ハラミ定食
耀の胸に頬を寄せたレイは、その心の深淵に届くよう願いながら、静かに語りかけた。
『怖い兄様、愛しのレイにお姿を見せて話を聞いてくださいまし。ついでに面倒を解決してくださいまし』
耀の眼差しから温かさが消え、輝きのない瞳へと変わる。全身は薄く魔力を纏い、それが静かに広がり始める。
気づいたアンナは怒りの形相から、期待に満ちた表情に変わり、イオナは恐怖と緊張に身を強張らせた。
「怖いとは随分な言いようだなレイ。それで、俺はなぜ正座している?」
レイを抱いたまま立ち上がる耀の耳元で、甘く奏でるように語りかけた。
「兄様、お会いしとうございましたわ。まずは寝所にてレイを愛でてくださいまし」
ゆっくりと歩みを進め、ソファに腰を下ろすと、周囲を一瞥した。
「そうもいかない状況のようだが」
耀の膝に座ったレイは、上目遣いでその顔をのぞき込むと、頬を赤らめる。
「そうでしたわ、忘れておりましたの……兄様、これを見てくださいまし」
「——ちょっと待て」
何かを差し出そうとするレイを、耀が静止した。
「真由美、足が痺れるだろう。隣に座れ」
「はい。旦那様」
真由美が耀の隣に腰を下ろし、腕に抱きつくのを見た後、視線はレイに向けられる。
「それで、レイは何を見せてくれるんだ?」
「これですの」
レイから差し出された一冊のノートを手に取ると、懐かしそうに眺め始める。
「これは……よくこんなものが残っていたな……」
ノートを一ページずつめくり、黙ってゆっくりと目を通していく。
ページをめくる微かな紙のこすれる音だけが響くなか、その視線には懐かしさと共に、耀が失ったはずの寂しさが滲んでいた。
耀の腕に抱きついたまま、興味深そうにのぞき込んでいた真由美が、最後のページをめくり終えたのを確認すると、顔を上げて話し始めた。
「なんだか、怖そうな生き物が描いてあるんですね……でも、どこか愛嬌もあって可愛い感じもしました」
耀はその言葉に静かにうなずくと、ノートを閉じてレイを見つめた。
「描き直されているが、俺が想像したものそのものだ。レイが描き直したのか?」
「はい。ミスティと一緒に描きましたの」
「そうか。俺は絵が下手だから思うように描けなかった。レイ、ありがとう」
閉じたノートをレイに渡すと、耀は彼女の頭を優しく撫でた。
「兄様に褒められましたわ」
レイは頬をさらに赤らめながら、恥ずかしさを隠すように耀の胸に顔を埋めた。
その様子を見ていたイオナが、ゆっくりとアンナに近づき、耳元で話しかける。
「やはり、レイ様には甘いですね」
「はい、今日は真由美さんにも甘い気がするのですが……」
「こっちの耀様は、小さい子がお好きなのでしょうか?」
「もしかして……ご主人様、ロリ……」
「アンナ、それ以上言うな」
しばらくの沈黙の後、イオナが納得したような表情を浮かべる。
「——否定もしませんでした」
レイは身を委ねる胸に頬を擦り寄せながら、思い出したように口を開いた。
「ノートのカバーはイオナに作ってもらいましたの」
「そうだったのか、よくできている。タイトルも俺が書いていたとおりだ」
「イオナは褒めてくださいませんの?」
「そうだな。イオナ、こっちに来い」
恐るおそる耀に近づくと、彼の前に膝をついた。
まるで子犬のような姿をするイオナの目には恐怖の色が宿っている。
「イオナもありがとうな」
そう言いながら差し出された手に、一瞬、身体を震わせるが、その手はイオナの頬を優しく撫でた。
指先は冷たいかと思えば、驚くほど温かく、イオナの胸に湧き上がる不安と安心が奇妙に混ざり合う。
次の瞬間、まるで自分が完全に耀に支配されているような錯覚に陥る。
「うちを完全に無視?」
「私達はいったい何を見せつけられているのでしょうか」
苛立ちを隠せず、大きな声を挙げた恵莉華を宥めるように、恵莉華の手を握りながら、知紗も呆れたように言い放った。
知紗の声で、初めてその存在に気づいたかのように、目の前に座る二人に顔を向けた耀は、面倒くさそうな口調でレイに問いかける。
「さて、ついでの面倒事は目の前の女か?」
「そうでしたわ、すっかり忘れていましたの」
相変わらず耀の胸から離れる様子を見せないレイから、適当な答えが返ってきた。
「あははは。なんだか、もう、どうでもよくなりましたね」
真由美も耀の腕にしがみついたまま、突き放すように声を上げた。
「二人とも見覚えのある気もするが……」
そう言って知紗と恵莉華を見る耀の足元では、イオナが骨抜きにされたように這いつくばって、息を荒らげている。
「お前、あの時見逃してやったのに、また絡んできたのか?」
「そんな状況で凄まれても、滑稽でしかないんですけどー」
嘲笑うかのような態度を見せる恵莉華を一瞥した耀は、再びレイを撫で始める。
「俺の見た目はどうでもいい。用件を言え」
「耀たん、今日から私達と一緒に暮らしてもらうわ」
「あんっ、兄様そこはダメですの——」
割って入った知紗の言葉を台無しにしたレイの声に、うなずいた耀が落ち着いた口調で話す。
「そうか、お前ら二人は俺が目的なんだな。それは理解した」
「じゃあ、今日からうちと一緒に甘い生活を送りましょう。こう見えても神の使徒なんだから、なんでも自由になるんだし」
恵莉華の身体を一瞥した耀が、興味なさげに小さくうなずき、諭すように話しかける。
「そうか。だがな、俺にとっては、気立ても、優しさも、激しさも、胸も、尻も、全てアンナが一番だ。お前の出る幕はない」
「ご主人様……私を一番愛しているなんて。人前で恥ずかしいです——」
思わぬ言葉に、アンナは顔を真っ赤に染め、身悶えるようにくねらせ始めた。
「なんなのその言いよう。この時の責任を取ってよ」
見せつけられたスマホの画面には、裸で抱き合う耀と恵莉華の写真が表示されていた。
それを見た耀は、表情を変えず心の中でレイに話しかける。
『レイ、あの機械の写真を消せるか?』
『はい、兄様。今の状態であれば簡単に消せますわ。でも、気づかれないように精霊を動かすには魔力が足りませんの……よよよ……』
『お前は……分かった好きにしろ』
『お任せくださいまし。綺麗サッパリ消してご覧に入れますわ』
耀の胸に頬ずりをしていたレイが、急に顔を上げて、耀を見つめる。
「兄様、もう我慢ができませんの……」
そう言うと、おもむろに耀の頬を両手でつかみ、口づけを交わし始めた。
「あー!レイさん、ずるいです」
隣で声を上げる真由美を無視して、夢中に交わる二人に怒りに満ちた声が刺さる。
「あんた達、バカじゃないの!そんなことしてないで答えなさいよ!」
二人の口づけが、全員の視線を集める中、突き出されている恵莉華のスマホは、まるで、見えない何者かによって、すさまじい勢いで操作されているように、次々と画面が移り変わり、写真の消去のみならず設定すら変えられていく。
レイが口を離し再び胸に顔を埋めると、耀は少し身を乗り出すようにしてスマホの画面を見る。
「その写真の責任を取れと言われても、俺にはどうすればいいか分からん」
それを聞いた真由美が、突き付けられているスマホに視線を向けると「ぶーっ!」と吹き出す。
「何がおかしいの!」
そう言って、恵莉華がスマホの画面を見ると、そこには煌びやかに盛り付けられた、美味しそうなお刺し身の盛り合わせが写っていた。
『兄様、これでよろしいですの?』
『ああ、よくやった。ありがとうな』
『相変わらず、兄様の魔力は芳醇でしたわ。また血を分けてくださいまし』
『そのうちにな……』
「なによ、これ……どうなってるの」
恵莉華は必死にスマホを操作するが、耀と撮った写真は一枚も残っていない。
「耀たん。写真がなくても女性の身体を弄んだ責任は取るべきよ」
諭すような知紗の声に、耀は足元で悶えるイオナに視線を向けて反論する。
「弄ばれるとは、こういう奴を言うんじゃないのか?」
「こんな話が外で広がれば、耀ちゃんだって困るでしょう?だ・か・ら三人で話し合いましょ」
「面倒だから、口封じに殺してやろう。それでいいだろ?」
「いやに決まってるでしょう!」
恵莉華が激昂する一方で、耀は面倒くさそうにため息をつく。
「そうか、ならさっさと帰れ。それと、見てのとおり、俺は若くて元気な女が好きだ」
耀は知紗を一瞥する。
「だから、お前の隣にいる、やつれた年増も連れて帰れ」
「耀たんの妻だったのよ。そんな言い方ひどいじゃない!」
声を荒げる知紗を一瞥すると、呆れたような口調で言葉を吐き出す。
「そうか、老けすぎて誰か分からなかった」
いつに間にか、耀の背後に移動していたアンナが突然抱きつく。
「ご主人様、お願いがあります……」
「待て……この二人が邪魔だろう」
「耀たん!バカにするのもいい加減にして!」
声を荒げる知紗を睨むと、小さな声で呟く。
「——面倒になってきたな」
耀は目を細めて周囲を探るような仕草を見せたあと、少し大きな声で呼びかける。
「ミスティ来い!」
ソファの下から大きな蛇が這い出てくると、イオナの身体に巻きつく。
イオナは身体を一瞬大きく震わせ、意識を取り戻したかのようにその身を起こした。
「完全に正気を失ってしまいました……ミスティ様、ありがとうございます」
「また、その蛇ね!前は逃げてしまったけれど……今の私は違うわ。神の加護を得ているもの」
「知紗の言うとおりだったね。こんなのでうちが逃げるわけ無いでしょ」
知紗はミスティを指差し、余裕の笑みを浮かべ、恵莉華も気に留める様子を見せず、耀に微笑みかけている。
「ミスティ、こいつらを部屋から出すな」
耀の声を聞きミスティはリビングと玄関を隔てるドアの前に移動する。
「それと、この家を取り囲んでいる連中に動きがあれば教えてくれ」
ミスティは鎌首をもたげると、みるみる身体が大きくなり、ラミアの姿となって、ドアの前に立ちはだかる。
「ここは妾に任せ、殿は存分に遊ぶとよいぞ」
ミスティの声に振り向いた二人の目には、ラミアの姿となったミスティが映る。
彼女の異様で巨大な姿を目の当たりにした瞬間、知紗の瞳は恐怖に染まる。口元が震え、やがて耐えきれず、その場に崩れ落ちてしまった。
気丈に振舞う恵莉華も、額からは大量の汗が流れ、小刻みに震える身体を無理に支えながら、なおも背筋を伸ばして耀を睨みつける。
「やっぱ、ここは悪魔の巣窟ね。神の使徒のうちが全部浄化しなきゃ」
「なら、もうひとり悪魔を呼んでやろう。ラウム来い!」
部屋に黒い霧が立ち込め、冷たさとともに湿った気配を漂わせる。
その霧は生き物のように耀の隣に集まり渦巻き始めた。
渦の中に人影が浮かび上がると、一気に霧が霧散し、そこにはソファに腰掛けた初老の男性が現れた。
ただ腰掛ける動作一つとっても、その威厳に恵莉華の心臓は鼓動を早め、視線をそらすことができなかった。
「某の方は準備が整っておらぬのだが……この女、其方に腰を抜かされた、あの神の信徒であるな」
「な、なに……どこから……」
顔は青白くなり、さらに震えが増した恵莉華は、なおも気丈に振る舞っているが、限界が近いのはひと目で分かる程に、憔悴している。
「某は汝ら人間が悪魔と呼ぶ存在。だが、汝が崇める神と本質は変わらぬ」
「そ、そんなの……嘘よ!悪魔なら私たちの神が必ず浄化してくれるわ!」
ラウムは、まるで戯言を聞いたかのように、静かに首を振って呟いた。
「汝らが呼ぶ神と某がなにゆえ、敵対するのであるか……人間の愚かさであるな」
呆れた表情で恵莉華を見ていたラウムが、耀に顔を向ける。
「この女、少し狂っておるのではないか?」
「ああ、そのようだな。生憎ともうひとりの俺が、この女に言い寄られていて困っている」
「其方が消し去れば良かろう」
「自業自得な部分が多くてな、それに俺が女に手を出すのは憚られる」
「やはり、其方は女に甘いようであるな……」
「ああ、それは認めよう。この女二人の俺に関する記憶を消し去ってくれ」
「容易いことであるな」
「ラウム様、その者たちが信仰する神は、私の洗脳を解きました」
「あの爺の眷属と、某を同位に並べるでない」
会話に割って入ったイオナの忠告に、薄笑いを浮かべたラウムの視線が恵莉華に向けられると同時に、恵莉華は意識を刈り取られた。
「さて、空いた記憶を何とかせねば、矛盾に気づき記憶を取り戻す引き金となるが、其方はどう希望するのであるか?」
「——そうだな」
耀はレイの頭を撫でながら、少し顔を伏せ、考えに浸る。
「美味い焼肉を食った記憶がいい。ハラミだ!美味いハラミを食った記憶にしてくれ」
耀の言葉に、ラウムは軽く目を細めて微笑んだ。
「承知した。ついでであるゆえ、信仰の座を神よりハラミに譲っておいた。今日からはハラミを崇めるがよい」
次の瞬間、恵莉華の唇がわずかに動き、「……ハラミ……尊い」と呟いた。その顔には、どこか神聖なものを崇めるような表情が浮かんでいた。
知紗は満足そうな笑みを浮かべて、「……お腹いっぱい……もう食べられない」と呟いた。
そんな二人を一瞥したイオナが、冷ややかな声でラウムに問いかける。
「ハラミを尊び、崇め、祈った記憶になるのですか?」
「然様、この二人はハラミのために生涯を捧げることになろう」
「刺し身といい、ハラミといい、面白すぎます……でも、ハラミに生涯を捧げるのはかわいそうです」
「真由美、あの神とやらに搾取されるより、ハラミに散財した方がいいですわ」
「うーん。そんなもんですか……なんだか焼肉が食べたくなりました」
「真由美さん、明日でいいですか?近頃、脇の甘すぎるご主人様に、今夜はお仕置きをします」
『お仕置き』という言葉が響くや、女性たちの目の奥に潜む好奇心が一気に蘇り、ハラミ信者の存在はたちまち忘れ去られた。
「それは楽しみですわ」
「今日は素敵な音楽を聞きながら、四人でのお食事といたしましょう」
「夕食は私が用意しますので、アンナさんはお仕置きの準備をしてください」
「妾も今宵は酒を嗜もうかの」
耀も満足げにうなずき、アンナの提案に無言で賛同を示す。
「さて、この二人をどうするのであるか?」
ラウムがハラミ信者に視線を向け呟くと、再び彼女たちが注目を集める。しかし、アンナたち五人の妻は二人に対する興味を既に失っていた。
「外に放り出せば、この家を取り囲んでいる連中が連れ帰るだろう」
完全に興味を失った口調の耀を、ラウムが窘める。
「そうもいかぬのではないか?イオナ、この二人に幻覚を見せられるか?」
「はい、少しであれば……いったいどのような?」
「あーそうか。この家は焼肉屋だ」
耀が何かを閃いたように声を上げたのを見て、ラウムが感心したようにうなずく。
「然様、ここでのやり取りは全てハラミを喰った記憶になっておるゆえ」
「アンナ、真由美、見送ってくれるか?」
「承知しました、ご主人様!」
「はい、旦那様!」
リビングを出る真由美に、イオナが耳打ちをすると、「はい」と小さな返事が聞こえた。
玄関へ向かったハラミ信者と、アンナ、真由美を見送ると、ラウムが黒い霧に包まれ始めた。
「某は忙しいゆえ、暇をいただくとしよう。それと、主人よ。従者をひとり決めておいてくれぬか」
「従者だな。分かった」
ラウムが霧と共に消え去るのを見届けた耀の視線がミスティに向かう。
「ミスティ、お前だ」
「承知した」
「兄様、従者とはなんですの?レイではいけませんの?」
「レイはここにいてもらわないと困る。それより、アンナにこれを渡してくれるか?」
耀の手には、いつの間にか手枷と足枷が握られている。
「これはなんですの?」
「見てのとおり手枷と足枷だ。俺の身体にしか使えない物だがな」
「これをどうしますの?」
「付けた者にしか外せないから、存分に仕置きを楽しめと伝えてくれ」
レイの瞳が期待に輝きを増す。
「はい、兄様!では、ごきげんようですわ」
「ああ」
次の瞬間、耀を覆っていた魔力が、その身体に吸い込まれるように消え去り、その眼差しに輝きが戻った。
「どうやら、片付いたようだね。それと僕はお仕置きされると聞いたんだけど……」
「兄様、お覚悟なさいまし」
「ああ、今回の件は完全に僕が悪い。アンナの気が済むまで素直に受けるよ」
——耀の家の玄関が開くと、中からハラミ信者と化した知紗と恵莉華が、アンナと真由美に付き添われて出てきた。
「本当にごちそうさまでした」
「お二人共、お腹いっぱいになりましたか?」
「めっちゃ満足!あんな美味しいハラミ初めて食べたしー」
「それは良かったです。気をつけてお帰りくださいね」
「はい!ありがとうございました!」
「ありがとー!じゃーねー」
二人が歩き始めると、真由美の声が響き渡る。
「外でお待ちのみなさーん!全部丸見えですから隠れても無駄ですよー!」
その声に、周囲が一瞬静まり返り、次の瞬間、ざわつきが広がる。
人の足音が急に聞こえ始め、遠くから窺う目がちらほらと見え始める。
「面倒なことになる前に、お二人を連れ帰ってくださいねー!」
この言葉が響き渡ると、周囲の動きがさらに激しくなり、まるで何かが崩れるような不安定な感覚が漂う。
知紗と恵莉華は、満腹で少し夢見心地のような笑みを浮かべながら、ゆっくりと歩みを進める。
二人の目には、まるで食後の幸福感に浸るかのような無自覚な輝きが宿っていた。
しかし、その傍らに潜む者たちは、次第に自分たちの計画が完全に失敗したことを悟り、顔を見合わせる。そして、確実に状況が崩れつつあることを実感した。
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。
休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。
出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。
2025年10月12日、一部修正しました。




