【閑話】門前の少年
小学二年生の頃、僕は毎日ひとりで下校していた。
友達がいないだけの理由だったが、それは僕だけの楽しみでもあった。
その時間は全て自分だけのもので、心の世界と現実が交差し、無限の空想が日常に溶け込んでいた。
——誰にも邪魔されない唯一の時間のはずだった。
だが、夏休み明けから、僕の時間はひとりの少年に邪魔されるようになった。
通学路の途中、一軒の住宅の門扉の前で、少年は地面に何かを描いていた。
人見知りの僕は、はじめは目を背け、避けるように通っていた。
毎日同じ場所にいるその姿に、僕は次第に興味を持ち始めた。
毎日同じ服で、同じ場所に座り、脇目も振らず道路に何かを描いている少年。
僕も毎日同じ服を着ていたが、他にそんな子を見たことがなく、妙に親しみを覚えた。
そして、遠巻きに観察するうち、その少年の奇妙なことに気づいた。
ずっと何かを描いているのになんの音もせず、さらにその道路には何も描かれていないように見える。
雨の日も傘を差さず、同じ場所に座り続ける少年は濡れているようには見えなかった。
立ち止まってじっと見つめても、僕に気づく様子はなく、顔を上げたことがない。
おかっぱ頭に幼さを残した美しい横顔は、男児か女児か分からなくなる。
その服装で僕は男児だと思い込んでいたのかもしれない。
その少年を見かけるようになって、一ヶ月が過ぎた頃。
芽生えた親近感とその美しい顔立ちに背中を押され、僕は勇気を振り絞って声を掛けた。
「ねえ、何してんの?」
少年は顔を上げ、不思議そうに少し首を傾げてから、ニッコリと微笑んだ。
それだけだったが、翌日から僕が通ると微笑んでくれるようになり、僕も自然と手を振るようになった。
少年は僕を見かけると、必ず微笑んでくれた。
——秋の空気が深まり始めたある日、それまで毎日見ていた彼がいなかった。
前日が雨だったので、風邪でもひいたのではないかと心配していたが、次の日も、その次の日も彼はいなかった。
一週間が過ぎ、僕はいよいよ彼のことが心配になり、ありったけの勇気を出して、その家の呼び鈴を押した。
玄関が開くと、母親と思われる女性が出てきた。
僕に笑顔を向けたが、不思議そうな表情も浮かんでいる。
「あの……いつもそこに座っている子を最近見ないので、心配なんです」
彼がいつも座っていた門扉を指差しながら、勇気を出して話した。
女性の笑顔は消え、不思議そうな表情だけが残った。
「うちに子供はいないのよ……」
僕は驚いた。彼はこの家の子供ではなかった。
振り絞った勇気が消え、恥ずかしさと怖さが込み上げる。
「——ごめんなさい」
慌てて立ち去ろうとした僕の腕を、女性が突然掴んだ。
「ちょっと待って、お願い」
驚いて振り向くと、彼女は目に縋るような光を宿していた。
「お菓子を食べていって。ね」
彼女に促されるまま、僕は居間に通され、座布団を横にずらして床に腰を下ろした。
「これ、下ろしてあげるね。重かったでしょ」
彼女は、僕が背負ったままだったランドセルを丁寧に下ろしてくれた。
「少し待っててね」
正座をした僕は窓の外で揺れる木の枝を、目で追っていた。
「どうぞ……座布団は使わないの?」
お菓子とジュースを出してくれた彼女は、僕が座布団を避けているのを不思議そうに見ていた。
それは、いつも汚いと罵られ続けて、自然と身についた、僕なりの礼儀だった。
「——僕が使うと汚れるから」
彼女は少し悲しそうな表情を浮かべた。
「洗えばいいから気にしないで、それに正座しなくていいよ」
それでも遠慮する僕の左手をそっと取った彼女は、そこにある火傷の跡に目を止めた。
「どうしたのこれ?」
酷い跡なのでよく聞かれるが、僕はいつも「何でもないです」とだけ言って手を隠す。
彼女にもそうしたが、他の大人達とは違い、涙を浮かべて僕を抱きしめてくれた。
「頑張って生きて」
柔らかくて、温かかった——そして、鼻をくすぐるいい香りに、僕の胸は高鳴った。
小さな声で励ましてくれるが、僕の視線は彼女の肩越しに見えた、一枚の写真に釘付けとなった。
笑顔で小首を傾げるしぐさ、何よりその目は彼のそれで間違いない。
「あの……あの子です」
僕の声に反応して、彼女が少し離れ振り向く。
「あの子は私の子供。三歳の時に事故で亡くなったの」
「でも、あの子が毎日ここの外に座っていました」
僕の話は誰も信じてくれない。だから、いつもは黙っていた。
けれど、なぜか言わなければならない気がして、口走ってしまった。
僕を見つめる彼女の目には、涙が溢れはじめた。
「でも——もう少し大きかった……」
その言葉を聞いた彼女は、再び僕を抱きしめてくれた。
「ねえ、どれくらい大きくなっていたの?」
震える彼女の声に、僕は見たままを答える。
「僕と同じくらいでした」
「ぼくは何年生なの?」
「二年生です」
彼女は声を上げて泣き始めた。
彼女の話では、あの少年は僕と同じ歳らしい。
「いつも道路に絵を描いていたの。危ないからやめなさいって言っても聞いてくれなくて」
懐かしそうで悲しそうな表情を浮かべる彼女は、小さく息を吐いた。
「少し目を離した隙に、また道路に絵を描いていたみたいで……大きな音に驚いて道路をのぞき込んだら、倒れていたの」
僕を愛おしそうな目で見つめてくる。僕は恥ずかしくなって、目を逸らしてしまった。
「ぼくも気を付けないとダメよ。車から子供は見えにくいから」
僕は小さくうなずくとお菓子を食べながら、この一ヶ月の話をした。
その間、ずっと彼女は微笑みを浮かべながら聞いてくれた。
そして、彼が消えた日は命日だと教えてくれた。
「気をつけて帰ってね」
「あの……ありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとう」
彼女に見送られ、僕は居心地の悪い自宅へ歩き始める。
少し歩いたところで、僕の背中に彼女の声が届く。
「ねえ、ぼくのお名前を教えて」
「相葉耀です」
そう言ってお辞儀をすると、彼女は手を振って見送ってくれた。
自宅に向かう僕の胸は、彼女に優しく抱きしめられた温かさと、勇気を出したことで微笑んでくれた嬉しさで満たされていた。
——その夜、僕は久しぶりに夢を見た。
夢の中で、僕はあの少年と遊んでいた。
「ママに僕のことを伝えてくれてありがとう。僕、お空に行くね」
「もう会えないの?」
「うん、お空に行かなきゃだめなんだ」
「そっか。バイバイ」
「バイバイ」
そう言うと、彼は静かに消えていった。
翌日、学校に向かう僕は、彼女にもこのことを伝えたいと思った。
でも、再びあの呼び鈴を押す勇気は僕に残っていない。それでも伝えなければ後悔する。
それにまたきっと喜んでくれる。
昼休みに紙と鉛筆を持ち出して、誰もいなかった体育館の裏で、夢のことを書こうとしたが、うまく書けなかった。
消しゴムを忘れたから、間違えたところは鉛筆で塗りつぶした。
『ママに伝えてくれてありがとうと言われました。それと、もうお空に行かないとダメって言ってました』
それだけを書いた紙を帰りにあの家のポストに入れた。
きっと読んでくれるだろうと信じて——
「へぇー、旦那様は小さい頃から、不思議な子供だったんですねー」
僕の話を聞き終わった真由美が、お菓子を食べながら気の抜けた感想を述べた。
「幼い頃のご主人様——抱いてみたいです……いろいろ教えて差し上げたいです」
アンナの言葉に、真由美が冷たい視線を向けた。
「アンナさん。それ、犯罪ですよ……もしかしてショタ好きなんですか?」
「真由美さん、幼いご主人様ですよ。可愛いじゃないですか。それに私も抱きしめたいだけです」
「いろいろ教えるって言ったじゃないですか」
「胸に抱き寄せて、お勉強を教えます」
レイはジュースを片手に、アンナの胸を見つめる。
「アンナに抱きしめられたら、幼い兄様は胸に挟まって死んでしまいますわ」
考え込むような素振りを見せていたイオナが、急に頬を染めた。
「でも、その頃の耀様でしたら、私も是非いじめ……いえ、可愛がってみたいです」
ミスティが胸を張って、話に割って入る。
「妾は、その頃の殿を見ておったでの。あの頃の殿は可愛かったの」
「そうなんですか……ミスティさん、もしかして裸も見ました?」
アンナは完全にスケベモードにシフトしたようだ。
「ふむ。そっちも可愛かったの。今のように凶暴ではなかったのじゃ」
黙って妻たちの話を聞いていた僕の心には、後悔しか残らなかった。
——話さなければよかったと。
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2025年10月14日、一部修正しました。




