試練到来
静かな時間に抱かれて、ただ仕事に没頭していたが、気がつくとすでに昼前だった。
空腹を覚えたのと、ずっと静かな二人が気になって、僕は仕事を中断しリビングへと向かうことにする——
「——おっと、そうだった」
僕は、ベッドに置いていた五冊の本を手に取り、部屋を後にした。
「買物は順調だった?」
声をかけリビングに入ると、二人がこちらに気づいて、にこりと笑った。
「兄様、最後に戸惑いましたが、無事にできましたわ。どうか褒めてくださいまし!」
「全部明日には届くようです。これは本当に便利な道具です」
どうやら、僕の心配は取り越し苦労に終わったようだ。
「すごいな。初めてだから心配してたけど、次からも任せて良さそうだね」
うなずきながら話す僕に、レイが遠慮がちに声をかけてくる。
「あの……お願いがありますの……」
「遠慮なく言いなよ。僕にできることならするからさ」
「では、今夜寝室にお伺いします!」
突然、アンナの声が割って入ってきた。
「アンナ!レイがお願いしていますの、口を挟まないでくださいまし」
レイに制止され、不機嫌そうになったアンナに、僕は三冊の本を手渡した。
少し料理ができるようになった頃に、調子に乗って購入した。
しかし、それ以降は電子レンジとオーブントースターしか使わなくなり、一度も開いていない料理本だ。
「僕の部屋に、まだ料理の本があったんだ。アンナに渡しておくよ」
「ありがとうございます」
アンナの表情は、ぱあっと明るくなり、受け取った本を大事そうに抱いている。
「アンナ、良かったですわね」
予想に反して、アンナを羨ましがらなかったレイにも二冊の本を手渡した。
「お茶とコーヒーに関する本なんだ、読んで見るかい?」
少しでも自宅での時間を優雅なものにしようと購入したが、死蔵品となっていたものだ。
「えぇっ!ありがとうございます兄様。これで更に美味しいお茶を、兄様に淹れて差し上げられますわ!」
超薄味……いや、優しい味のお茶が、少しでも美味しくなるよう願いを込めて、レイの頭を撫でた。
「ふわぁ!そんないきなりですわ……」
レイは照れくさそうにソファにバタッと腰を下ろし、貰ったばかりの本を広げた。
本が逆さまだから、照れ隠しに読んでいるフリをしているのだろう。
——そんなレイが、なぜか愛おしく思えた。
アンナはすっと立ち上がり、僕に会釈をする。
「お食事の準備をしますので、しばらくお待ちください」
振り向きざまにふわりとスカートが揺れ、優しい香りが漂う。
キッチンに立ったアンナは、嬉しそうに昼食の準備を始める。
——そんなアンナも、なぜか愛おしく思えた。
ソファでは本に隠れた顔が、ちらちらとこちらを覗いているので、声をかけてみる。
「それで、レイのお願いは何だったのかな?」
「そうでしたわ!兄様、このパソコンを貸してくださいまし」
「気に入ったみたいだね。もともとここに置いておこうと思ってたから、好きに使うといいよ」
せっかく興味を持ってくれたのだから、拒否する理由はどこにもない。
それに、そんな可愛い笑顔で頼まれたら、断れるわけがない——
「はい、非常に興味深い道具ですわ。もっと使ってみたいと思いましたの」
「そういえば、パソコン関係の本も僕の部屋にあるから、好きに持っていくといいよ」
「ありがとうございます。では、午後のお茶をお持ちするときに見せてくださいまし」
ぱたぱたと足音を響かせて、レイもキッチンに向かった。
「アンナ、お手伝いしますわ」
レイはアンナの手伝いを始める。
アンナに言われたとおり、食器を出したりする程度だが、二人とも楽しそうだ。
そんな穏やかで、心があたたまる光景。
——この瞬間、彼女たちが楽しげに過ごす姿は、僕に安らぎを与えてくれるように感じる。
二人は昼食の準備をしながら、楽しそうに会話を続けている。聞こえてくるのは他愛もない話題で、僕のことは一切出てこない。
それでも、時折見える笑顔の横顔が、まるで僕に向けられているかのように思えてしまう。
突然、僕の前に現れたこの状況を、このまま素直に受け入れてしまってもいいのだろうか?
彼女たちはこんなにも楽しそうにしている。それなのに、僕はその光景をただ眺めているだけでいいのか?
けれど、あの光景に加わった僕は、果たして彼女たちに何をしてあげられるのだろうか。
そもそも、こんな穏やかな日常が本当に現実なのか?それとも、僕が見たい夢に過ぎないのだろうか。
もしくは、僕がここにいること自体が幻想なのかもしれない。
——僕はふいに微笑んでしまった。
心の奥底に沈んだはずの何かが、静かに波紋を広げ始める——
幾度も裏切られた幸せを、再び求めるのかと——
気がつけば、二人の声は、どこか遠い世界から響いてくるようだった。
僕一人だけが、底のない水中に沈み込み、彼女たちから静かに引き離されていくような感覚に陥っていく。
「ご主人様……何かお困りごとですか?」
——アンナの声に、僕は現実に引き戻される。
「……いや、少し考え事をしていたんだ」
アンナが微笑みながら、そっと僕の手を取る。
「お食事の準備ができました」
彼女の暖かい手が現実ならば、ここから僕を引き離そうとした原因は、現実ではないと確信できる。
アンナに手を引かれ、僕は慣れた椅子に腰を下ろす。
僕の向かいにはアンナが座り、アンナの右にレイが座る。これが自然と定まった僕たちの席だ。
ありふれた昼食と、ありふれた会話すら楽しげな二人を見ていた僕は、思わず呟いた。
「君たちは幸せなのかい?」
三人の間に静寂が訪れる——何か気まずさすら感じる時間は一瞬だったが、僕には永遠にすら感じる時間だった。
彼女たちが、この言葉をどう受け取るか、少し気になってしまった。
同時に、楽しい空間に、この静寂を作ってしまったことを申し訳なく思ってしまう——
——二人に目を向けると、アンナもレイも食事の手を止め、僕に笑顔を向けていた。
「もちろんです。こうしてお話をしながら、匂いを感じて、味を感じて、三人でお食事ができることに、今は幸せを感じております」
「レイは、兄様の寝顔をこっそり眺めている時が一番の幸せですの。兄様に何かを求めたいなんて思っておりませんわ」
「そうですね、私を受け入れて頂けていることが幸せなのでしょうか……何が幸せというより、今が幸せといいますか——難しいですね」
そう言って笑顔で首を傾げるアンナの隣で、レイが少しうつむき、恥じらうようなしぐさを見せる。
「あの……もちろん、兄様がレイのこと、いっぱい愛でてくれたら——レイ、もっと幸せになってしまいますわ」
「——それは私が先でしたよね」
アンナが冷たい視線を、レイに向けている。
「あーら、デカ尻が何か言ってますわ。兄様、気にせずいただきましょう」
「レイ、やめてください」
レイはアンナの尻をつつきながら、いたずらっぽく微笑んでいる。
アンナもレイの手を払いながら、楽しそうに笑っている。
目の前にいる二人は、こうして何でもない日常を過ごすことで幸せを感じ、それを素直に受け入れているようだ。
——かつて、僕はこの家で別の人と違う幸せを感じていた。
しかし、それは幻想に過ぎず、いとも簡単に脆く崩れ去った時の喪失感は、今でも頭を過ぎり、この家ごとなくしてしまいたいと思うこともある。
あの喪失感を抱えたこの空間で、あの時とは違う幸せが本当に作れるのだろうか?
今の僕が、もう一度それを掴むことなど、許されるはずがない——
今感じているこの安らぎも、ある日突然、音もなく崩れ去ってしまうかもしれない。
その時、僕は果たしてその状況に耐えられるだろうか?
いや、むしろ、この安らぎを失ったときこそ、ラウムの言う通り死を意識することなく、自ら命を絶ってしまうのではないだろうか。
頭の中で無限に渦巻く思考が、出口を見失ったかのように僕を飲み込もうとしていた。
そんな時、優しい声が僕の思考をそっと遮った。
「ご主人様、私たちは私たちなりの幸せを感じています」
「兄様は、今の兄様の幸せだけを考えてくださいまし」
二人はそう言って、優しい目で僕に微笑みかけた。
その優しい微笑みに触れた瞬間、僕の心にくすぶっていた不安や疑念が、まるで氷が溶けるように静かに消え去っていく感覚が広がる。
しかし、その一方で、その微笑みを失うことへの恐怖が、心の奥深くからじわりと顔を出し始める。
正直、僕には『幸せ』というものが何なのか、はっきりと掴めていない。
だが、今はこの安らぎを与えてくれる彼女たちの笑顔のためなら、どんな過酷な試練も乗り越えられる。
今はまだ掴めないけれど、その笑顔を信じてみたい——もう一度、誰かを、そして自分を。
優しい時間が、ゆっくりと僕の中に沁み込んでいった。
その夜、僕は久しぶりに穏やかな気持ちで眠りについた。
——そして翌日の午後。
次々と我が家に運び込まれる段ボール箱を、嬉しそうな二人と、焦るひとりが眺めている。
宅配のおっちゃんは休むことなく、そして忙しなくトラックと玄関を往復する。
「——これはいったい」
「受け取りお願いします!」
宅配のおっちゃんは立ち尽くす僕に、容赦なく受け取りサインを求める。
「あ……ありがとうございました」
「ありがとうございます!」
宅配のおっちゃんに再度お礼を伝え、届いた荷物を見てはしゃいでいる二人に声をかける。
「届いた荷物の整理をお願いできる?」
「お任せください」
「家具の組み立てもできるかな?」
「大丈夫ですわ!」
荷物の処理を二人に任せた僕は、リビングのノートパソコンを立ち上げ、注文履歴を確認する。
「マジかよ——早速試練がやってきたな……」
そこに表示されていたのは——
セミダブルのローベッドと寝具のセット。
ダブルサイズ寝具セット。
数えるのも嫌になるほどの服。
五着のシルクベビードール。
スクロールが面倒になるほどの下着。
神戸牛のリブロースブロック。
近江牛極上のヒレブロック。
三元豚ロースブロック。
松阪牛のハラミかたまり。
——高級な焼肉屋でも始めるのだろうか?
さらに、いつになったら飲み終わるか分からないほど大量の缶ビールとウイスキー。
タイのナンプラー、インドのガラムマサラ、フランスのエシャロット酢。
——多国籍料理店を開店するのだろうか?
机と椅子のセット
……赤マムシ……
画面を凝視したまま、硬直した——
いろんな意味で怖くなって、全てを見ることはやめたが、無情にも合計金額は分かりやすく表示されている。
「——どうしよっかなー」
無意識に出た弾む声の独り言で、現実から目を背けてしまった。
考えても、開き直っても解決策など浮かぶわけがない。
僕は焦りを通り越し、諦めの気持ちが湧いてきて、そっとパソコンを閉じた。
耀の様子などお構いなしに、二人は積まれた荷物を目にして、まるで見つけた宝物を秘密基地に運ぶ子供のように、どこか無邪気で嬉しそうに目を輝かせている。
「うぅん……これは重いですわ」
大きな荷物を持てないレイに、アンナが優しく声をかける。
「私が運びますので、レイは箱を開けて振り分けてください」
アンナはそう言うと、レイが持てなかった荷物を、軽々と片手で持ち上げる。
「凄いですわ——」
「さあ、早く片付けて夕飯の準備をしましょう」
「そうですわ!美味しそうなお肉もありましたわ!」
自室の荷物を運び終わった二人は、残った箱をリビングに運び込み、食品の片付けを始めた。
「アンナ、冷蔵庫に全部は入りませんの」
「ビールは傷みにくいので、お肉など傷みやすいものを入れましょう」
「それならビールは兄様が飲む分だけ冷やしておきますわ」
余程楽しかったのか、あっという間に片付けを終わらせた二人が、ソファで空気の粒を数えている耀に声をかける。
「兄様、片付けが終わりましたの!レイのお部屋もできましたわ!」
「ご主人様、夕飯を準備いたしますので、しばらくお待ちください」
「今日は美味しそうなお肉ですの!」
普段から反応の薄い耀が、影も薄いことに気づいた二人が歩み寄る。
「ご主人様。いかがなさいました?」
「兄様、具合が悪いですの?」
僕は左右に腰を下ろした二人に顔を覗き込まれ、我に返った。
「——いや、想像以上の買い物だったから、驚いていただけだよ」
「想像以上とは、どれくらいですの?」
レイが首を傾げて尋ねる。
「そうだな……今の僕の稼ぎなら、三ヶ月分以上のお金を使ったな……」
「そんなに!」
アンナが焦りの表情を見せる。
「そのお金を……私達がどうにかする事はできませんか?」
「難しいかな……」
レイが何かを閃いたように声を上げる。
「か、返してしまえばいいのですわ!」
「そっ、そうですね!」
アンナも同意してうなずいた。
「いや、それも無理かな……それに、必要な物はいずれ揃えないといけないだろ?早いか遅いかの差でしかないさ」
今の僕には膨大な出費だが、これは一時の問題でしかない。
二人の楽しそうな顔を見れたんだ、そのサービス料だとでも思っておけばいいだけじゃないか。
『大丈夫だよ』二人にそう声をかけようと、顔を上げた瞬間、レイがアンナに声を上げた。
「アンナがいけませんの!アンナが沢山食べ物を選ぶからですわ!」
「レイだって、沢山服を選んだじゃありませんか!それに下着も沢山届いていました!」
口を開こうとした僕の意志は、二人の怒声で押し潰された。
「レイの下着なんて小さなものばかりですわ!アンナの下着なんてひとつで、レイの下着五つ分くらいありますわ!」
「レイの下着はリボンやフリルが付いているので、私の下着より布の量は多いです!」
僕を挟んで繰り広げられる下着戦争に、ただただ、目を泳がせるしかなかった。
「アンナの下着は地味な癖に、布を沢山使っていて勿体ないですわ!全部アンナの胸とお尻がいけませんの!」
「胸とお尻は関係ありません!」
「関係ありますわ!無駄肉アンナ!」
アンナが一瞬固まった——
「何ですって!」
「無駄肉と言いましたの!」
「無駄ではありません。ご主人様への愛が詰まっているのです!」
そんな無駄な争いの真っ只中、何も言い出せずに正面を見据えた僕の目に、漂う黒い霧が映った。
次第に集まってくるその黒い霧——その霧の中心に浮かぶ、不気味な気配。
僕の中で、嫌な予感が静かに芽を出し始めていた——間違いなく空気の読めない悪魔がやってくる。
「心配しておったが、楽しそうであるな」
なぜ、このタイミングでやってくるんだ——そう言いかけた僕より先に、アンナの声が響いた。
「どこが楽しそうなのですか?」
「楽しそうなのはあなたの頭の中ですわ!」
レイの参戦により、無駄な言い争いの矛先がラウムに向いたようだ。
ラウムに手を差し伸べる気はないが、争いが三人になっても解決することはない。
僕は両手で膝を叩いて、勢いよく立ち上がり、驚いた表情で僕に振り向く二人に声をかける。
「ご飯にしよう!今日はお肉なんだろ?」
申し訳なさそうな表情で、アンナが問いかける。
「でも、ご主人様、お金は……」
「支払いまでは二週間くらいあるし、貯金も少しはあるから、何とかなるさ」
レイも申し訳なさそうに、うつむいている。
「兄様、レイの服を売りますわ……」
「——レイ、ごめんなさい」
悲しげな表情を浮かべるレイに、アンナが小さな声で呟いた。
「いいですわ……アンナのデカいだけのパンツなんて欲しがる人はいませんわ」
「——何ですって!」
「本当のことを申し上げたまでですわ!」
「いいえ、レイの服より先に売れます!」
レイの服も、アンナのパンツも、売るのは少し問題があると思うが、その気持ちは素直に嬉しい。
言い争う二人の間に割り込むように、ラウムが僕に声をかける。
「金がないのであるか?」
「そうですの!アンナの無駄肉のせいですわ!」
「無駄ではありません!これは愛なのです!」
ラウムは黙ってうなずき、僕の前に手をかざす。
「何をするんだ!」
嫌な予感がして、僕はラウムに向かって声を張り上げたが、ラウムはまったく気に留める様子もない。
「案ずるな——しばし待て」
僕の目の前の空気がゆがみ、そこから大量の紙幣がパラパラと足元に落ちる。
何もないところから紙幣を出すなんて、ラウムにとっては容易なことだろう。
だが——悪魔が現行の紙幣を持っているなんてあり得ない。
足元に落ちてくる紙幣の音が、なぜか耳に嫌な残響を残した。
「どうしたんだよ。このお金……」
「金がいるのであろう?」
確かに金は必要だが、これは明らかにそれ以上の額だ。それに、入手方法によっては受け取るわけにはいかない。
僕の心中を見透かしたように、ラウムが話しを続ける。
「某がこの世界を見て回るのに必要だと思ったのでな、忘却された財を金に換えておいたのである」
「そうじゃなくて、どうやって手に入れたか聞いてるんだ」
僕の言葉などどこ吹く風、ラウムは悪びれる様子もまったくない。
「なに、五百年近く忘れられていた財物だ、今更誰のものでもあるまい。つまらぬことで某の時間を奪われては敵わぬ」
「盗んだりしたものじゃないんだよな?」
「ただ埋まっておったのだ。それを人間に売り、金に替えただけであって、其方との約定に反するようなことはしておらぬ。某にも目的があるゆえな」
今の口調だと、ラウムの目的は『見て回る』というより、『見届ける』何かかもしれない。
僕の疑念を察したのか、僕への視線を外し、ラウムはゆっくりとアンナの方へ顔を向けた。
その鋭い視線に、一瞬、空気が凍ったように感じた。
「——酒はあるか?」
休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。
出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。