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地獄と呼ばれる楽園

窓からの美しい景色に見惚れる耀の後ろで、扉がノックされる音が響いた。

ラウムが入室を許可すると、メイド姿の女性と、タキシードを着た、ラウムに瓜二つの初老の男性が静かに部屋へ入ってきた。


「ラウム様、お客人は参られましたか?」

「うむ。執事長、丁重にもてなすよう」


低い声で返したラウムが視線を向けた先では、耀が未だに外の景色に見とれていた。

その姿が目に入った瞬間、メイドの顔色が見る間に青ざめ、膝が小刻みに震えた。


「なぜ……ここに人間が」


その呟きには驚愕と恐怖が入り混じっていた。耀が振り向くと、メイドの震えがさらにひどくなった。


「人間が居るのはまずいのか?」


ラウムは言葉と同時に向けられた視線に小さく頷くと、ゆっくりと口を開いた。


其方(そなた)の世界に悪魔が現れたら……普通は驚くであろう?」

「なるほどな。つまり、存在するはずのないものがここに居る、そういうことか」


ラウムがうなずくのを見た耀は、隣に立つミスティのことが頭をよぎった。


「そういえば、ミスティは大丈夫なのか?」

「ミスティは(それがし)が創り出した存在ゆえ、珍しくはあるがこの世界に馴染んでおる」


ラウムの説明に耀は軽く頷き、驚いているメイドに向き直った。


「驚かせて悪かった」


彼の頭を下げる動作は、異世界の者たちにとって驚きそのものであった。

ラウムとミスティは、耀が謝罪したことに驚き、表情を強張らせた。


「其方、熱でもあるのか?」

「殿よ。少し横になった方が良いのではないか?」


ほぼ同時に発せられたその声に、鋭い視線を返す。

この世界での自分の存在を理解した耀が、落ち着いた口調で呟く。


「まあいい……しかし、このままでは良くないだろう」


ラウムは眉をわずかに寄せながら、言葉を選ぶように話し始める。


然様(さよう)であるな。其方、自分の姿をイメージし、肉体に魔力を溶かし込むようにできるか?」

「魔力で自分の肉体を作り変える感じか?」

「作り変えてはならん。肉体に魔力を浸透させ、イメージした姿に変形すると言えば良いかな」


ラウムの声は落ち着いていたが、その裏に潜む緊張が耀にも伝わってくる。


「やってみよう」


短く答えた耀は、軽く息を吸い込んだ。

魔力が彼の体内で鼓動を始めたのだろうか、周囲の空気が(かす)かにざわめいたように感じる。


「危うくなれば止めるゆえ、耳だけは某の声を拾ってくれぬか」

「——ああ」


耀は静かに目を閉じ、魔力を心臓へと注ぎ込み、鼓動に合わせて送り出すイメージで意識を深く沈めていく。

血液に混ざり魔力が身体(からだ)の隅々にまで流れ、次第にその肉体へと浸透していく感覚が広がる。

周囲の空気が徐々に重みを帯び、部屋の中に目に見えない圧力が漂い始めた。


「イメージを乱してはならぬ」


ラウムの声が低く響く。耀はさらに身体に送る魔力を増やすように、意識を集中して僅かずつ魔力の量を増やしていく。


「——やれる」


そう呟いたその瞬間、彼の体が微かに揺らぎ始めた。

まるで蜃気楼のように輪郭が(ゆが)み、魔力が溶け込みながら形を変えていく。


「殿……」


ミスティの呟きが、部屋の静寂を破った。潤んだ瞳で彼女が見つめる先には、十八歳の頃の容姿となった耀が立っていた。

柔らかな黒髪が額にかかり、あどけなさを残した顔つきは、どこか懐かしさを感じさせる。

青年の持つ瑞々しさと力強さに、場違いなほどの冷酷さと落ち着きを宿す、あの頃の耀がそこにいた。


「流石であるな。一度で成功するとは……それに、某を圧倒する魔力の量であるな」


感心したように頷きながら、ラウムは耀の身体を観察するように視線を動かす。


「ああ、身体の一部に魔力を当て、痛みを緩和したり、強化したりはしていたからな」

「その応用であるか……まあ良い、その身体であればこの世界でも違和感はないであろう」

「応用といえば応用か……俺の世界と心臓をつなげる感覚で、魔力を全身に巡らせるイメージだな」

「其方、まだ魔力を送れるのであるか?」

「ああ、今の状態を維持するようにしているが、まだ増やせる」

「否、その程度でやめておくのが良かろう。既に警戒されるレベルであるゆえ」


耀が何かを思いついたように、ラウムに話しかける。


「ひとつ教えてもらえないか?」

「申してみよ」

「この身体は人間の身体なんだろうか?」

「其方はなぜそのように思う?」

「俺の精神は未だ別の世界にいる感じなんだ」


ラウムは右手で顎を撫でながら、思案に浸り始めた。


「某の話をするならば、魔力を貯めておるのは『心』と呼ぶべき場所である。魔力が満ちすぎれば、精神に不調をきたす」


耀がうなずいたのを見て、ラウムは話を続けた。


「しかし、一度に使える魔力は肉体を巡っている分である。従って貯まりすぎると身体的に不調をきたす」

「なるほど……だが、それが俺の状態とどう関係ある?」

「其方が肉体を使う時、その心は其方の世界になるのではあるまいか」


耀は目を閉じて、しばらく沈黙した後、口を開いた。


「だが、以前はこんな感じじゃなかった」

「それは、其方の世界がもうひとりの存在と明確に分かれたゆえ。すなわち其方の心と、もうひとりの存在の心のつながりが途絶えたと考えると良いのではあるまいか」

「なるほどな……俺の心は俺の世界そのものということか」

「心の深淵(しんえん)に作った世界であるゆえ、概念世界と其方の心という二面性を得たのではあるまいか」

「じゃあ俺があの世界での身体を手に入れたらどうなる?」

「分からぬが、概念者としての存在であるゆえ、その身体から離れることはできまい」

「それはなぜだ?」

「其方の世界の概念は、其方自身の精神に起因するものではあるまいか?」

「分からん。あの世界が偶然できた時、俺は何を考えていたか覚えていないからな」


そのまま、二人は互いの言葉を胸に刻み、沈黙の時間だけが流れ始めた。

話が一段落したのを見たミスティが、耀の腕に抱きつき胸を押し当てる。


「殿よ。懐かしい姿になられたの」

「ああ、この歳の頃は俺が身体を独占していたからな。俺の時間はここで止まったままだ」

(わらわ)が惚れて見ておった頃の殿のままじゃ」

「懐かしいか?」

「うむ。殿よ……」


俯き加減で頬を赤らめたミスティが、耀にチラチラと視線を送る。その目には特別な思いが込められていた。


「今宵は妾に……伽をさせてくれんかの?」


耀は一瞬だけ彼女を見つめた後、軽く抱き寄せ、そっと髪を撫でた。

その仕草は優しく、それでいてどこか無言の承諾を含んでいた。


「ああ、頼む」


その瞬間、この場にふさわしくない雰囲気が漂い始めた。メイドは落ち着かない様子でラウムに視線を送り、執事長は目を閉じ静かに立っている。


「其方ら、後で部屋を用意するゆえ、今は慎んでくれぬか?」


ラウムの呆れた声が、甘い雰囲気を一瞬で引き締めた。


「ああ、すまなかった」


耀の声と同時に、ミスティはすっと耀から離れ、彼の少し後ろに立ち姿勢を正した。


「ところで、其方。手のひらに魔力を出し、それを炎にするようイメージしてくれぬか?」


耀は無言で手を開き、意識を手のひらに集中する。魔力が手のひらから(にじ)み出す感覚を覚えたが、それはいつもどおり、黒紫(くろむらさき)色の霧として漂うだけだった。


「魔力は出ておるが……やはり其方は身体の強化に特化しておるようであるな」

「俺は魔法を使えないのか?」

「否、そうとは限らぬ。適性があるというだけの話であるな。もう一つ試してもらいたいのであるが、あの鏡の前に魔力を集められるか?」


ラウムが指を刺した方向には、(あで)やかな装飾が施された鏡台があった。

それは男性の部屋には不釣り合いなほど華美で、どこか妖艶(ようえん)さを感じさせるものだった。

耀は鏡に視線を向け集中する。視線に乗った魔力を瞬時に送り出すような感覚を覚えた直後、鏡の前に黒紫色の魔力が漂った。それを見たラウムが重ねて問いかける。


「うむ。あの魔力の塊と自らの身体を入れ替えることはできるか?」


耀は少し眉を寄せたが、無言で目を閉じた。

心の中で自らの意識を魔力の塊に重ね合わせ、身体の感覚が一瞬途切れるような感覚を覚える。

——次の瞬間、鏡台の前に彼の姿があった。


「なるほどな……」


耀は何かを得たように呟いた。

ラウムは満足げに頷き、顎を撫でながら耀の方へ歩み寄る。


「入れ替えを一度で成功させるとは。魔力の扱いそのものは素直であるな。しかし、これを応用するには更なる精度が必要である」


耀は鏡台に触れながら、自分がその場所にいる感覚を確かめるように目を細めた。


「どういう精度だ?」

「位置と距離、それと魔力の安定。実戦で用いるなら、正確さと速さを備えねば致命となるゆえ」


ラウムの言葉を聞き、耀は軽く頷くと、鏡に映る自分をじっと見つめた。

そこには、久しぶりに見る高校生の頃の自分の姿が映し出されていた。


「なあラウム。ひとつ試したいことがあるんだが、手伝ってくれるか?」


耀の言葉に、ラウムは落ち着いた声で応じた。


「其方の頼みとあらば断る理由はなかろう」


耀がラウムに向けて手を開くと、ラウムの身体が見えない力に縛られたように硬直した。


「ぬう……動けぬ。其方何をした」

「魔力でラウムの身体を拘束してみた」


耀が冷静な表情のまま、手を閉じるとラウムを解放した。

拘束が解かれるやいなや、ラウムはゆっくりと身体をほぐし、落ち着いた口調で言葉を紡いだ。


「なるほど、僅かな時間で魔力の本質を理解しつつあるようであるな。明日には陛下に面会する予定であったが、明日と明後日を其方の鍛錬にあて、面会は三日後といたそう」

「そうか。俺にはよくわからないから、ラウムに任せる」


耀は軽く肩をすくめた。ラウムは深く頷くと、執事長に一瞬視線を送る。

その短い視線の意味は、彼にのみ理解できるものだった。

ラウムの仕草を気に留めることなく、耀は新たな疑問を投げかけた。


「なあ、この世界にも人、というか住人はいるのか?」

「其方の世界とは異なるが、生活しておる者も当然おるのであるな。彼らはこの世界に適応した独自の文化と生活様式を持っておる」

「独自の文化か……ちょっと興味があるな」


ラウムは静かに扉の方へ向かい、促すように耀とミスティに視線を向けた。


「今日は天気が良いゆえ、テラスで茶でもどうであるかな?」


扉を出て少し廊下を歩いた先に広がるテラスは、陽光を受けて明るく輝き、穏やかな風が吹き抜けていた。

手入れの行き届いた花々が周囲を彩り、小鳥のさえずりが心地よく響いている。

テラス中央のテーブルには白いクロスがかけられ、精緻な陶器のティーセットが上品に並べられていた。

テラスからの眺めに、耀は思わず足を止めた。寝室からの景色とは異なり、広大な領都が一望できたのだ。

石畳の道路が街の中心を縦横に走り、大小様々な建物の間には市場と思われる賑やかな広場が広がっている。

遠くには尖塔がそびえる大聖堂のような建物が見え、周囲の喧騒を一層引き立てる。


「ここが某の領地の領都、インフェラシアである」


ラウムが自慢気に胸を張り、柔らかな声で説明する。

耀は都市自慢が耳に入らないほど、街を行き交う住人に目を奪われてしまっていた。


「おい!もっふもふがいるじゃないか!」


耀が興奮気味に指差す先には、買い物かごを手にした美しい女性が歩いていた。

大きな耳が風に揺れ、ふさふさの尻尾がゆっくりと動くたび、領都を照らす陽の光を受けて煌めいていた。

彼女の耳はまるで狼のように大きく、尻尾は長くて柔らかそうだ。

他の造形は人間とほとんど変わらなかった——だが、その姿にはどこか幻想的な魅力が漂っていた。


「明日の夜に其方の寝室に幾人か呼ぶゆえ、住民に手を出してはならぬぞ」


耀の女たらしな一面を知るラウムが、釘を刺すように言い放つ。


「ラウム殿、そのような話は妾のおらぬところでしてくれぬかの」


ミスティは鋭い視線をラウムに向け、口元を引き結んだ。

その目には、耀を独占しようと考えていた思いが邪魔され、ラウムに対する苛立(いらだ)ちが浮かんでいた。

ラウムは微笑みを浮かべたまま、少し目をそらすと軽く肩をすくめた。


「さて、そうであったな。某の出るべきところではあるまい」


その言葉の裏には、彼なりの落ち着きとミスティへの配慮があった。

だが直後に、耀の声が静かにその空気を断ち切る。


「いや、ラウム。遠慮なく呼んでくれ。俺はモフモフしたい」


珍しく弾んでいる耀の声に、ミスティはため息をつき、諦めの表情を浮かべた。


「まったく……では今宵は妾を存分に()でてもらわねばならぬな」


その声には、耀の無邪気さに対する諦めと同時に、少しの期待が含まれていた。

ラウムは少しだけ微笑みを浮かべると、落ち着いて言った。


「ならば、今夜は存分に楽しむと良い」


その言葉の後、ちらりとミスティを見たが、彼女が小さく頷くのを見て、執事長に視線を移した。

執事長は、何も言わずに目を閉じた。その表情には、無言の承諾とともに、長年の経験から来る冷静さがにじんでいた。どんな状況にも動じない姿勢が、そこにあった。

耀は一歩前に出て、再び「もっふもふ」の女性に視線を送った。


「ラウム、あの人たちって、どういう存在なんだ?」

「獣人族の者たちだ。彼らは元々人間であった者であるな」


ラウムが穏やかに答えると、耀はますます興味を持った様子でうなずいた。


「人間だったのか?」

「然様、其方は忘れているようであるが、ここは地獄である」

「一応覚えてはいるが」

「罪を犯して地獄へと来た者は、この世界で寿命を全うするだけである。だが中には、深い信仰心を持ち、自ら罰を求める者もおった」


ラウムが懐かしむように空を見上げ、言葉を続ける。


「某も人を痛めつけたところで、何も面白くはないのでな。そのような者には、罰として身体の一部を獣に変じ、生き延びさせた」

「罰の一部か、じゃあ、あの人もそうなのか?」

「否、人間の信仰心が薄れたゆえ、地獄に来る者などほとんどおらぬ。今ここに生きる者たちは、子孫であるな」

「信仰心と関係があるのか?」

「概念世界とは、その者が存在すると信じていなければ来ることができぬ世界であるな」

「地獄の存在を信じ、自らの罪を悔い、その果てに堕ちることを受け入れて命を落とした者のみが、ここへ辿り着く」

「なるほど。信仰心が無いまま死ぬとどうなる?」

「無に帰するだけであるな」

「無に帰する?」


耀は少し首を傾げる。


「無に帰すということは、何も残さぬことであるな。稀に強い思念となって現実世界で概念者となり彷徨(さまよ)う者もおるが、大多数は何もなくなる」

「アンナやレイのような存在か」

「妾もそうであるぞ。殿に会いたい一心で彷徨っておった」


その自慢げな表情には、確固たる信念が滲んでいる。


「それなら……罰として獣人にしたのも、その信仰心に対する結果なのか?」

「否。罰を求めた者に、某が身体の一部を動物とする罰を考えただけであるが、慣れぬ身体での生活は、結果として罰となった。だが時が経つにつれ、彼らはこの世界で子孫を増やし、今では獣人族として暮らしておるだけであるな」


耀は再び街の中を見渡しながら、考え込んだように口を開いた。


「案外適当な始まりなんだな」


ラウムは少し目を細めて耀を見た後、穏やかに言った。


「概念世界には、意図せぬ結果が生じることも多い。罰として与えられた身体も、時を経て新たな形を成していくのであろう」


ラウムの言葉には少しの思慮が含まれており、耀はその言葉を静かに受け止めた。

ミスティは微笑みながら耀の袖を軽く引き、柔らかい声で語りかけた。


「殿よ、ここは良い場所じゃな。妾はこのような世界が好きなのじゃ」


耀が椅子に腰を下ろし、視線を空に向ける。その青空には、雲がゆっくりと流れていた。


「こんな世界も悪くないな……」


彼の独り言のような呟きが、爽やかな風に溶け込んでいった。

少し前の自分では考えられなかったような温かさを感じながら、耀は目を閉じ、穏やかな風に身を任せた。

お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。


休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。

出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。

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