新世界
耀はソファに腰を下ろし、今日の出来事を招いた自分の甘さを反省していた。
同時に、もう一人の自分の物怖じしない性格を羨み、対照的な自身の不甲斐なさにため息をつく。
たった数時間の出来事に与えられた影響が大きすぎ、散らかった思考を整理しつつ、自分を見つめ直す耀の前にアンナが静かに歩み寄る。
「ご主人様、少しお話があります」
顔を上げると、いつもの笑顔ではなく、真剣な眼差しを湛えたアンナの美しい姿が、静かに耀の目に映り込む。
「ああ、お仕置きされるんだろう」
「いいえ、どちらかと言えばお説教です」
『お説教』という言葉で、期待に満ちた輝きを宿していた女性陣の瞳から、光が消えた。
「準備ができるまで、ご主人様はお部屋でお待ちください」
「準備が必要なんだ……分かったよ」
それ以上は何も言わずに、リビングを後にする耀の背中を見送ったレイが、手枷と足枷を手にアンナに声をかける。
「厨二形態の兄様よりこれを預かっていましたけど、お説教ならいりませんわね」
「——使います」
「どうしてですの?これはどう見ても拘束具ですわ」
「どちらかと言えば、お説教です」
そう言い残し、浴室へと向かうアンナを見送る女性陣の瞳は、再び輝きを取り戻していた。
「アンナは期待を裏切りませんわ!」
レイの瞳には期待に満ちた輝きが宿る。
「真由美、ごちそうを準備してください」
「はい、イオナ様!うちにある食材も少しいただきますね」
イオナと真由美は、嬉々として宴の準備に取り掛かる。
「妾も今宵は楽しませてもらうのじゃ」
いつもなら蛇の姿に戻り、家のどこかに身を潜めるミスティも、今夜はリビングで過ごすようだ。
——リビングには、レイ、イオナ、真由美、ミスティが揃い、真由美が用意した軽食やお酒を楽しんでいる。
賑やかな部屋のドアが静かに開き、厳格な表情のアンナがゆっくりと入ってきた。
その姿は、いつものメイド服ではなく、黒一色のエナメルボンテージを身につけ、手に一本鞭を携えている。
普通であれば妖艶な姿に映るであろうその衣装は、アンナの体格の良さと真剣な眼差しから、もはや戦闘服にしか見えない。
「みなさんもご主人様に言いたいことがあれば、代わりに伝えておきます」
「レイはありませんわ」
「私もございません」
「うーん。どちらかと言うと、怖い旦那様の方が女たらしですからね」
レイとイオナに真由美が続けた。
アンナの鋭い視線を感じて、慌てて手で口を塞ぐが、アンナの低い声が真由美の耳に届いた。
「真由美さん、どういうことですか?」
「えーと。何でもありません……ははは……」
鞭の先が真由美の首元を撫でる。その冷たさに真由美は身を縮め、恐々とアンナを見ると、その瞳の輝きが失われていた。
「——正直に言いなさい」
「は、はい。旦那様の世界に連れて行ってもらった時、金髪の美少女と抱き合っていました!」
小学生の発表会のような口調で、大きな声ではっきりと、見たものそのままを伝えた。
「それはどんな女です?」
「えーと。伊耶那美さんは、旦那様を襲った女って言ってましたけど……」
「アンナ、あの時の女ですわ!」
三人の脳裏に黄泉の国に迷い込んだときに、耀を襲いあっけなく捕まった女が思い浮かぶ。
「その件は次の機会に問いただしましょう」
踵を返すアンナを見て、真由美はホッと胸を撫で下ろす。
「妾も特にないの。できればもらえる卵の数を増やしてほしいかの」
「それはレイに言ってください」
「では、ご主人様のお部屋に伺います」
アンナは背筋を伸ばし、重々しくドアの向こうへと消えていく。
「アンナ、頑張ってくださいまし!」
「アンナ様ご健闘を!」
「アンナさんいい夜を!」
「三回はせねばならぬぞ!」
長い夜の闘いへと赴くアンナを、それぞれの言葉で励まして見送った。
——耀はひとり自室のベッドに腰を下ろし、何かに取り憑かれたように、じっと壁を見つめていた。
「ここまで不甲斐ないと、僕の存在価値はないに等しいじゃないか……」
まばたき一つせず、ただ一点を凝視し、答えの出ない思考を巡らせる。
「あのまま、ひとりでいれば良かったのに、なぜ笑顔が溢れるあの光景に憧れた……そして、手にできたのはこのざまだ」
自分には何一つ解決できない、気づかぬうちに少しずつ溜まっていたその思いが、一気に溢れ出す。
それをきっかけに、現状の全てを否定しかねない過去への後悔が膨れ上がる。
「ずっとアイツに頼りきりじゃないか……なぜ、あの時僕は死を拒んだんだ」
もう一人の自分が、この身体に死をもたらそうとした時、それを拒んだことすら後悔し始める。
「そうだ……死んでいれば良かったんだ……」
無限に落ち込んでいく思考に飲まれそうになった時、静かに開いたドアから響いたアンナの声がそれを止めた。
「ご主人様、考え込むのは良くありません」
「アンナ、どうしたその格好……」
「イオナさんが亭主の躾に必要だと、以前くださったものです」
「あ、あのときか……」
その言葉で、イオナが初めて訪れた時、アンナに手渡していたものだと分かった。
「ご主人様、なぜあのような娘に付け入られるようなことをしたのです?」
耀に歩み寄ったアンナは話を続けながら、耀の服を脱がせ始めた。
「アンナ……なぜ僕の服を脱がす必要がある?」
「何も隠さず話していただくためです」
「分かった……自分で脱ぐよ」
「そうやって、あの娘の前でも服を脱いだのですね」
「いや、そうじゃないけど……」
「私が脱がせますので、動かないでください」
耀の服を脱がせ終わると、アンナは耀の目をじっと見つめる。
「ご主人様の目が、悩み苦しんでいた時と同じ目をしています」
「アンナにはお見通しか……」
「ひとりで悩み苦しみ、そして弱ってしまった心も、私が治して差し上げます」
「悪いな。アンナ……」
「謝る必要はありません」
アンナは耀の手に手枷をかける。
「他の方がどうであれ、私はご主人様を必要としています」
耀の足元にかがみ込むと、足枷をかける。
付けた者にしか外せない魔道具のような代物を、躊躇なく取り付け終わると、耀に視線を合わせて優しく語りかける。
「——今からそれを教えて差し上げます」
——その頃、アンナを見送ったリビングでは、良からぬ計画が始動していた。
「レイ様、準備はよろしいでしょうか?」
「任せてくださいまし。イオナの言ったとおりできると思いますわ」
「レイさん、このお盆でいいですか?」
真由美がきれいに磨かれた銀色のお盆を掲げ、キッチンから声をかける。
「それで大丈夫ですわ」
「レイ殿は凄いの……精霊を完全に使役できるのではないか」
「兄様厨二形態のおかげですの」
リビングのテーブルに置かれた銀色のお盆に全員が注目する中、レイは祈るように手を組み、何かを呟いた。
「兄様にいただいた魔力をこのように使って申し訳ありませんわ」
お盆が淡く光を放つと、そこには耀の部屋が映し出された。
「きゃー!もう脱がされています」
真由美は顔を真っ赤にして、両手で顔を隠すが、お約束どおり指の間からしっかりとお盆を見つめている。
「この術は凄いの」
ミスティは移された光景よりも、その術に興味を惹かれた。
「でも、音は聞こえないようですわ」
「レイ様、音は聞こえてくるので大丈夫です」
部屋の音が聞き取れないことに不満を漏らすレイに、イオナは明るく弾むような声をかけた。
じっとお盆を見つめていた真由美が、ふと顔を上げてレイに話しかける。
「でも、レイさんにかかれば覗き放題ですね」
「それは無理ですわ。今日、兄様からいただいた魔力をほとんどつぎ込んでやっとできましたの」
レイはお盆に映し出される光景から、片時も目を離さない。
「耀様の魔力は凄まじいです」
イオナも顔を上げ、思い出したかのように目を細めた。
「イオナ殿は殿の魔力に当たるのではないか?」
ちらりと視線を向けたミスティの問いに、イオナは少し考え、静かに肯定する。
「どうやらそのようです」
「それって……当たるとどうなっちゃうんですか?」
真由美は不思議そうに小首を傾げる。
「全てを支配されたような感覚に陥ります。耀様の意図によって……欲求が解放されるような形に」
「それで、どうなりますの?」
レイが冷やかすような口調でイオナに問いかけるが、その目はお盆に映る光景から離れない。
「私の場合は……強制的に何度も絶頂を迎えます……」
「えー!私は旦那様の世界でも平気でしたけど」
真由美の無邪気な反応に、ミスティが笑い交じりに口を開く。
「普通は何かしら起こるものじゃよ。真由美殿が異常なのじゃ」
「私は、初めてお会いした時から、見つめられるだけで身体が疼きましたから」
恥ずかしそうにうつむいたイオナを見て、真由美は驚いた表情を浮かべる。
しばらくすると、イオナがいつもの冷静な口調に戻り、真由美に問いかける。
「真由美は耀様の世界に行ったのですか?」
「はい、レイさんに聞いていたとおり、混沌という言葉が相応しい世界でした」
「それで、何を話したんですか?」
「私は伊耶那美さんと話していました。けど——」
「けど?」
「あ、あの……ラウムさんと話しているのが聞こえたんです」
「ラウム様も来られたのですか?」
「はい。旦那様は妻がいる世界に渡れると言っていました」
イオナは人差し指を眉間に当て、記憶を遡る。
「そう言えば、全員で黄泉の国に行った時に帰れなくなりました」
「五人の中に、もう一人の旦那様の妻がいるのですね」
「ミスティ様では?」
お盆に夢中のミスティが答える。
「妾は契を交わしたゆえ、互いに夫婦という認識を持っておる」
イオナは納得したようにうなずき、今日の出来事を振り返る。
「だから従者としたのですか」
「おかしいです!それだとミスティちゃんを連れて行くと戻れなくなります」
真由美が即座に否定し、イオナは驚いたように視線を向ける。
「多分、ミスティちゃんは、旦那様がラウムさんの世界に行くときの従者です」
「地獄へ行かれるのですか?」
「さっきの金髪の美少女が、黄泉の国に攻めてくるって教えてくれました」
「それで、地獄へ?」
「はい、対抗するための、術を得るためみたいです」
「——となると」
イオナと真由美が視線を向けたその先には、目を輝かせながらお盆を見つめるレイがいた。
「凄いですわ……兄様のお尻に容赦なく鞭打っていますの」
「うむ、心なしか殿は喜んでおらぬか?」
興奮気味のレイに、ミスティが苦笑いを浮かべながら問いかける。
「ミスティ、これは兄様が新たな世界を開いたのですわ」
「そうじゃの……妾はアンナ殿の表情のほうが心配じゃが」
「アンナの興奮も最高潮みたいですわ」
ミスティの心配を、レイが笑顔で否定する。
「それなら、アンナ殿も新たな世界に目覚めたのではないかの?おお、殿を仰向けに押し倒したぞ」
「なぁー!ついに始まりますわ!」
レイの声を聞き、イオナと真由美もお盆を見つめる。しばらくすると、リビングにまで艶っぽい声が響き始めた。
「アンナさんのこんな表情初めて見ました……」
真由美は頬を染めつつ、ぽつりと呟く。
「見ている私が恥ずかしくなります……」
イオナも顔を赤らめ、視線を逸らしかけるが、すぐにまたお盆に戻った。
「鍛えておるからか、腰の動きが滑らかじゃの」
ミスティはアンナを褒め称えている。
「アンナはケダモノですわ……」
レイはお盆から目を離すことなく、冷静に言い放った。
それからしばらく、リビングでは誰も声を発さず、ただお盆に映し出される光景を見守る静寂が広がっていた。
「凄かったの……」
「もう終わりでしょうか?」
「アンナがあれで終わるわけありませんわ」
「見ていただけなのに、濡れちゃいました」
真由美の声に、レイが冷やかすような視線を向ける。
「それで、真由美は兄様といたしましたの?」
レイの言葉に、昨晩から昼前まで耀と過ごしていた真由美に全員の視線が集まる。
「いーえ!話を聞いてもらったのは嬉しかったですけど、なーんにもありませんでした!」
「それならさっきので濡れるのも仕方がないの」
ミスティが気の毒そうに声をかける。
「覚悟しろと聞いたので、勇気を振り絞ってスッケスケの下着を着たのに、『大人っぽい』って言われただけでした!」
「もう一人の耀様は、小さい子がお好きなようですが……」
イオナが疑惑を口にすると、真由美も思い出したかのように呟いた。
「そう言えばゾーヤさんも……」
「ゾーヤとは誰ぞ?」
「あっ、旦那様が抱きしめた金髪美少女です!」
「ゾーヤ——東欧に多い名前ですね。『命』を表す言葉が語源です」
真由美はケーキにフォークを入れながら、続きを話した。
「まったく!信じられませんよ。私と伊耶那美さんの目の前で甘い空気を漂わせて、抱き合っているんですから。まあ、胸は私といい勝負だったので、そこは好感を持てましたけど」
クッキーを頬張りながら、レイは天井に視線を向ける。
「あの女は小さいと言うより、幼さがありましたわ」
「やはり耀様には疑惑が残ります……それよりもレイ様、もう一人の耀様の妻は……」
「レイですわ」
イオナの遠慮がちな問いに、レイはあっけらかんと答えた。
「妾かと思っておったが、レイ殿であったか……」
「ミスティもですわ」
残念そうな口振りのミスティだったが、レイの声を聞き、笑顔を浮かべ胸を張る。
「じゃあ、レイさんも……」
真由美はさっきの仕返しとばかりに、レイに冷やかすような視線を向ける。
「レイはいたずらで兄様第二形態を召喚した時に、あの世界に連れ去られましたの」
レイは真由美の視線に答えるように、可愛い笑顔で真由美を見る。
「アンナ様に助けてもらったと聞きました」
「その時ですわ。さっきのアンナのようなことをしている時間も無かったので、お互いの舌を噛み、血を分け合い契としましたの」
「ある意味、激しいですね……」
真由美は両手で腕を擦り、身体を小さくした。
「それからというもの、レイの身体は兄様の血を欲して止みませんわ」
頬を赤らめ、見た目にそぐわない妖艶な吐息を吐いたレイが再び真由美に問いかける。
「そんなことより、さっきのゾーヤは他に何も話していませんの?」
レイの問いに、ジュースで喉を潤した真由美は少し考え込む。
「うーん。特には……あっ、旦那様も、伊耶那美さんも、ラウムさんも、ゾーヤさんを人間だと言っていました」
その話は、耀に絡む神が生身の人間を黄泉の国や耀の世界に送り込んできたことを示している。
その重大さを理解していない真由美を除く全員が、不安な表情を浮かべるなか、レイが首を傾げて真由美に短く問いかける。
「どういうことですの?」
「分かりません……なんでも迷い込んで暗殺者になったとか……」
はっきりとしない話を聞いたレイは、閃いたように目を見開いた。
「分からなければ聞けばいいのですわ。おいでまし、伊耶那美ちゃん!」
レイが手を突き出すと、その先に輝く霧が立ち込め、風に吹かれたかのように霧が晴れると、伊耶那美が姿を現す。
「然ても、第二妻殿。いかが相成られたか?」
伊耶那美がテーブルに置かれたお盆に目を向けると、淡く輝いていたお盆から光が失われた。
「なー!伊耶那美、何をしますの!」
「汝らもまた、君の妻の一人にてあろう。このような振る舞いは、慎まれよ」
「伊耶那美さんの言うとおりですね……」
真由美は反省した様子でうつむくが、イオナは構うことなく疑問をぶつける。
「伊耶那美様、そちらの世界に生きたまま渡る人間がいるのですか?」
「神隠されし子のことと、見受けられるな。稀に、そのような者もおるものなり」
「神隠しですか!」
イオナの疑問が晴れたのか、目を見開き声を上げた。
「では、ゾーヤさんも?」
「然様、他の世界に迷い込みし、神隠されし子にてあろう。違いなかろうな」
「よーく分かりましたわ、伊耶那美……レイは不機嫌になりましたので、もう帰ってくださいまし」
レイの震える声が部屋に響くと、伊耶那美は笑顔で軽い会釈をする。
「では皆々、息災にてあられよ」
レイが鋭く手を突き出すと、伊耶那美の姿は、蒸発するように消えていった。
「あーあ……お願いしたいことあったんです」
真由美の視線を感じたのか、レイはプイと顔を背ける。
「レイの楽しみを奪ったのですわ。仕方がありませんの」
「真由美殿、何を頼もうとしておったのじゃ」
「伊耶那美さんは旦那様の世界に渡れます。なので、たまに旦那様の様子を教えてもらえないかと思って……」
その言葉に顔を真っ赤にしたレイが、真由美に振り向いて声を上げる。
「なー!そんな大事なことは先に言ってくださいまし!」
普段は大人しい真由美が、レイに負けじと言い返す。
「だって、レイさんが急いだんじゃないですか!」
「うむ。今のはレイ殿に否があるの」
諭すようなミスティの冷静な口調が耳に届くと、レイは深く肩を落とし、その背中にイオナが静かに手を添えた。
「終わった事は仕方がありません。後はアンナ様の甘美な唄声とお食事を楽しみましょう」
怒涛の二日間はリビングにまで響き渡るアンナの声と、お菓子をやけ食いするレイの姿で終わりを迎えようとしていた。
その場の全員が忘れているが、耀はこの二日間、まったく眠っていなかった。
翌日、肌を艶めかせ、機嫌よく家事に勤しむアンナ以外の全員で、瀕死の耀を介抱する羽目になるなど、このときは誰も想像すらしていなかった。
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。
休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。
出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。
2025年10月12日、一部修正しました。




