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愛憎の交点

昼下がりのリビングでは、耀とレイが満腹のお腹をさすりながら、ソファに腰を下ろしていた。

ため息をつく以外、何をするでもなく、ぼんやりと午後の気だるさに身を任せていた。


「よし!」


その声と同時に、耀がソファに深く沈んでいた身体(からだ)を起こし立ち上がる。

仕事のために自室に戻ろうと、わずかに背を伸ばした耀の後ろ姿を見たレイが、声をかける。


兄様(にいさま)、お尻の具合はいかがですの?」

「お尻?」


レイの質問が理解できず、耀は振り向き首を傾げる。


「はい、アンナに酷く鞭で打たれたようで、心配しておりますの」


キッチンで片付けをしている真由美は、言葉を交わす二人にそわそわと視線を送りながら、棚に皿を戻す動きに落ち着きがない。


「なぜ、打たれたのを知っているんだ?」


耀とアンナしかいない密室での情事を、レイが知るはずもない。

耀の単純な疑問に、レイは目を泳がせ、表情に一瞬の焦りが見えた。


「お、音が聞こえておりましたわ……大きな音でしたのでみんな心配しておりましたの」


レイが全員を巻き込もうとする魂胆が見え隠れし、キッチンに立つ真由美にも焦りが見える。


「音だけじゃ、お尻を打たれたなんて分からないだろう?」


人が尻を鞭で叩かれる音を聞くことなどほとんどない。まして、音で尻を叩かれていると聞き分けるとなると、その道の愛好家、それもかなりの手練だ。

再びソファに腰を下ろした耀から、疑念の視線を感じたのか、レイは慌てて笑顔を作った。


「あ、アンナのことですわ。きっとお尻を狙うのではないかと……」


言い終わる前に、鋭い声が耳を刺した。


「レイ!」


その声に驚き、レイは慌てて振り向く。

キッチンからアンナが厳しい目を向けており、その横では真由美が視線を反らしつつ、皿を片付け続けている。


「あ、アンナ……いましたの?」


白々しい様子を見せるレイに、低い声がゆっくりと届く。


「少しお話があります……」

「レイは話すことなんてありませんわ」


レイは言い捨てるように答え、プイと顔を背けたが、その言葉の奥には隠しきれない焦りが混じっていた。


「私があるのです!」


さらに低く、大きくなった声が空気を裂くように刺さる。

アンナの隣では、真由美が皿を拭きながら、どこかに祈るような表情を浮かべていた。冷や汗が頬を伝っても、手は止められない。

黙って様子を見ていた耀が、小さく息を吐くと、口を開いた。


「アンナ、こっちに来て隣に座ってくれないか?」

「はい、ご主人様……」


思いもよらなかった言葉に、アンナは一瞬目を丸くする。

そしてすぐに頬を緩ませ、エプロンで手を拭きながら軽やかな足取りで歩み寄った。

近づくと、レイをお尻で押しのけて隙間を作り、堂々と耀の隣に腰を下ろす。

不満そうに体勢を直すレイの様子を見て、アンナはまるで優越感に浸ったかのような表情を浮かべ、ちらりとレイを見つめた。


「それ以上、レイを責めないで欲しいんだ」

「ご主人様はレイに甘すぎます……」


口を尖らせて不満を口にするアンナ。しかしその背後では、勝ち誇ったように胸を張ったレイが、鼻先を少し持ち上げ、得意げな表情を浮かべていた。


「そうかもしれないけど……あの夜のことは、誰も責めないでほしいんだ」

「——でも」


アンナが言いかけた時、耀はそっと彼女の頬に手を伸ばし、優しく撫でた。


「あの夜の件は、アンナに感謝している。確かに痛かったけどさ」

「申し訳ありません……つい……」


耀の手の温もりが頬全体に広がり、アンナは思わずその手に顔を擦り寄せる。


「あの痛さは生きている自分を実感させてくれた」

「はい——少し恥ずかしいですが……」


頬を染め、目を細めてうつむき加減で、耀を見つめる。


「あの時の痛み、まだ覚えている。でも……あれは憎しみじゃなかった。アンナの気持ちが、心に深く届いたんだ。」


耀がもう一方の手もアンナの頬に添えると、彼女の瞳が潤みはじめた。


「痛みの後、アンナに求められたことが……僕にとっては、生きている意味を思い出させてくれた。だからこそ、どれほど必要とされていたのかが、身に染みるほど理解できた」


目を細めて見つめる耀に、アンナはそっと身体を寄せた。


「僕が生きることで、アンナのためになれる。あの日の事は、それだけのことで終わらせたいんだ」


耀の手が頬から離れ、代わりに彼女の髪を優しく撫でた。


「だから、これからは考え込まずに、アンナに相談させてもらうよ」


徐々に顔が近づき、アンナが潤んだ瞳をまぶたで隠した瞬間、レイの冷めきった声が二人を止める。


「兄様、続きは夜にしてくださいまし。それより、ラウムが迎えに来る日が近いのではありませんの?」


二人だけの世界から強制的に引き戻され、アンナは驚いて顔を引き、耀もわずかに眉を動かした。


「そっちの用件は、僕じゃなくてあいつだろ?」


耀は肩をすくめ、まるで他人事のように言い放った。


「なっ、他人事ですの?」


確かに人格が別なのは理解した。だが、身体が同一である以上、切り離せない問題のはずだ。

それなのに、まるで切り捨てるような耀の発言に、レイは思わず目を見開き、驚きを隠せない。


「ああ、アイツが僕の身体を使うほどに、別人との認識が強くなっているんだ」

「どういう感じですの?」

「表裏一体の存在だったものが、それぞれ独立しはじめた。今でははっきり他人と認識してるんだ。二人の人間が、一つの身体を共有しているだけ、という感覚さ。」

「では、ラウムのところには行きませんの?」

「行くさ。それが今の生活を守るために必要なことだからね」


諦めが浮かぶ耀の表情に、レイは少し呆れたような目を向ける。

じっと会話を聞いていたアンナが、彼の膝に手を添えて、寂しそうな表情を浮かべると、そっと身体を寄せる。


「しばらく会えないのですか?」


アンナの少し震える声に、耀は彼女をそっと抱き寄せる。


「僕もアンナがいない生活は耐えられない」

「ご主人様……」

「アンナ……」


見つめ合い、再び顔が近づき始めた二人の間に、レイの呆れたような声が割り込む。


「なー!夜まで待てとは言いませんわ。せめて兄様のお部屋でしてくださいまし!」


その声を聞き、同時にレイへ視線を向ける耀とアンナ。


「そうさせてもらうよ」

「レイ、ありがとうございます」


耀はすっかり乗り気な様子で、アンナからは礼を言われ、レイは大きくため息をついた。


「本当に仕事もせずに、昼間からする気ですわ……」

「アンナさん。家事はやっておきますので、ごゆっくりなさってください」


真由美はアンナを気遣うような声をかけながらも、ホッとした表情を浮かべている。

部屋を後にしようと、扉に手を掛けて一瞬立ち止まり、ふとレイの方を振り返る。


「レイ、焼肉用の高級なハラミ肉を準備するよう、イオナに伝えてくれないか?」

「分かりましたわ。どれくらい必要ですの?」

「いろんな和牛を揃えて、十キロくらいって言ってたかな?」

「そんなにたくさん、何に使いますの?」

「さあ……あの日、あいつの去り際に頼まれてね。僕も、ただ伝えているだけだから。うっかり伝え忘れるところだったよ」


言葉は軽かったが、その言葉が持つ重みを、レイはすぐに察した。

『頼まれただけ』という言葉の裏には、もう一人の耀の周到な計画があることを理解したからだ。


「兄様は冷たいですわ。レイに直接言ってくれればいいですのに——」


レイは不機嫌そうな顔で、スマホを手に取り、イオナに電話をかける——


耀とアンナが満足したようにベッドで抱き合っている。既に日は傾き、夜の訪れは近い。

その頃、もう一人の耀は、自らの世界で過ごす、孤独な時間を守るために、緻密な計画を練っていた。

同じ頃、その二人に関わる出来事が、別の場所で静かに動き出していることなど、二人の耀は考えもしていなかった。


——ソファとテーブルだけが置かれた、応接室のようなマンションの一室。

その静寂を尊ぶかのように、二人の男がヒソヒソと会話をしていた。

窓からの光を遮るように二重にカーテンが取り付けられ、湿った空気を隠すように焚かれた香は、鼻腔を焼くように甘く、どこか鉄のような苦みを含んでいた。


袴田(はかまだ)、お前の言うとおりにしているが、話が全然違うじゃないか……」


悠斗(ゆうと)に向かって呆れたように、そして、どこか小馬鹿にしたように言い放つ喜多原(きたはら)に、落ち着いた声が返ってくる。


「全て神の御心のままにことは進んでいる。少し結果を焦りすぎているんじゃないですか?」

「俺にはそうは思えないがな。凛堂(りんどう)と、知紗(ちさ)とかいう女は——二人で焼肉屋に入り浸っているそうじゃないか」

恵莉華(えりか)の魅了を受けているのは間違いない。おそらく一週間以内には動きがあるはずだ」

「今の状況を見て、そんな話を信用できると思うか?」

「俺の話に偽りがあると言うつもりですか?大金は手に入れ、恵莉華は自由にできたでしょう」


喜多原を意のままに操るため、悠斗は凛堂を騙し、一晩だけ、喜多原の好きにさせたのだ。

ただ、耀を騙し金をせしめたのは、喜多原の計画に協力しただけだった。

それは、いずれも耀を追い詰めるため。だが、喜多原の欲望に依存したその計画は、今や完全に瓦解していた。


「ああ、それについてはいい思いをさせてもらった」


喜多原はニヤついた表情を見せるが、すぐにため息まじりで話を続ける。


「気に入った女を、自由にできるという話を信用したがな。あれ以降は何もない」


悠斗の軽蔑するような視線に、喜多原は薄笑いを返した。

悠斗は喜多原に諭すように語りかける。


「今こそ、神へ祈る時です。信仰は力となり、その力が、神の姿をこの世に呼び起こす糧となるのです」


そして、虚ろな瞳で天を仰ぎ、声を荒げる。


「それが選ばれた我々の、神への義務であり、神からの恩恵でもあるのです」


悠斗の狂信的な態度を、鼻で笑うような声で喜多原は呟く。


「結果を焦るなと言う割に、激しく動いてるじゃないか」


悠斗は手を組み、鋭い視線で喜多原を睨みつける。


「あの男が跪けば、万事が動き始める」

「相葉か……勧誘すればいいだけじゃないか?」

「それは無理だった。耀は宗教を毛嫌いしているきらいがある」


会社を辞める前、耀の前で宗教という言葉に触れた瞬間、彼の顔に影が落ちた。

苦痛を思い出したかのように瞳を細め、言葉の続きを飲み込んだ——悠斗は、それを見逃さなかった。


「なぜだ?お前の言うとおりなら、あいつは全ての人間を支配できるだろう?」

「分からない。ただ、信仰の話になると珍しいほどはっきりと耀は拒絶する」

「だからといって、今のような嫌がらせを続けても意味はないと思うがな」

「今は凛堂と知紗が、耀とその周りに侍る女を、引き離すのを待つのみ」


喜多原は肩をすくめ、口元に冷たい笑みを浮かべた。その声には皮肉が滲んでいた。


「相葉はお前を見切っていたか……」

「どういう意味だ?」

「お前の言う神を信仰してからというもの、何もかもが上手く行かない」

「結果を急ぎ過ぎだと言っている」

「最後まで聞け!」


そう怒鳴った喜多原は、鼻で笑いながら言葉を続けた。


「俺にとっては、既にお前の話は全て信用に値しない」


悠斗の瞳が細まり、声が低くなる。


「喜多原、毎日祈りを捧げているのか?」


その言葉に、喜多原は軽くため息をつきながら答える。


「あの紙切れなら、財布と一緒に無くしたよ」

「紙切れではない!」


悠斗は声を荒げ、椅子の肘掛けを掴んだ。


「あれは神体そのものだ!」


喜多原は目を細め、再び肩をすくめた。


「何をそんなに声を荒げてるんだ?あの紙切れに祈っても、俺には不幸の方がよく来るみたいだがな」


悠斗は拳を強く握り、身体を震わせながら立ち上がった。

その顔は怒りで紅潮し、その場で喜多原に襲いかかりそうな勢いで睨みつけている。


「この異教徒が!」


悠斗の声が鋭く響くと、部屋の扉が勢いよく開き、四人の男と一人の女が入ってきた。


「神の前に引き出せ!」


その言葉を合図に、体躯のいい男が喜多原を羽交い締めにし、力任せに部屋の外へと引きずり出した。


「何をしている。離さないか!」


喜多原の声は空しく響き、そのまま別の部屋へと連れ込まれ、うつ伏せに押さえつけられる。

そこは少し広く、中央には簡素な祭壇のようなものが設けられ、その前には、木製の台座の上に、一枚の紙、一冊の本、そして一本の短剣が静かに捧げられていた。

既に悠斗にとって利用価値のない喜多原の扱いは、心に決まっていた。その機会を伺っていたが、今それが訪れ胸は歓喜に震えていた。


「喜多原、お前の行為は我らが神に対する侮辱でしかない……」


体躯のいい男が、喜多原の頭を持ち上げ、両手で口を塞ぐ。悠斗はゆっくりと祭壇に歩み寄り、短剣を手にすると、冷ややかな視線を喜多原に向けた。


「その命を神に捧げ、償いとせよ!」


悠斗は鞘から短剣を抜き、喜多原に歩み寄る。

必死にもがき、目を見開いて叫ぼうとするが、さらに二人の男女が加わり押さえつけられ、身動きがとれない。

塞がれた口から、声にならない叫びが漏れた。その声を無視するように、悠斗は逆手に持ち直した短剣を天に掲げる。


「この刃、我が神の御前に捧げん。罪深き者の魂を、神の糧として捧ぐ——」


悠斗は躊躇なく背中から胸に向かって短剣を突き立てた。

目を見開いたままの喜多原は身体を一瞬大きく震わせ、全身の力が抜け、静かに床に沈んだ。

悠斗は喜多原から引き抜いた短剣を、天に掲げ雄叫びのような声を上げる。


「神よ、哀れなる異教徒の魂、大いなる慈悲をもって受け入れ給え!」


その声に反応するかのように、祭壇に捧げられた紙が金色の光を放ち、部屋全体を静かに淡く照らし始めた。


『我が忠実なる使徒よ。この魂、我が糧となそう』


慈悲深く威厳を含んだ声が、部屋に響き渡る。その深い声に、部屋全体に神聖な静寂が広がった。


「——神よ……」


声が響く中、誰とも知れぬ信者が震える声で呟いた。

そして、その声はさらに続く。


『さあ、我が敬虔なる信者よ……魂となり我がもとに来るが良い』


その声に、誰もが息を呑んだ。

空気が止まったかのような静寂の中、気弱そうな痩せた男が、ゆっくりと足を進め、悠斗の前に立つ。

胸の前で手を組み神への祈りを捧げると、目を閉じたまま両腕を広げた。


『我が使徒よ。聖剣による栄誉ある死を与えよ』


声の余韻が残る中、悠斗は躊躇することなく、短剣をその男の胸に突き立てた。

男はわずかな笑みを浮かべると、静かに床に崩れ落ちた。


別の男が、悠斗の前に歩み出て、神に祈りを捧げると、同じように両腕を広げた。

悠斗は狂気に満ちた目で、使徒にしか知らされない神の名を呟くと、勢いよく胸に短剣を突き立てる。

短剣を突き立てたまま、仰向けに崩れたその姿を見て、悠斗は神に慈悲を乞うように祈りを捧げる。

一際体躯のいい男が、倒れた男の胸から短剣を抜き取ると、それを天に掲げ祈りを捧げる。

そしてそのまま、自らの喉に短剣を突き立て、静かに倒れた。

恍惚の表情を浮かべた悠斗と、男女の信者たちは一人ひとりが膝をつき、命を捧げた者たちに、敬意と賛美を捧げていた。


『我が使徒よ。くれぐれもかの者より目を離すでない』

「必ず相葉耀を、生きたまま我が神に捧げます——」

『万事、ぬかりはないか』

「はい、奴を取り巻く女どもと引き離す準備は整いました」

『よい、我が使徒よ。その時が来たら我に呼びかけよ』


その言葉が終わると同時に、部屋を満たしていた光が消えた。

四人の男が倒れた床は血の海となり、部屋に焚かれる香は、鉄錆のような異臭と混じり合う。

狂気の余韻が醒めないその部屋では、祈りの言葉だけが響き続けていた。

悠斗は虚ろな瞳で微笑んだ——恵莉華と知紗を使った策に落ち、自ら神に助けを乞う耀の姿を思い浮かべながら。

お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。

よければブックマーク・評価のひと手間を。誤字は各話末の『誤字報告』からお願いします。


2025年10月14日、一部修正しました。

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