幻影虚像録
昨年の年末からレイとミスティは、部屋に引きこもりがちになっていた。
——レイがラウムから託されたノート。その全てのページに、幼い頃に耀が描いた絵が残されている。
黒い鉛筆だけで描き殴られたその絵を、レイとミスティはきれいに描き直し、彩色することに没頭していた。
アンナの誕生日に、もう一人の耀が話した、絵を描いた経緯を聞いたことで、二人はさらに熱を上げていた。
一月も終わろうとするこの日も、朝食を終えるとすぐに二人はレイの部屋に向かう。
そして、机に開いたノートに向かって、二人は並んで首を傾げている。
「ねぇ、ミスティにはこの絵がどう見えますの?レイには犬の体を持ったカエルのように見えますわ」
そのページには鉛筆で黒く塗りつぶされた何かが描かれているが、そのような輪郭はどこにも見えない。
「うむ。じゃが、犬のように毛は生えておらんの」
「そのようですわね。この絵からは、大きな口で何でもひと呑みにしてしまう、そんな思念を感じますわ」
二人が一緒にこの作業を楽しんでいるのは、絵を描いていた幼い頃の耀を、ミスティが知っているのもある。
だが、それ以上に、二人が共に物に宿る思念を感じ取れることから、自然と同じ認識で相談ができるというのも大きい。
「然様じゃの。殿の周りには面白半分でからかいに来る輩もおったゆえ、そやつらを喰わせるつもりだったかもしれんの」
「食べてどうなりますの?」
レイは絵をじっと見つめながら、小首を傾げる。
「分からんの……じゃが、今の殿を見ておると、喰った輩をそのまま魔力に換えるのではないかの」
レイは胸の前で手を組み、大きく見開いた目を輝かせた。
「それで、カエルちゃんなのですわ!」
「いや、そうではないと思うが……まぁ良かろう」
ミスティは少し呆れたように、けれど優しく笑って、レイを見つめた。
「では、そのようなイメージで輪郭を描き出してみますわ」
レイは黒一色で、無造作に描かれた絵のイメージを崩さず、隠れている輪郭を描き出していく。
「レイ殿は、殿が描こうとしておったものが見えておるかのようじゃの」
迷うことなく進むレイのペンを見て、ミスティは感心している。
「見えてはいませんわ。でも、イメージを持って描き始めると、このノートの記憶がレイの手を動かしてくれますの」
「なんと、レイ殿は物の記憶を知ることができるのか?」
迷いなく輪郭を描き出していくレイの様子に、強く興味を惹かれたミスティは、目を見開き、驚いた表情でその手元をじっと見つめている。
「そうですの。兄様と出会ってからは、その記憶を人に見せることができるようになりましたわ」
「凄いの……殿に二回抱かれただけで、妾の鱗も恐ろしく硬くなってしもたしの。殿の力は計りしれんのじゃ」
「そうですの?レイは兄様に血をいただいてから、召喚ができるようになりましたわ」
「召喚とはなんじゃ?」
「この世界と別の世界にいる存在を、呼び出せますの」
「それは、凄いの。では伊耶那美殿もそうやって呼び出したのかの?」
「違いますわ。あれは依代を作っただけですの。今でしたら伊耶那美をここに連れてこれますわ」
「そう言えば、そんな話をしておったの……殿も召喚できると言っとらんかったかの?」
「できますわ。でも兄様はあの身体から離せませんの」
「そうなんじゃな。殿はまるで身体に縛られておるようじゃの」
レイはミスティとの会話を楽しみながら、自然と手を動かし、絵の輪郭を描き出していた。
ミスティはそのノートを受け取ると、消しゴムで耀が描いた鉛筆描きの部分を丁寧に消す。
すると、犬の胴体にカエルの頭が付いた生き物の輪郭が、綺麗に浮かび上がった。
その絵を見て、レイが首を傾げる。
「ねぇミスティ、このカエルちゃんは何色が似合うと思いますの?」
「カエルじゃし、緑かの?」
ミスティは突然の振りに、ありきたりな返答をしてしまった。
「それではありきたりですわ」
ストレートに返したレイに、ミスティは思わず苦笑いを浮かべた。
「では、レイ殿は何色が良いかの?」
「レイはピンクがいいですわ」
「レイ殿はいつも初めにピンクを選ぶの。じゃが、保護色的な色が良いのではないか?」
「保護色?よく分かりませんけど、暗い色が似合いますの?」
「そうじゃの……暗い色に模様を入れてはどうかの?ピンクの模様も良いかもしれんの」
「ミスティは天才ですわ!少し模様を入れてみますわ」
レイは色鉛筆を手に取り、絵に色を乗せ始める。
迷いなく細かく彩色される様子を、じっと見つめているミスティに声がかかる。
「ねえ、ミスティ——ミスティはどっちの兄様が好きですの?」
「レイ殿と同じじゃ。妾は優しいだけの殿はどうでも良いの」
「それはアンナの前で言ってはいけませんわ」
「心得ておるのじゃ。せっかく蘇って早々に、アンナ殿に引き裂かれてはかなわんからの」
レイは緑の色鉛筆を左手に持ち替え、オレンジの色鉛筆を手に取った。
「アンナは欲張りですの。両方の兄様を好きなようですわ」
「アンナ殿は——あれじゃの」
「あれとはなんですの?」
「欲望に忠実じゃの」
「スケベということですわね。ミスティも知っているとおり、戦闘狂でもありますわ」
「ふむ、あれは異常じゃ。じゃが、あの時の様子は、スケベな時のアンナ殿と変わらんかったの」
「そうですの。アンナにとっては兄様にお情けをいただくのも、兄様を殺そうとするのも、同じくらい快感を得る行為に変わりはないのだと思いますわ」
「それはそれで恐ろしいの——じゃがそれは」
ミスティの言葉を遮るように、レイは小さな音を立てて色鉛筆を置いた。
「はい、できましたわ」
「ほう。これは禍々しくもあり、愛おしくもあるカエルじゃの」
完成した絵を眺めるミスティに、レイが話しかける。
「ミスティ、レイも同じことを考えていますの。アンナはいつか優しい兄様を見限りますわ」
「そうじゃの——」
二人はそれ以上何も話さず、ただ完成した絵を眺めていた。
そこには、犬の胴体にカエルの頭、その色は深い緑色と濃いオレンジが混ざり合うような体色に、血管のように張り巡らせたピンク色の線が描かれていた。
夕方までかかって描き上げた、禍々しい姿のカエルちゃんの出来栄えに、二人が満足しているところへ、部屋のドアがノックされた。
「レイ様、失礼いたします」
静かに開かれたドアから、イオナが入ってきた。
「イオナ、どうしましたの?」
「いえ、あの日から耀様の描かれた絵がどのように変わったのか、気になっていたので」
「そうでしたの。見てくださいまし、ほとんど完成していますわ」
レイがノートを差し出すと、イオナは受け取り、膝を折るように座って、一枚一枚、息を呑むようにめくっていく。
レイとミスティが、毎日のように言葉を交わしながら描き続けたノートは、絵の大半が既に彩られていた。
「あの黒一色の絵を、よくここまで直せましたね」
一枚一枚丁寧に描き込まれた絵を、じっくり、時には角度を変えて眺めている。
「イオナ殿、凄かろう?レイ殿が全て描き上げたのじゃ」
ミスティも得意げに胸を張っている。
「ミスティが手伝ってくれたので捗りましたわ」
イオナがノートをそっと閉じ、小さくため息をついた。
「これが完成すれば、ノートではなく一冊の本になりますね。レイ様、この生き物には名前を付けていないのですか?」
「付けていませんわ。でも、イオナの言うとおり、名前があったほうが素敵ですわ」
「そうですね。耀様が生み出した生物を、レイ様が完成させたのですから、名前があったほうが愛着が湧くと思います」
イオナの提案を聞いて、レイは少し頬を染めた。
「そうですわ……まるで、兄様とレイの子供のようなものですわ」
レイは右手に持つ色鉛筆を、鼻先にトントンと当てながら、視線を宙に浮かせて思案する。
「カエルちゃん、とかで良いのではないかの?」
思案を巡らせるレイを尻目に、飄々とした口調で話したミスティに、イオナが少し顔をしかめた。
「それでは、適当すぎませんか?」
「いや、殿は呼び名にこだわらんのじゃ。妾が殿と呼んで良いか聞いた時も、名前なんてお互いが認識できればそれで良いと言っておった」
ミスティは少しうつむき、懐かしむように呟いた。
「それからの——二回目が始まったのじゃ」
腰をくねらせて惚気るミスティを無視して、イオナがレイに問いかける。
「耀様はそうなのですか?」
「確かに、ミスティの言うとおりかもしれませんわ」
レイの答えに、イオナは興味を惹かれたようで、なぜか嬉しそうな表情を浮かべた。
「イオナ殿、頬を染めてどうしたのじゃ?」
「ますます耀様のことを深く知りたくなってきました……」
「いっそ、抱かれてみるのも一興ではないかの?」
ミスティの言葉を聞いたイオナは、無意識に首を横に振る。
「その決心はまだつきません……」
「イオナ、気にすることはありませんわ。レイも抱かれたことはありませんの。でも、一度添い寝をしてみるといいですわ。兄様は面白い話をたくさんしてくださいますの」
「そうじゃの。妾も頼んでみようかの。話が盛り上がろうとしておったところを、アンナ殿に見つかってしもた」
「私も……機会があれば、お願いしてみようかと……」
「イオナ、どちらの兄様の話も面白いですの。でも、からかうならいつもの優しい兄様がよろしいですわ」
「どうしてですか?」
「厨二形態の兄様は、冗談があまり通じませんわ」
イオナが手に持っていたノートを、レイに手渡しながら話す。
「それより、このノートに装丁を施しませんか?」
「装丁……?どうしてですの?」
イオナが装丁を勧めた理由が分からないレイは、首を傾げ、不思議そうな表情を浮かべる。
「はい、本としてレイ様が常に持ち歩けるような、丈夫な装丁にするといいと思います」
「これは古いので持ち歩くことはしませんの……それに、このノートはできるだけこのままにしておきたいですわ」
「確かに、レイ様のおっしゃるとおりかもしれません。差し出がましいことを申しました」
「気にすることはありませんの。でも長持ちするようにはしてほしいですわ」
「でしたら、革製のカバーを作ってはいかがですか?丈夫でいいと思いますよ」
レイの表情が、ぱあっと明るくなる。
「そうですわ!是非、イオナにお願いしますわ」
「分かりました。早速手配いたします。カバーはどのような色がいいですか?」
「ピンク色がいいですわ」
その即答に、ミスティは思わず吹き出すが、レイは気にせず話を続ける。
「あと目立たないように、可愛い模様を入れてくださいまし」
「可愛い模様というと——ハートとか、リボンとかでしょうか?」
レイはふいにミスティの尾に視線を向けた。
「ミスティの鱗のような模様がいいですわ」
その言葉にイオナの顔から表情が消えた。
「レイ様、あれが可愛いですか?仕方ありません、ミスティ様の皮を剥ぎましょう」
「な、ならんぞ。レイ殿、ここはイオナ殿に任せてはどうかの?」
焦るミスティを見て、レイは笑顔を浮かべる。
「そうですわね。イオナにお任せしますわ」
嬉しそうな表情のレイに、イオナはさらに提案する。
「箔押しでタイトルを入れましょうか?」
「それはいいですわ。でも——どんなタイトルがいいか分かりませんわ」
「耀様が描かれたものですから、厨二病的なタイトルがいいかもしれませんね」
その言葉に、レイも無意識にうなずいた。
「イオナは天才ですわ!アンナの槍が『黒紫裂界槍』、兄様の服が『漆黒真我衣』ですの」
「そのような名がいいのかもしれませんね」
思案を巡らせる二人に、ミスティは首を傾げた。
「そのノートの名なら妾は知っておるぞ。『幻影虚像録』じゃの」
「なんですそれは?」
呆れたように苦笑いを浮かべるイオナとは対照的に、レイの目は輝きを増していく。
「なぁー!兄様厨二形態的で、とてもいい名前ですわ!」
耀の絶望的な命名センスに、完全に心を奪われたレイを無視してイオナが問いかける。
「ミスティ様は、なぜそれを知っているのですか?」
「なぜも何も、ノートの表紙に書いた跡が残っておろう」
レイとイオナが表紙をまじまじと観察するが、そのような痕跡は残っていなかった。
「どこにも見当たりませんが……」
「妾には見えたのだが?」
ミスティはノートを受け取ると、表紙をめくり裏側から見る。
「ほれ、ここに書いてあろう」
ミスティが指差したところに、鏡文字でうっすらと『幻影虚像録』と浮かんでいる。
「不思議です……でも、この字は子供が書いたように見えませんね」
「それは、殿が十七歳くらいの頃に、何かを思い出したかのように書いておったの」
「兄様はこのノートのことを覚えておりますの?」
「忘れておらんと思うが——殿に聞いてみんと分からんの」
イオナが少し暗い表情を浮かべ、その文字を見つめる。
「十数年後に、わざわざこれを書いたということは……」
「兄様は感情を無くしたことを後悔したか、感情を取り戻したかったのではありませんの?」
「そうかもしれんの。殿は好かれた女子と会うたびにつらそうであった……」
三人はやるせのない気持ちになり、しばらく沈黙が続く。その沈んだ空気を打ち破るかのように、イオナが口を開く。
「しかし、耀様は人の呼び名にはこだわらないのに、物には名前をつけないと、気が済まないタイプなのでしょうか?」
イオナの言葉にレイとミスティは、少し明るくなった表情で深くうなずく。
「ともかく、レイはこれをお部屋に飾って、毎日見るようにしますわ」
そのレイの声を聞き、イオナが何かを思い出したかのように、目を見開き、口元を手で覆い呟く。
「そうでした、耀様にお伝えすることを忘れていました」
「何か大事なことですの?」
「このカードが何か分かったのです」
イオナがポケットから取り出したのは、真由美を連れ戻しに来たのか、耀を説得しに来たのか分からなかった、喜多原が落として逃げ帰った財布に入っていたカードだった。
「それは、兄様を襲った喜多原とかいう男が持っていたものですわ」
「真由美がこれを見ると未だに顔が引きつるので、いない時に耀様にお伝えしようと思っていました」
「いったいそれは何でしたの?」
「これはあの宗教の本尊だそうです。なんでも神の姿を描くのが恐れ多いとのことで、このような紋様を拝んでいるそうです」
「そのように大切なものを、持ち歩くものかの?」
「恐らく手に入れて間もなかったと思います。実際に恵莉華は自宅で大切に保管し、祈りを欠かさないそうです」
「おかしなことですわ。こんな紙切れを拝むなんて……兄様の絵の方がよほど価値がありますの」
呆れたような表情で手をひらひらと振るレイの態度に、納得したかのようにミスティも同調する。
「確かにそうじゃの……ここに描かれた生き物には、神獣のような趣もあるからの」
イオナが手にしているカードに、視線を向けたレイが、首を傾げて描かれた紋様を指差す。
「イオナ、その紋様はルーン文字に似ていますわ」
レイの指摘を受け、イオナもカードをじっくりと見てみる。
「——言われてみれば、そのようにも見えますね。しかし読めませんね」
「ルーン文字にはいくつも種類がありますわ。派生文字かもしれませんの」
イオナは眉間に人差し指をあて、しばらく考え込んだ後にうなずいた。
「では、私はこのことを耀様にお伝えしに、お部屋へ伺います」
部屋を後にしようとするイオナを、レイが引き止める。
「イオナ、待ってくださいまし、このノートのカバーはどれくらいでできますの?」
「二週間ほどいただければ、完成いたします」
「ミスティ、それまでに絵を全て完成させますわ」
「そうじゃな。忙しくなりそうだが楽しみでもあるの」
そんな二人に笑顔を向けた後、イオナは部屋を後にした。
「さて、レイ殿。さっそく取り掛かろうかの」
「そうですわね。これが完成したら兄様に見ていただきたいですわ」
レイは静かにノートを開き、目を輝かせた。
その完成したノートを耀に見せる瞬間を思い描き、期待に満ちた微笑みを浮かべた。
その様子を、ミスティは温かい目で見つめていた。
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。
休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。
出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。
2025年10月6日、一部修正しました。




