新使徒来襲
突然、頭の中に響いたレイの声に、耀はわずかに眉を動かす。
そんな彼を見て、真由美と伊耶那美の二人は心配そうに声をかけた。
「吾が君よ、いかがなされた?」
「旦那様、どうかなさいました?アンナさんには内緒にしますから、教えてください」
ほぼ同時に耳に届いた真由美と伊耶那美の声に、耀は落ち着いた口調で答える。
「そろそろ戻ったほうが良さそうだ。伊耶那美、備えを頼む。時がくれば呼んでくれ」
「しかと承りぬ」
「真由美、戻るぞ」
「はい、旦那様」
耀の身体から黒紫色の旋風が吹き上がる。真由美の髪が宙に舞い、耀にしがみついたまま、真由美の身体は渦に呑まれていく。身体が圧縮されるような感覚に、思わず目を閉じ、必死に耀の胸を掴んだ。
身体が解放される感覚に、ゆっくりと目を開くと、真由美は耀の部屋のベッドに腰を下ろしている。
窓から差し込む日差しは高く、既に昼に近いことが分かる。
「旦那様、随分時間が経っているようですけど」
「ああ、あの世界は時間の感覚を失わせる」
「そうなのですか……皆さん心配しているかもしれませんね」
じっと部屋の扉を見つめていた耀が、ゆっくりと口を開く。
「何かあったのかと思ったが——どうやら俺の出る幕ではなさそうだ」
「どうしたのですか?」
「俺は自分の世界に帰らせてもらう。真由美、アイツを大切にしてやってくれ」
耀の言葉を聞いた真由美は、表情に影を落とした。
「——はい。話を聞いてもらえて、嬉しかったです」
耀は小さくうなずくと、瞳から闇を纏ったような恐ろしさが消え、いつもの温かい輝きが真由美を見つめていた。
それを見た真由美は、耀に抱きつき、安堵のため息をついた。
耀の鼓動を耳にすると、真由美の胸の奥で張り詰めていた緊張が解け、頬を涙が伝った。
しかし、心のどこか、いや、魂の奥では、恐ろしさの奥に潜む無自覚な優しさと、圧倒的な強者に包まれる安心感をなぜか求めてやまなかった……
だが、それは真由美のために向けられたものではなく、この鼓動の主に向けられたもの——
最後の言葉も『俺』じゃなくて『アイツ』だった。
興味すら持たれなかった——胸にこみ上げる悲しさを、優しい瞳の耀が抱き留めてくれた。
——麗らかな日差しが、春の近づきを感じさせる朝、アンナは耀と真由美が部屋にいないことに気づいた。
「ご主人様と真由美さんは、どこかに出かけたのでしょうか……」
アンナの心に一抹の不安がよぎると、その隙間を埋めるように、耀と真由美の関係が進展していることへの期待が湧き上がる。
耀がついているなら心配する必要はない。
今夜は私が……そんなことを考え胸の中に小さな温もりを抱きながらリビングに入ると、眠そうな顔のレイがソファに腰を下ろし、テレビを観ていた。
「レイ、おはようございます。ご主人様のお部屋がうるさくて寝不足ですか?」
「アンナ、おはようございます。違いますわ。まったく物音がしなくて心配しておりましたの」
レイは眠そうな目を擦りながら挨拶を返してくれたが、テレビから目を離そうとはしない。
「やはりそうですか……どこに行ったのでしょうね?」
「たぶん、伊耶那美のところですわ。真由美は伊耶那美のお気に入りですの」
「それなら、もうしばらく戻ってこないかもしれませんね。イオナさんは?」
「イオナは朝早くにお仕事に出かけましたわ。何やら最近忙しいみたいですの」
アンナはキッチンに向かい、カウンターに置かれた籠を見ると、そこには何も入っていなかった。
「レイ、鶏たちは卵を産んでいなかったのですか?」
「兄様がいないので、全部ミスティにあげてしまいましたの」
相変わらずテレビに夢中なレイに聞こえるよう、少し大きめの声で呟く。
「おかずがありませんね。納豆かけご飯にしましょう」
「それはいけませんわ!アンナ、ちょっと待ってくださいまし、ミスティから返してもらいますわ!」
レイはソファに身を沈めていた姿勢から、猫のような素早さで立ち上がり、部屋を飛び出していった。
笑顔でその後ろ姿を見送ったアンナは、冷蔵庫を覗き込む。
「レイの好きなオムライスを作りましょうか……」
そう呟くと冷蔵庫から三個の卵を取り出した。
——家事もひと段落つき、ティーカップを前に、アンナとレイはリビングで寛いでいた。
「もうそろそろお昼ですが、ご主人様はまだ戻られないのでしょうか」
「きっと真由美と盛り上がっているのですわ」
「ご主人様はいつも、何かしらのトラブルに巻き込まれてしまいますから……心配になってきました」
「アンナ、大丈夫です……わ……」
レイがふいに窓の外に視線を向ける。アンナも何かに気づいたように、ほぼ同時に同じ方向に顔を向けた。
「どうやら、厄介事が来たようですわ」
「ご主人様の前妻と、もう一人いますね」
「この気配は……兄様を襲った連中の中にいた、あの女ですわ」
「この家が目的で間違いないでしょう」
アンナが言い終わるのと同時に、甲高いチャイムの音が容赦なく響き渡った。それはどこか冷たく、非情な音に思えた。
「どうしますの?アンナ」
アンナは静かにソファから立ち上がると、一瞬だけレイに視線を投げた。その目にはわずかに怒りの色が宿っている。
「用件だけ伺いましょう」
そう低く呟き、慎重な足取りで玄関へと向かった。
リビングのソファにはアンナとレイ、そして向かい合うように、知紗と恵莉華が腰を下ろしている。
「耀ちゃんを迎えに来ちゃった。今日から耀ちゃんは、うち達と暮らすことになりました」
恵莉華の突拍子のない言葉を聞き、アンナとレイは呆れたような表情を浮かべる。
「胸に栄養を取られ過ぎて、頭がおかしくなったようですわ。いい病院を紹介いたしますわ」
頭を押さえるレイに向かって、知紗が口を開く。
「あなた方では、耀たんを幸せにするのは無理でしょう?私達に任せて、あなた方はここで指でも咥えていてください」
「おかしなことを言いますね……ご主人様を見捨てたのはあなたではありませんか?」
アンナの余裕を含んだ声が、知紗の主張を真っ向から否定する。
「ともかく、耀ちゃんを出してくださいね」
「あいにく、兄様はお出かけしておられて、ここにはおりませんの」
「いいえ、昨日からどこにも出かけていないのは確認済みです。嘘はいけませんよ」
アンナとレイは正面の二人に顔を向けたまま、視線を合わせる。
この家は監視されている——その理解は一致したようだ。
「本当にいないのです」
「神の使徒になっちゃったうちには、見通せちゃうんですよー。嘘わダ・メ・」
人差し指を立て、ウインクを送る恵莉華に、レイは呆れた声を向ける。
「たとえこの場にいましても、兄様は拒否されますわ」
「それはどっかなー?」
「これはね、神の啓示なんだってばー?『契を交わした者同士は、一生くっついて暮らしなさい』って!」
「契を……交わした……」
アンナの目から光が消え始めるのを見たレイが、咄嗟に口を挟む。
「元夫婦なら、それくらいの事はあって当然ではありませんの?」
アンナの目が見開き、瞳に光が戻ったのを見て、レイは胸を撫で下ろす。
次の瞬間、恵莉華がスマホの画面を見せつけてきた。
「じゃーん!」
画面には裸の耀と恵莉華が映っている。
耀の無表情さがかえって異様に映り、恵莉華の満足げな笑みがその異様さを際立たせている。
イオナの家にあった耀の寝室の乱れた見覚えのある寝具が、そこで起きた出来事を暗示している。
そして……アンナの顔から表情が消え、そこにはただの虚無が漂っていた。瞳に戻っていた輝きも、もはや完全に失われてしまった。
『まずいですわ、アンナが暴走してはこの場が不利になってしまいますの……』
わずかな冷静さを辛うじて保っているアンナの、低く躍動感のなくなった声が、ゆっくりとした口調で紡がれる。
「レイ、まずはイオナさんをすぐに呼んでください……連絡は取れるのでしょう……」
「任せてくださいまし。アンナはそこから動いてはいけませんの」
レイが戻る頃には、リビングには不穏な沈黙と、形ばかりの押し問答が漂っていた。
レイに呼び出されたイオナが、慌ててリビングに駆け込んできた。そして、息が上がった声で話す。
「いったい何があったのですか?恵莉華……あなた……」
イオナは恵莉華の瞳が明らかに変わっているのに気づき、目を見開いた。
「あんたの術なんて、神にかかれば簡単に解除できるんだから。まだ暗示にかかっているとでも思った?」
「紛い物でも、神は神ということですか……」
「悪魔に魅了された女は、うちが浄化しちゃうぞ!」
ケタケタと笑う恵莉華に、怒りのこもった目を向けるイオナの左肩が力強く掴まれた。
「アンナ様……痛いです……」
「イオナさん、あの写真はどういうことですか?」
アンナの震える指が差す恵莉華のスマホには、先ほどの画像が映し出されていた。
「いったいどういうことです、恵莉華!あなた、あの日何をしたのですか!」
「えー?見てのとおり、やっちゃいましたぁ。神の祝福、ってやつ?」
恵莉華は小さく舌を出し、わざとらしい仕草で肩をすくめた。
「もっと面白い写真もあるけど、見せちゃおうか?」
挑発と勝ち誇った余裕に満ちたその言葉が場に落ちると、瞬間、静寂が支配した。
恵莉華の楽しげな笑みが、場の緊張をさらに煽るように映え、その表情を見たイオナは、膝から崩れ落ちた。
胸の奥がえぐられるような後悔が押し寄せ、息が詰まりそうだった。
あの場を作ってしまった軽率さ、神の力を侮った愚かさ、そして計略に溺れた自分自身への嫌悪が、鋭い棘のように心を刺し続けていた。
「申し訳ありません……アンナ様。あのような事になっているとは……」
イオナは震える手で顔を覆い、すすり泣きの声を押し殺そうとしたが、それは叶わなかった。
「イオナさん、あれは事実なのですか?」
「事実もなにも、写真残ってるしー」
その声の主に、アンナの鋭い視線が向けられる。
「あなたには聞いていません!」
「イオナさん、どうなのですか?」
黙ってやり取りを見ていたレイはため息をつく。
『このままでは収拾がつきませんわ。兄様に戻ってきていただきましょう』
胸の前で手を組み、静かに意識を集中する。
『兄様、どこに居るか存じませんが、すぐに帰ってきてくださいまし、面倒なことになっておりますの』
ますます声を張り上げ始めた周囲と、アンナの暴走が近いのを感じ取り、さらに意識を集中する。
『兄様、早く……早く帰ってきてくださいまし』
——混沌の様相を帯びてきたリビングのドアが突然開かれた。
「——ただいま」
その声と同時に、耀とピンク色のキャミソール姿で、耀の腕に抱きついた真由美が入ってきた。
薄布越しに透けた肌が、思わず視線を集めてしまう。
「真由美、人前で大胆ですわ……お胸が透けていますの……」
「ごめんなさい……ずっとこの格好でしたので、気づいていませんでした……」
真由美は顔を赤らめ、恥ずかしそうに耀の後ろに隠れた。
「——知紗……恵莉華……」
耀が視線を向けた先に座る二人を見て、思わず名前を口にする。
すぐに部屋を一瞥するが、目の前の光景を処理しきれなかった。
アンナの怒気をはらんだ視線、期待に満ちたレイの笑顔、泣き崩れるイオナ、優越感に浸る知紗、そして挑発的な笑みを浮かべる恵莉華……
いったい何がどうなったら、こんな光景が生まれるというのか。目の前の現実が、現実とは思えなかった。
巡る思考を遮るように、アンナの低く抑揚のない声が響く。
「ご主人様、そこに直ってください……」
「はい?」
「お伺いしたいことがありますので、そこに直ってください!」
言葉と同時に放たれたアンナの鋭い覇気と押しつぶされそうな威圧感を受け、彼女の怒りを理解した耀は、床に正座し、姿勢を正す。
そして、頭の中はフル回転し、アンナの怒りの原因を必死に思い返している。
「あの写真はどういうことですか!」
震える手で指す先には、笑顔の恵莉華が手にスマホを掲げている。
その画面には、あの日、あくまで恵莉華の要求に応じただけで撮られた、例の写真が表示されていた。
「あっ……恵莉華、それを見せたのか?」
「そうよ。耀ちゃん、今日から私達と一緒に暮らしましょうね」
恵莉華はあざとく小首を傾げ、色気のこもった笑顔を向けてくる。
「なぜそうなる!」
「耀たん、男なら責任を取るべきでしょう」
知紗は恵莉華を後押しするように、優しい笑顔で諭すような言葉を投げかけた。
「知紗は黙ってくれ」
「いいえ、黙らないわ。私も耀たんを取り返すチャンスだもの」
「どうなんですか、ご主人様!」
アンナの低い声が響き、部屋の空気が一瞬で張り詰めた。
「いや、恵莉華が使徒になるために必要だから抱いてくれと言われたけど、写真だけで勘弁してもらったんだ」
「なぜ服を脱ぐ必要があったのですか!本当のことをおっしゃってください。怒りませんから!」
怒りに震えるアンナの声に圧倒されつつ、なぜか耀の隣で正座していた真由美がそっと手を挙げた。
「あ、あの……その日はそんなことしていませんよ」
「いいえ、やっちゃったわよ。この写真が証拠ですー」
恵莉華が画面を見せつけるように突きつける。
「服を脱いだのは事実でしょうけど……あの日、二人が帰った後、寝室を片付けたのは私です」
艶っぽい見た目に沿わない、真由美の落ち着いた声が場の空気を変え、視線が全て真由美に向けられる。
「私——匂いに敏感なんです。なので、そんなことをしていたらすぐに分かります。でも、あの日はそんな匂いがせず安心したんです」
一瞬静寂が訪れる。誰もが真由美の言葉を反芻し、状況を整理しようとしていた。
「匂いで分かるわけ無いでしょー。変なことを言っちゃダメよ」
慌てて恵莉華が真由美の言葉を否定するが、真由美はすぐに反論する。
「いいえ、男の人の……その、あの匂いは独特なので、絶対に分かります」
「抱いたかどうかより、なぜ服を脱いだのかを聞いているのです!」
予想だにしなかった論点のずれに、真由美は思わず声を上げてしまう。
「えーっ、大事なのはそっちですか?」
「ご主人様、答えてください!」
「なんでだろうな……なんとなく言いくるめられたような記憶はあるけど」
「耀ちゃんひどいわ。私の身体を弄んだのね」
「耀たん、責任を取るべきよ。まずは場所を変えて、三人でゆっくり話しましょう」
「まずは答えてください、ご主人様」
「皆さんで旦那様を責めないでください。まだ昨夜から一睡もされていないのです」
真由美の言葉を聞いた恵莉華が、わざとらしく泣き真似をする。
「寝ないで昼前まで……耀ちゃん私のことを忘れていたの?酷すぎるわ……ぴえん超えてぱおん」
「耀たんのぱおんなら、私は一日中でも相手してあげるわ」
ソファに深く腰掛け、静かに成り行きを見守っていたレイが頭を抱える。
『まったく収拾がつきませんわ。こうなったら奥の手を使うしかありませんの……あっ、そうですわ!』
騒ぐ大勢とすすり泣く一人を尻目に、レイは自分の部屋に戻ると一冊のノートを手に再びリビングに戻ってきた。
そして、イオナに何か声をかけると、イオナは泣くのを止め、ゆっくりと立ち上がった。
その様子を見て笑みを浮かべると、耀の前に歩み寄る。
正座している耀と視線を合わせるように膝を落とし、耀にだけ聞こえるように小さな声で話し始めた。
「兄様、少し失礼いたしますわ」
「あいつの出番か……僕は頼りないな……」
「違いますわ、時には問題を力で強引にねじ伏せることも必要ですの。兄様は優しすぎるので、難しいのではありませんの?」
「——レイに任せるよ」
「はい、任されましたわ」
レイはひしと耀に抱きつき、ぴたりとその胸に頬を寄せる。まるで、その胸の奥に潜む存在を確かめるように——
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。
休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。
出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。
2025年10月12日、一部修正しました。




