肩をすくめた。
「大丈夫だ、身体強化を解いた後に余った魔力を使……」
「それはならん!」
ミスティの声が急に強まった。彼女はカップを置き、身を乗り出すと耀をじっと見つめた。
「どうしてだ?」
耀が静かに尋ねると、ミスティはほんの少し頬を赤らめ、深く腰をおろすと視線を逸らした。
「風呂場であのように雄々しく三度も求められてはの……妾の身体があれを求めて止まんのじゃ」
「ミスティはそうでないとダメだな」
耀はゆっくりと紅茶を口に含むと、優しい目で彼女を見つめる。
「そこに俺は惹かれた。痛くはなかったか?」
「殿よ、女子の身体は殿の思うように脆くはないぞ、強さがなければ子を育むことなどできぬ」
彼女はまるで誇るように背筋を伸ばし、耀を見つめた。その視線に静かにうなずく。
「言われてみれば、そうかもしれない」
ミスティは頬に手をあて、恥ずかしそうに上目遣いで耀を見つめながら、長い尾の先を揺らしていた。
「あのような……半身が蛇の妾でも孕んでしまいそうじゃ」
「俺は、女を二度泣かせてしまったから」
その言葉に、ミスティは優しい瞳を浮かべ、ゆっくりと語りかける。
「殿が女子を泣かせたのは身体の痛みではなく、心の痛みじゃろう」
耀は目を細め揺らめくランプの光を見つめる。
「人の相手は、執事長の鍛錬より厳しいな」
ミスティは微笑みながら、再びカップを手に取り口元に運ぶ。
揺らめく炎と静寂が支配し始めた部屋の扉がノックされる。
「構わぬぞ」
ミスティの声が終わると、静かに部屋の扉が開かれた。
「失礼いたします」
仰々しくメイドが入室し、その後ろからは着飾った獣人の女性が三人入ってきた。
「お客様、ラウム様よりこの三人の娘を」
「よい女子たちじゃの」
ミスティは軽くうなずき、三人を見渡しながら口元に微笑みを浮かべた。
「ラウム様より、殺さぬようにとの言付けでございます」
「それは分からんな……」
メイドは一瞬眉を動かし、ふと顔を上げた。その目には一瞬の動揺が見えたが、すぐに冷徹な表情を取り戻し、姿勢を正して頭を下げた。
「では、私は失礼いたします」
残された三人は露骨に不安な表情を浮かべ、ただ、じっと立っていた。
そのうちの一人が震える声で問いかけた。
「あの……私達はどうすればよろしいのですか?」
「まずは自己紹介じゃの」
ミスティは穏やかな声で答え、三人に視線を向けた。
「私はルナリア、種族は狼、銀狼の血が混ざっている」
純白のドレスに身を包み、凛と立つその姿は勇ましささえ感じる、肩甲骨まで流れる黒銀の髪は、見るだけで柔らかく滑らかさが伝わってくる。
月をたたえたかのような金色の瞳と、ふわふわとしたダークグレイの耳が柔らかな存在感を放つ。
しかし、何より目を引くのは豊かに広がり、左右に揺れる尾だ。
腰元から伸びるダークグレイの尾は、豊かで繊細な毛並みが輝く。
続いて中央の娘が一歩前に出た。
その動きには一瞬のためらいがあったが、彼女はすぐに胸を張り、柔らかな声で名乗った。
「ヴァレリア、種族は馬、荷役の仕事をしていました」
その姿は獣人というより、馬に人間の上半身がついたケンタウロスのようである。
両手を腹部で組み、優雅な佇まいを見せている。
長い栗色の髪は、うなじから背中にかけて続くたてがみと繋がり、しなやかに波打ちながらその存在感を際立たせている。
琥珀色の瞳は知性と優しさを湛えている。純白のドレスは上半身を包み込み、背中を露出させたデザインがたてがみの美しさを引き立てる。
最後に左の娘が一歩前に出た。彼女はうつむきながら、小さく震える声で話し始めた。
「名前はカリサです。種族は牛、あの……それ以外は分かりません……すみません」
深々と下げた頭には艶のある角が左右対称に生え、言動に沿わない力強さを見せている。
そして純白のドレスが胸元で柔らかく広がり、包み込む豊かな胸の存在感を強調している。
うなじの周辺から見える短い毛は艷やかな薄茶色で、腰から伸びる細い尾の先端には柔らかそうな房毛が、遠慮がちに左右に揺れていた。
ミスティは軽く穏やかな微笑みを浮かべると、ポットを手に取り耀のカップに紅茶を注いだ。
その動作はゆっくりとしており、まるで三人の不安をほぐすための時間を与えているようだった。
紅茶を注ぎ終えると三人に視線を向け、優しい目で問いかけた。
「のう、三人共、純白のドレスであるが、嫁入りのつもりか?」
「嫁入りではありません。生涯をお客様に捧げる誓いです」
中央に立つヴァレリアが、慎重な口調で答えた。その言葉に、ミスティは軽く肩をすくめながら耀に視線を送る。
「殿、どうするのじゃ?話がかなり飛んでおるようじゃが」
耀は小さくため息をつき、揺れる紅茶に視線を向けたまま、呟くように言葉を漏らした。
「俺の意見は無視されるだろうな……」
ゆっくりとカップを目線まで持ち上げ、湯気がかすかに漂うのを眺めた。
それから三人に視線を移し、落ち着いた声で言葉を続けた。
「俺がこれを飲み終わるまで時間をやる、もう一度考えろ。今帰るやつは止めない、当然ラウムにも手出しはさせない」
ルナリアは微かに眉をひそめたが、すぐに唇を引き結び、静かにうなずいた。
ヴァレリアは視線を少し下げ、手元に揺れるドレスの裾を無意識に握りしめている。
カリサは尾を控えめに揺らしながら、小さな声で「ありがとうございます」とだけ呟いた。
耀が静かに紅茶を飲む様子をじっと見つめながら、静寂の時間が過ぎていく。更に漆黒に包まれた窓から見える、星の瞬きだけが時間の流れを教えてくれる。
ふいにカップがテーブルに下ろされ、その音が部屋に響き渡ると三人が同時に身体を震わせた。
「ミスティ、ひとりずつ聞いてみてくれ」
「承知した」
ミスティは静かに立ち上がると、ゆっくりとルナリアの前に進んだ。彼女の目は穏やかだったが、その視線は三人の中にある真意を探るようでもあった。
「他の者に聞こえぬよう、小さな声で話すのじゃ」
ミスティはひとりずつ顔を寄せて問いかけ、彼女たちの言葉を受け止めていった。
全員の言葉を聞いたミスティは、静かにテーブルに戻り、腰を下ろした。
「殿よ。全員、殿の下僕になるそうじゃ」
「その目は、彼女たちの決意に応えろとでも言いたそうだな」
耀はミスティの視線を感じながら、ゆっくりとカップを持ち上げた。
「いかにも。この者らの決意は固いのじゃ」
耀は再びカップを置くと、静かに立ち上がり、三人を見つめた。
「三人共目を閉じて後ろを向いてくれ」
彼の言葉に、三人は一瞬だけ戸惑いの表情を浮かべたが、すぐに言われた通り目を閉じ、身体をゆっくりと回転させた。
耀の足音が一歩一歩、ゆっくりと彼女たちの背中から近づく。
その足音は部屋に微かに響き、星の瞬きとランプの揺らめく光が、彼の動きを静かに見守っていた。
——深夜、耀の部屋の前で三人の獣人が涙を流していた。
廊下にはランプの淡い光が揺れ、静けさが支配している。彼女たちのすすり泣く声だけがその静寂を切り裂いていた。
「汝ら、どうかしたのであるか?」
すすり泣く声に気付き、廊下を歩いてきたラウムが静かに問いかけると、三人は一斉に顔を上げた。その瞳には悔しさと戸惑いが入り混じり、涙の跡が頬を濡らしている。
「領主様……」
ルナリアが震える声で応じると、他の二人も涙を浮かべた瞳でラウムを見上げた。
「酷い扱いをされたのであるかな?」
「はい……私はひたすら耳の後ろの匂いを嗅がれながら、尻尾と腰の毛を逆なでされました……」
ルナリアが拳を握りしめながらうつむく。
「たてがみを撫でられ、尾に顔を埋められ匂いを嗅がれました……」
ヴァレリアは歯を食いしばり、視線を逸らした。
「私……角に頬ずりをされながら、尾の房毛をにぎにぎされました……」
カリサは尻尾を揺らしながら、悔しそうに眉を下げた。
「伽はなかったのであるか?」
ルナリアが顔を上げ、小さく首を振った。
「はい、私達の覚悟と女としてのプライドを引き裂かれました」
「……あれなら男でもいいのではありませんか?」
ヴァレリアが皮肉を込めて低く呟くと、カリサが続けた。
「私の胸など邪魔なようにあしらわれました。悔しいです……」
ラウムは一瞬だけ考え込むように目を伏せたが、すぐに厳かな声で言葉を投げた。
「汝ら、しばらくはあの男の専属従者として仕えてもらう」
「……はい」
三人は悔しさを滲ませながらも小さくうなずいた。その姿を見て、ラウムは穏やかな声で続けた。
「明日、真意を尋ねるゆえ、そう気を落とさぬことであるな」
廊下には再び静寂が戻り、ランプの光が小さく揺れていた。
三人は顔を見合わせ、歩き去るラウムの背に救いを求めるような瞳で見送った。
——翌朝、食堂のテーブルに着くと、ルナリア、ヴァレリア、カリサの三人が耀の配膳を終える。そして、姿勢正しく椅子の一歩後ろに立っていた。
窓から差し込む朝の光が食卓を照らし、料理の湯気とともに、淡い香りが食卓を包んでいた。
「其方、その三人は気に入らぬのであるか?」
ラウムがテーブルの向かいから問いかけたが、耀は表情を変えず、短く答えた。
「——いや」
ラウムは目を細めながら続ける。
「夜遅くに廊下で泣いておったゆえ、其方がひどくあしらったのではないかと、心配しておるのであるが」
「妾はあの様子を見ておったが、女子として気の毒でならんかった」
ミスティが椅子に身を預けながら、軽く息をついた。
「何か障ることでもあるか?」
ラウムの問いかけに、耀は食事を取りながら首を横に振るだけだった。
「殿よ、妾から説明するがよいかの?」
耀は手を止め、短くうなずいた。
ミスティは椅子に座ったまま、三人に目を向け語り始めた。
「結論から言えば、殿はこの娘たちを気に入っておる」
ルナリアが微かに眉をひそめ、ヴァレリアが目を伏せる。カリサは小さく肩をすぼめながら、そっと尾を揺らした。
「私達は女としてではなく、愛玩動物のように扱われました」
ヴァレリアが低い声で呟くと、ミスティは少し笑みを浮かべて続けた。
「まあ聞け、妾の髪と鱗を見てみよ。黒くなっておるじゃろ?」
三人がミスティの髪に目を向けた。
「——はい」
「汝らを殿が抱けば、その美しい毛並みも妾と同じように黒くなってしまうかもしれん」
「よって殿は、汝らを愛でるだけにして、終わらせたのじゃ。その証拠に、昨晩は激しかったぞ」
ミスティは意味深な笑みを浮かべ、耀に目を向けた。
ラウムが少し目を細め、視線を耀に移した。
「アンナとレイも髪と目の色は黒くなっておるな」
「ああ、俺の魔力が宿ると黒くなるみたいだ」
耀は少しだけ視線を落とし、低い声で続けた。
「それと、もう一つある。俺はこの世界の者でないうえに、この世界を出れば戦いに赴く」
「泣かせたくないのであるな」
ラウムが穏やかに返すが、耀は表情一つ変えず、窓の外に視線を向け呟いた。
「もう泣かせてしまったようだがな」
しばらくの沈黙の後、耀が静かに立ち上がる。椅子が微かに音を立て、部屋の空気が少し動いたような気がした。
「見ないが、待っているんだろう?」
何の迷いもない低い声が室内に響く。
「執事長であるか。其方との鍛錬を楽しみにしておるゆえ」
ラウムは食事の手をとめることなく返すと、耀は小さくうなずいた。
「待たせるのは悪い、ミスティはゆっくりしてくるといい」
「では、甘えさせてもらおうかの」
言葉には柔らかい響きがあったが、その瞳には耀に期待する、女としての色を宿していた。
歩き始めた耀の背中を、三人の娘たちが慌てることなく恭しく追いかける。
その歩調には緊張の色も、どこか躊躇うような気配も混じっている。
「お前らもゆっくりするといい」
耀が歩みを止めることなく、後ろを振り返ることもせず、短い言葉を落とす。
「あ、あの……私たちは殿様の専属なので」
カリサが小さな声で返すと、彼女の言葉には誇りとも不安とも取れる微妙な感情が滲んでいた。
「——殿様とな」
ミスティがくすりと笑う。
「汝らの気が済むまで世話をすると良いのじゃ。汝ら三人がついておるなら、妾は安心して休ませてもらえるの」
耀が振り返らずに食堂を出ると、廊下を歩く足音が少しずつ遠のく。三人の娘たちは一瞬だけ顔を見合わせ、小走りで耀の後を追った。
日が傾きかけた頃、ミスティが闘技場に足を踏み入れる。
地面はいたるところがえぐれ、壁が何個所も崩れ落ちた闘技場の真ん中で、倒れ伏す耀と執事長の姿があった。
「いったい何事かの?」
問いかけに答えるように、三人の娘たちが駆け寄る。
「ミスティ様、私、殿様に全てを捧げます!」
「私も、殿様ほどの男性に仕えるなど至福でしかありません!」
ミスティは小さくため息をつき、彼女たちを横目で見る。
「それで?」
短く促すと、最後のカリサが慌てた様子で言葉を絞り出した。
「殿様が……私のミルクを美味しそうに飲みました!」
一瞬の沈黙が流れた。ミスティは思わず吹き出すと、軽く首を振った。しかし、その笑みは長く続かなかった。
ふと、耀に目をやると、倒れ伏したまま、執事長と何かを話している。
その姿はどこか穏やかでありながら、禁忌を垣間見たような錯覚に襲われる。
耀の無表情ながらも静かに続く声に、ときおり執事長が柔らかな笑顔を浮かべる。
その様子は、ミスティの胸にあった不安が現実のものとなることを告げているかのようだった。
一時の恐怖や絶望から逃れるために、自らの感情を魔力に変えたことで、生まれた不安定な世界。
それを鎮めるために、彼はやがて自らの世界にひきこもり、孤独に静かに佇む存在となる。
それは信仰者のいない孤独な神――その未来が近づいていることを、彼自身も悟っているのだろう。
それでも今はただ、互いに分かりあえた静かな時間を噛み締めているように見える。
それは一瞬の温もりにも似た儚いひとときであり、やがて消えゆく朝露のように、静かに終わりを迎えるのだろう。
「殿はそれで良いのかの——」
じっと耀を見つめていたミスティの小さな呟きに、三人の従者が首を傾げて彼女の顔を覗く。
その頬には大粒の涙がひとつ流れた。
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。
休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。
出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。




