血染めの乙女
夕食後に風呂も済ませて自室に戻った僕は、月末も近くなったので伊耶那美の所に行くことにした。
まあ、あの国は僕のいるべき世界ではないようなので、特に行く必要はないのだが、ようやく取り戻した平穏な生活を維持するために、伊耶那美の協力は欠かせない。
僕はいつもどおり伊耶那美のことを思いながら、部屋のクローゼットを開く。
やはり、いつもどおりその奥には黄泉の国が広がっており、そこでは黄泉醜女が談笑している。
「これは……すぐに黄泉津大神様をお呼びいたしますので、しばらくお待ちくださいませ」
僕に気づいた黄泉醜女の一人が奥へと向かっていく。
僕が、一歩その国に足を踏み入れた瞬間、心の奥底が何かに引きずられるような感覚に囚われる。
柔らかな闇が僕を包みはじめると、入れ替わるように、あいつが心の深淵より湧き出してくるのが分かる。
——青白く輝く空間の奥から、人影が薄っすらと近づいてくる。その輪郭がはっきりする頃、落ち着いた淑やかな声が届く。
「吾が君に、こうしてお目にかかれたこと——嬉しきかぎりにございます」
伊耶那美は耀に近づき、首に両手を回すとしっかりと抱き寄せる。
耀との身長の差があるせいで、抱き寄せると同時に、その身体が宙に浮く。
「久しぶりだな。変わりないか?」
浮いた伊耶那美の身体を、しっかりと抱き止め耳元で囁くように問うと、艶やかな吐息が耀の耳を撫でる。
「おかげさまにて、変わらず過ごしておる」
「ひとつ頼んでもいいか?」
そう言いながら伊耶那美を降ろすと、その瞳がまっすぐに耀を見つめた。
「吾が君の仰せとあらば、否とは申すまじ」
「もう少し、わかりやすい言葉で話してくれ。黄泉醜女も話せるんだから、お前も話せるだろう」
「死して此の国に参りし者の語りにて、心得てはおる。されど、その言の真なるや否や、定かならぬが故に」
「それは、承知の上だ。夫婦に憚ることなど何もないと思うが?そんなつまらないことよりも、俺がお前の言葉を誤って理解するほうが良くない」
「君の仰せのままにてございます。されば、吾も、少し学びておこうと存じまする」
伊耶那美が右手を振るうと、黄泉醜女が一斉にその場を離れる。
「さて、吾が君。湯殿にて、少し物語など交わしてみませぬか?」
伊耶那美は、耀の袖を引きながらわずかな微笑みを浮かべる。
「さっき入ったんだが、伊耶那美が望むなら、俺が拒む理由はない」
優しく抱き寄せられた伊耶那美は、そのまま胸に頬を付け、身を委ねる。
「馳走など叶えば良きものの、人の身にてこの国の物を口にすまば、現世へはもはや戻ること叶わぬゆえに」
「そうか。ならば娯楽は限られるな。それならお前が来てはどうだ?」
「よろしきか、吾が君。正妻殿との約定があるゆえ、現世を訪るること、些か憚られはすれど——」
「その世界ではない、俺の世界だから気にするな」
その言葉を聞いた伊耶那美が耀の胸から少し離れ、彼の顔を見上げる。
「君よ、吾も尋ねたきことがある」
「なんでも、聞いてくれ」
「先日、第二妻殿に呼ばれし折、吾が気づいたこと——君はやはり、二人おられるのではなきや?」
「それは、お前が気づいたとおりだ。だが、お前を妻に迎えたのは俺だ」
「嬉しきこと。ずっと、それを聞きたく思うておりました。優しきばかりの男など、飽いてしまいますゆえ。君よ、湯殿の支度——整うておりまする」
見るとそこには、湯を張り終えた浴槽が置かれており、黄泉醜女が袖をまくりながら、湯殿の準備を整えていた。
さっきまで何もなかったはずの場所に、わずかな時間で浴槽が現れ、湯が張られ、支度が整っていた。
その異様さに驚いたのも、今ではもう過去の話だ。
そんなことを考えている間に、耀は黄泉醜女の手で服を脱がされ、気づけば伊耶那美と湯に浸かっていた。
とは言え、肩まで浸かるのではなく、腰の辺りまでを湯に浸け、黄泉醜女が肩から湯をかけてくれる。
「さて——今一つ。君の懸念、現となるや否や?」
「分からん。だが、備えておくに越したことはない」
「然様にてあるな。では、此の醜女ら四人にも、力を授けてやってはいただけませぬか——吾が君。君の御心のままにて。」
「お前の側近としてか……四天王というわけだな、悪くない」
「なにとぞ、お願い申し上げます」
四人の黄泉醜女が、声を揃えて願った。
伊耶那美の背に湯をかけている二人が頭を下げているから、耀の後ろに立つ二人もまた、きっと頭を下げているのだろう。
「分かった。順番に俺の力を分けるが、その前に……お前らに名はないのか?」
「ありませぬ」
「ついでに、俺が見分けやすいように、それぞれに色を振り分けておこう」
その意図が理解できないのか、四人の黄泉醜女の瞳に不安が見える。
「まずはお前だ」
その言葉と同時に、背後に立っていた黄泉醜女の腕を引き、そのまま抱き寄せ口づけを交わす。
「これは……どこが変わりましたか?」
頬を真っ赤に染め、恥ずかしさを隠すように、黄泉醜女が自分の身体を眺めている。
「伊耶那美には分かるか?」
「無論のことなり。瞳の輝き——紅に染まっておる。黄泉赤醜女とでも呼ぶべきであろうか」
その後、『黄泉青醜女』『黄泉白醜女』『黄泉黒醜女』と順に、耀の魔力を与えられたが、黄泉黒醜女だけは外見が何も変わらず、少し不満そうな表情を浮かべていた。
「不満そうだな……」
黄泉黒醜女の表情を見た耀が声を掛けると、遠慮がちな素振りで小さな返事が返ってくる。
「いえ、ただ、色が欲しゅうございました」
「何を言うておる。黒き真珠のごとき輝きを得ておろう」
「はい……」
不満そうな表情から、寂しげな眼差しへと変わる彼女を見て、耀は手招きをする。
「だが、その力は本物だから安心しろ。試しに俺に抱きついてみろ」
黄泉黒醜女の視線が、伊耶那美に向けられた。その視線に、伊耶那美は笑顔でうなずいた。
「これでよろしいですか?」
「そのまま、俺の背に爪を立てる想像をしてみろ」
「は、はぁ……」
理解し難い耀の言葉に、浮かない返事をした黄泉黒醜女が目を閉じた。
次の瞬間、耀の背を貫いた爪は、赤黒い輝きを放ち、彼の鼓動を穿つかのように、胸元にまで伸びていた。
「も、申し訳ございません!ここまでとは思いもよりませんでした」
焦る黄泉黒醜女を、耀は強く抱き寄せると、爪はさらに耀の胸から伸び出てくる。
黄泉黒醜女はそっと顔を上げ、抱き寄せたその男の顔を見上げるが、普段と変わらない表情をしている。
言葉を疑い、不満を現し、そしてこの傷を負わせたにも関わらず、怒りも痛みも見せないこの男に魅了された。
この与えられた力を以って、身も心も尽くす覚悟と同時に、愛おしくさえ思えてきた。
「気にするな。自らの身体に起こる変化を想像するだけで現実となる」
「君の力、底知れぬものなり。吾が惚れしこと——誤りにあらずと、今しがた確かに思うた」
伊耶那美の言葉にうなずくと、黄泉黒醜女を落ち着かせるように、髪を優しく撫でる。
「そしてお前の爪は、赤黒い輝きを放つようになったはずだ。爪を元に戻してみろ」
耀の背中から胸に貫通していた爪が瞬時に戻ると、その胸と肩から血が滴り落ちる。
「その爪であれば、切り裂けないものはない。この国の者たちは武器を使わないのだろう?だから身体を強化できるようにした」
流れる血を気にする様子もなく、耀は湯をかけるように促す。
「然様にございます。我ら戦の道具を使わぬゆえに、身体が強化されるだけで十分でございますれば」
恐るおそる肩から湯をかける黄泉黒醜女に「その身体に慣れることだな」とだけ言うと、伊耶那美に向き合った。
「それと、俺は黒という色を上手く作れない。だからその瞳は限りなく黒に近い紫だ」
「それは……まこと、君と同じ色を湛えておる」
その伊耶那美の言葉を聞いた黄泉黒醜女の手が止まった。
自らと同じ色を与えてくれたこの男を、一瞬でも恨めしく思ったことを恥じて、目を伏せた。
「それでは、お背中を流します」
黄泉醜女のその言葉を合図に、耀は伊耶那美と抱き合う。耳元で紡がれる伊耶那美の愛の言葉は、滴る血と共に甘く熱を帯び、互いの存在を確かめ合うように、唇は静かに触れ、熱が細やかに溶け合っていく。
今宵の伊耶那美は、耀の胸から滴る血が、その美しい肢体を赤く染め、命の息吹に酔うように、甘美な表情を浮かべている。
その耀の背中では、血で染まっていく湯を愛おしそうに見つめながら、黄泉黒醜女が耀の背中に湯をかけ続ける。
突然、二人の時間を遮るかのような声が響く。
「——耀様」
「イオナか、どうした?」
耀の胸から流れる血を見て、イオナは目を見開く。
「その傷は——いったいどうされたのですか!」
焦りが窺えるその声に、耀は低く落ち着いた口調で応える。
「いい女を抱き寄せたら、爪を立てられただけだ……気にするな」
「気にするなと申されても——」
「後でレイに治してもらおう」
イオナは小さく首を振り、ため息をついた。
「お部屋に伺ったのですが、ここにいらっしゃるのが見えたので——少しお話があります」
「そうか……だが、俺は見てのとおり忙しい。しばらく待て」
全裸で女と抱き合いながら『忙しい』と言い放つ耀に、堪えきれない苛立ちを滲ませて、イオナが少し早口で続ける。
「失礼ながら、その様子は、伊耶那美様と裸で愛し合い、美女に背中を洗ってもらっているようにしか見えませんが」
「ああ、そうしてるからな——イオナはよく俺を見ているんだな」
当然の様に言い返されて、反論の余地も気力もなくしてしまう。
「申し訳ございません……出過ぎた真似を、いたしました」
イオナが軽く頭を下げる。
「耀様、出過ぎたついでに一つお聞かせください。今の耀様にとって私はどのような存在なのですか?」
「もう一人の俺にとっては妻だろうが、俺にとっては他人だ」
何の感情も含まず、当然のように言い放たれた言葉に、イオナは膝から崩れ落ち、力なく床に手をつく。
無意識に溢れる涙は次々と頬を伝い、拭う余裕もなく、絞り出すような嗚咽が静寂を裂く。
「君よ、些か——言の葉が足りぬのではなきか?」
入浴を終え着替えている伊耶那美に窘められ、耀は着衣もそこそこにイオナの元へ歩み寄り、膝を付く。
「イオナ、顔を上げてみろ。この傷を見て、何を感じる?」
頬を伝う涙を拭うことなく、潤んだ瞳で胸の傷を見つめた。
「——痛々しいです」
「だいぶ出血も止まってきたが、この傷口をお前が啜ればすぐに治る。だが、お前が交わした悪魔との契約も反故にされる。さて、どうする?」
「そ、それは……」
まぶたを閉じ、歯を食いしばるイオナの様子を見て、耀はゆっくりとした口調で話しかける。
「決心がつかないのだろう?それでいい。ゆっくり考えればいい」
「それが——どうして私と関係があるのですか!」
怒りすら込められたイオナの声に、耀は何食わぬ顔で話をつなげる。
「忠臣は二君に仕えず。お前には類まれな参謀としての器が備わっている。他に忠義を誓うそんな人物を、信用するわけがないだろう」
顔をそむけ震える唇が、想いを声にできないことを語っている。
「そういうことだ」
耀はそう言うとイオナの肩をそっと抱き寄せる。
「主君を換える自由はある。だがな、あっちこっちいいとこ取りするような奴は気に食わん」
「——耀様」
耀は大きくうなずいて、その輝きのない瞳でイオナを見つめた。
「イオナの時間は永遠にあるんだろう?ゆっくり考えるといい」
その一部始終を見届けた伊耶那美は、どこか達観したような微笑みを浮かべていた。
イオナが落ち着くのを待つように、耀は胸に抱き寄せたまま動かなかった。
しばらくして、イオナが顔を上げると、耀の血で顔の半分が染まっていた。
「それで話は何だったんだ」
洗えば落ちるだろう——そんな気持ちを胸にしまい、耀はイオナに声をかけた。
「——この件です」
イオナはポケットから本尊とされるカードを取り出し、耀に差し出した。
受け取ったカードを一瞥し、無関心に指先でひっくり返した後、首を傾げてイオナに返した。
「これなら、わざわざここまで来て話すことではないだろう?」
「いえ、真由美はこれを見るたびに、まるで過去の亡霊に縛られたように怯えた顔をするのです。ですから、二人きりでお話ししようと思いました」
「そうだったのか——真由美は俺を怖がっているみたいだな」
「それは違います!」
少し考える素振りを見せる耀に、イオナの否定する声が響いた。
「そうか。まず、その紙切れの件だが、イオナの差配に任せる。もう一人の俺ともよく話し合ってくれ」
「これが何か気にならないのですか?」
涙に崩れ、血に染まったまま、イオナは静かに首を傾げた。
「ああ、それが何であろうと、俺の世界には関係がない」
シャツを羽織りながら、軽くイオナに視線を送る。
「では、私の思うように扱わせていただきます」
イオナには何か考えがあるのか、大切そうにカードをポケットにしまった。
「それと、真由美の件だが、あとで俺の部屋に来るように伝えてくれ」
「はい、そう伝えるだけでよろしいのでしょうか?」
「覚悟して――そう、伝えてみてくれ」
イオナとの話が終わったのを見計らい、伊耶那美が耀に声をかける。
「吾が君よ。真由美殿との御話が済みましたならば——吾を、君と真由美殿のもとへお呼びいただけぬか」
「ああ、分かった」
短く返事をする耀に、伊耶那美はしなやかな指先で彼の袖を軽く摘まむ。
「理由を……問うてはくださらぬのでございますか、吾が君」
耀はわずかに視線を落とし、「必要ない」とだけ答えた。
その言葉の端正さに笑みを浮かべながら、伊耶那美は耀の腕にそっと手を回し、上目遣いに耀を見つめる。
その瞳に宿る静かな光は、水面に揺らめく月影のようだ。
「さらば、心静かに待つといたそう」
その声はまるで水面を撫でる夜風のように柔らかく、二人の間に流れる空気は、静謐と信頼に満ちていた。
「帰るぞ」そう言うと、耀は未だ座り込んだままのイオナを迷いなく抱き上げた。
「はい、あ、あの……」
うつむくイオナの頬に赤みが差す。彼女の曖昧な言葉に、耀は真剣な目で静かに促す。
「はっきりと言え。イオナらしくない」
その言葉に背中を押されるように、イオナは耀の首に腕を回し、震える唇を重ねた。
口づけを交わし、ほんの少し心がほぐれたイオナに、「少しは落ち着いたか?」と柔らかい言葉が降り注ぐ。
イオナは首を横に振ると、耀のシャツのボタンを外し始める。
それを気に留める様子もなく、耀はゆっくりと歩き始める。
その後ろから、鈴の音のような伊耶那美の声が追いかける。
「第三妻殿。ここにおいて真の妻は、他ならぬ吾なり。決して、忘れてはならぬ」
からかうような響きに、イオナの頬はさらに紅く染まる。
イオナは抱えられたまま、ボタンを外した耀の胸に、顔を何度も擦り寄せる。
頬に触れる耀の血の温かさに包まれながら、囁くように息を漏らした。
耀を見上げたイオナの顔は、耀の血で染まっていた。イオナは血染めの顔で、真っ直ぐに前を見る耀に微笑みかける。
青白く輝く空間の先に見える、耀の部屋にたどり着くまでのわずかな時間——
イオナは身を任せる胸に滲む血に染まり、愛しさと切なさの狭間で彷徨う心に酔いしれていた。
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。
休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。
出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。
2025年10月8日、一部修正しました。




