真由美
イオナと共に黄泉の国から戻ってきた耀は、ベッドに腰を下ろし、ひとり物思いに耽っていた。
その姿はいつもと違い、瞳に輝きはなく、身体の周りには薄っすらと魔力を纏ったままだ。
真由美の話を聞くとは言ったものの、この後何を話されるのか、それにどのような態度を取ればいいのか、想像すらできない。
考えたところで、何ら解決できることではないが、現実世界にいると、真由美がなぜ話をしたいのか、その理由を考えてしまう。
普段いる自分の世界では、身体などなく、ただ意識があるだけで、他人のことなど考えず、自分の思いに浸るだけの時間を過ごせる。
だが、身体があると、それだけで、思考が他人にも向いてしまうようだ。
くだらないことを考えていたら、ふいに部屋の扉が開かれた。
「兄様、お怪我をなされたと聞きましたわ」
そう言って、耀のもとへ歩み寄り、ベッドに腰を下ろした。
「レイか、不慮の事故に遭った」
傷口を見たレイは、目を輝かせた。
「酷いお怪我ですわ……」
レイは頬を染め、耀の傷口に唇をつける。
「くすぐったいな」
その声に、レイは顔を上げて微笑んだ。
「兄様、傷が深いですわ。奥の方までレイが舐めて差し上げていますの」
「そうか、悪いな」
レイは優しい瞳でうなずくと、再び口をつける。
二人の呼吸だけが聞こえる部屋で、何かを確かめるように、レイは耀の傷を貪る。
一瞬、レイは小刻みに身体を震わせ、耀に身を預けた。
「これで、すぐに治りますわ」
「すまない」
少し落ち着いたレイが、顔を上げた。
「兄様、愛しのレイに口づけをしてくださいまし」
耀がレイに唇を重ねた瞬間、彼女は耀を逃さないようにしっかりと頭を抱きしめる。
しばらくすると、レイは満足した顔で、耀を離した。
「レイ、俺の舌噛んだだろ」
「はい、噛みましたわ。他の女の爪で怪我したと聞いていますわ」
「そうか——」
レイは耀の顔を見て、微笑む。
「兄様がどこでどんな女と戯れようと、レイは許して差し上げますわ」
「そうか」
「でも、不慮の事故などとおっしゃる程度の女を愛でるのは、許しませんの」
「悪かったよ」
「それと、妻として申し上げますわ」
「なんだ?」
「もうすぐ真由美が来ますの。余計なことを言わずに、話を聞いてあげてくださいまし」
「分かった。レイの言うとおりにする」
「はい。それでこそレイの夫ですの。では、真由美を呼んできますわ」
そう言い残して、レイは部屋を後にした。
普段の暗い世界に慣れているせいか、照明の明かりがやけに刺さるように思える。
ふと、いつもの暗闇が恋しくなり、照明を消して真っ暗な部屋のベッドにひとり佇んでいた。
扉の向こうに人の気配を感じたが、躊躇しているのか何の動きもない。
しばらくの間をおいて、扉がノックされた後、少し開いた隙間から、暗い室内を覗き込む目が見える。
「——旦那様」
扉の隙間から遠慮がちな声が届いた。
「入ってこい」
短く答えると、ゆっくりと扉が開き、淡いピンク色のキャミソールを着た真由美が入ってきた。
「失礼します……」
耀は小さくうなずき、視線で隣に座るよう促す。
「あ、あの……どうですか?これ」
そう言って、真由美はキャミソールの裾を広げてみせる。
「色っぽいな、前に見た時と違って、大人の雰囲気だな」
「いつもは子供っぽいですか?」
はにかんだような表情を浮かべ、真由美は耀の隣に腰を下ろした。
「そうじゃない。真由美は甘えたいのだろう?隠しても内心は行動に現れる」
その言葉を聞き、真由美はうつむいて静かに口を開く。
「全部——お見通しなんですね。悪魔のようです」
「悪魔だからな」
真由美は悲しい表情を浮かべ、顔を伏せた。
「でも、私のような人間は他人に甘えてはいけないと思います」
「そんな事はないと思うが」
「私なんかが甘えたら、許されない気がするんです……」
少しの沈黙の後、真由美の言葉が続いた。
「こんな穢らわしい身体では……」
耀は真由美の言葉を静かに受け止めた。そして、真っ直ぐに彼女を見つめる。
「その理由を聞いてもいいか?」
「……私は二十歳の時に、両親を包丁で刺しました」
「——そうか」
その先の言葉を待つように、重い沈黙が落ちる。
真由美の肩が、かすかに震えた。
「その理由は聞かないのですか?」
「聞いても過去は取り戻せないが、それでもいいのか?」
「——聞いてください。そして私に少しでも嫌悪感を感じたら、ここから追い出してください」
真由美は顔を上げて、耀をまっすぐに見つめる。
「隠し続けて幸せを感じるなんて、もうつらいんです……」
「ああ、そうさせてもらおう」
再び伏せた顔が見つめる、膝の上で強く握り締められた拳が小さく震えていた。
「私は幼い頃から両親に疎まれていたと思います」
「なるほどな……」
「母は看護師でしたが、父は自営業といってパチンコに通っていました」
「看護師か、俺が嫌いな職業だな——」
余計なことを言うなと、レイに言われたことを思い出し、耀は話を止めた。
「まぁいい、話を続けてくれ」
「母が夜勤の日は、食事のない日もあったりして、お腹をすかせて寝る日も多かったです」
耀は目を閉じ、じっと話を聞いている。左手の指を額に当て、何かを考え込んでいるようにも見える。
その様子を見て、真由美は話を続けた。
「父はパチンコで負けると八つ当たりのように、私に暴力を振るうこともありました」
「母親は何も言わなかったのか?」
「私の怪我に気づいたら、それとなく父を注意していたようですが……」
「お前の母親はバカか?」
耀の声は低く冷たく単調だったが、輝きのない瞳は真由美の心を慮るように向けられていた。
「母は父にベタぼれだったんです。父に嫌われないように、いつも気を遣っていたように思います。私よりも父を優先していました。父の機嫌を取るために二人して私を怒鳴ったり……」
「怖かったか?」
「いいえ。そんな母を見て、子供ながらに情けないとは思いました……」
真由美は静かに息を吐いた。その小さな吐息が、過去の重さを物語っていた。
「高校二年生のとき——あの日は母が夜勤でした。寝ていたら突然父が部屋に入ってきて、寝ている私の胸を鷲掴みにしたんです……」
「実の父親だろう?」
耀の声を聞き、真由美はその表情を窺ったが、目は閉じられたまま、先ほどから何も変わっていなかった。
「はい、私は怖くて逃げようとしたんですけど、身体が震えて思うように動かず……あっという間に服を剥ぎ取られて」
真由美の声は震え始め、拳は固く握られている。そして覚悟を決めたようにポツリと呟く。
「そのまま犯されました……」
静寂が二人の間に流れた。時々、風が窓を叩く音だけが、やけに大きく聞こえる。
耀は小さく息を吸い、閉じたまぶたの奥で言葉を探した。
ふと、真由美の頭が撫でられる。
「つらかったら、もう話さなくてもいい」
真由美は耀の顔を見るのが怖かった。どんな顔をして頭を撫でてくれているのか、できれば優しい顔をしていて欲しい。
「いいえ、全部聞いてください」
「ゆっくり話すといい」
耀に促され、真由美はうつむいたまま話を続ける。
「それから私の心が黒く塗りつぶされたように感じて、同級生の恋話すら恨むようになり、それが態度に出たのか、いつしか周りには誰もいなくなりました」
耀は真由美の言葉を聞き逃さないように、ただ静かに聞いている。
「友達の楽しそうな笑い声が耳に入るだけで、胸が軋むように痛んで……無視しているつもりでも、無意識に、私の顔には憎しみが滲んでいたのかもしれません」
真由美は顔を上げ、真っ暗な部屋の壁を見つめた。心の奥に閉まっていたものを吐き出すように、目を閉じ言葉を繋げる。
「心の中では、ずっと真っ黒なものが渦巻き、見るもの全てが憎くて……私に向けられる視線が怖くて……毎日怯えていました」
重たく、どこにも行き場のないため息が、部屋に広がった。
「あの日以降、何度も父の慰みものにされ続けました。父の荒い息遣いが耳元で響き、じっと目を閉じ、早く終わるのを願い、冷たい汗が背中を伝っていました……終わるとにやけた顔でズボンを直しながら部屋を出ていく父が、獣のようにしか見えなくなりました」
小さくため息をついた真由美は、震える声で話を続けた。
「そのたびに、死のうと思いました……」
しばらく沈黙が部屋を支配し、二人の呼吸だけが響く中、小さな呟きが、闇に溶けるように聞こえた。
「二十歳のある日、私は父の子供を身ごもりました……」
真由美は自分の下腹部に手をあて、首を小さく横に振る。
「悩みました……あの獣のような父の子だと分かっていても、芽吹いた命は愛おしくて……でも、堕ろすことにしたんです」
「ああ、それは間違った選択ではない」
「はい、病院から帰る途中は涙が止まりませんでした。なぜだか分かりません。悔しかったのか、安心したのか……」
「人間の感情は得てしてそのようなものだと、俺は理解しているが」
「家に帰って両親に全て話しました」
感情が昂ぶっているのか、真由美の呼吸は早くなり、話も早口になる。
「父はにやけた顔で私を見ていて、母は烈火のごとく怒り始めました。私の男を誑かした淫乱女と罵られました」
真由美は拳で自分の膝を叩く。
「もう私は何が何だか分からなくなって、目の前の二人に憎悪しか湧きませんでした」
さらに早口になり言葉を繋げる。
「背後から罵られ、いやらしい視線を向けられながら、台所にあった包丁を手に取り、夢中で両親を刺しました」
しばらくの沈黙の後、真由美が落ち着いた口調で、続きを話し始めた。
「血の海が、暗い部屋の中で静かに広がっていくなかで、逃げようとして這う両親の姿を見て、私は笑っていました……」
暗い天井を見上げて、真由美は呟く。
「部屋に響く悲鳴が心地よくて、もっと早くこうすれば良かったんだと、私はやっと自由を手に入れたと嬉しかったんです」
しばらくの静寂が訪れるが、間を置かず小さな声が響く。
「ひどい女でしょう?」
うつむいた真由美の耳に、耀が大きく深呼吸する音が聞こえた。
「それで、俺にどうして欲しい?」
「もう嫌になったでしょう?私のこと穢らわしいと思うでしょう?私なんかに触れたくもないでしょう?」
捲し立てる真由美に、耀は低く落ち着いた声で応えた。
「お前は俺にどうしてほしいか聞いてる」
「どうって……どうしようもない、ですよね……」
突然、耀の低く響く声が空気を裂いた。
「ラウム、来い!」
部屋に黒い霧が渦巻き始めた。空気がひんやりと冷たくなり、霧は生き物のように形を変えながら膨れ上がる。
突然、霧が弾け、その中心に初老の男性が静かに現れた。
「久しいな。今宵は某のことを思い出したのであるか?」
真由美は息を呑み、凍りついたように目を見開いた。ただ、その男の冷たい瞳に射すくめられるように身を縮めていた。
「あ、あの……この人は?前も来ましたよね?」
「某の名はラウム、汝ら人間の言う悪魔であるな。主人の力に惚れ込んでおる」
「俺はお前を頼りにしている。そして、今宵はお前の力を借りたい」
「して、如何様に振る舞えば良いのであるか?」
「この女の記憶を一部消せるか?」
「容易いこと」
ラウムが真由美に視線を向けた。目が合った瞬間、真由美の全身から力が抜け、耀に身を預けるように崩れ落ちた。
「この女、気の毒な運命にあるな。だが、これは消さぬ方が良いのではないか?」
「ラウム、なぜそう思う?」
「其方の死する未来が変わっておらぬ様に、この女の記憶を消したところで、未来は変わらぬ」
「そうか……真由美、どうする? ラウムに頼めば嫌な記憶は消せる」
真由美はゆっくりと目を開け、耀を見つめる。震える唇を噛みしめ、小さな声で答える。
「いえ……このままで……」
「真由美と申すのか。汝は主人と共に歩め。主人の過去を知る必要はないが、汝に通じるものがある。きっと汝を守ってくれよう」
「でも私は、旦那様に嫌われてしまっていると思います」
「さっきの話のどこに、お前を嫌う要素があった?」
真由美の瞳が揺れ、唇がわずかに震えた。次の瞬間、抑えきれない怒りと悲しみが入り混じった声が、部屋に鋭く響いた。
「私の話を聞いてました?」
「ああ、『つらいことをよく話してくれた』なんて、ありきたりな言葉では片付けられない話だった。だからこそ、俺はお前に何ができるかを考えた」
「みんなからは軽蔑されました。それを逆手に取られ、会社では操り人形のように扱われました」
「過去は戻らない、その過去を聞いて他人を軽蔑し、侮辱し、嫌悪するなんて事は愚かでしかないだろう」
「然様であるな。人は他人を見下すことで優越感に浸ることがある。汝が出会ったのは、ただそのような者であったに過ぎぬ」
耀は真由美の目をまっすぐに見つめ、ゆっくりと、しかし力強く言葉を紡ぐ。
「誰にでも過去はある。けれど、それがどうした?お前がどんな過去を抱えていようと、俺の中のお前は変わらない。お前がお前である限り、俺の気持ちも変わらない」
ラウムがふと耀の顔を覗き込んだ。
「其方——やはり、人間の世界でも存在できるのであるな」
「ああ、身体が人間だからだろう。だが、居心地は悪い」
「然様であるか」
ラウムは真由美に視線を向ける。
「先ほど某が共に歩めと伝えた主人は、この男ではない。この男は力をもって制そうとするが、某の本来の主人は、心をもって制する。何も言わずとも汝が望むように、優しく迎え入れよう」
「優しい目をした旦那様ですね」
真由美の言葉に、ラウムは静かにうなずき、耀もまたうなずいた。
「そうだ、俺が真由美から聞いた話は、アイツに伝わっていない。だが、真由美は俺に話した。同じ身体なんだ、これ以上その話をする必要はないだろう」
「えっと……」
何かを言いかけた真由美を、耀の声が遮る。
「真由美が俺に話すことを選んだ理由は聞く必要もない」
顔を伏せた真由美を見た耀は、静かに立ち上がると、真由美とラウムに目を向ける。
「真由美、ラウム、悪いがもう少し付き合ってもらうぞ」
「うむ、其方に付き合うのも悪くはあるまい」
「はい、旦那様」
耀は真由美を抱き上げると、ラウムに声をかける。
「俺に掴まれ」
耀の身体から黒紫の霧が湧き上がり、視界を遮る。霧はまるで意思を持つかのように三人を絡め取っていく。
音もなく霧が晴れると、三人の姿はその場から消え去っていた。
——真由美がゆっくりと目を開くと、周囲を青や赤、緑や黄色、その他あらゆる色の何かが、ただ静かにいくつも蠢くように渦巻いている。
「ここは?」
耀にしがみついたまま、ぽつりと呟き周りを見回すが、全て同じような光景で、宙に浮いているような感覚に陥る。
「其方はここに魔力を貯めておったのであるな」
「そうなるな」
「ここは旦那様の世界……レイさんが言っていたとおりです」
耀から降ろされた真由美は、腰が抜けたように座り込み、渦の中に飲み込まれないか不安な様子を見せていた。
「ここなら、俺の妻を呼び出せる」
耀が無造作に一つの渦に手を伸ばすと、その中央部が大きく開き、その奥には青白く輝く空間が広がっていた。
「吾が君よ。お声をお待ちしておりました。今より、君のもとへ参じても、よろしうございますか?」
「妻が夫に何を遠慮する。ここならアンナとの約定も、反故にせずにすむだろう」
「君の深き御心遣い、まことに感謝の至りなり」
渦の中央からゆっくりと歩んできた伊耶那美は、立ち止まり辺りを見回す。
「これは何と……我が黄泉の国すら凌ぐ、禍々しき有様なり」
「これが俺の本性だ。恐ろしいか?」
「惚れ直したようでございます、吾が君。……まこと、厄介なお方なり。」
伊耶那美は、耀の隣に立つラウムに視線を向けると、わずかに微笑んだ。
「お姿を拝するは、まこと久方ぶりのこと……ラウム殿」
「久しいな。変わりないようで何よりであるが、汝も主人の色が濃くなってきておるな」
「月に一度は、湯殿を共にしておる故に」
なぜか勝ち誇ったような笑顔を見せると、伊耶那美は座り込んでいる真由美に近づき、その肩に手を添える。
「真由美殿、女子ふたり——ゆるりと語らいませぬか」
真由美は肩に触れる伊耶那美の手の温もりに、今まで感じたことのない不思議な安心感を覚えた。
「はい、伊耶那美様」
少し笑顔を見せた真由美に伊耶那美は微笑み返すと、座り込む彼女に目線を合わせるよう腰を下ろした。
それを横目で見ていた耀は、後を伊耶那美に任せて、いつものように渦巻く魔力を眺めている。
その無限の可能性を秘めながらも、持て余している渦の中に身を委ねるように、ただ静かにじっと佇んでいた。
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。
休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。
出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。
2025年10月8日、一部修正しました。




