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地獄行き

ラウムの提案に応じた耀がラウムの住む世界に出発する日を迎えた。

予定では三日間としているが、状況によっては一週間程度までは伸びるかも知れない。

その日の朝、リビングでは耀に寄り添うアンナが、悲しげな表情を浮かべていた。


「そろそろ行くよ」


声をかけながら、耀はそっと彼女の肩に手を置いた。しかしアンナは、離れるのを拒むように、彼を抱き寄せた。


「ご主人様、早く帰ってきてください」


寂しさをこらえるように目を閉じたまま、わずかに開いた唇から、悲しげな声がかすかに漏れた。


「ああ、そう言っておくよ」

「ご主人様ではどうにもできないのですか?」


耀は小さくため息をつき、心の深淵(しんえん)に存在する、もうひとりの自分を思い浮かべた。

最近の騒動の中で、僕はあいつを異なる人間だと確実に認識した。それはあいつも同じだろう。

今までは、自分に与えられた絶望や、そこから芽生えた願望が、もうひとりの僕を作り上げたと思っていた。

だが、僕とあいつは望むものが、明らかに異なっている。

あいつは、僕がようやく掴みかけた希望――現実世界での生活には興味を持たない。

自らの世界に生き、自らの意志でその世界に存在する。あいつはただそれだけを望んでいる。

僕があいつを呼び出すことは、あいつにとって邪魔でしかない。


出発を控えた昨晩、僕はこの理不尽な状況に耐えかねて、思わず微笑んでしまった。

この家族と離れたくない——そして、真由美にかけられた『旦那様は普通が一番素敵です』という言葉。

あいつの行動と、僕の身体(からだ)を使うことに対する不満が、僕の感情を揺さぶり、あいつを呼び出した。

だが、あいつはこの身体を使うことなく、僕に語りかけてきた。


『皆と平穏で幸せな生活を謳歌(おうか)すればいい』


そのために僕は、現実世界で感覚を共有したくないことを話した。

五感だけでなく、意識すらも共有したくない。ここは僕が幸せを築く場所だから。

それに対して、あいつが出した条件は、あいつがこの身体を使う時、僕の意識を心の奥深くに閉じ込めること。

そしてもうひとつ僕が出した条件——僕が呼んだ時以外はこの身体に関与しないこと。

その代わり、あいつは僕に魔力を与えないことを条件に加えた。

但し、これは黄泉(よみ)の国の件が片付いてからになる。


最後にあいつが言った言葉。


『俺はお前から溢れる感情を魔力に換えるのをやめる。そうすればお前は普通になるだろう。そして、お前はこの身体で俺を呼び出すことなく生きていく。それでいいだろう』


そう言ったとき、あいつの声には揺るぎない確信が宿っていた。これは取引であって、妥協ではない。

互いが譲り合う余地など、初めから存在しなかったことに、お互いが気付いた結果だ。


「ご主人様?」


アンナの声で、僕の思考は止められた。美しい顔で、僕を覗き込んでいる。


「うん、僕はこの世界から離れると何もできなくなる」

「何も?」


おかしい……こんなにも深く愛しているアンナの声ではなく、なぜか真由美の言葉の方が胸に残っている。


「そうなんだ。前は様子を見るくらいのことはできたけど、ここのところそれもできない」

「なぜですか?私を置いてどこかに行く理由を作っているのですか?」


窓から差し込む朝の光が、アンナの目元に浮かんだ雫をキラキラと輝かせる。

耀はそっとその涙を親指で拭い、耳元で優しく(ささや)いた。


「そんなことは絶対にしない。もうしばらくの間、寂しい思いをさせるけど、きっと……」


耀の言葉を(さえぎ)るように、アンナの震える声が響く。


「寂しいです。ずっと前からご主人様が違う人になる気がしていて、それが現実になろうとしているようで」


無駄に多い魔力のせいで、やっかい事に巻き込まれているが、今の懸念が払拭されれば、僕の身体からは魔力が消え、レイの召喚にもあいつは応じなくなる。

それが僕を奮い立たせている——そうか、僕が求めるのは、魔力とか悪魔とかでなく、普通に生きることなんだ。

普通に生きることができるようになった時、僕はアンナと共に歩むことを、心から喜べるだろう。


「大丈夫だよ、アンナ。僕はアンナの傍から離れない」

「ご主人様……」

「アンナ……」


二人の距離がさらに縮まり、自然と引き寄せられるように近づく唇。だが、その瞬間――。


「いったい、いつまでやっていますの?」


レイの鋭い声が響き、空気を引き裂いた。彼女は冷めた視線を二人に向けながら、呆れたように肩をすくめる。


「レイ、邪魔をしないでください」


アンナが急に不機嫌な顔を見せ、涙を浮かべていたとは思えないほど鋭い視線をレイに向けた。

レイはそんなアンナの様子にため息をつきつつ、耀に柔らかな笑みを向ける。


兄様(にいさま)、早く行って、早く用件を済ませて来てくださいまし」

「レイは厳しいな」

「朝から、目の前でメロドラマを見せられている方の気持ちを考えてくださいまし」


レイは頬を膨らませ、プイと顔を背ける。


「レイ様の言うとおりです」


イオナは大きく頷き、レイに同意する。


「たしかにそうじゃな」


ミスティは尻尾をわずかに揺らしながら、呆れた表情でレイに賛同する。


「私もそう思います……」


真由美は一瞬鋭い視線を向けて、小さく呟いた。

四人の意見に逆らうのは愚策でしかない。それにこのままではきりがない。

耀はアンナから身体を離すと、優しい目でアンナを見つめる。


「アンナ、続きは帰ってからにしよう」

「はい、ご主人様。名残惜しいですが……」

「アンナ……」


耀が囁くと、アンナはそっと目を閉じた。二人の距離が縮まり、空気が一瞬止まったような気がした——そのとき、またしても鋭い声が割り込む。


「兄様、アンナ。いい加減にしてくださいまし!」

「ミスティ、行こうか」

「心得た」


耀とミスティはリビングを後にし、概念世界へと繋がるクローゼットがある部屋へ向かった。

その後ろをアンナがそっとついていく。

リビングの扉が閉まるのを確認すると、残った三人が目を合わせた。


「あれから、耀様はアンナ様にぞっこんですね」

「アンナさんが羨ましいです……」

「あんなの兄様ではありませんわ」


イオナがレイに視線を向ける。


「レイ様にとっての耀様とは?」

「初めてお会いした時の、得体の知れない、美しい色の魔力を心の奥に見せてくれた兄様ですわ」

「確かに、最近はめっきり恐ろしさを見せなくなりましたね」


イオナが寂しそうな表情を浮かべ、少し肩をすくめる。


「アンナさんの機嫌がいいので、私はやりやすいです。それに、私——あの旦那様が好きです」


真由美は頬を染めて、思いに(ふけ)っている。


「私は、本当に別人なのではないかと思い始めています」


イオナのつぶやきに、レイが鋭く言葉を被せる。


「兄様と兄様厨二形態は別人ですわ」

「そうではなく……同じ身体から生まれた別人ではなく、全くの他人なのではないかと……」


イオナの言葉に一瞬沈黙が流れたが、真由美が軽く首を振る。


「私はアンナさんに腑抜けにされただけだと思います」

「腑抜けにされすぎですわ……」


三人はふと、再び目を合わせ、ため息をついた。


「アンナさん、戻ってきませんね……」


真由美の呟きに、再び三人がため息をつく。


「兄様の部屋に行ったきりですの?」

「はい、見送りに行く素振りでしたが」


レイは無言で立ち上がると、険しい表情を浮かべながら耀の部屋に足を進めた。

レイが耀の部屋の扉を勢い良く開くと、クローゼットの扉に手を伸ばす耀に、アンナが抱きついている。

その隣で呆れたようにため息を付くミスティが、レイに助けを()うような視線を向けていた。


「兄様!いつまでやっていますの!」

「アンナが離してくれないんだ」

「絶対に離しません!ずっとこのままでいいのです」


閉じた(まぶた)には涙を浮かべ、必死に引き止めるアンナの背中に、レイが優しく手を添える。


「アンナ。今は我慢をするときですわ」

「嫌です!ご主人様が別人になってしまいます」


耀を抱きしめる腕に、さらに力が入り、クローゼットに伸ばした耀の腕が、だらりと下がる。


「それはありませんわ。もうひとりの兄様は孤独を求めておりますの」

「では、消えてなくなってしまいます!」


アンナがさらに強く抱き締めると、耀の身体から力が抜け、白目を向いてしまった。


「それもありませんわ。レイたちに兄様を頼むと言ってくださいましたの」

「はい。でも嫌です……」

「アンナの我儘(わがまま)で全てを台無しにしてもいいなら、そうしていてくださいまし」


レイは静かに耀の元に歩み寄り、彼の腕を掴むと、脈があることを確認し、ホッとした表情を浮かべる。


「もうひとりの兄様は、おそらくレイたちなど、どうでもいいと思っておりますわ」


しっかりと耀を抱き締めたままのアンナに、優しく声をかける。


「ただ、伊耶那美(いざなみ)を守ればいいだけかも知れませんの。でも、この間の伝言はレイたちのために何かをするつもりですわ」


レイは、アンナに促すよう、そっと彼女の腕に手を添えた。


「このまま兄様が、何かに怯えたまま生きていくのがいいのでしたら、そのまま離さずどこかへ連れて行ってくださいまし」


アンナは涙を流しながら、耀を抱き締めていた手を解き、一歩後ろに下がる。

倒れ込む耀をミスティが抱きとめて、その背中に尾をあてがうと、気付を行う。

意識を取り戻した耀が周囲を見回し、涙を流し唇を噛みしめるアンナに近づく。


「じゃあ行ってくるよ」


耀はアンナの頬にそっと手を当て、うつむく唇にそっと口づけをすると、振り返りクローゼットの扉を開いた。

崩れ落ちたアンナを、レイが胸に抱き寄せ、優しく髪を撫でる。

振り向いたミスティに、うなずき心配ないことを伝えた。


開かれた扉のむこうでは、どこまでも広く青白い光を放つ空間を背に、伊耶那美がすっと姿勢を正して立っていた。


()が君よ、長らく待っておったぞ」


耀が足を踏み入れると、自らが心の奥に吸い込まれ、あいつが湧き上がってくるのが分かる。


『もう少しの辛抱だ、我慢してくれ』


入れ違いざまにそう聞こえたような……そして完全にあいつに支配され、(あらが)えない力で心の奥に閉じ込められるような感覚に陥る。

自分の非力さを見せつけられるようで、心地良くは無いが、あいつの言ったとおり、もう少しの辛抱のはずだ……


「悪いな伊耶那美。こんなことばかりに使わせてもらって」

「黄泉の国を守るため、君の御力を賜ること、叶えば幸いなり」


耀の背後の扉が閉じるのを確認すると、伊耶那美はゆっくりと耀に歩み寄る。


「これしきのこと、何ら手間を要するものではなかろう」


うっとりとした表情で、耀の胸に身を委ねる伊耶那美を、そっと抱き寄せる。

何も動かない空間で、満たされた伊耶那美の吐息だけが、時間が進むのを教えてくれる。


「伊耶那美、あれから変わりはなかったか?」

「無きな……否、ゾーヤが一度、参じておったな」


その名を聞いた耀は、一瞬眉をひそめた。


「何か言っていたのか?」

「君に会いたいと、言うておった」

「他には?」

「君に託されたこと、滞りなく進んでおると、言うておった」

「それは良かった」


伊耶那美は顔を上げ、耀を見上げる。


「吾が君は、ゾーヤに何を託されたのであろうな」

「いや、変わったことは頼んでいない。俺たちがここで暴れたせいで、黄泉の国の兵は、千にも満たない。兵数の回復には一年や二年を要すると、そう吹聴するよう頼んだだけだ」


伊耶那美は口元を袖で隠し、微笑んだ。


「さようなれば、この度は大した戦とはならぬであろう」

「追い払うだけならな。だが、それでは足りない——やつらが二度とこの世界を攻めようと思わないほど、完膚なきまでに壊滅させる」

「なるほど……君は、黄泉の国に永久の安寧をもたらすと申すのだな」

「そうだな。妻を守るのは俺の成すべきことだろう」

「いと恋しきかな……これほどの君を吾がものとなし得たことの、悦びたるや——他にあらんや」

「殿よ。ここに来るまでに難儀したのじゃ、これ以上無駄に時間を潰すわけにはいかんと思うが」


ミスティの声に、耀はうなずいた。


「来い!ラウム」


黒い霧が漂い始めたかと思うと、何か急いでいるかのように渦を巻き始めた。すぐに弾き飛ばされるように霧散すると、そこには呆れたような視線を向けたラウムが立っている。


「支度に時間がかかり過ぎではないか?」

「俺に言うな、お前の召喚主がアンナに捕まったんだと」

然様(さよう)であるか。ならば其方(そなた)がその身体乗っ取ればよかろう」

「すまないな、次からはそうする。じゃあ早速行こうか」

「うむ」


ラウムは伊耶那美に向かい合うと、ゆっくりと口を開く。


「奥方よ。少し力を貸してくれぬか?」

「奥方とな……異存はなき。力を貸すゆえ、()が世界へ繋ぐがよかろう」


嬉しそうな表情の伊耶那美が開いた手を向けた先に、(よど)んだような空間の(ゆが)みが現れた。

そこにラウムが手をかざすと、空間が大きく開き、耀とミスティに入るように目で促す。


「ここは?」


足を踏み入れた先は、見たことのない部屋だった。整えられたテーブルと、天蓋の付いたベッドが置かれている。

振り返ると大きな鏡の向こうに、さっきまでいた黄泉の国が見えていた。


(それがし)の寝室であるな。ここが最も目につかぬゆえ」


ラウムが自慢げな表情を浮かべながら、鏡から部屋に入ってくると、その鏡は部屋の光景を映し出す、普通の鏡になった。


「——凄いな」


耀は目に入った窓の景色に目を奪われた。

歩み寄り窓の外を眺めると、広大な大地が広がり、風に揺れる草や木々がその息吹を感じさせてくれる。

遠くの山々は白く輝く峰を冠し、青空の下で静かにそびえ立っていた。

その山麓を縫うように、川が静かに流れており、川面には光が反射し、キラキラと輝く水の流れがゆっくりと続く。

その川のほとりには、花々が咲き乱れ、自然の色彩が豊かに広がっている。

小鳥たちの囀りが風に乗って耳に届く。川のせせらぎとともに、穏やかな調和を奏でる静かな風景が広がっていた。


「ここが地獄なのか?」

「美しいであろう。某はこのような光景を好んでおるのでな」

「そうじゃないところもあると……」

「然様、この一体は某の領地であるゆえ。他の地はまた違う顔を見せよう」


耀は息を飲みながらも、自分の目に映るこの光景を疑った。

人から見聞きして、自らが思い描いていた地獄は、苦しみと業に満ちた暗い場所のはずだった。

しかし、この美しい世界を前にしたとき、地獄とは何なのか、そして自分が抱いてきた人間の概念とは何なのか――そのすべてが揺らぎ始めていた。

窓からの景色を見渡す耀の背中に、ミスティが抱きつき、耳元で囁く。


「美しい景色であるの、殿……」


耳をくすぐるその言葉に、耀は窓の外の光景に目を奪われたまま、小さく息を吐いた。


「何か、懐かしさも感じるな」

「そうじゃの。殿よ、(わらわ)はこの世界で、この身体を与えられたのじゃ」

「そうだったのか?」

「然様、ラウム殿より身体を与えられた。この身は殿の魔力を使っておらぬと申されたのを思い出した」


耀はラウムに視線を向ける。


「然様であるな。ミスティは某とダンタリオンの魔力を用いて身を与えた。そして、グレモリーが祝福を与えた。しかし、そのように身体を変えられたのは、ミスティの持っておった執念であるな」

「執念か——」

「うむ。其方を思い其方に会いたい一心の執念である。ここではアンナの目も届かぬゆえ、心も身体も通わせるが良かろう」

「そうだな——考えておこう」


耀は再び窓の景色に目をやる。

この穏やかな風景を見て、心に生まれた僅かな揺らぎ。

その意味を理解するには、相当な時間が必要だと感じていた。

お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。


休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。

出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。

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