妻たちの思い
正月気分もそろそろ抜けようかという朝、刺すような寒さの中、僕はイオナの家に移動し、寝室を仕事部屋にすべく作業をさせられている。
今日は妻会議があるらしく、僕が家を明け渡すことになったのだが……
「机も本棚も揃ってるし、大してすることがないんだよな……」
この部屋は恵莉華と裸で抱き合うという、不祥事(?)が起こった部屋なので、結局、寝室として使われることは無かった。
ベッドは仮眠を取る際に欲しいので、このまま置いておこうなどと思いながら、横になるとドアがノックされ、声が聞こえてきた。
「相葉様、お茶でもいかがですか?」
声を掛けてくれたのは、イオナの運転手で名前を松本修二と言うそうだ。
いつまでも運転手さんと呼ぶのも憚られたので、今朝聞いてみたら、簡単に教えてくれた。僕が勝手に教えてくれないと思い込んでいただけで、別に秘密にしなければならないことではないそうだ。
松本さんに勧められるままに、リビングのソファに腰を下ろすと、屈強なボディーガードがお茶を運んでくれた。
この方は、石井直人という人で、元警察官だそうだ。イオナがうちに引っ越した後は、外出時のボディーガードとなるらしい。
「もう少しでご自宅も完成ですね」
石井さんが僕にお茶を差し出してくれる。
「まだ内装とか、今の家との接続などがあるので、あと二ヶ月は掛かるそうです。完成が待ち遠しいです」
「外見は完成したように見えますが、まだまだなんですね」
「はい、いろいろと騒がしくして申し訳ありません」
「いいえ。私たちもイオナ様の幸せそうなお姿を見て、本当に良かったと思っております」
「はい、このところ丸くなられました」
松本さんはにこやかな表情でお茶を啜る。
「そう言ってもらえると、救いですね」
男同士でこうしてお茶を飲むのも、案外悪くないものだな。
というか、この家を男の憩いの場としても良さそうだ。
女人禁制——無理だろうな。特にアンナ……
——そのころ、耀の家のリビングでは、五人の妻がソファに腰を下ろし、真剣な表情を見せていた。
「もう一人のご主人様とお話をして、思うところがありましたので、今日は皆さんにお時間をいただきました」
「アンナ様のおっしゃることはごもっともです」
イオナは真剣な表情を浮かべ、アンナの意見に同意する。
「旦那様のこと、私もずっと心に引っ掛かっています」
真由美も気になることがあるらしい。
「妾は特に気になることはないがの」
ミスティは真由美の隣で、寛ぎながらも話を聞く気はあるようだ。
「こ、これは……前から食べたかったケーキですわ」
レイだけは、イオナが用意してくれたモンブランに、真剣な眼差しを向けていた。
一名を除き、耀のことについて意見を交わそうと、この機会を待っていたのが窺える。
「私が、ご主人様と二人きりで話をしている時に『ご主人様、愛しています』と伝えたところ、『それはどちらか?』と聞き返されました」
いきなり確信を突いたアンナの言葉に、それぞれ思うところがあるのか、顔に浮かぶ表情は異なっていた。
「レイが愛しているのは、兄様厨二形態の方ですわ」
レイがモンブランを頬張りながら、大切なことをあっけらかんと言い放った。
「レイ様ははっきりと申されますね」
イオナは少し呆れたような表情を見せているが、レイは気にする様子もない。
「はい、兄様の世界に連れて行ってもらえたことは光栄ですの。それにあの悪趣味な空間……素敵ですわ」
「あっ、それ気になってたんです。レイさん、どんな世界だったんですか?」
真由美は耀の世界に興味を持っていたようで、期待に満ちた表情をレイに向けている。
「色の一言に尽きますわ。青や赤、緑や黄色の何かが、ただ静かに渦巻き動いていますの。上下左右も分からなくなるような感覚でしたわ」
モンブランを食べ終わったレイの視線は、手の付けられていないミスティのケーキをロックした。
「そこで兄様が言われたのは『どの色が欲しい?』でしたの。レイが赤が欲しいと言いましたら、赤の魔力がレイの中に大量に入ってきましたの。兄様は、その色は喜びを含む感情が元になっているとおっしゃっていましたわ」
「その世界は広かったですか?」
真由美の瞳はキラキラと輝き始め、レイの視線はモンブランから離れない。
「それが全く分かりませんの。サイケデリックな渦の中で兄様に抱きしめられているような感覚ですが、目を凝らすとその渦はどこまでも何重にもなって渦巻いていましたわ」
「その全てが魔力なのですね」
唯一、耀と対等に渡り合えると自負するアンナも、興味を示したようだ。
「恐らくそうですわ。その後、兄様にいつでも召喚していいか聞いてみましたわ」
「耀様は何と?」
イオナは身を乗り出して、その返答に強い興味を示す。
「『伊耶那美と俺の夫婦を召喚する気か?おもしろい、いつでも召喚すればいい』とおっしゃいましたわ」
「へぇー凄いですね。レイさんが羨ましいです」
真由美がレイに向ける羨望の眼差しを押しのけるかのように、イオナが割って入る。
「レイ様、それはもう一人の耀様の大切な認識を含んでいます」
「うむ。イオナ殿は気がついたか……あの殿が妻と認識しているのは……」
「——伊耶那美だけ」
イオナとミスティが同時に言葉にする。
それを聞いたアンナは、みるみる顔色が悪くなり、震え消えそうな声を絞り出す。
「そ、そんな…私にとってはどちらも大切な夫ですのに……」
「アンナ様、もう一人の耀様がゆっくりと話をしてくださったのは、先日の一回きりです。そのような認識でも仕方がないかと思います」
「そうですが……やはりつらいものがあります」
アンナは唇を噛み締め、どこか遠くの、救いのない場所を見つめるように言葉を失っていた。
『レイは夫婦の契を交わしていますのに、イオナたちは何を言っていますの?』
レイは、心の中で呟きながらも、ミスティのケーキから目は離さない。
『……それに、赤い魔力ではなく、本当は——兄様の赤い血を飲ませていただきましたの』
ミスティが自分のケーキを、そっとレイに差し出したあと、アンナを慰めるように寄り添った。
「あの殿は、相手に対する感情を持たぬゆえ、心を通わせねばどうにもならん。感情を交わさぬ者と心を通わせるのは容易ではないのじゃ」
ミスティからケーキをもらったレイは、まるで幼い子供がご褒美をもらった時のように、目を輝かせ小さく頬を緩める。
その嬉しそうな表情のままアンナに声をかける。
「アンナは大切なことを忘れていますわ。兄様厨二形態は、兄様第一形態の生活を守るために、伊耶那美と夫婦となる道を選びましたの」
「確かにそうでしたね……でも悲しいです」
「悲しんではいけませんの。兄様厨二形態が望むのは、兄様第一形態が平穏に暮らせることですわ。レイたちは兄様第一形態を大切に思い、お慕いすることが、兄様厨二形態に報いる方法ですの」
レイは、まるでそこに耀が居るかのように、暖かい眼差しをふわりと揺れるカーテンに預けた。
「ちょっといいですか」
真由美が控えめにそっと手を挙げる。
「あの怖い方の旦那様に抱かれたことがあるのは、ミスティちゃんだけのような気がします」
「確かにそうですわ。でもあれは、ミスティの夜這いが成功しただけですの」
「やっぱり……激しいのですか?」
真由美は好奇心と一抹の羨望が入り混じった表情で、ミスティに問いかける。
「いや、優しかったの。というより、妾が知る範疇で殿に抱かれた女子は、皆あの優しさに心を奪われとったしの」
「優しいのですか?」
真由美はさらに食い気味にミスティに問いかける。
「女子の身体をどう扱っていいか分からんから、腫れ物にでも触るかのように扱うんじゃ。妾もガラス細工にでも触るかのように優しく抱き寄せてくれての」
ミスティは表情一つ変えずに、リビングの窓から差し込む冬の光すら温かく感じるような、甘い言葉を口にした。
「それは、アンナとの手合わせを見ていたので分かると思いますの」
ミスティからもらったケーキを、あっという間に食べ終えたレイの声に、全員が深くうなずく。
「伊耶那美もそうでしたの。アンナの槍が抜けなくなったのを見たときに、兄様の背中に刺さった、伊耶那美の爪が抜けなくなったのも理解できましたわ」
「あの時は本当に抜けませんでした。恐らくあの黒い服が原因だと思います」
イオナと真由美の脳裏に、学ラン姿の耀が思い浮かんだのだろう。二人とも複雑な表情を見せた。
「その前には、四人で襲いかかってきた黄泉醜女の意識を、手を触れずに一瞬で刈り取りましたの」
「あっ、そうでした。あれは不思議でしたね」
その場を見ていない、イオナと真由美は理解が追いつかないのか、少し上を見上げ、まぶたをぱちぱちさせた。
「それだけではありませんわ。その後に襲ってきた金髪の女も扱いは手荒でしたが、傷一つ負わせていませんの」
「俺の女になるか、命を失うかとか言いながらも、あっさり逃してしまいました」
その時の光景を思い出したかのように、アンナが少しムッとした表情になる。
なぜか真由美もムッとした顔になっている。
「真由美の時もそうですの。あのチンピラが真由美に手を出した瞬間、兄様厨二形態はチンピラに襲いかかりましたわ」
「はい、旦那様が怖い目で近づいて来たので、私も殺されると思って怖かったです」
その言葉とは裏腹に、真由美は頬を染め、恥ずかしそうな素振りを見せる。
「兄様を襲撃した連中も、一人いた女は無傷でしたわ」
「あの娘も耀様を恐れていましたが、今はそうでもないようです」
イオナが凛堂と耀が密室で繰り広げたであろう光景を想像し、険しい表情になる。
「もう一つ大切なことを忘れてはいけませんわ。アンナが怪我をした時、兄様厨二形態は怒りの形相でしたの。それはアンナを大切に思っているからに他なりませんわ」
アンナは目を見開き、大きなため息をついた。
「ああ……私は勘違いをしていました。大切に思われているのに変わりは無かったのですね……」
「アンナ……もう、大丈夫ですわね?」
レイはアンナに優しい笑みを見せ、小首をかしげる。
「はい、レイありがとうございます」
「まあ、アンナに限らず、兄様厨二形態は女性を大切にしますの……ただの女好きですわ」
アンナがレイの顔をじっと見つめる。そして何かに気づいたように問いかける。
「レイ、あの怖い方のご主人様と何かありましたか?」
「な、なにもございませんわ……」
「レイ、何か隠していますね?あの怖いご主人様のことを、よく理解していますし、おかしいです」
レイは口を尖らせてそっぽを向いた。
「アンナは、勘繰りすぎですわ。レイは兄様厨二形態といつでもお話できますの。知っていて当然ですわ」
「では、伝言をお願いします」
「なんですの?」
「あなたも私を抱いてください、と伝えてください」
「イヤですわ!」
レイのその様子を見たアンナは、何かを確信したように微笑んだ。
——そのころ、耀がいる方の家では、男性三人が少し打ち解け始めていた。
「松本さんはずっと運転手をされているんですか?」
「ええ、元はタクシーの運転手でしたが、偶然、客として乗せたイオナさんに声を掛けられまして」
「それで、イオナの運転手に?」
「いえ、最初はお断りしましたよ。あまりにも条件が良すぎて——」
きっと良すぎる条件が、嘘くさくて不安を募らせたのだろう。
「それで一旦は終わったのですが、その一週間後にまたイオナ様を客として乗せまして、そこで説得されました」
「そうなんですか」
「きっと、二回目は偶然でなかったと思いますけどね」
それは僕もなんとなく感じた。イオナも何かと人を見る目はあるようだし、偶然を装った方が説得しやすいと思ったのだろう。
「石井さんは?」
急に話を振られて驚いたのか、石井さんは少し焦ったように、湯呑をテーブルに置いた。
「私は、警察官の仕事が嫌になっていたところに、別の会社から声がかかったんです」
「別の会社?」
「はい、イオナ様が面倒を見ておられる会社ですね。そこから紹介されました」
「そう言えば、イオナって何の仕事をしてるんだろう?」
「えっ、ご存じないのですか?」
石井さんは本気で驚いた表情を浮かべた。いや、その驚きが普通だと思うな。
「はい、聞いたことがありませんでした。お恥ずかしい話ですね」
「まぁ、イオナ様はあまりそういう話をされませんからね」
「元からそうなんですね」
「はい。イオナ様は基本、海外本社が手をつけないような、小口の投資先への投資と、コンサルタントのような業務をされています」
「そのお仕事に、ボディーガードが必要なのでしょうか?」
「いえ、仕事先での警護ではなく、本社サイドからの警護です」
「どういうことですか?」
「どこまでご存知か分かりませんが、イオナ様は海外本社に対しても大きな影響力を持っています」
僕は知っていると暗に知らせるように、深くうなずいた。
「そうすると、その影響力を利用しようとする者も出てくるわけですよ」
「なるほど、そのための警護なんですね」
「最近は、人材の育成に力を入れようと考えておられるみたいです」
「それで、あのシステムだったのか——納得できました。もう少し改善の余地がありそうです」
「相葉さんも仕事がお好きなようですね」
「いえ、そういうわけじゃないですけど。私が作ったものは良くも悪くも、私を裏切らないですからね」
「なるほど……その言葉、奥が深いです」
そんな会話をしながら、もう何杯目になるか分からないお茶を楽しんでいる。
——一方のリビングは耀の話が尽きなかった。
「あの殿は……女子に弱いでの。そこが急所になりうるの」
イオナのケーキまでもらったレイが、ミスティの言葉に反論する。
「そうではありませんの。レイは兄様第一形態のこの世での生活に支障がないように、気遣ったのだと思いますわ」
「女子を殺しておらんのか……なるほどの、分からんでもないのじゃ」
「違いますわ。誰一人として殺していませんの」
「確かに、手合わせしたときに、私も殺せたはずなのに、殺しませんでした。胸とお尻を触られましたけど——」
アンナの顔が一気に紅潮し、頬を両手で押さえる。
「……ということは、やはり、私を抱いてみたいのかもしれません」
「アンナ様、節操がありませんよ。少し控えてください」
イオナに窘められるアンナだが、どうやら心は決まってしまったようだ。
スケベモードに入ったアンナを無視して、レイは話を続ける。
「伊耶那美の世界でも同じでしたの。アンナは片っ端から槍で切り裂いていましたけど、兄様はあれだけ暴れていながら、一人も殺していませんわ。レイは兄様に振り回されて、パンツを丸見えにされて、朝食をリバースしましたけど……」
黄泉の国で、耀に振り回された時の醜態を思い出し、レイは暗い表情を浮かべ、深くため息をついた。
「ともかくですわ……兄様第一形態に抱かれたことがあるのはアンナだけ。そのアンナを兄様厨二形態も大切に思っていますわ」
「レイのおかげで思い直すことができました」
アンナの笑顔を見て、レイも嬉しそうな表情を浮かべる。
「大切に思っておるのは、妾たち五人全員に対して同じだと思うの。アンナ殿だけは別格であろうがの」
ミスティの声に、全員が納得したようにうなずく。
アンナは嬉しそうな表情を見せ、すぐに思い出したかのように言葉をつなぐ。
「ご主人様は『アンナ、愛してる』と言ってくださいました」
それを聞いたイオナと真由美は目を見開き、アンナに振り向いた。
「アンナ様。それは、本当ですか?」
「はい、それで私が『私も愛しています。ご主人様』と言って、先ほどの話になったのです」
しばらく沈黙に包まれたリビングに、イオナの小さい声が大きく響く。
「私たちはこれから、耀様にどのように接したらいいのでしょう」
その声を聞き終える前に、レイの明るい声がリビングに響く。
「今までどおりでいいのですわ」
「妾もそう思うの。殿への接し方で頭を悩ませても仕方ないのではないかの?」
「そうですね。耀様の周りには未だ不穏な動きもあります。袴田悠斗の件もあります」
イオナが言ったその男の名で、リビングの空気が一瞬で重くなる。
「そんなことを話しておったの」
ミスティの他人事のような口振りで、少し空気が和らいだ。
「それに、干渉者の件は片付きましたが、あの信者がこのまま大人しくしているとは思えません」
「あっ、それに、グラインドテックの方も、まだ手を引いたとは思えません。あの会社の役員は粘着質ですから」
真由美の口から出た、未だ残る障害に、再び重い空気が立ち込める。
「いざとなれば、レイが兄様厨二形態を召喚しますわ」
レイが笑顔で奥の手があることを告げると、イオナと真由美は納得したように小さくうなずいた。
そのやり取りを静かに聞いていたアンナが、懐かしむような表情を浮かべ、落ち着いた声で言葉を紡ぐ。
「私は……ご主人様と畑仕事をしたいです。本当に楽しいのです。緑の芽吹く春が待ち遠しいですね」
その言葉に全員がゆっくりと深くうなずき、そして、明るく微笑んだ。窓の外は春に程遠い景色が見える。
けれど、妻たちの心には、確かに春の温かさが芽吹いていた。
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。
休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。
出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。
2025年10月6日、一部修正しました。




