表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
66/137

血染めの乙女

夕食後に風呂も済ませて自室に戻った僕は、月末も近くなったので伊耶那美(いざなみ)の所に行くことにした。

まあ、あの国は僕のいるべき世界ではないようなので、特に行く必要はないのだが、ようやく取り戻した平穏な生活を維持するために、伊耶那美の協力は欠かせない。

僕はいつもどおり伊耶那美のことを思いながら、部屋のクローゼットを開く。

やはり、いつもどおりその奥には黄泉(よみ)の国が広がっており、そこでは黄泉醜女(よもつしこめ)が談笑している。


「これは……すぐに黄泉津大神(よもつおおかみ)様をお呼びいたしますので、しばらくお待ちくださいませ」


僕に気づいた黄泉醜女の一人が奥へと向かっていく。

僕が、一歩その国に足を踏み入れた瞬間、心の奥底が何かに引きずられるような感覚に囚われる。

柔らかな闇が僕を包みはじめると、入れ替わるように、あいつが心の深淵より湧き出してくるのが分かる。


——青白く輝く空間の奥から、人影が薄っすらと近づいてくる。その輪郭がはっきりする頃、落ち着いた淑やかな声が届く。


()(きみ)に、こうしてお目にかかれたこと——嬉しきかぎりにございます」


伊耶那美は耀に近づき、首に両手を回すとしっかりと抱き寄せる。

耀との身長の差があるせいで、抱き寄せると同時に、その身体(からだ)が宙に浮く。


「久しぶりだな。変わりないか?」


浮いた伊耶那美の身体を、しっかりと抱き止め耳元で囁くように問うと、艶やかな吐息が耀の耳を撫でる。


「おかげさまにて、変わらず過ごしておる」

「ひとつ頼んでもいいか?」


そう言いながら伊耶那美を降ろすと、その瞳がまっすぐに耀を見つめた。


「吾が君の仰せとあらば、否とは申すまじ」

「もう少し、わかりやすい言葉で話してくれ。黄泉醜女も話せるんだから、お前も話せるだろう」

「死して此の国に参りし者の語りにて、心得てはおる。されど、その言の真なるや否や、定かならぬが故に」

「それは、承知の上だ。夫婦に憚ることなど何もないと思うが?そんなつまらないことよりも、俺がお前の言葉を誤って理解するほうが良くない」

「君の仰せのままにてございます。されば、吾も、少し学びておこうと存じまする」


伊耶那美が右手を振るうと、黄泉醜女が一斉にその場を離れる。


「さて、吾が君。湯殿にて、少し物語など交わしてみませぬか?」


伊耶那美は、耀の袖を引きながらわずかな微笑みを浮かべる。


「さっき入ったんだが、伊耶那美が望むなら、俺が拒む理由はない」


優しく抱き寄せられた伊耶那美は、そのまま胸に頬を付け、身を委ねる。


「馳走など叶えば良きものの、人の身にてこの国の物を口にすまば、現世へはもはや戻ること叶わぬゆえに」

「そうか。ならば娯楽は限られるな。それならお前が来てはどうだ?」

「よろしきか、吾が君。正妻殿との約定があるゆえ、現世を訪るること、些か憚られはすれど——」

「その世界ではない、俺の世界だから気にするな」


その言葉を聞いた伊耶那美が耀の胸から少し離れ、彼の顔を見上げる。


「君よ、吾も尋ねたきことがある」

「なんでも、聞いてくれ」

「先日、第二妻殿(だいにさいどの)に呼ばれし折、吾が気づいたこと——君はやはり、二人おられるのではなきや?」

「それは、お前が気づいたとおりだ。だが、お前を妻に迎えたのは俺だ」

「嬉しきこと。ずっと、それを聞きたく思うておりました。優しきばかりの男など、飽いてしまいますゆえ。君よ、湯殿の支度——整うておりまする」


見るとそこには、湯を張り終えた浴槽が置かれており、黄泉醜女が袖をまくりながら、湯殿の準備を整えていた。

さっきまで何もなかったはずの場所に、わずかな時間で浴槽が現れ、湯が張られ、支度が整っていた。

その異様さに驚いたのも、今ではもう過去の話だ。

そんなことを考えている間に、耀は黄泉醜女の手で服を脱がされ、気づけば伊耶那美と湯に浸かっていた。

とは言え、肩まで浸かるのではなく、腰の辺りまでを湯に浸け、黄泉醜女が肩から湯をかけてくれる。


「さて——今一つ。君の懸念、現となるや否や?」

「分からん。だが、備えておくに越したことはない」

然様(さよう)にてあるな。では、此の醜女(しこめ)ら四人にも、力を授けてやってはいただけませぬか——吾が君。君の御心のままにて。」

「お前の側近としてか……四天王というわけだな、悪くない」

「なにとぞ、お願い申し上げます」


四人の黄泉醜女が、声を揃えて願った。

伊耶那美の背に湯をかけている二人が頭を下げているから、耀の後ろに立つ二人もまた、きっと頭を下げているのだろう。


「分かった。順番に俺の力を分けるが、その前に……お前らに名はないのか?」

「ありませぬ」

「ついでに、俺が見分けやすいように、それぞれに色を振り分けておこう」


その意図が理解できないのか、四人の黄泉醜女の瞳に不安が見える。


「まずはお前だ」


その言葉と同時に、背後に立っていた黄泉醜女の腕を引き、そのまま抱き寄せ口づけを交わす。


「これは……どこが変わりましたか?」


頬を真っ赤に染め、恥ずかしさを隠すように、黄泉醜女が自分の身体を眺めている。


「伊耶那美には分かるか?」

「無論のことなり。瞳の輝き——紅に染まっておる。黄泉赤醜女(よもつあかしこめ)とでも呼ぶべきであろうか」


その後、『黄泉青醜女(よもつあおしこめ)』『黄泉白醜女(よもつしろしこめ)』『黄泉黒醜女(よもつくろしこめ)』と順に、耀の魔力を与えられたが、黄泉黒醜女だけは外見が何も変わらず、少し不満そうな表情を浮かべていた。


「不満そうだな……」


黄泉黒醜女の表情を見た耀が声を掛けると、遠慮がちな素振りで小さな返事が返ってくる。


「いえ、ただ、色が欲しゅうございました」

「何を言うておる。黒き真珠のごとき輝きを得ておろう」

「はい……」


不満そうな表情から、寂しげな眼差しへと変わる彼女を見て、耀は手招きをする。


「だが、その力は本物だから安心しろ。試しに俺に抱きついてみろ」


黄泉黒醜女の視線が、伊耶那美に向けられた。その視線に、伊耶那美は笑顔でうなずいた。


「これでよろしいですか?」

「そのまま、俺の背に爪を立てる想像をしてみろ」

「は、はぁ……」


理解し難い耀の言葉に、浮かない返事をした黄泉黒醜女が目を閉じた。

次の瞬間、耀の背を貫いた爪は、赤黒い輝きを放ち、彼の鼓動を穿つかのように、胸元にまで伸びていた。


「も、申し訳ございません!ここまでとは思いもよりませんでした」


焦る黄泉黒醜女を、耀は強く抱き寄せると、爪はさらに耀の胸から伸び出てくる。

黄泉黒醜女はそっと顔を上げ、抱き寄せたその男の顔を見上げるが、普段と変わらない表情をしている。

言葉を疑い、不満を現し、そしてこの傷を負わせたにも関わらず、怒りも痛みも見せないこの男に魅了された。

この与えられた力を以って、身も心も尽くす覚悟と同時に、愛おしくさえ思えてきた。


「気にするな。自らの身体に起こる変化を想像するだけで現実となる」

「君の力、底知れぬものなり。吾が惚れしこと——誤りにあらずと、今しがた確かに思うた」


伊耶那美の言葉にうなずくと、黄泉黒醜女を落ち着かせるように、髪を優しく撫でる。


「そしてお前の爪は、赤黒い輝きを放つようになったはずだ。爪を元に戻してみろ」


耀の背中から胸に貫通していた爪が瞬時に戻ると、その胸と肩から血が滴り落ちる。


「その爪であれば、切り裂けないものはない。この国の者たちは武器を使わないのだろう?だから身体を強化できるようにした」


流れる血を気にする様子もなく、耀は湯をかけるように促す。


「然様にございます。我ら戦の道具を使わぬゆえに、身体が強化されるだけで十分でございますれば」


恐るおそる肩から湯をかける黄泉黒醜女に「その身体に慣れることだな」とだけ言うと、伊耶那美に向き合った。


「それと、俺は黒という色を上手く作れない。だからその瞳は限りなく黒に近い紫だ」

「それは……まこと、君と同じ色を湛えておる」


その伊耶那美の言葉を聞いた黄泉黒醜女の手が止まった。

自らと同じ色を与えてくれたこの男を、一瞬でも恨めしく思ったことを恥じて、目を伏せた。


「それでは、お背中を流します」


黄泉醜女のその言葉を合図に、耀は伊耶那美と抱き合う。耳元で紡がれる伊耶那美の愛の言葉は、滴る血と共に甘く熱を帯び、互いの存在を確かめ合うように、唇は静かに触れ、熱が細やかに溶け合っていく。

今宵の伊耶那美は、耀の胸から滴る血が、その美しい肢体を赤く染め、命の息吹に酔うように、甘美な表情を浮かべている。

その耀の背中では、血で染まっていく湯を愛おしそうに見つめながら、黄泉黒醜女が耀の背中に湯をかけ続ける。


突然、二人の時間を遮るかのような声が響く。


「——耀様」

「イオナか、どうした?」


耀の胸から流れる血を見て、イオナは目を見開く。


「その傷は——いったいどうされたのですか!」


焦りが窺えるその声に、耀は低く落ち着いた口調で応える。


「いい女を抱き寄せたら、爪を立てられただけだ……気にするな」

「気にするなと申されても——」

「後でレイに治してもらおう」


イオナは小さく首を振り、ため息をついた。


「お部屋に伺ったのですが、ここにいらっしゃるのが見えたので——少しお話があります」

「そうか……だが、俺は見てのとおり忙しい。しばらく待て」


全裸で女と抱き合いながら『忙しい』と言い放つ耀に、堪えきれない苛立ちを滲ませて、イオナが少し早口で続ける。


「失礼ながら、その様子は、伊耶那美様と裸で愛し合い、美女に背中を洗ってもらっているようにしか見えませんが」

「ああ、そうしてるからな——イオナはよく俺を見ているんだな」


当然の様に言い返されて、反論の余地も気力もなくしてしまう。


「申し訳ございません……出過ぎた真似を、いたしました」


イオナが軽く頭を下げる。


「耀様、出過ぎたついでに一つお聞かせください。今の耀様にとって私はどのような存在なのですか?」

「もう一人の俺にとっては妻だろうが、俺にとっては他人だ」


何の感情も含まず、当然のように言い放たれた言葉に、イオナは膝から崩れ落ち、力なく床に手をつく。

無意識に溢れる涙は次々と頬を伝い、拭う余裕もなく、絞り出すような嗚咽が静寂を裂く。


「君よ、些か——言の葉が足りぬのではなきか?」


入浴を終え着替えている伊耶那美に窘められ、耀は着衣もそこそこにイオナの元へ歩み寄り、膝を付く。


「イオナ、顔を上げてみろ。この傷を見て、何を感じる?」


頬を伝う涙を拭うことなく、潤んだ瞳で胸の傷を見つめた。


「——痛々しいです」

「だいぶ出血も止まってきたが、この傷口をお前が啜ればすぐに治る。だが、お前が交わした悪魔との契約も反故にされる。さて、どうする?」

「そ、それは……」


まぶたを閉じ、歯を食いしばるイオナの様子を見て、耀はゆっくりとした口調で話しかける。


「決心がつかないのだろう?それでいい。ゆっくり考えればいい」

「それが——どうして私と関係があるのですか!」


怒りすら込められたイオナの声に、耀は何食わぬ顔で話をつなげる。


「忠臣は二君に仕えず。お前には類まれな参謀としての器が備わっている。他に忠義を誓うそんな人物を、信用するわけがないだろう」


顔をそむけ震える唇が、想いを声にできないことを語っている。


「そういうことだ」


耀はそう言うとイオナの肩をそっと抱き寄せる。


「主君を換える自由はある。だがな、あっちこっちいいとこ取りするような奴は気に食わん」

「——耀様」


耀は大きくうなずいて、その輝きのない瞳でイオナを見つめた。


「イオナの時間は永遠にあるんだろう?ゆっくり考えるといい」


その一部始終を見届けた伊耶那美は、どこか達観したような微笑みを浮かべていた。

イオナが落ち着くのを待つように、耀は胸に抱き寄せたまま動かなかった。

しばらくして、イオナが顔を上げると、耀の血で顔の半分が染まっていた。


「それで話は何だったんだ」


洗えば落ちるだろう——そんな気持ちを胸にしまい、耀はイオナに声をかけた。


「——この件です」


イオナはポケットから本尊とされるカードを取り出し、耀に差し出した。

受け取ったカードを一瞥し、無関心に指先でひっくり返した後、首を傾げてイオナに返した。


「これなら、わざわざここまで来て話すことではないだろう?」

「いえ、真由美はこれを見るたびに、まるで過去の亡霊に縛られたように怯えた顔をするのです。ですから、二人きりでお話ししようと思いました」

「そうだったのか——真由美は俺を怖がっているみたいだな」

「それは違います!」


少し考える素振りを見せる耀に、イオナの否定する声が響いた。


「そうか。まず、その紙切れの件だが、イオナの差配に任せる。もう一人の俺ともよく話し合ってくれ」

「これが何か気にならないのですか?」


涙に崩れ、血に染まったまま、イオナは静かに首を傾げた。


「ああ、それが何であろうと、俺の世界には関係がない」


シャツを羽織りながら、軽くイオナに視線を送る。


「では、私の思うように扱わせていただきます」


イオナには何か考えがあるのか、大切そうにカードをポケットにしまった。


「それと、真由美の件だが、あとで俺の部屋に来るように伝えてくれ」

「はい、そう伝えるだけでよろしいのでしょうか?」

「覚悟して――そう、伝えてみてくれ」


イオナとの話が終わったのを見計らい、伊耶那美が耀に声をかける。


「吾が君よ。真由美殿との御話が済みましたならば——吾を、君と真由美殿のもとへお呼びいただけぬか」

「ああ、分かった」


短く返事をする耀に、伊耶那美はしなやかな指先で彼の袖を軽く摘まむ。


「理由を……問うてはくださらぬのでございますか、吾が君」


耀はわずかに視線を落とし、「必要ない」とだけ答えた。

その言葉の端正さに笑みを浮かべながら、伊耶那美は耀の腕にそっと手を回し、上目遣いに耀を見つめる。

その瞳に宿る静かな光は、水面に揺らめく月影のようだ。


「さらば、心静かに待つといたそう」


その声はまるで水面を撫でる夜風のように柔らかく、二人の間に流れる空気は、静謐と信頼に満ちていた。


「帰るぞ」そう言うと、耀は未だ座り込んだままのイオナを迷いなく抱き上げた。


「はい、あ、あの……」


うつむくイオナの頬に赤みが差す。彼女の曖昧な言葉に、耀は真剣な目で静かに促す。


「はっきりと言え。イオナらしくない」


その言葉に背中を押されるように、イオナは耀の首に腕を回し、震える唇を重ねた。

口づけを交わし、ほんの少し心がほぐれたイオナに、「少しは落ち着いたか?」と柔らかい言葉が降り注ぐ。

イオナは首を横に振ると、耀のシャツのボタンを外し始める。

それを気に留める様子もなく、耀はゆっくりと歩き始める。

その後ろから、鈴の音のような伊耶那美の声が追いかける。


第三妻殿(だいさんさいどの)。ここにおいて真の妻は、他ならぬ吾なり。決して、忘れてはならぬ」


からかうような響きに、イオナの頬はさらに紅く染まる。

イオナは抱えられたまま、ボタンを外した耀の胸に、顔を何度も擦り寄せる。

頬に触れる耀の血の温かさに包まれながら、囁くように息を漏らした。

耀を見上げたイオナの顔は、耀の血で染まっていた。イオナは血染めの顔で、真っ直ぐに前を見る耀に微笑みかける。

青白く輝く空間の先に見える、耀の部屋にたどり着くまでのわずかな時間——

イオナは身を任せる胸に滲む血に染まり、愛しさと切なさの狭間で彷徨う心に酔いしれていた。

お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。


休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。

出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。


2025年10月8日、一部修正しました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ