大晦日
冬も深まり、今年最後の日を迎えた。とても静かに降り注ぐ短い日差しが、どこか寂しげに感じる。
世間はまだ慌ただしさを残しているようだが、僕はここ数日、ただ静かに読書三昧の日々を過ごしている。
アンナとレイと暮らし始めてから七か月半——たったそれだけの時間なのに、三年近くを共にした前妻との生活よりも、ずっと色濃く、想い出深い。
「ご主人様、どうかなさいましたか?」
リビングでソファに深く腰を下ろし、背もたれに身体を預け、物思いに耽っていたら、ふいに声を掛けられた。
隣に腰を下ろしたアンナは、僕を優しい笑顔で見つめている。
「いや、二人と暮らし始めたのが五月だっただろ。たった七か月半しか経っていないのに、たくさんの思い出ができたなって、考えていたんだ」
「思うところがあるのですか?」
「そうだね。今年も今日で終わりだし、なんとなく思い出に浸っていたんだ。そう言えばミスティは?」
「レイと真由美さんと一緒に、茂様のところに行きましたよ」
「じゃあ、今日はもう帰ってこないんだな」
明日の巫女のアルバイトに備え、レイと真由美は茂さんの家に泊まるらしい。
「イオナは来ないのかな?」
「イオナさんは、夜まで用事があるそうです」
イオナはほぼ毎日出かけているが、いったい何をしているのか、僕はまったく知らない。
たぶん——仕事だと思うが、あの冷静さと謎めいたところが、かえって魅力的に映る。
アンナはソファの端に移動すると、膝をポンポンと軽く叩く。
「ご主人様、膝枕をいたします」
その笑顔は二人きりの時間を過ごせるのが嬉しくて仕方がないようだ。
「ありがとう。お言葉に甘えるよ」
僕はソファに横たわり、アンナの膝に頭を預ける。
柔らかく暖かい感触が、アンナの優しさを体現しているようで、不思議な心地よさに包まれる。
そんな僕をあやすように、アンナの指が髪を撫でた。
「あっ……ご主人様、少しお待ちくださいね」
そう言って、アンナは僕の頭を優しくソファに下ろすと、ゆったりとした足音を響かせリビングを出て行く。
すぐに戻ってきて、再び膝の上に僕の頭を乗せた。
「お耳がきちゃないです」
アンナは僕の頭をそっと動かし、優しく耳掃除をしてくれる。
「私は、ご主人様とお会いできて、本当に光栄だと思っています……頭にきたこともありましたけど……」
確かに何度か怒らせたことがあるな……たぶん、僕のことを大切に思っているからだろう。
「伊耶那美とミスティのことか……イオナや真由美のこともそうだね」
「真由美さんなんて、初めて会ってから三か月で、妻に迎えたのですよ」
「アンナが決めたことなら、僕は構わないと思ってるよ」
完全に他人任せではあるが、妻を決めるのは正妻であるアンナの専権らしいので、逆らう気はない。
それに、アンナとレイは初めて出会った日から同居しているんだが……
「彼女の決心が固く、私は拒むことができませんでした」
「——そうだったんだ」
「はい。反対を向いてください」
アンナの方に向きを変えると、耳掃除のしやすい位置に、僕の頭を少し動かしてくれた。
「私はご主人様の正妻として、恥ずかしくありませんか?」
「正妻ってのがよく分からないけど、自慢の妻ではあるよ」
「そう言ってもらえると嬉しいです。お耳は痛くないですか?」
「うん。気持ちいいよ」
リビングが静かになると、耳を伝う単調な音と感触が心地よく、次第に意識が遠のく。
「はい、おしまいです。きれいになりました」
アンナの声で意識は引き戻され、目を閉じたまま身体を動かし仰向けになる。
そして、ゆっくりとまぶたを開くと、大きな胸の向こうから、優しい目で僕を見つめる美しい顔が入ってくる。
「ご主人様、私の前では、もう無理をしないでください」
「無理?特にしてはいないけど……」
柔らかい膝枕の上で首を傾げた。
「三人の件は、もう一人のご主人様の仕業ですよね」
「気づいたんだ。イオナは違うと思うけど……」
「そうなのですか?」
大きな双丘の向こうで、アンナが不思議そうな表情を浮かべる。
「イオナは僕とあいつのギャップに惹かれたんじゃないかな?」
「そうかもしれませんね。確かにあまりにも違います……」
「アンナもそう思った?」
「はい。あれは別人です……あっ、別人ですから当然ですね」
アンナは美しい顔で、少しはにかんで見せる。
「そうなんだけど、そんなこと誰も信じてくれなかったから、いつの頃からか自分のこととして振る舞うようになったんだ」
「それは大変でしたでしょう。私と手合わせした時も、ふざけるように煽られましたからね……あれの後始末は大変です」
「僕も見ていたよ。でも、煽るのはあいつの常套手段だから……冷静さを失えばどんな勝負でも負けるもんさ」
「そうなのですか……」
恐らく気づいていたのだろうが、その術中に落ちたことを改めて自覚したのか、悔しそうな表情を浮かべた。
「僕もアンナに負ける気はしないけど、あいつのように手加減はできないな」
「あの時、ご主人様はどんな結果を望まれたのですか?」
「アンナの身体を傷つけないでくれ。僕が頼んだのはそれだけさ」
アンナが僕のお腹を優しく撫でる。
「やっぱり、お優しいですね……」
「そうかな?何も言わなくてもアンナの身体は傷つかなかったと思うよ。僕が言ったのは念の為さ」
「どうしてですか?」
「これまでも、あいつは女性に手を出すことがなかったから」
「今回、もう一人のご主人様と話す機会をいただけて、私にも分かるようになりました。だから、もう無理して隠さないでください」
「その言葉に甘えさせてもらうよ」
「でも、女性に手を付けられた時は、両方のご主人様に責任を取ってもらいます」
それが一番、僕にとって脅威だと思うが、運命だと思って受け入れるしかない。
アンナは僕の右腕を撫で始める。
「腕のお怪我はどうですか?」
「もう大丈夫だよ。というより、すぐに治っていただろう。あれはレイがやったのかな?」
「分かりません。でも、前にも同じようなことがありましたね」
「そうだった。大河内とかが押しかけてきたときだ」
アンナは小さくうなずいた。
「私は、ご主人様を切りつけた時、すごく興奮していました。今までに感じたことのない快感に満たされて……」
「そうだったんだ……でも、あいつのことだから気にしてないだろう」
「でも、ご主人様に痛い思いをさせてしまいました」
「あっ、あいつがこの身体を使っている時、僕は痛みを感じないんだ。ただ、レイに舌を噛まれた後は、僕がこの身体に戻っても少し痛い」
「そういえば、レイはなぜもう一人のご主人様の舌を噛むのでしょうか?」
「分からない——あの二人の愛情表現なんじゃないかな?」
「でも、怪我をしてもレイに舌を噛まれても、あのご主人様は表情ひとつ変えませんよね。どんなにつらい思いをしたら、ああなるのでしょうか?」
「分からないな……ひたすらに耐えていたのはあいつなんだ」
「でも、見てはいたのでしょう?」
「うん。大人が憎しみを持った目で、口角に泡をため、唾を飛ばしながら怒鳴り、拳を振り上げて襲いかかってくる。揺れる頭に怒声が何度も反響して……子供には地獄絵図だよ」
「可哀想です……」
「きっと、みんなそう思うんだ。あれほど憎しみを抱いて襲いかかってきた大人も、周りで傍観していた人も、取り繕うように優しくなる。僕を可哀想だと思ったんだろうね」
「それも、優しさなのでしょうか?」
アンナの震える声が少し大きくなり、怒りすら感じられる。
「保身じゃないかと思う。だって、襲わなきゃいいだけだし、助けてくれればいいだけの話だろ?だから、そんな優しさは、結局苦痛でしかなくなるんだ。今、目の前で優しくしてくれている人が、次の瞬間には襲いかかってくるかもしれないってね」
「私は……違います……」
アンナの声はますます震え始めた。
「うん。始めはアンナとレイのことも怖かった。でも、菜園を作った頃かな……それくらいに二人を受け入れようと思ったんだ」
「確かに、考え込まれているのをよく目にしました」
「そしたらさ、急に気分が楽になった。二人の優しさは純粋に僕のためにあるんだって感じるようになった。そして、この三人の空間と時間を失いたくないって思い始めた」
「ご主人様は、よく『三人での生活』を口にされますね」
優しい目でずっと僕を見つめてくれるアンナは、美しさも相まって女神のようにすら見える。
「そうだね。イオナ、真由美、ミスティとあれから三人増えたけど、僕にとってはやっぱり、アンナとレイとの生活が大切だな」
「ご主人様は、私のことをどう思っていますか?」
「僕にとってはかけがえのない存在だよ」
「うーん……質問が悪かったですね。私のことを考えると、どんな気持ちになりますか?」
僕は少し考えるが、うまく言葉にできない……黙っていても何も伝わらないから、思うことをそのままに伝えてみる。
「それがね。正直に言うと、何とも言い表せない気持ちになるんだ。なんとなく落ち着かない、何かをしたいけど、何をしたらいいのか分からない……」
「今もそんなお気持ちですか?」
「うん、そうだね……アンナの膝で落ち着いているけど、でも何かをしたいんだ、それが分からなくて少し不安になっているかな」
「では、こうしたらどうですか?」
アンナは僕の上半身を抱き上げ、唇を重ねる。
僕を包み込むような優しさで、何かが満たされない不安に空いていた心の隙間が、彼女の優しさで満たされるような感覚に酔いしれる。
しばらくして、唇を離したアンナの温かな吐息が僕の頬を撫でるようで、さらに身体の力が抜けていく。
「不安に思っていたものが、なくなったような気がする」
「ご主人様のその不安は、私に対する『愛』ではないでしょうか?」
「——愛か」
そう呟く僕の頭を、優しく膝の上に戻してくれる。
「私も、ふとした時に不安に駆られることがあります……」
アンナの話を真剣に聞きたくなった僕は、そっと膝枕から身を起こし、ソファに腰を下ろす。
「それは、ご主人様のことを思うと、どことなくやるせないような、満たされないような気持ちになるのです。多くの妻を娶ったことに腹が立つこともあります。でも、そんな時はこうやってご主人様と親密に触れ合うようにしています」
「それはどうしてなんだろう?」
アンナに向き合った僕は、理解できない感情を理解したくなった。
「私にも分かりません。ご主人様が私を拒まなかったことで安心するのでしょうか。わずかな時間でもご主人様を独占した優越感でしょうか。でも、それはどちらでもいいのです。どちらもご主人様の存在があって得られる気持ちですから」
少しうつむき加減ながらも、その言葉ははっきりとして、迷いはなかった。
「僕の存在が重要なのか……僕にとってアンナの存在は重要だな。僕はアンナを愛しているのか?」
「分かりません。でも、そのように仮定して過ごしてみれば、答えは分かるのではないでしょうか?」
確かに、アンナの言うことには一理ある。愛しているから不安定な気持ちになると仮定すれば、今できることは……僕はアンナを抱きしめ、その耳元で彼女にだけ聞こえる声で、心の奥から素直に出る言葉を伝えてみる。
「アンナ、愛してる——」
アンナも僕の背中に腕を回し抱きしめると、吐息のような声で呟く。
「私も愛しています。ご主人様……」
その言葉は、まっすぐに僕の心に届くべきだった。
アンナの言葉が、どこか遠くで反響するようで、心の奥底に小さな疑問が芽生える。
「アンナが愛しているのは、どっちの僕なんだ?」
アンナの腕に力が込められ、僕の身体が彼女の胸元に吸い寄せられるように抱きしめられる。
「どちらもです。ご主人様に妻が五人いるように、私には夫が二人います」
「それぞれ、どんな夫なのか気になるな」
「二人とも困った夫です。一人は天使のように優しくて、いつも私たちのことを見守ってくれています。でも見守るのは私たちだけではありません。自分に近寄ってくる人すべてです」
アンナは少しうつむいて、言葉を続ける。
「もう一人は悪魔のように恐ろしくて、自分にとって邪魔な存在なら人でも殺しかねません。そして、はっきりと分かりました。女好きのどうしようもないスケコマシは、この悪魔の方だと」
「——アンナも大変なんだね」
僕にはそれ以外に言える言葉が思い浮かばなかった。
「はい。困った二人の夫に加え、個性的な妻が四人もいるのです。気の休まる暇もありません」
どちらからともなく、二人は再び唇を重ねる。
お互いを求め合うのが分かるほどに、さらに激しく求め合い、絡み合っていく……次の瞬間、リビングのドアが開く音と同時に、少し大きな声が部屋に響いた。
「帰ってくるのが早すぎましたね」
甘い雰囲気が一瞬で霧散する。
アンナはゆっくりと僕から顔を離し、その声の主に目を向けた。
「イオナさん、おかえりなさい。交代しましょうか?」
ちょっと待て、交代ってなんだよ……さっきまでの甘い雰囲気はどこにいったんだ?
「ありがとうございます。では遠慮なく」
ああ、そこは遠慮しないんだ……アンナに入れ替わるように、イオナは僕の隣に腰を下ろすと僕の頬に両手を添える。
「耀様、先日私はもう一人の耀様に、殺されそうになりました」
「えっ、そうだったんだ……怖かったんじゃないか?」
「はい、とても恐ろしかったです。自ら死を懇願するほどに……」
「それは、悪いことをしてしまったね」
「いいえ。次の日の夜、なぜそのようなことをなされたのか、その理由が分かりました」
「理由なんてあるのかな?」
「はい。自ら死を望むほどの恐怖が、どのようなものかはっきりと理解できました」
あいつがそんなことをするのか?今までもだいたいあいつがやらかして、僕がフォローすることが多かったんだ。
「耀様、愛してます……」と呟き、おもむろに口づけを交わしてくる。
唇を離したイオナが、うっとりとした表情で僕を見つめている。
「イオナ、おかえり」
ただの労いの言葉のつもりだった。それが彼女の何のスイッチを押してしまったのか、僕には分からない。
「——耀様」
そう囁くと、彼女は再び僕を求めるように身を寄せてくる。その熱量に、僕は言葉を求められるままに身を任せることしかできなかった。
なんとか落ち着いたのか、イオナが僕の顔を見上げ、満足そうに微笑んだ。
そして唐突にいつもの冷静な口調に戻る。
「帰ってきて早々にあのようなシーンを見せつけられると、私も冷静でいられなくなります」
化粧落としシートを取り出し、僕の口元を丁寧に拭き取ってくれるイオナ。なんだか妙に気恥ずかしい。
「イオナさんも帰ってこられたので、夕食の準備をしますね」
「アンナ様、私も手伝います」
「ありがとうございます。ご主人様は先にお風呂を済ませてください」
——お風呂から出ると、夕食の準備がほぼ整っていた。温かな香りが漂い、リビングの静けさも心地よい。
「では、私もお風呂に行ってきます。まだ温めるものがあるので、先に召し上がらないでくださいね」
そう言ってアンナは風呂場へと向かった。その背中を見送ると、イオナも立ち上がる。
「私は荷物を取りに行ってきます。今夜は泊めてください」
「ああ、今夜は三人でゆっくり過ごそう」
イオナが僕に微笑みかけてリビングを出ていくと、一人残された空間にしばし身を委ねる。どことなく静けさが漂い、今年ももうすぐ終わるのだと改めて思う。
去年の大晦日、この静かなリビングで、ソファに一人腰掛けていた。
時計の針の音だけが響き、グラスの中で揺れる琥珀色の液体が唯一の相手だった。
人に会うことを避けながら、その孤独を酒で紛らわせていた夜。
あれから一年。今では六人家族になり、毎日が賑やかだ。
今日はレイと真由美、それにミスティがいないせいで、少し寂しいくらい静かになってしまった。
こんな静けさにも違和感を覚えるなんて、この生活に慣れてしまった証なのだろう。
それでも、間違いなく言えることがある。この変化は、本当に良かった。
それぞれがどのような感情で結ばれているのか……その答えを探ることに意味はない。それは既に些細なことでしかない。
部屋を灯す明かりにさえ暖かさを感じ、この穏やかな生活が胸を満たしていることを教えてくれる。
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。
休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。
出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。
2025年10月4日、一部修正しました。




