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世界を渡りし者

伊耶那美(いざなみ)と真由美は、あらゆる色の魔力が、ただ静かにいくつも渦巻き動いている空間で、向かい合っていた。

塞ぎ込んだような様子を見せる真由美に、優しい視線を送っていた伊耶那美が、ふいに口を開く。


「真由美殿。()()の依代となったこと、忘れぬ。誠に、ありがたきことであった」


伊耶那美が軽く会釈をするのを見て、真由美は慌てた様子で声を上げる。


「えっ……私は何もしていませんけど」

「否……巫女とは本来、斯様なるものなり。己が身を依代とし、神を降臨せしめる役目を負う者なればな」

「そうなんですか……お役に立てたのであれば良かったです」


深くうなずき、包み込むような優しい目で、真由美を見つめる伊耶那美が、穏やかな口調で話を続ける。


「真由美殿、吾が言の葉に、少しばかりでも耳を傾けてみるがよい」

「はい、何でしょう」

「汝が負いし心の傷と、その深き闇は、生涯拭い去ること叶わぬであろう」

「はい……分かっています」


うつむき唇を噛みしめる真由美を見て、伊耶那美はゆっくりと、しかし力強く言葉をつなぐ。


「されど、真由美殿は、幸せを覚えておらるるや否や?」

「幸せです……でも、穢れた身の私がこんな充実した日々を送っていいのかと」

「親御の件にてあるかや?それにてあらば、吾が(きみ)がいずれ成されようぞ。かつ、穢れたる身とは、かくの如きものを言うなり」


突然漂い始めた腐敗臭に気づいた真由美が、伊耶那美に目を向けると、その身体(からだ)の半分が腐敗し蛆がたかり、一部は骨が露出した。

顔は片方の眼球が頬の辺りまでこぼれ落ち、頭蓋骨が覗いている部分もある。そして、足元には体液のようなものが滴り落ちている。

真由美は恐怖の表情を浮かべ、目の前のおぞましい伊耶那美の姿に胸が激しく鼓動し、手に汗を握り、この場から逃げ出そうと、咄嗟に身体を動かそうとした。

しかし、恐怖に腰が抜けたのか、思うように身動きがとれず、這うように後ずさりするのが精一杯だった。


「吾が君は、この穢れたる身を抱き寄せ、口づけを交わし、吾が身体を美しく仕立てられた。吾は、君の命が尽きぬ限り、妻としてその傍らに寄り添い、力とならんと心に誓うたなり」


伊耶那美は元の美しい容姿に戻り、真由美に優しい瞳を向けている。


「吾が君の運命とは、過酷なるものと思うておる。それもまた、あの狂おしきまでの強さゆえに与えられし、魂への試練と言うべきものなり」

「あ、あの……未来が分かるのですか?」


息が上がった真由美が、必死に平静を装いながら、震える声で問いかけた。


「吾のみならず、あのラウム殿も、察しておるに相違あるまいな」

「あの——旦那様は一度死んだと聞きました」

「吾が君は、魂のみの存在となりて、一度果てたる身を今一度用いておられる。されど、あの身は、まこと厄介なるものなれば」


思わせぶりに視線を背けた伊耶那美に、食い下がるように真由美が身を近づける。


「その『厄介な身』とは、どういうことですか?」

「理を尽くして語ることは叶わぬが、真由美殿を支え、未来を示すは、紛れもなく現世の君にてあろう。さらに、真由美殿に寄り来る有象無象の徒を、ことごとく退けるは、常世の君の他にはおらぬ。真由美殿の存在こそが、その君を助けることとなるなり」

「そうなのでしょうか?それに、私は旦那様に何もできません」


小さくため息をついた真由美の頬を、伊耶那美がそっと撫でる。


「吾が君は、対価を求めることすらなされぬ。いや、君への対価となりうるものが、現世に存在せぬと——そういう方が、むしろ正しきかもしれぬな」

「では、私はどうすればいいのですか?旦那様のために何をすればいいのですか?」

「現世にて、君の傍らを離れぬこと——それのみで十分なれど、頼るべきときは、第二妻殿(だいにさいどの)に頼み給え」

「レイさんですか?」


伊耶那美の口から出た名は、真由美にとって意外な名前だった。

耀と床を共にすることが多く、他の妻たちの面倒見のいいアンナではなく、レイを頼るように言われた。

普段から好き放題に振る舞うレイを頼ることが、真由美には不思議に思えた。


然様(さよう)、第二妻殿と常世の君とは、心の奥深くにて結ばれておる。加えて、現世の君の御心をも、深く心得ておるな」

「そう——なのですか……私もそうなれるでしょうか」


あのように振る舞うレイが、心の奥深くで耀とつながっている……信じられない反面、羨ましくもあった。


「現世の君にてあれば、成り得るであろうな。常世の君は、生ある真由美殿が相対し得るものにあらず。吾も、真由美殿を信じておる故、常世の君に頼み難き助けが要るのであらば、乞うてみよ。決して、ひとりで抱え込むことなかれ。それは、真由美殿の魂に隙を生じさせ、良からぬ者を招き寄せることとなろうぞ」

「はい。お母さんとはこのような存在なのでしょうか……」

「吾が母にてあるならば……君は、父となられはせぬか?」

「それはダメです。それならお姉さんですね」


焦って手をひらひらと振る真由美を見た伊耶那美は、穏やかな笑みを浮かべながら一歩近づいた。

その仕草に安心したのか、真由美の表情にも自然と柔らかな笑顔が浮かび、ふたりは言葉を交わさずとも通じ合うように、静かに笑い合った。


二人がそんな話をしている頃、少し離れたところでは男同士の会話が始まっていた。


其方(そなた)に頼みたきことがあるのだが」


目を閉じたまま、ただそこに佇む耀の顔を覗き込み、ラウムが話しかける。


「なんだ?」


少し目を開け、相手のいる位置を確認するかのように視線を動かした耀は、短い言葉で返事をすると再び目を閉じた。


(それがし)の世界に来てはくれぬか?」

「何のために?」

「某の世界を統べる者が、其方に会いたいと申してな」

「断る」


その言葉ははっきりと力強く、ラウムの言葉を遮るかのように響いた。


「そういうと思っておったが、某の顔を立てると思って飲んでは貰えぬか?」

「立てたお前の顔が俺に何をもたらしてくれる?」

「其方、この世界にひとりでおるのであろう?」

「ああ、それが俺の望みだからな」

「精神世界とはいえ、伴侶の一人でも欲しいとは思わぬか」

「思わん」

「それが、異形のものであってもか?」


耀の眉が一瞬動き、目がゆっくりと開く。


「異形?」

「然様、そなたは人間というものを端から気に食わぬのであろう?であれば人で無きものならどうかと思ったのだ」

「ミスティのような存在か……悪くはないかもしれんが断る」

「なにゆえであるかな?」


小さく息を吐き、我儘な子供をあやすような声で話しかけるラウムを、再び耀の言葉が遮る。


「——面倒だ」

「其方は孤独を求めるのであるな」

「違う。ここに溜まった魔力を制御しなければ、この肉体はもたないからな。今は集中したい」

「然様であるか。これが人間の精神世界として存在することが、既に理解を超えておるな」

「やっとアイツが手に入れた家族のためにも、俺はこれを抑えなければならない」

「自己犠牲ということであるな」

「いや、この世界を俺は気に入っている。アイツは家族との生活を大切にしている。単に利害が一致しただけだ」

「某には魔力を持て余しているようにしか見えぬが?」


そう言って周囲の光景を見回すラウムは、呆れた表情を浮かべていた。


「そんなことはない。渦にすることで圧縮している。そうすることで一度に使える量を増やすことができる」

「それで何かを成すつもりであるか?」

「アンナの槍を創れたな」

「ほう。武器を創造することができるのであるか」


ラウムは右手で顎を撫でながら、耀に感心したような視線を向ける。

人間の世界にありながら、この男の思考と行動は、これまでの概念者のそれをも凌駕するようだ。

そもそも自力で魔力を生み出し、それで自らの世界を創り出した者など聞いたこともない……

恐らくこの男を敵に回せば、現実世界であっても概念世界であっても容易に蹂躙するのではないだろうか。


敬愛の眼差しを向け、耀の姿を見たラウムは、ため息をついた。

その感情の奥底には、未完成でありながら、さらに磨き上げようとする目の前の男に対する尊敬と嫉妬、そして同じ概念者としての誇りをかすかに揺さぶられる感情が入り混じっていた。

そして、彼の秘めた力を見抜き、その存在に深く魅了された自分への自負が胸に満ちていくのを感じた。

思考に耽るラウムに、耀はゆっくりと落ち着いた口調で語りかける。


「さっき伊耶那美を呼んだように、俺の妻が存在する世界であれば、繋げることができるようになった」

「それはともかく、人間の住む現実世界と、概念者の住む世界を繋げるのは容易ではないのだが」

「圧縮していたからこそできたんだろうな」

「ほう、それは興味深い」

「圧縮した魔力を使うことで、現実と概念世界を繋げられた」


目を閉じたまま、表情も変えず淡々と口にしたその言葉は、自力でそのことを知り実行した耀の熱心さと、単にこの世界に佇んで過ごしているわけではないことを物語っていた。


「某も召喚ではなく、肉体ごと人間の世界に渡れるのであるな」

「望むならそうするが」

「否、遠慮しておく。自由に行き来できる今の状態が良いのでな」

「確かに不便ではあるな。自分の世界に身体ごと入ったのは初めてだが、元の世界に戻れるか不安でもある」

「それは案ずることではなかろう。妻がいる世界とは繋がるのであろう?」

「ああ、双方の認識が一致していれば大丈夫なようだ」

「しかし、この世界に番人を置かねば、其方が他の世界に繋げるたびに、迷い込むものがおるのではないか?」


ラウムの視線が伊耶那美と真由美の方に向けられた。

その視線は鋭く、まるで隠された『何者か』を見透かすかのように、空間の一点を射抜いた。

その視線に気づいたのか、真由美は不安げに周囲をキョロキョロと見回し、伊耶那美は目を閉じて意識を集中させている。


「ラウムも気づいたか、伊耶那美とともに来た者がいるな」


頷くラウムと同じ方向に耀の視線が向いた。


「伊耶那美!」


その声と同時に、突然見開いた耀の瞳が捕らえた視線の先に立つ伊耶那美の足元から、一本の腕が湧き出し、何者かを捕らえていた。


「離して……お願い……あなた達に伝えたいことがあって来ただけ……」


太く力強く伸びた腕には、金髪の女が首を掴まれ、身体を宙に浮かせている。

耀の視線に気づいた伊耶那美が、その女を離すと、腕は崩れるように消え去る。


「さっきの腕はなんですか?」


震える真由美の声に、伊耶那美が落ち着いた声で応える。


「先ほど滴りし吾が腐汁を、ただ腕へと変じたるまでのことなり。真由美殿が恐れを抱くには、及ばぬこと」


その女はショートカットの美しい髪と、透き通るような白い肌で、その透明感が、まるで白磁のように光を反射している。

痛みに耐えながら首を押さえ、膝をつき、うなだれて咳き込む女に、耀が歩み寄る。


「お前、死にに来たのか、俺の女になりに来たのかどっちだ?」

「この女子(おなご)黄泉(よみ)の国にて君を襲いし者にてあろうな」


伊耶那美の言葉に、耀は小さくうなずいた。


「どっちも違う……伝えたいことがある。備えて欲しい……」


伊耶那美は首を傾げると、目線を女に合わせて話しかける。


「まずは己が名を明かしてみせよ。その後に、話を聞き入れてやろうぞ」

「ゾーヤ」

「ゾーヤとやら。『備えよ』とは、いかなる意にて申されたのか?」

「ひと月後、黄泉の国に侵攻する。その世界を支配して、人間の世界への道を作る」

「概念世界同士の争いとなるのであるか……今までは考えられぬことであったが……」


頭を抱えるラウムがふとゾーヤに目を向けると、何かに気づいたかのように目を見開いた。


「——汝は人間であるな」

「ラウム殿も、気づかれておるか。吾もまた、それが何とも不思議でならぬのである」

「私は変な世界に迷い込んで、その世界の王に仕える暗殺者になった」

「なんだか物騒なお仕事ですね……」


真由美の声にうなずいた伊耶那美が、ゾーヤに鋭い視線を向ける。その威圧感にゾーヤは身をこわばらせた。


「それにて……さては、吾が君を再び襲う機会を窺うておったやもしれぬな」

「ち、違う!見逃してもらったから、そのお礼に、この話を伝えに来ただけ」

「どれほどの数が侵攻してくるんですか?」

「おそらく二万程度。賢者様が黄泉の国への道を開く準備を進めている」


何気ない真由美の疑問に対する答えが、想定を超えていたのか、沈黙が辺りを支配する。


「伊耶那美、大丈夫か?」

「予め思うておった倍の数にてあるゆえ、今は何とも言い難きなり」

「其方、某の世界に来て、いくつか術を得ぬか?身体の強化も今より効率よくできるようになると思うが?」


割って入ったラウムの言葉に、耀は視線を向けた。


「そうか……無駄になっても備えておくに越したことはないな」

「然様、こちらの準備が整えばすぐに迎えに参ろう」

「結果的にお前の顔を立ててやるんだ、できるだけ早く頼む」

「承知した。では某は準備に戻るゆえ、暇をいただくとしよう」


黒い霧に包まれ消え去ったラウムを見送ると、耀は座り込むゾーヤに視線を合わせ、優しい目を向ける。


「ゾーヤ、死ぬか俺の女になるかの二択しか聞いてない。どっちかで答えろ」


声の主を見たゾーヤは、恥ずかしさを隠すように目を逸らし、頬をほんのりと赤く染めると、小さな声で答える。


「死にたくないから、女になる……」


瞬時にゾーヤを抱き寄せ、何かを探るかのように目を見つめてくる耀の瞳を、頬を染め見つめ返すゾーヤだったが、その視線の鋭さへの畏怖と真剣な眼差しへの期待、何より恥ずかしさからふいに目を逸らしてしまう。


「まだ覚悟が足りないな。殺しはしないから今日も去れ」

「優しい……」

「優しくはない。お前の瞳に光が宿っていなければ殺していた」


ゾーヤは耀の首に抱きつき、唇を頬に軽く押し当てた。耀は互いの耳元に口が寄るようにゾーヤを抱き留める。


「ゾーヤ、歳を取らなくなったんじゃないか?」


身体を強張らせていたゾーヤだったが、思わぬ優しい口調に、自らの腕を耀の背中に絡ませる。


「うん。あの世界に迷い込んだ時、何かされた」

「何をされたんだ?」

「分からない。人間であって人間でない」

「それは、どういう意味だ?」

「私は世界を渡れる。でも、人間のいる世界だけは行けない」

「世界を渡れる?」

「うん、知っている世界には自由に行ける。でも十人くらいしか連れていけない」

「なぜ、そんなことができる?」

「分からない、でも違う世界に一度でも迷い込んだ人間は、できるようになるって」

「誰が言ってたんだ?」

「あの世界の王に仕える賢者様」

「そうか、よく教えてくれたな」

「うん。名前教えて」

「俺は相葉耀だ」

「耀の女だから、ちょっと教えた——」


その後、互いの耳元で何かを囁き合ったあと、上目遣いで耀を見つめ、一瞬の微笑みを残して去っていった。

その余韻を惜しむかのように、甘い空気が静かに漂い、まるで時間が止まったような感覚を与える。


「吾が君よ、そのような振る舞い、吾の目前にて為すべきことではなかろうな」

「私もアンナさんに言いつけます」


急に不機嫌な様相を見せ始めた二人に、ゆっくり歩み寄る耀。その頭に、突然レイの声が響く。


兄様(にいさま)、どこにいるか存じませんが、すぐに帰ってきてくださいまし、面倒なことになっておりますの』


その声はただならぬ事態が起こっているかのように、声の奥に隠しきれない不安がにじみ出ていた。

さらに焦りを隠せない声で乞うような言葉が続く。


『兄様、早く……早く帰ってきてくださいまし』


耀の表情が固くなったのに気づいた真由美が、心配そうに顔を覗き込んだ。


「旦那様、アンナさんには黙っておきますから、心配しないでください——」

お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。


休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。

出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。


2025年10月9日、一部修正しました。

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